一、戦いの幕開け
1
「行って来ま~す。」
春の陽光が降り注ぐ庭に、一条奈美は元気よく飛び出していった。その後ろから、暖かい眼差しをした兄、亘が現れた。
「行っといで。気をつけるんだよ。」
奈美は、手を振りながら雑木林に囲まれた小道を駆けて行った。亘はその後ろ姿を、ある思いに捕らわれながらしばらく眺めていた。
「いつまでも、このままでいてくれたらいいんだが…」
亘の目が一瞬悲しげな色に変わった。しかし、すぐに自分の口から出た言葉を打ち消すように頭を振った。
「バカな。いつまでもこのままじゃあないか。」
亘は苦笑を浮かべ、ゆっくりと家の中に入っていった。
その亘が家の中に入るのを待っていたかのように、一人の男が木の陰から現れた。
サングラスをかけた長身の男だ。
男はゆっくりと家の前に近づくと、サングラスの奥に光る目を表札に向けた。
「やっと見つけたぞ。」
男の口元に笑みが浮かんだ。そして、ポケットに突っ込んだ左手を出し、傍らのチャイムのボタンを押した。
家の中にもどった亘は、リビングの片づけを済ませ、ソファに腰をかけて、読みかけの本を手に取った。
その時、チャイムが鳴った。
「誰だろう?」
チャイムは家の主人を急かせるように、三、四度鳴り続けた。
「はい、はい、今出ますよ。」
亘は本をテーブルの上に置くと、すぐに玄関に向かった。
ドアを開けると、そこにはサングラスをした見知らぬ男が立っていた。
亘の全身に警戒心が走った。
「やっと見つけましたよ。一条亘さん。」
しゃがれた声で男は亘に向かって言った。
亘は急いでドアを閉めようとしたが、男の手がそれを阻んだ。
「やっとの思いで会えたんです。そのようなつれない事はしないでください。」
男は口の端を釣り上げながら、玄関の中に足を踏み入れた。
亘は後ずさりしながら身構えた。
「無駄な抵抗はよした方がいいと思いますよ。」
男の手にいつの間にかCz75が握られている。男は銃口を亘に向け、土足のまま上がり込んできた。
「おれをどうしようというんだ。」
「なあに、ちょっと獲物を捕らえるエサになってくれればいいんですよ。」
亘は男の顔とCz75を交互に見ながら、ゆっくりと後ずさった。
その頃、奈美は兄への誕生日のプレゼントをあれこれ考えながら、小道を歩いていた。
今日は兄、亘の誕生日。いつも自分をかわいがってくれる兄へ感謝の気持ちを込めてプレゼントを渡す事を想像すると、奈美は何とも言えない幸せを感じるのであった。
「プレゼントは何がいいかな。」
奈美の脳裏に、この間ショーウィンドで見つけた洒落たセーターが浮かんだ。
「あれにしようかな。」
そう思って、ポケットに手を入れた時、奈美は財布がないのに気づいた。ポシェットの中も調べてみたが入ってはいない。
「いけない。お財布忘れちゃった。」
奈美は軽く舌を出すと、元来た道を引き返した。
2
「例の女が戻ってきます。」
亘の家に侵入して来た男の仲間と思われる者が、サングラスの男にそう告げた。
「そうか、手はず通りやれ。」
サングラスの男は仲間の男に命令すると、男は軽く頷いて出て行った。
「何か忘れ物でもしたようですな。」
男は亘に勝ち誇ったように笑いかけた。
亘は唇をかみしめて、男を睨み返した。
サングラスの男は、Cz75を亘に向けながらそっと窓のそばに寄った。
雑木林に囲まれた小道の向こうから奈美の姿が見えてきた。木の陰には男の仲間が二人、男と同じように奈美を見張っている。何も知らぬ奈美は、亘が待っているはずの家にどんどん近づいてきた。
男の目が奈美に集中し、Cz75の銃口がほんのわずか下を向いた。
その一瞬、亘の左足が目にも止まらぬ速さで、銃を持つ男の手を蹴り上げた。
「ウッ!」
宙を舞ったCz75が落ちてくる間に、亘の右拳は男の鳩尾に深々と食い込み、相手が前折れになるところを、亘の手刀が男の首筋に打ち込まれた。
「グッ!」
男は白目を剥いたまま床に這いつくばった。
亘は男には目もくれず、玄関から外へ飛び出した。
「奈美、にげろ!」
亘は奈美に向かって、あらん限りの声で叫んだ。
いきなり飛び出してきた亘を見て、奈美は驚いた。
「どうしたの、兄さん。」
奈美は訳もわからず、その場に立ちつくした。
その時、木の陰に隠れていた二人の男が、奈美と亘に向かって走り出してきた。
一方の男が奈美を捕まえようと右手を伸ばしたとき、その前に亘が立ちはだかった。
「ツァッ!」
鋭い気合いとともに、亘の爪先が男の腹部にめり込んだ。
「グェッ!」
うめき声とともに胃液を吐き出して、男はその場に蹲った。
そのすぐ後ろに別な男が亘に近づいてきた。右手には鋭く光るナイフが握られている。
亘の眉が釣り上がった。
「奈美、逃げろ、逃げるんだ!」
奈美にそう叫びながら、亘の目は前の男に集中していた。
「シャッ!」
男のナイフが亘に向かって真っ直ぐ伸びた。その瞬間、亘の体は男の右側に移動し、右手で凶器を受け流しながら、亘の左肘が相手の右脇腹に鋭く食い込んだ。
「ゲェッ!」
その一撃で相手の動きが止まった。その間に亘は相手の右腕を後ろに捻り上げて、その背後にまわった。
目の前に、先程蹲っていた男が、ナイフ片手に憎悪の目を亘に向けていた。
「野郎!」
男は歯ぎしりをした。仲間が邪魔で攻撃に移れないのだ。
亘に腕を捻り上げられた男は、苦痛に顔を歪め、持っていたナイフを地面に落とした。
しばらくの間、睨み合いが続いた。
その緊張の中、先に行動を起こしたのは亘だった。
不意に亘は盾代わりにしていた男を、前方に押し出し、その体が仲間の男の視界を塞ぐ形となった。
男が急いで視界を塞いだ仲間を払いのけると、そこには亘の姿はなかった。
「リャアー!」
頭上から響く気合いに顔を上げた男の目の前に、亘の足の裏が迫った。鷹の一撃のような亘の跳び蹴りは、男の顔面に見事にヒットした。
鼻がつぶれる感触を残して、男は吹き飛んだ。
亘が地面に着地した時、もう一人の男が亘の背後から躍りかかった。それを感じた亘は、そのまま体を沈めると、右足を地面スレスレに旋回させ、襲撃者の足を掃った。
突然、足を掃われた男はバランスを失い、地面に強烈なキッスをした。
その後頭部に亘の手刀が打ち下ろされた。
「グッ」
男は白目を剥いたまま動かなくなった。
二人の男を倒した亘は、立ちつくしている奈美の手を取り、引っ張るようにその場から駆けだした。
そのときだった。
銃声が家を囲む雑木林に木霊した。
亘の顔が苦痛に歪み、その場に崩れ落ちた。
「兄さん!」
奈美は急いで亘を抱き起こした。
背中にまわした奈美の手に、ヌルッとした感触が伝わった。亘の背中から血が滲み出し、奈美の手を濡らしたのだ。
「ヒャハハハ、簡単に逃げられると思ったのか。」
例のサングラスの男がひきつった笑いをしながら家の前に立っていた。手に持ったCz75の銃口からは白く薄い煙が立ち上っている。
「ここまでだな。」
サングラスの男は勝ち誇った表情を浮かべて、二人に近づいた。
亘は苦痛に耐えながら自分の周りを見渡した。すると、さっきの戦いで相手が落としたナイフがその目に入った。
亘はサングラスの男に気づかれないように、そのナイフに手を伸ばした。
奈美は亘を庇うように自分の身をサングラスの男に向け、攻撃的な目で銃を持った侵入者を睨んだ。
男の注意が奈美の挑戦的な目に向けられた時、亘はすばやくナイフを握り、懐に隠した。
「二人とも立ってもらおう。」
サングラスの男は銃を突きつけながら、高飛車な口調で二人に命令した。
奈美は亘を肩で支えながら立ち上がった。亘に倒された男達も気がついたらしく、苦しそうな声をあげながら立ち上がってきた。
「さあ、二人とも一緒に来てもらいましょう。」
サングラスの男が奈美の腕に手を掛けようとした。その時、亘は足で地面の土をサングラスの男に跳ねかけた。
男が一瞬、その土を避けようと顔を背けた。その隙をついて、亘は懐に隠したナイフを相手に投げた。
ナイフが空を切り、サングラスの男の肩に深々と突き刺さった。
「ギャッ!」
男は悲鳴をあげ、手に持ったCz75を地面に落とした。
驚いた他の男達が行動を移す前に、亘は地面に落ちたCz75を拾い上げ、男達にその銃口を向けた。
三人の男の動きが一斉に止まった。
奈美は亘の背後に隠れ、成り行きを見守った。
亘の足が少しずつ男達との間隔を縮めた。
男達は歯ぎしりをしながら一歩ずつ後づさりをした。
「クソッ、これで済んだと思うな。」
サングラスの男が捨てゼリフを残して、元来た道を逃げ去っていった。二人の男も後を追いかけた。
男達の姿が見えなくなると、亘は崩れ落ちるように地面に片膝をつけた。
「兄さん、大丈夫?」
奈美は今にも泣き出しそうな顔で、亘の体を支えた。
「大丈夫だ。それより奈美、お前に話しておきたいことがある。」
「とにかく、傷の手当をしなきゃ。」
奈美はそう言うと、亘を支えながら家の中に入っていった。
3
亘の傷は思ったより深かった。応急手当を済ませた奈美は、急いで電話の所へ行った。
「兄さん、すぐお医者さんを呼ぶから。」
そう言いながら奈美は受話器を取った。
「待て、医者はいい。それより奈美、ここに来て俺の話を聞け。」
亘の語気に押されて、奈美は一度取った受話器を再び置いて亘のそばへ行った。
「奈美、お前はすぐにこの場から逃げろ。そして、東京へ行くんだ。」
「兄さん、何を言うの。」
「何も聞かず、俺の言うことを聞くんだ。奴らはまたやってくる。」
「あの人達は何者なの。なぜ、兄さんをこんな目に遭わせるの。」
奈美は目に涙をためて亘の顔を見つめた。亘はそんな奈美をそっと抱き寄せた。
「奈美、奴らは追っ手だ。本当の狙いはお前なんだ。だから、早くこの場から逃げて、東京へ行け。」
奈美は亘の言葉に驚いた。
「どういうことなの。兄さん。」
「奈美、今は多くを語っている暇はない。とにかく、黙って俺の言うことを聞くんだ。」
そう言うと亘は奈美から離れ、タンスから通帳や衣類等を取り出し、ボストンバックに詰め始めた。奈美は呆然と亘の行動を眺めていた。
やがて、用意が終わると亘は奈美にボストンバックを手渡し、裏口に連れていった。
裏口のドアを開けると、辺りの気配を窺い、奈美を家の外に連れ出した。
「奈美、東京に着いたらこの住所宛に、城戸陽子という女性を訪ねろ。きっと、お前の力になってくれるはずだ。」
そう言って亘は一枚のメモを奈美に渡した。
「兄さんも一緒に逃げよ。」
奈美は泣きながら亘の腕を引っ張った。亘はそんな奈美をもう一度抱きしめた。
「俺のことは心配しないでいい。奴らを撒いてからお前の後を追う。」
「本当よ。兄さん、約束だからね。」
「ああ。」
心配そうな顔をした奈美を安心させるため、亘は笑顔を作った。
その時、表の方で枝が踏み折れる音がした。
亘の全身に緊張が走った。
「奴らが来たようだ。さあ、急いで。」
亘は奈美から体を離すと、自分の後頭部に手を回し、首に掛けているペンダントを外した。
「これを持って行きなさい。」
そう言って奈美の手にそのペンダントを握らせた。
「これは…」
「さあ早く、奴らに見つかる前に行きなさい。」
亘は奈美の背中を押した。奈美は名残惜しそうに後を振り向きながら裏道を走って行った。
亘はしばらくの間、奈美の走り去る姿を見守り、奈美の後を追う者がいないことを確認すると、急いで家の中に入り、キッチンに向かった。
キッチンにあるガスコンロの前に立つと、亘はガスホースを抜き、元栓を捻った。途端にガスが吹き出し、辺りに充満し始めた。
「これでいい。」
ホッと一息ついた途端、背中の傷の痛みが蘇ってきた。亘は壁にもたれながらゆっくりと床に座り込んだ。
「奈美、お前とはいつまでもここで静かに暮らしたかった。」
静かに目を閉じると、亘の脳裏に奈美との幸せな日々が走馬燈のように駆けめぐった。
その時、窓を蹴破る音が亘の回想を打ち破った。
「来たか。」
亘の表情が険しくなった。
居間には迷彩服を着た数人の男が侵入していた。先程の三人も混じっている。
「二人を捜せ!」
サングラスの男が全員に命令した。
亘は息を潜めて、侵入者達の動きを見守った。
やがて、侵入者の一人が亘に気づいた。
「いたぞ!」
(すまん、奈美。約束は守れなかったよ。)
心の中でそっと呟くと、亘はポケットの中からライターを取りだした。
「ガスだ!」
一人が叫んだ。
と、同時に亘のライターに火花が散った。
亘の家が一瞬、白く光ったかと思うと、家は轟音とともに爆発した。
4
奈美は列車に揺られながら今まで起こったことを思い返していた。
轟音とともに兄と暮らしてきた家は消え去り、楽しかった想い出も何もかもが一瞬の内に灰燼に帰してしまった。まるで悪夢を見ている思いの奈美であった。
窓から見える美しい風景も今の奈美には何の感動も与えず、悲しみだけが心の中を支配していた。
「どうしてなの。どうしてこんな事になったの。」
奈美の目に再び涙が滲んできた。
滲んだ涙を拭くと、奈美は首に下げたペンダントを外し、それをしみじみと見つめた。
いつも亘が首に下げていたペンダントであった。今となっては兄の唯一の形見となってしまった。
「誰が、誰が兄さんをこんな目に…」
奈美の心に悲しみと同時に怒りが沸き上がってきた。
「許さない。兄さんを殺した奴らを私は許さない。」
奈美の目が怒りで充満した。
奈美はペンダントを首にかけ、ポケットから一枚のメモを取りだした。
「城戸陽子…」
メモにはその名前と住所が書かれてあった。
「今はこの人だけが唯一の頼りだわ。」
奈美の心に一つの決心が生まれた。
東京駅に着いた奈美はメモの住所に向かうべくタクシー乗場に急いだ。
その奈美に柱の陰から鋭い視線を向ける男がいた。
黒いコートに身を包んだその男はポケットから一枚の写真を取りだし、今、駅を出て行こうとする奈美と写真に写っている少女を見比べた。
それが同一人物であることを確認すると、男は奈美の後を付け始めた。
何も知らぬ奈美はタクシー乗場でタクシーに乗り、メモの住所まで行ってくれるように運転手に頼んだ。
タクシーが滑るように走り出すと、黒コートの男はカープールに停まっている黒塗りのセドリックに駆け寄り、助手席に乗り込んだ。
「あのタクシーだ。つけろ。」
黒コートの男が、運転席に座るめがねの男に指図すると、セドリックは奈美を乗せたタクシーに引かれるようにカープールから走り出した。
黒コートの男は、前を走るタクシーに鋭い視線を向けながら無線機のマイクを取った。
「こちらモグラ、こちらモグラ。女王アリ応答願います。」
応答はすぐに帰ってきた。
『こちら女王アリ、モグラどうぞ。』
「例の女が駅に着きました。今、後を付けています。」
『よし、絶対見失うな。』
「了解、また連絡します。」
男は簡単に連絡を済ませると食い入るように前のタクシーを見つめた。
三十分ほど走った後、タクシーは閑静な住宅街に着き、そこで奈美を降ろした。
二人の追跡者を乗せたセドリックはそこから百メートルほど離れた所に停まり、成り行きを見守った。
「この先に交番があるからそこで詳しく聞くといいよ。」
「ありがとうございます。」
タクシーの運転手は奈美に笑顔を送りながら走り去っていった。奈美は教えられた交番に向かい、そこでメモの場所を詳しく聞いた。
交番から出た奈美は、目的地に向かって歩きだした。その後を例のセドリックが静かに追いかける。
日はすでに西に傾きつつあり、道の両側にある家は全て紅色に美しく染まっていた。しかし、奈美はそんな風景も目に入らず、これから会う城戸陽子という人物に期待と不安を抱きながら歩き続けた。
しばらくして、奈美の目の前に六階建てのレンガ作り風のマンションが現れた。
目的のマンションであった。
ここに城戸陽子がいる。
奈美は多少緊張しながらマンションの中に入っていった。
ホールを抜け、片側にあるエレベーターに乗った奈美は六階のボタンを押した。
目指す人物は六階にいる。
モーターの軽いうなり声とともにエレベーターは上昇を始めた。
一階づつエレベーターが上がるにつれて、奈美の緊張も高まった。
一分ほどでエレベーターは六階に着いた。
エレベーターを降りた奈美は、通路に並んだドアを一つずつ丹念に見て歩いた。そして、一つのドアの前で立ち止まった。
表札には城戸陽子と書いてある。
奈美の心臓が高鳴った。
奈美はためらいがちにインターフォンのボタンを押した。
奈美はすぐ返ってくるはずの返答にドキドキした。
しかし、返答はいつまで待っても返ってこない。
再び、インターフォンを鳴らしたが結果は同じであった。
「留守らしいわ。」
緊張が緩み、思わず奈美はバックを床に落とした。
「どうしよう。」
周りを見ても無人のように静まり返っている。
がっくりきた奈美はドアの前に座り込んだ。
5
奈美がドアの前で途方に暮れている頃、例の二人の追跡者はマンションから百メートルほど離れた所にセドリックを停め、じっとマンションを見つめていた。奈美が入ってから十分が経過していた。
「ここのようだな。」
黒コートの男はニヤリと笑うと、無線機のマイクを取った。
「こちらモグラ、こちらモグラ、女王アリ応答願います。」
『こちら女王アリ、モグラどうぞ。』
「例の女は目的地に着いた模様。場所は…。」
コートの男はマンションの場所を告げ、次の指示を仰いだ。
『よし、夜まで待て。兵隊アリを送るから寝静まった頃を見計らって行動を起こせ。』
「了解。」
コートの男が連絡を済ませたちょうどその時、運転席のメガネの男が小声で叫んだ。
「おい、人が来るぞ。」
メガネの男の言葉にコートの男は無線を切り、身を沈めた。
車のそばを白いワンピースを着たショートカットの女性が通り過ぎた。その女性は二人に気づいた様子もなく、目の前のマンションに入っていった。
「マンションの住人か。」
黒コートの男がそう呟くと、再びマンションを見つめ直した。
マンションに入った女性は自分の郵便受を覗いた後、エレベーターに乗り込み、六階へ登った。
六階で降りた女性は、廊下に座り込んでいる奈美に気づき、不思議そうな顔をして奈美に近づいた。
「お嬢さん、どうしたの?」
突然、声を掛けられて奈美は驚いて立ち上がった。
「誰かを待っているの?」
女性は微笑みながら奈美に尋ねた。暖かい微笑みであった。
「ええ、あの…、ここに住んでいる人を…」
奈美は恥ずかしそうにドアを指差しながら答えた。
奈美の返答にその女性は軽く驚いた。
「まあ、私を?」
「え、あなたが城戸陽子さん?」
奈美も驚いて城戸陽子の顔を改めて見直した。背が奈美より幾分高く、色白の陽子の顔は聖母像を思わせた。
「あなた、私に用事があってきたの?」
奈美は陽子にそう問われてハッとした。
「あ、ハイ。私、一条奈美といいます。」
「一条…。それじゃあ…。」
「ハイ、一条亘の妹です。」
亘の名を聞いて陽子の表情がサッと変わった。
「あなた、亘さんの妹さんなの?」
「ハイ。」
そう言うと奈美は首に掛けていたペンダントを外し、それを陽子に見せた。
「これは確かに亘さんのペンダント。」
ペンダントをまじまじと見つめる陽子の目は懐かしさで潤んでいた。
「それで亘さんはどこにいるの。一緒なの?」
目頭を押さえながら陽子は奈美に尋ねた。今度は奈美の顔色が変わり、それを見た陽子の胸にも不安の雲が湧き上がってきた。
「どうしたの?」
「兄は…、兄は死にました。」
奈美は俯きながら陽子に答えた。
「エッ!し、死んだ。」
奈美の言葉に陽子は強い衝撃を受けた。
「とにかく、立ち話も何だから部屋に入りましょう。」
そう言って陽子は、バックから鍵を取り出し、ドアの鍵を開けた。
陽子の部屋は簡素だが落ち着いた雰囲気の部屋であった。リビングルームに通された奈美は洒落たソファに座ると周りを見回した。
陽子はキッチンに入り、コーヒーの用意をした。
「今すぐコーヒー入れるからね。」
「すみません。」
奈美は幾分硬くなりながら答えた。
奈美がコーヒーを用意する陽子の姿からサイドボードに目を移したとき、その上にある一枚の写真に目が止まった。
その写真には幸福そうな男女の姿が写っていた。一人は陽子であり、もう一人は奈美の兄、亘であった。
「兄さん…。」
奈美はサイドボードのそばに寄り、その上に置いてある写真をそっと取り上げた。奈美の心に再び悲しみが広がった。
その後ろ姿を陽子もしばらく見つめていた。
「さっ、コーヒーが入ったわよ。」
陽子は努めて明るく言うと、カップをテーブルの上に置いた。奈美も写真を元の位置に戻すとテーブルに付いた。
「いただきます。」
奈美は早速、陽子の入れたコーヒーに口をつけた。
「おいしい。」
奈美の顔に初めて笑みが浮かんだ。陽子も奈美の笑顔にホッとしたように笑いかけた。
「奈美さんと言ったわね。ここまでたった一人で来たの?」
そう問われて奈美は再び悲しそうな表情になり、持っていたカップをテーブルに置いた。
「ええ、兄に陽子さん…いえ、城戸さんを訪ねるように言われて…。」
「陽子でいいわ。そう亘さんに言われて…。さっきの話だけど、どう言う事なの。詳しく聞かせて。」
奈美は陽子に問われるまま今までの経緯を話した。陽子は真剣な表情で奈美の話を聞き、話が終わってもしばらく沈黙を守った。奈美は不安を胸にじっと陽子を見つめた。
やがて、陽子の口が動いた。
「わかったわ。奈美さん、あなたの面倒はこれから私が見るわ。あなたはいつまでもここにいていいのよ。」
陽子は微笑みながら奈美にそう言った。
奈美の心に安堵感が生まれ、同時に疑問も生じた。
「陽子さんは私の兄とどういう関係なんですか。もしかしたら兄を殺した人たちの事も知っているんじゃないですか。」
奈美は自分の疑問を陽子にぶつけてみた。
奈美の突然の質問に、陽子は多少戸惑ったが、すぐに冷静になって答えた。
「あなたのお兄さんには昔、ひとかたならぬお世話になったの。」
そう言って立ち上がると、コーヒーカップをキッチンに持って行った。
「亘さんを死に追い遣った人達の事は私も知らない。でも、私が必ずその人達の事を突き止めてお兄さんの敵を討ってあげる。」
陽子はカップを流しに置いて奈美の方へ振り向きながらそう言った。
「だから、あなたは何も心配しないでここにいたらいいわ。そうだ。今夜はあなたの為に特別にご馳走を作ってあげる。」
陽子は奈美を安心させるように明るく言うと、急いで買い物に行く用意をした。
「材料を買ってくるから大人しく待っててね。」
奈美にウィンクを送ると陽子は部屋から出て行った。奈美は一人残って再び部屋の中を見回した。その心には先程までの不安は消えていた。
6
夜、マンションの周りは闇ですっぽり包まれていた。街灯の明かりだけがその付近に弱々しい光を与えていた。
今夜は月もない。
闇が全てを支配していた。
その闇の中を動く影があった。
人の形をしたその影は道路を横切ると、マンションの壁にピタリと貼り付いた。
合計三つの影が壁に貼り付いた。
一つの影が顎で指図すると、二つの影はいずこともなく消えていった。
残った影は上を見上げると、雨樋に手を掛け、上に登り始めた。
その頃、奈美と陽子は食事を済ませ、軽い雑談の後、枕を並べて床についていた。しかし、床についた奈美はなかなか寝付かれなかった。
全身は疲れているはずなのに妙に目が冴え、頭の中を疑惑が渦巻き、奈美を眠らせようとはしなかった。
奈美は隣で寝ている陽子の方へ顔を向けた。すると、陽子も奈美の方へ顔を向けて、じっと奈美を見つめていた。
「眠れないの?」
陽子は静かに言った。
奈美が頷くと陽子は布団から手を伸ばし、奈美の頭にそっと乗せた。
「そうね。いろいろあって大変だったものね。でも、もう安心していいのよ。私が付いているから。」
陽子が優しく微笑み掛けると、奈美も笑顔でそれに答えた。
「陽子さん。」
「ン?」
「さっき兄にはひとかたならぬお世話になったと言いましたよね。」
「ええ」
「あれは恋人同士だったという事ですか。」
奈美の突然の質問に陽子は一瞬狼狽えた。しかし、すぐ笑顔を作って答えた。
「そうね。そんな時期もあったかな。」
陽子は過去を振り返るように目を細めながら微笑んだ。
「聞かせてください。兄とのこと。」
「えっ」
陽子が恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「話すほどのことじゃないわ。」
「聞きたいんです。」
奈美の真剣な目に陽子の心が動いた。
「そうね…」
陽子が口を開きかけた時、怪しい物音が陽子の耳に届いた。
陽子の全身に警戒心が走った。
「どうしたの、陽子さん。」
「シッ」
唇に指を立てると陽子は全身を耳にして部屋の中の気配を探った。
陽子の目がベランダに止まった。
見るとベランダに蠢く影がある。
影は窓ガラスの一部をガラス切りで丸く切り抜くと、そこから手を入れ、窓の鍵を外した。
窓が静かに開き、その隙間から何かボンベのような物が投げ込まれた。床に落ちたボンベからシューッという音とともにガスが吹き出し、部屋の中に充満し始めた。
「ガスだわ!」
陽子は布団を跳ね上げた。
7
ベランダの男はしばらくしてから静かに窓を開け、部屋に入ってきた。全身を黒い服で被い、顔にはガスマスクを着けている。
侵入者は二人が布団の上で俯せに横たわっているのを確認すると、玄関に向かいドアの鍵を開けた。
すぐに二人のやはりガスマスクを着けた男達が侵入してきた。
「急げ、催眠ガスで眠っている間に連れ出すんだ。」
男が指示すると二人はすぐに行動を起こした。
一人が陽子を抱き起こそうと手をかけた時、陽子の手がその男の腕を握った。
男はギョッとしてその腕を引っ込めようとした時、陽子が急に起きあがりその男の腕を捻りながら二人の男達の方へ投げ飛ばした。
二人の男は投げ飛ばされた仲間を避けるように後ずさった。
二人の視線が一斉に陽子に集中した。
その時、奈美も起き上がり、陽子の陰に隠れた。
「期待外れで申し訳ないわね。」
前に立つ二人の男にははっきりと戸惑いの色が見えた。
陽子は三人の男を順々に見ながら不適な笑みを浮かべた。
「世の中にはね、携帯酸素ボンベというありがたい物も売っている事を覚えておくのね。」
そう言って陽子はそのボンベを男達の足元に投げつけた。
「くそ、やれ!」
号令とともに二人の男が奈美と陽子に襲いかかった。
陽子の顔めがけて男の拳が伸びた。その拳が陽子の顔に当たる寸前、陽子の身がスッと沈んだ。
男の拳を左手で受け流しながらその肩を男の胸に当て、相手の力を利用して側方に投げ飛ばした。
男は受け身もとれず、背中から床に落ちた。
全身の衝撃に苦しんでいるところへ陽子の拳が男の鳩尾に食い込んだ。
「グハッ」
男の飛沫が陽子の顔にかかった。
陽子が顔をしかめた時、別の男が後方から躍りかかった。
後ろから抱き締められた陽子は、それを振り解こうと身を捩った。しかし、相手の力が強いことを知った陽子は、後頭部を男の顔にぶつけた。
突然の反撃に男の両腕の力が緩んだ。その機を逃さず、陽子は相手の首に両手をかけるとそのまま前方に投げ飛ばした。
「キャーッ!」
奈美の悲鳴に陽子は急いで振り向いた。
見ると、残った一人が奈美の手を引っ張り、連れ出そうとしている。
陽子の体が素早く動いた。
男が陽子に気づいた時、陽子の右足が男の股間を蹴り上げていた。
「グッ」
男は股間を押さえたまま蹲った。
陽子は奈美の前に立つと三人の男を睨み付けた。
三人は予想以上の手強さに驚き、狼狽した。
「まだ、来る気!」
陽子はすごんで見せた。
「くそ、一旦引き上げろ。」
三人は玄関から外へ逃げ出した。
それを見て陽子はホッと一息をついた。
「すごいですね。陽子さん。」
奈美は驚きと尊敬の眼差しで陽子をみた。
「ここは危険ね。すぐに別な所へ移らないと。」
そう言うと陽子は急いで身支度を始めた。
「別な所って、どこへ行くんですか?」
奈美は陽子の突然の行動に戸惑った。
「私に任せて。とにかく奈美も急いで着替えて。」
そう言われて奈美も急いで着替え始めた。
8
十分程して二人は部屋から外へ出た。
陽子は人影のいない事を確かめると、奈美の腕を引いて階段を降りて行った。
地下の駐車場まで降りると、陽子は奈美を立ち止まらせ、再び辺りを伺った。
駐車場内は静寂に包まれ、誰もいないように見えた。
陽子が目で合図すると二人は一緒になって駆けだした。
その時、車の陰から五人の男が飛び出し、二人を囲んだ。
思わず奈美は陽子の背後に隠れた。
「しつこい人達ね。」
陽子がいやな顔をするのと同時に、男達は二人に襲いかかった。
右から陽子を捕まえようと手が伸びてきた。それを両手でがっちり受け止めた陽子は、左から来る相手に向かって、その男を振り飛ばした。
振り飛ばされた男と向かってきた男が正面衝突を起こし、前後に割れるように倒れた。
「野郎!」
後から別な男が躍りかかった。
と、同時に陽子の体が旋回し、その左足が相手の脇腹に食い込んだ。
「グワァッ」
骨のきしむ音を残して男は吹き飛んだ。
前から新手がくる。
しかし、陽子の目は冷静に相手を見つめ、男の向脛を蹴った。
突然、向脛を蹴られた男はバランスを失い、前のめりになった。そこへ、陽子の掌底が相手の顎を突き上げた。
男は白目を剥いたまま仰向けに倒れた。
陽子の強さに男達が攻撃を躊躇した。
「こっちよ!奈美!」
一瞬の隙をついて、陽子は奈美の腕を引っ張ってその場から駆けだした。
男達はすぐに二人を追いかけた。
目の前に白いフェアレディがあった。
「それに乗って!」
陽子に言われるまま奈美はドアを開けてフェアレディに乗り込んだ。
陽子も乗り込もうとした時、追いついた男が陽子の肩に手をかけた。
陽子は男の手を払い除けると、振り向きざまに相手の股間に膝蹴りを喰らわした。
男の顔から見る見る血の気が失せ、その場に蹲った。
急いで運転席に座った陽子はエンジンキーを廻した。
フェアレディの独特のエンジン音が場内に響き渡る。
「まて!」
一人がフェアレディに縋り付いた。
陽子は男を無視して、ギアをローに入れ、アクセルを目一杯踏み込んだ。
フェアレディはタイヤを鳴らしながら、縋り付いた男を弾き飛ばして発進した。
「くそ、追え!」
男達は表に飛び出し、路上に停めてあったセドリックに乗り込むと、フェアレディの跡を追った。
陽子と奈美を乗せたフェアレディは猛烈なスピードで深夜の道路を疾走した。
陽子は前方とルームミラーを交互に見ながらハンドルを操作し、何台かの車を追い越していった。
「来た。陽子さん、奴らが来た。」
後を見ていた奈美が小声で叫んだ。
見ると、例のセドリックがフェアレディの差をどんどん縮めて来た。
「どうやらただの高級車じゃないようね。」
ルームミラーに映るセドリックはかなりの距離まで近づいていた。
「陽子さん、追いつかれる。」
「わかっているわ。奈美、しっかり捕まってて。」
そう言うと陽子はギアをセカンドに戻し、今まで以上にアクセルを踏んだ。エンジンの咆哮とともにフェアレディはスピードを上げ、追っ手の差を広げていった。追っ手も振り切られまいとスピードを上げてきた。
「さて、どこまでついてこれるかしら。」
陽子は軽く微笑むと急ハンドルを切った。
フェアレディはタイヤを鳴らしながら左へ曲がっていった。その後をセドリックも付いていく。
次は右だ。
セドリックも同様に右に曲がる。
二台の車が深夜の街を疾走していく。
陽子のドライブテクニックは巧みで、曲がりくねった道をスピードも殺さず見事にクリアしていく。しかし、セドリックも同様にフェアレディの後をピッタリとついて離れない。
「なかなかやるじゃない。」
陽子は笑みを浮かべながらも多少焦りを感じていた。
その時、セドリックの窓が静かに開き、中からS&WM459を握った男が身を乗り出してきた。
男はM459の狙いをつけ、静かに引き金を引いた。
鋭い銃音とともに9ミリパラベラム弾がテールランプを撃ち砕いた。
続いてリアウィンド、ボディと、ファアレディを傷つけていった。
陽子は何とか弾を避けようと蛇行運転をした。
「キャッ」
奈美の耳元を弾が掠めた。
思わず奈美は身を縮める。
気が付くとセドリックのもう一方の窓からも男が身を乗り出し、盛んに発砲していた。
「やってくれるじゃあない。」
陽子は身を低くして運転しながら、そばにある無線機のマイクを取り、スイッチを入れた。
「こちら陽子、こちら陽子、本部応答願います。」
返答はすぐに帰ってきた。
「こちら本部だ。どうした陽子。」
「しつこい雄猫に追われて困っているわ。何とかしてくれない。」
「よし、わかった。場所はどこだ。」
「柳町通りを北上中。」
「よし、一キロ先の銀行前の交差点を左に曲がれ。後は任せろ。」
「了解。」
マイクを置くと、陽子は奈美へ顔を向けて微笑んだ。
「もう大丈夫よ。後の奴らは私の仲間が片付けてくれるわ。」
「陽子さん、あなたは一体…」
「話はあと、しっかり掴まってて。」
そう言うと陽子はハンドルをいきなり左に切った。フェアレディはタイヤを鳴らしながら交差点を曲がった。セドリックも同様に曲がっていく。
フェアレディはかなり先をスピードを上げて走っていた。それに追いつこうセドリックもスピードを上げた。
その時、横道からトラックが飛び出し、道の真ん中で停車して、セドリックの進路を塞いだ。
セドリックはトラックを避けようと急ブレーキをかけ、ハンドルを切った。
頭に響くようなブレーキ音とともにセドリックはスピンし、そのまま電柱に頭から突っ込んでいった。
セドリックの前部は大破し、電柱も妙な形に折れ曲がった。
トラックは何事もなかったように横道にゆっくりと入っていった。
すでにフェアレディの姿はどこにもない。