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愛と死

作者: 勝田聡子

生は幸福だろうか?死は不幸だろうか?何をもって人は己が幸福であると認識するのだろうか?私は生をそして生を押し付ける出産をひどく憎んだ。この世にもし罪があるとすればそれは出産である。もしできるならば妊婦の腹を全て裂いて堕胎したい。この世に不幸がこれ以上増えないために。そして私は願う、全ての人類に幸あれと。宇宙に存在する全ての生命に祝福と救いがあらんことを。

 知性は全ての不幸を生み出す。劣った知性しか持たぬ者たちを見よ。彼らの多くは幸福を感じながら生きているではないか。何も考えず生きて出産しまだ見ぬ命に幸福でいられた無という素晴らしい世界にいた命をあらん限りの苦痛で満ちた地獄に引きずり出している。私は違う、知性を持ってしまったが故己の不幸を嘆き悲しむのだ。世間で聡明と目される人物もその多くは博覧強記の似非賢者である。彼らもまた知性を持たぬものと等しい存在である。苦しむのは真の知性を有する一級の思索家である。一級の思索家は十代の半ばにもなれば己の人生がいかに無意味でこの世が苦しみに満ちた地獄であるかに気付いてしまう。私がこの苦しみから逃れられる方法がないものか。

「ずっと、ずっとそばにいてほしい。あなたの温かい胸の中で息絶えたい」

「私もずっとあなたを抱きしめていたい。このまま全ての不幸を消し去って」

私の妻はヴィーナスのように美しく歴史上のどんな賢者よりも優れた知性を持っている。だが彼女は子を産むことができない。周りの人たちは結婚したのだから子を産めと言ってくる。大きなお世話だ。そして彼らに言ってやりたい。生にいったいどれほどの価値があると?子を残すことがどれほど愚かなことであるかを。私と妻はこの屋敷で住み込みのメイドたちと暮らしている。身の回りの世話は妻の雇い入れたメイドたちが全て行ってくれる。ただ私の食事だけは妻が全て作っている。妻は私が少しでも幸福を感じることのできるようにとの計らいだ。私と妻は結婚してもう30年になる。妻も私ももう50歳だ。結婚して以来私も妻も屋敷に引きこもり読書ばかりしている。妻は私にあらゆることを教えてくれた。妻は神のように真理に通じている。私が苦しい時も常に傍らにいて抱きしめてくれた。私が死にたいと泣きわめいた時も妻は私が泣き止むまで抱きしめてくれた。そんな妻が言っていた「死にたい時は私も一緒に死ぬから、どんな時もあなたは1人ぼっちじゃない。だから安心して。」私は生を憎み、恐れ、自分が生きていることを嘆いた。死を求め、死にすがり、それなのに死を恐れた私は一歩前に踏み出す勇気もない臆病者だろう。私は何も妻に捧げることができなかった。しかし妻は私に全てを捧げてくれた。これこそが愛なのか。

「今日は一日泣かなかったね。それはすごいことだ。偉いぞ。」

妻はそう言うと私の頭を撫でる。この何気ない愛撫こそが私が幸福を感じることのできる数少ないことの一つだ。妻は私を常に子ども扱いする。それも乳飲み子に接するように。ほとんどの人は子ども扱いされることに抵抗感があるだろう。自分は子供じゃない、大人なのだと。だが私はこれでいい。私は妻の赤ん坊なのだ。妻のたった一人の同い年の赤ん坊なのだ。私の弱った心と体を妻以外の誰が癒してくれよう。私の満たされない心を妻以外の誰が愛で満たしてくれるのか。今日は幸運にも不幸を感じずに一日をおえることができた。

日差しがまぶしい。ああまたこの地獄に連れ戻された。

「あなたはお寝坊さんね。もうお昼よ。お寝坊さんなあなたも大好き」

妻は朝からずっと私を見つめていたそうだ。私は妻に頭を撫でられる。妻は私のことを腹を痛めて産んだ子供だと思っているので妻と私は夫婦というより母親と子供と言ったほうが正確な表現だろう。妻はいつも付きっ切りで私の世話をする。精神薄弱者が介護士や母親の世話なしで生きていけないのと同じように私は妻の介護なしで生きていくことができないのだ。妻は全てを包み込む母性を持っている。しかしその母性を向ける対象は私だけだ。妻は不妊症だが子供を持たないのは妻の意思だ。妻は初めて会った時から「あなたを私の子供にしたい。子供として私のもとに来てほしい。」と、私に言ったのだ。私は妻が女神に見えた。今でもそうだ。妻は私を苦しみから少しでも遠ざけようと天から遣わされた女神なのだ。彼女の眼を見るだけで、彼女の胸のぬくもりと鼓動を感じるだけで私は全てに対する恐怖心から少しだけ遠ざかることができるのだ。なんと母性の偉大なことか。私は妻の母性が存在しなかったらこの地獄で50年も生きてはいられなかっただろう。だがそれでも私は死に救いを求め、生を恐れている。私の生に対する憎しみは私を常に蝕み続けている。

「なぜ私は生まれてしまったのだ?なぜ自殺する勇気を女神は私に与えてくださらなかったのだ?」

「私がいるからね。苦しいことは忘れよう。全て忘れてしまおう。あなたは私のかわいい、かわいい赤ちゃん。それだけわかれば十分だよ」

妻の愛だけがこの世で唯一の救いである。


 


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