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短編小説

言葉は蝉となり、君の元へと。

作者: うわの空

 虫嫌いの女が引きこもっている部屋にノックもせずに入って来て、「蝉の幼虫が入っている」土入りの水槽を勝手に机上に設置した挙句、「七年後の一月二十日に羽化するから」などと男が言いだした時、一体どこから突っ込めばいいのだろうか。

 ちなみに水槽はロマンチックな造形をしているわけでもなく、百均かどこかで買った安物だろうと予想できる小さな代物だった。今日は私の誕生日でなければ、クリスマスやバレンタインといった記念日でもない。今日はごくごく普通の平日であり、学生ならば学校に行っている。

 そう。十五歳である私と彼は、本来ならば学校に行っている。本来ならば。


「……いきなり何を持ってきて、何を言ってるの?」


 至極まっとうな質問をしたつもりだ。相手は私が大の虫嫌いだということを知っているし、蝉が一月に羽化するなんて聞いたこともない。今は土しか見えていないとはいえ、その中に幼虫が入っていると考えるだけでゾッとした。頼むから持って帰ってほしい。

 しかし、男――私の同級生である彼は、真面目な顔とドヤ顔を混ぜたような表情をした。


「本当だから。七年後の、一月二十日の夜十時ごろに、さなぎが土から出てくるんだ。そしたらそのさなぎを、……そうだな、そこのカーテンにでもひっかけておけよ。そのうち背中が割れて、中から成虫が出てくるから」

「羽化するのを観察しろって言うの? いやよ気持ち悪い」

「観察しろって言ってるんじゃないんだ」


 いいか、と彼は微笑んだ。


「羽化した次の日――二十一日から、毎日夜の十時ぴったりに、十秒だけその蝉は鳴く。絶対に聞き逃すなよ。……蝉が鳴くのは、七日間だけだ」


 私に言われたくはないだろうが、こいつもついに気が触れたのかもしれないと思った。彼はもう一度同じことを繰り返して、それから「また明日」と部屋から出ていく。明日もまた、私が学校に行かないことを知りながら。



 私は小学五年生のころから不登校になり、中学一年生のころから死にたがりになった。

 彼は小学五年生のころに病気が判明し、中学一年生のころから検査や手術が増えた。


 家が近所だったから、子供のころはしょっちゅう二人で遊んだ。その時の私は虫嫌いなのを除けば、男子と気が合った。あるいは、彼とだけ気が合っていたのかもしれなかった。

 けれど、女子とはあまり仲良くなれなかった。話についていけない。楽しいとも思えない。笑うタイミングに乗り遅れたり、笑ってはいけないタイミングで笑ってしまうこともあった。

 そういう『ずれている人間』に、世間は優しくない。私はあっという間に、女子グループからハブられた。そして、陰口をたたかれるようになった。

 なんとなく同級生の視線が怖くなって、その『なんとなく』は『とんでもなく』に変わっていった。そこから転落するのはあっという間だった。

 私は自分の部屋に逃げ込んで、鍵をかけた。誰の視線にもさらされないように。

 母は「時間に任せる」と言った。父は「母に任せる」と言った。時間に任せるのはおそらく正しくて、けれど子供ながらに『放置された』とも思った。

 我ながら、実に扱いにくい人間に育ったと思う。

 そのうち、見よう見まねで手首を切った。不調でもないのに風邪薬を大量に飲んだ。ドアノブを使った首吊りを試みた。どれもこれも死ぬつもりでやって、けれどどれもこれも失敗した。

 中学生なのに、既にこの状態なのだ。将来が暗いのは目に見えている。むしろ、将来なんて見えなかった。


 彼は、そんな私の部屋に時折遊びに来た。小さいころからの知り合いなので、母も彼をすんなりと家にあげる。彼だけは私の部屋の扉の開け方を知っていて、私と自然に話す方法を知っていて、私を自然に笑わせる方法をも知っていた。

 病気と闘って、検査や手術を繰り返して、生き続けようとする彼は私とは正反対の人間だろう。なのに彼は、私のことを馬鹿にしたり、罵ったりすることもなかった。手首の傷を見て「自分のことを大切にしろ」と怒ることはあっても、「何を馬鹿なことやってるんだ」と怒鳴ることはなかった。



 午前中で検査が終わった日、彼は午後の授業をサボって私の家に来ることが多い。今日もそうだったのだろう。私は呆然と、彼の残していった水槽を眺めた。水ではなく、魚でもなく、土と虫が入っている水槽を。


「……さいあく」


 思わずそう呟いた。けれど本当に最悪なことは、それから一か月後に起こった。



 彼が、死んだ。



 闘病で弱った身体は、再手術をするだけの力を残していなかった。私の部屋に蝉を持って来た時、彼は既に自分の余命を知っていた。けれど、彼は何も言わなかった。弱音も遺言も、なにも。

 ただ、水槽だけを残していった。

 彼の葬儀にすら参列できなかった自分は、まさに最悪だった。

 葬儀には同級生や教師が参列するだろう、そんな中に出ていったらまた変な目で見られるだろう。そんな馬鹿な思考をぐるぐるとなぞって、私は彼の残した水槽を眺めた。


 七年後の一月二十日に土から出てくるという、まだ見えぬ蝉を、眺めた。



 彼が死んで七年後の冬は、暖冬だった。とはいえ、蝉なんて羽化する気温ではない。

 死にたがりの私は、驚くほどに進歩していなかった。七年経っても部屋に引きこもり、学校にも通わず、死にそうで死なないことを何度も何度も馬鹿のように繰り返した。自分の血液の温度に慣れて、薬を飲んだ時の浮遊感に慣れて、首を絞めた時に暗転する視界にも慣れた。

 二十二歳。大学に通っていたなら今年の三月で卒業、四月から働き始める年齢だ。無論、今の私は就活もしていなければ働ける気もしていなかった。


 死のう、と思った。今度こそ。三月の終わりにでも。学生という肩書きが使えなくなってしまう前に。

 大学に通っていないくせに、『自分はまだ学生として存在が許されている』と考えている自分がおかしかった。



 一月二十日の夜、十時前。私は割り箸を片手に、彼の残した水槽の前にいた。

 なんだかんだで、この水槽は捨てられなかった。捨てようと思ったことは何度かある。あれは彼の悪い冗談で、本当は土しか入っていない水槽かもしれないとも考えた。

 けれど、彼がそんな嘘をつく人間だとも思えなかった。

 もしも話が本当なら、蝉は今日出てきて、二十七日に死んでしまう。それを見送ったら、死ぬ準備をしよう。もしも何も出てこなければ、今度こそこの水槽は捨てよう。私は土の表面を半ば睨むように見つめながら、そう思っていた。

 時刻を確認する。十時まで残り一分。今のところ、水槽に変化はない。やっぱり、嘘だったのかもしれない。私が半分安堵した時、水槽中央あたりの土が、もそりと動いた。


「……ひっ」


 十時にあわせるようにして、それは姿を現した。

 間違いなく、蝉のさなぎだった。普段なら抜け殻しか見かけないそれは、のそのそと土の中から出てきた。抜け殻ではなく、まだ中身がそこにいるということだ。


 冬に蝉が土から出てくる。彼の話は本当だった。


 私は水槽の蓋を開けて、割り箸でさなぎをつまみあげた。さすがに、手ではつかめなかった。

 彼の言葉を思い出して、カーテンにさなぎをひっかける。さなぎはしばらくカーテンにくっついたまま動かなかったけれど、やがてもそもそと身体を揺らし始めた。虫嫌いにとっては叫びたくなる光景だったけれども、私は無言でそれを見つめた。

 彼が蝉になったとは思っていない。けれど、蝉に彼が宿っているような気がしていた。

 やがて、さなぎの背中に亀裂が入った。そこから現れたのは、私の予想に反して、白い蝉だった。昆虫といえば乾燥していそうなイメージを持っているけれど、その肌は水分に富んでいて、やわらかそうだ。しわくちゃの羽は、淡い緑色をしている。

 さなぎから顔を出した蝉は、のけぞった体勢のまましばらく動かなかった。黒くてまん丸の瞳と目が合う。けれど、蝉は何も言わない。やがて、思い出したかのようにのけぞるのをやめ、さなぎから身体をすべて引き抜き、羽を乾かし始めた。

 虫嫌いの私は、不思議とそれを怖いとは思わなかった。白い身体も緑の羽も、むしろ綺麗だと思えた。


 しかし、


「うっわあ……」


 翌朝、蝉はその身体を茶色に染めていた。すなわち、よく見かけるアブラゼミだかミンミンゼミだか、そういう姿になっていた。

 部屋中を飛びまわったり、ましてや私めがけて飛んで来たりしないだろうな……。

 私は二時間ほど蝉を観察したけれど、蝉は微動だにしなかった。そのうえ、鳴きもしない。かといって死んでいる様子もなかった。


 羽化した次の日――二十一日から、毎日夜の十時ぴったりに、十秒だけその蝉は鳴く。


 彼の言葉を信じて、私はその時を待つことにした。



 その日の夜十時前、私は蝉の前に立っていた。飛んで来たら怖いので、少し距離を置いて。蝉は相変わらず一ミリも動かず、鳴かず、ただそこにいるだけだった。まるで、標本のように。

 けれども十時になった瞬間、蝉は鳴いた。


『今日は外に出ましたか? 空を、見ましたか』


 ――それは間違いなく、死んだ彼の声だった。

 発したのはそれだけで、蝉はまた黙り込んでしまった。そして私も、黙り込んでしまった。

 彼が蝉に生まれ変わったとは到底思えない。だって彼が水槽を持ってきた時、その中には既にこの蝉がいたはずなのだ。ならば、今のこれはなんだろう。あれは確かに、彼の声だった。録音されたような音源でもなく、まるで彼がそこにいるような声だった。


 毎日夜の十時ぴったりに、十秒だけその蝉は鳴く。絶対に聞き逃すなよ。


 それは馬鹿げた妄想だった。けれど、そうとしか思えない自分がいた。

 彼は死ぬ前に、この蝉にメッセージを吹き込んだのではないか。一日、十秒だけ聞けるメッセージを。自分のいない七年後の、私に宛てて。

 そして彼は、七年後の私のことをよく見抜いていた。

 私は、今日も外に出ていない。空を見ていない。

 カーテンを開けて、空を見る。真っ暗で、雲の様子もよく分からなかった。


 明日、久しぶりにベランダに出て空を見てみるか。そう考えている自分がいた。



 二十二日も、夜の十時ぴったりに蝉は鳴いた。それはやはり、彼の声で。


『今日、何かいいことはありましたか? 一つでもいいから思い出してください』


 私はしばらく考えて、動きもしない蝉に向かって呟いた。


「久しぶりに、飛行機雲を見た」



 二十三日も、夜の十時ぴったりに蝉は鳴いた。


『今日は笑いましたか? 少しでも笑ってほしいです』


 笑うような出来事は特になかった。最近、笑った覚えもなかった。

 鏡に向かって笑う練習をしようかと思ったけれど、自分の顔を見るのが嫌で、私は蝉に向かって笑いかけた。蝉は何も言わない。私の下手くそな笑顔を馬鹿にすることも、なかった。



 二十四日も、夜の十時ぴったりに蝉は鳴いた。


『僕とよく遊んだ場所を覚えていますか。ヒントは、タコです』


 普段は俺と言っていたくせに、そしてタメ口だったくせに、蝉にメッセージを吹き込む時はやたらとかしこまっていたらしい。私は苦笑した。

 よく遊んだ場所なんて、当然のように覚えている。近所の公園で、大きなタコ型の遊具があった。タコの足が滑り台になっているだけで、それ以外に面白みのあるものはない。そんな場所で私たちは飽きもせず、日が暮れるまで遊んだ。


 引きこもっていた私は当然、もう何年も……十年以上そこには行っていない。

 翌日私は思い切って、その公園を覗きに行った。人目が怖くて早朝にこそこそと出かけたけれど、ベランダに出ることすら滅多としない私からしてみれば、コンクリートを踏むのは快挙と言えた。

 徒歩三分の道のりは、十年以上引きこもっていた私にとっては遠足のようだった。

 けれど、タコの公園はなくなっていた。厳密に言うと遊具が撤去されていて、そこはただの空き地になっていた。タコの遊具はいつ、なくなったのだろう。彼が死ぬ前だろうか、後だろうか。

 私はそこに残した何かを見つけ出せないまま、家に戻った。



 二十五日も、夜の十時ぴったりに蝉は鳴いた。


『今日まで生きた自分を褒めてあげてください。できないなら僕が褒めます。今日も一日頑張ったね』


 ――まるで、私が勇気を振り絞って外に出たことを、そして公園に行ったことを知っているような褒め方だった。

 もしかすれば、お見通しだったのかもしれない。自分の吹き込んだ言葉で、私が動くことを。

 私はしばらく悩んで、自分で自分を褒めるのは気持ち悪いなと思い、彼の言葉を受け取ることにした。


「……ありがと」



 二十六日も、夜の十時ぴったりに蝉は鳴いた。


『君の心が、一つでも多くの幸せを見つけられますように』


 なになにしましたか? という当初のメッセージとは変わり、それは願望になっていた。

 彼は「見つける」という言葉を使ったのに、「目」という言葉は使わなかった。

 幸せになりますように、でも、幸せが訪れますように、でもなかった。

 一つでも多くの幸せを見つけられますように。

 それは、私がこの世界で生きていくのに必要な力だった。



 二十七日。私は夜の九時から、ずっと蝉の前にいた。蝉はぴくりとも動かない。


 ――蝉が鳴くのは、七日間だけだ。


 彼の言葉が真実なら、今日のメッセージが最後だった。

 最後に彼は、何を言い残したのだろう。私は動かない蝉を見ながら考えた。

 直球で「死ぬな」かもしれなかった。あるいは「生きろ」かもしれない。

 考えたくはないが、恨みつらみを言ってくる可能性もある。


 ――もしも。


 もしも、彼の最後の言葉が「好きだ」とか「愛していた」なら。


 自分でも何を期待しているのか分からなかった。時計を見る。二十一時五十九分。私は冬に自室で、真剣に蝉を見つめていた。それはきっと、奇妙な光景だっただろう。

 時計の秒針がゼロを示して、時刻は十時ぴったりになる。私は息をのんだ。


 けれど、蝉は何も言わなかった。


 いつもなら十時になった途端に鳴く蝉は、じっとしたまま動かない。私は内心で狼狽した。最後のメッセージはなかったのだろうか。彼は、最後の最後に何も吹き込まなかったのだろうか。

 ピクリとも動かない蝉を見つめる。五秒、六秒、七秒。


『…………』


 無言なのに、彼の気配が、した。

 彼は何かを悩んでいた。けれど蝉は、最後の最後に、その言葉を私に伝える。



『――……また、明日』



 その声は、酷く震えていて。



 言い切ったと同時に、蝉はカーテンからぺらりと剥がれた。あれほど虫嫌いだったのに、落ちるその身体を両手で受け止める。蝉は嘘のように軽くて、ひっくり返ったまま動かない。もちろん、その蝉は機械でもなかった。ただの蝉だ。録音ボタンもなければ、リピートボタンもない。

 なのに私の中で勝手に、いつかの彼の声が再生されていた。


『少しでも笑ってほしいです』 


「…………あんたのせいで無理」


 私は死んだ蝉を両手に乗せたまま、馬鹿じゃないかと思えるほど泣いた。彼が蝉にこめた言葉は、あわせてもたったの七十秒しかない。その七十秒のために、私は何時間も泣き続けた。

 彼に訪れない明日と、私に訪れる明日があった。

 彼はそれを知っていて、なのに最後にこの言葉を残した。

 

 自分のいない七年後の世界で、死にたがりの私が『明日』を迎えることを信じて。



 一晩思いきり泣いたら、蝉を埋めに行こう。タコの遊具があった、あの空き地へ。

 それから空に向かって、少しでも笑おう。

 私は、彼に言葉を伝えられるすべを持っていないけれど、その意味は伝わるだろう。届くだろう。


 ――また、明日。


 だから今晩くらいは、笑わなくても許してほしい。

 動かなくなった蝉の上に私はぽつりと、言葉と涙を落とした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 七年後の未来に毎日10秒ずつ、蝉からメッセージが送られるという設定が斬新で面白かったです。少しうるっときました。「彼に訪れない明日と、私に訪れる明日があった。彼はそれを知っていて、なのに最…
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