第一話
「あー、今日も暇やねえ」
ぽつりと呟きながら携帯を弄っていると後ろからお母さんの「洗濯」と言う短い指示が飛んで来る。
バイトが休みの時はこぞって手伝わせようとするのがお母さんがお母さんであると言う証明と言うかなんというか…。
遊んでいたアプリを中断し電源を切ると、私は短い指示に従って立ち上がる。
しかし重要な事を思い出した事もあってお母さんへと声を掛けつつ居間のテレビを付けた。
「お母さん、今日雨やで、今日中に台風直撃やけど…洗濯すんの?」
ニヤリと笑った私にお母さんは振り向いて「そんな訳無いやろ」と同じくニヤリと笑った。
窓の外を見れば雲は流れるのが早く、そして濁っていた。
打ち付ける雨は今はそれほどキツくは無いけれど、それでも妹が学校から帰って来る時は本降りだろう。
優しい姉として、玄関にタオルを用意しておいてやるとしよう。
「買い物行ってくれん?」
「ええ?この雨の中!?」
「豚肉買うん忘れてもうたんよねー、野菜炒めにお肉無くて良いんやったら別に良いけど」
酷い事を言う母親だなあ、もう。
私がそう思ったのを見越したのだろうお母さんが「お駄賃としてお菓子買っても良いけど?」と言う。
「…二百円」
「あかん、百五十円」
「三百円」
「釣り上げるな!分かった、二百円」
「っしゃ!」
どうにか釣り上げに成功し、私は着替えるべく部屋へと戻ろうとしてふと付いたままのテレビに目が行った。
「うわ…お母さん大変、渡月橋流されるかもってよ」
「は?大丈夫大丈夫、今のは丈夫に固定されてるって」
適当にあしらわれながら、私は「ふうん」と同じく適当に返して着替えに行った。
思えば私はこの時から何かに呼ばれていたんじゃないだろうか。
私は大阪に住んでいる夢も希望も無いただのフリーター。
お爺ちゃんのお墓が京都にあるからと言う理由で幼稚園の時から京都に家族でよく行っていた。
大阪市内で出掛けると天王寺やなんばなど、友達間で行き慣れ過ぎていて面白みに欠けると常々感じていた。
かと言って梅田まで行くとなると自分からすれば広過ぎて手に負えない。
「…嵐山、ねえ」
着替えを済ませて買い物のメモを取りながら呟いて、私は雨の中買い物に出掛けた。
今日の夜には台風が通過して明日は曇りだろう。
京都は観光地だし、嵐山の渡月橋と言えばすごく有名な場所だ。
曇っていればきっと人も少ないだろう、ましてや台風が去ったすぐ後だ。
てくてくスーパーまで歩く道すがら、私はニヤリと口角を上げる。
「おっかーさん!明日ちょっと出掛けるって事でお菓子多めに買わせてもらった!」
「は!?二百円言うたやろ!!」
「まあまあ…渡月橋が気になるんよ」
「理由になってないんやけど」
呆れるお母さんににこりと微笑んで黙らせ、私は明日の準備の為に部屋に籠る。
携帯を開いてインターネットを立ち上げて嵐山を検索すると、嵐山モンキーパークと言う場所があるらしく、ものすごく気になったので明日立ち寄ろうと決めた。
リュックに携帯の充電器とお菓子とお菓子とお菓子とお菓子を詰め、電車の中で暇にならないようにゲームを詰め込む。
お出掛け用のリュックにはまだ余裕がある。
「……ふむ、まあ…いっかな」
私はリュックをベッドの横に置いてふっと息を付く。
今まで清水寺付近に行く事はあっても嵐山には一度しか行った事が無い。
その時は確かお婆ちゃんとおばさんと妹と一緒に渡月橋を渡って、お婆ちゃんの大好きな美空ひばりのグッズを見にひばり館へと行って、少し奥まで行って帰って来た。
きちんと見て回った事が無いので、ものすごく楽しみだ。
「ぎゃあああああ」
妹の雷に怯える声が聞こえて来て思わず笑うと、私はからかう為に部屋を出た。
翌朝、少しだけ振っていた雨の中私は家を出た。
時計よし、携帯充電よし、イヤホンよし、リュックの中にはお菓子がたくさん詰まっている。
家からJRで大阪駅まで行って、阪急電車で桂まで行って乗り換えて、そこから嵐山へと向かう。
時間はもうじき昼だから、大阪駅に着いた時におにぎりでも買えば良いだろう。
「……あ、」
目の前に落ちた切符を拾うと、ポケットから切符が落ちた事に気の付いていない男の人の肩を叩く。
両耳に刺さっているイヤホンで音楽でも聞いているのだろう、驚いた風に振り向いた人に笑って「切符、落ちましたよ」と言って掌に乗せた。
「ああ…どうも」
「いいえー」
ひょこっと首を下げた男の人はそのまま階段を降りて行く。
私も反対側のホームなので男の人を追い駆ける形でホームへ向かった。
桂の駅は始めて来たので何枚か写真を取っていると、時間になったのか電車が来た。
えんじ色の電車が来て十分くらいすると電車は出発した。
どうせならと言う事で一番前の車両へと向かうと、少ない乗客の中にさっきの男の人を見掛けた。
首から下げている高そうなカメラに目が行きつつも私は先頭の車掌さんの居る窓から見える景色に見入ってしまった。
「外やー!」
人が少ないからと言ってはしゃぐなと、もしお母さんが居れば怒られただろう。
しかし自分の家の周りなどで見るような景色では無く、向こう側には山が見える。
駅も気に囲まれていて、なんだか可愛い。
私は都会都会しているよりこう言う風に自然に囲まれた古い感じが大好きだ。
嵐山に行くまででもうテンションが上がって来ている。
たった三駅はあっと言う間で、私は名残惜しいとは思いながらも電車を降りた。
「……おお、灯篭やん」
事前準備なんてせず、ただ来ただけの私でも秋の紅葉が綺麗だと言う知識だけは持っていた。
電車を降りてすぐのホームには紅葉模様の灯篭があって、可愛らしい。
「良いなあ、なんか京都って感じする!」
にっこにっこと微笑みながら改札を進み、私は嵐山の駅を写真に残して駅にある周辺地図を見た。
駅から道なりに進むと渡月橋に行きつくらしい。
天気はあいにくの曇り空で、観光地の昼にしては人が少なく思うが…これが休みで天気で時期が合わさればものすごい数の人で溢れるんだろうなと私は第一の目的である渡月橋の安否を確認する為歩き出した。
「おおー…レンタル自転車、安っ!」
朝の九時から夕方の六時までで九百円…九時間で九百円は安い。
でも今は目的が目の前にあると言う事で止めておくとしよう。
少し進むと、道路に出て左手に温泉の看板が出ていた。
後ろ髪を引かれる思いでさらに進むと、川を跨ぐ橋が現れた。
「川!山!はっはー、なんやこれ、最高やん!」
左手には山、右手には川が流れていて、私のテンションは最高潮だ。
あまり周りに人がいないと言う事もあって、私はこれでもかと言う程に写真を撮りまくる。
SNSに投稿しながら、私はとうとう目当ての渡月橋と対面した。
川岸へと近付いて真正面に渡月橋を見て、私は頷いた。
「よし、元気そう」
なんともなしにそう思い、私はこれからどうするかと考える。
昨日調べていたモンキーパークに行くのも良い、渡月橋を渡って向こう側を歩くのも良い。
取り敢えず渡月橋へと近付きながら左を見ると、オルゴール館と書かれた店があった。
とても気になる、かなり気になる。帰りに来よう。
ニヤリと笑いつつ、私は後ろの旅館のある場所できょろきょろと辺りを見回す。
人が少ないながらも、日本人よりも海外の人達が多いように見える。
海外の人は京都が大好きなんだなとすれ違うお姉さん二人に微笑んで手を振った。
「…お、なんやあれ」
気になったのでその看板の前まで来て読み上げる。
「……絶景、ぐれーとびゅー……嵐山、だい、ひ…かく?
なんやろうこれ」
首を傾げつつ黒い背景に白い文字でざっと書かれている矢印の方向を見る。
そこにはボートが並んでいて、左手は山。右には川があった。
昨日の台風のせいか川は濁っていて、水の様子を叫び合うおじさん達がボートの上で暴れている。
私はその怪しい看板に誘われるがままその道を進んだ。
都会には無い木々の匂いに癒されつつどんどん悪くなる足場に私はわくわくした。
大きな鳥やカモが右側の川を泳いで行くのを見ていると、正面に立っていたガードマンさんが声を掛けて来た。
「千光寺ですか?」
そう聞かれて首を傾げていると「この先の絶景で有名なお寺」と親切に教えてくれた。
どうやら千光寺と言うのはさっきの怪しい看板に掛かれてた場所の事らしい。
「ここから近いですか?」
「いやあ、少し歩かないと…足場も悪いですよ?」
心配そうに言うおじさんに「じゃあ気を付けて行って来ます」と答えて、道幅の狭くなって行く足場に気を遣いながら進んだ。
ぐにゃりと曲がった道を行くと、ぐるりと左右に大きく曲がる上り坂に差し掛かる。
坂を下ると、しばらく木々で隠れていた川が見えて来た。
「…おおー、開けた場所に来たなー」
変わらず濁っている水には目もくれず、私は砂場へと降りる。
さっきまで見ていたのは大きな岩がごろごろしていた場所で、今ここには砂がある。
さらさらと遊びながら渡月橋の方を見ると、船は一つも無く少し寂しい。
通って来た道に戻り先に進むと、右側に旅館があった。
左側にある階段を上りつつ見ると、渡月橋の方にあったあの看板と同じ「大悲閣千光寺」「絶景」の文字が。
…正直めちゃくちゃ怪しい、怪しい事この上ない…んだけど。
「めちゃくちゃ気になる」
大きな看板の前には杖が置いてあって「ご自由にどうぞ」と書かれている。
杖の使い方がいまいち分からなかったので使わず、目の前に続く階段を進んだ。
見るからに上に上がっているようで、途中に小屋があったので覗いたが人はおらず「頂上で入山料を頂きます」と書かれた紙が貼っていた。
入山料は四百円、他には写経などがあるらしい。
森の中にある階段を、私はどんどん進みながら息が上がって行く。
まともに体を動かすのなんて大学の体育の授業が最後だ、最近じゃ近所のスーパーにだって自転車で行くんだから、数十分山を登るのは少しきつい。
途中丸太をベンチ代わりにしているらしいのでそれに腰掛けて息を整え、私はまた上り始める。
「…ぅお?」
真っ直ぐな道を上っていると、濃い緑と赤など派手な色彩の旗が見えた。
見るに建物の様で、あと少し登れば頂上なんだと思い走ったらこけた。
岩肌を削って出来たような階段なので、いくらジーンズを履いていたとしても痛いものは痛い。
むっと眉根を寄せながら痛みに耐えつつ、私は歩く。
大きく横に付き出した木の枝を支えにしつつ、まだもう少しだけ続く階段を上る。
最後の門を潜ると、目の前に鐘が現れた。
あのお正月に突くような大きな鐘だ。
三回無料らしい。
「…ほー、すごい、こんな近くで見たんは初めてやー…」
小さく呟くと、近くでシャッターを切る音がして振り返る。
「あれ?」
「あ、すみません」
会釈をしたのは桂の駅で切符を落とした男の人だった。
「鐘を撮ろうと思って…何か声を掛ければ良かった」
「いいえ…お邪魔しました」
私も会釈を返しつつ、男の人と位置を代わる。
最後の階段を上りつつ振り返ると、男の人はもう鐘を前にシャッターを切っている。
よっぽど写真の好きな人なんだなーとだけ心の中で呟いて、私は階段を上り切った。
「ようこそー」
「あ、どうも」
上り切ったと同時に、作務衣を着たおじさんに声を掛けられた。
声は穏やかだが、顔付きは少し強面で内心びびる。
「ええと、入山料がお一人様四百円頂いてますー」
「ああ、はい」
そう言えば途中にあった小屋に書かれてたなと思い立ち小銭入れから四百円をおじさんに渡す。
「景色の方は向こうの離れから、仏さんはこっちです。
ほなごゆっくり」
「はいー」
きょろきょろと辺りを見回しながら、私は景色が自慢の離れの方へと向かった。
すれ違った観光客のお兄さんお姉さんに会釈しながら離れに入ると、そこではさっき上って来た階段や鐘、そして川があって…向かいの山が一望出来るまさに絶景だった。
「う…うわっ、なにこれ…確かにこれは絶景やわ…」
窓から足場の方へと向かうと、そこにはベンチと双眼鏡が置いてある。
「こんな天気の日に、何しに来たんや?」
「へ?」
首を巡らせて声の主を探すと、離れに入って来た作務衣のおじさんがお茶を淹れてくれているところだった。
「あの…昨日の台風で渡月橋どうなってるかなって…あ、あとモンキーパーク探しに」
「モンキーパーク?モンキーパークは随分手前やぞ、渡月橋の方や」
「ええーっ!?」
どこにあったんだと思いだそうとするが、とにかく川の水位がどうのとか山が近くにあるわーいとか色々考えて進んで来た為に渡月橋付近は見て終わった気がする…。
「まあ、飲みよ」
「いただきます」
何はともあれ目の前の階段を上って来て喉が渇いていた事は誤魔化せない。
私はコップを受け取ってちびりちびりと喉を潤した。
作務衣のおじさんにこの辺りの話しを聞きつつ、出入りの忙しくなって来たこの千光寺を見て私は離れで一人呟いた。
「…良いとこ見付けた」
それはまるで小学校の時に、公園で自分達が大事にしている物を持ち寄って隠す場所であったり、何も約束しなくても集まる場所であったりする秘密基地のような。
自分だけの安らぎの空間のような、そんな場所。
「さすがに観光地だし、自分のって訳には行かんにしても…また、絶対来よう」
私は部屋の端に置いてあった自分のリュックを背負い直すと、作務衣のおじさんの居る場所に向かった。
「じゃあ私、帰ります」
「またいつでもおいで」
強面の顔を崩して微笑むおじさんに「次来るとき、お土産何が良い?」と聞くと「虎屋の羊羹」と言われた。
中々面白い人だ。
「分かりました、じゃあ今度持って来ます」
「冗談や、気使わんでええよ」
「ううん、また来たいから持って来る」
私はそう言うと最後にくるりと首を巡らせて何があるか目に焼き付けながら千光寺を後にした。
鐘付き場所に、もうカメラを持った男の人は立っていない。
私が来た時に帰ったんだから当たり前かと納得して私は鐘を三回突いた。
上りはしんどかったけれど、下りはあっと言う間で…少し物悲しかったけれどまた来れば良い。
突き出た木を避け丸太を撫でて、小屋を通り過ぎ怪しい看板を見てくすっと笑う。
次に来た時は使い方の分からないこの杖を使ってみよう。
砂場と岩場を抜け、左右に大きく曲がっている坂を進み、大きい鳥やカモの泳ぐ川を抜けて渡月橋まで戻って来た。
「…モンキーパーク無いやん」
私は最後にオルゴール館を覗いて嵐山の駅まで帰った。
初めは渡月橋の心配をしていた私だけれど、目的は嵐山に行った事ですり替わってしまった。
今後私が嵐山に行く時に目的とするのは「大悲閣千光寺」になるだろう。
あの作務衣のおじさんの話し方、キャラクター。
階段を上がって見えた母屋や離れ、そして大きな木々。
離れから見える景色…今は十月で紅葉には少し早いけれど、これは時期に来たらすごいものが見れそうだ。
元々自然や景色を撮る…と言ってもデジカメや携帯だが、写真はかなり好きな方だ。
季節ごとに通ってみるのも良いだろう。
「次に来る時は虎屋の羊羹か…通わせてもらう先行投資と考えても安い安い」
電車の中でニヤリと笑う女の子と言うのも怖いが、基本自分の事で忙しい人間達はきっと気付いていないに違いない。
そう決め付けると、私は次の休みはいつだっただろうかとスケジュール帳を確認するべく急いで帰路についた。
※千光寺執事、安村様に許可を頂いております。