その四『最悪』
青い文庫本を借りて一週間後。
僕はまた保健室に行き、保健室の魔女にその本を返した。「これ、面白かった」という、感想をそえて。
「どこが面白かった?」彼女は落ち着いた声で尋ねた。
「話のオチ。あの全部をひっくり返す感じがたまんなかった」僕は緊張しつつ言った。
「そう」また彼女はなにを考えているのかわからない返事をして、本を一冊さし出してきた。猫の絵がかいてある、黄色っぽい本だった。
「今度はこれ、貸してあげる」
ぶっきらぼうに手わたされた本を、僕はだまってうけとった。
うけとってから、少しして。
「あ、あのさ!」
僕は意をけっして彼女に話しかけた。いきごみすぎて、ちょっと声が大きくなってしまったかもしれない。
「なに?」彼女は短く返事をした。
「その、さ。こっちばっかり本を貸してもらうのも、悪いからさ」僕はモゴモゴと歯切れ悪くしゃべる。「明日、漫画を持ってくるよ。おすすめのやつ」
彼女はなにも答えなかった。前髪に半分かくれた目を丸めて、何度もパチクリとさせていた。
「だから」目を泳がせながら言った。「ここで一緒に、本を読んでも、いい?」
言い切って、自分の顔がカァっと熱くなるのを感じた。なんだか視界もぼやける。心臓の音も相変わらずひどい。僕の緊張は頂点にたっしていた。
別に、深い理由なんてない。ただ、そうしたいと思っただけだ。
彼女に面白い漫画を教えてあげたい。
彼女と一緒にここで本を読みたい。
そしてできるなら、彼女がどうしてここで本を読んでいるのか、知りたかった。
しばらく彼女は考えるように僕をじっと見ていた。視線が痛い。やべえ。なんかこれ、たえらんない。
「いいよ」
そろそろ僕が心おれて「やっぱ今のなし! 忘れて!」と言おうかと迷いはじめたとき、彼女はそっけなく、そう言った。
「ほんと?」僕は思わず聞き返した。
「本当」彼女は興味なさそうに答えた。
次の日から、僕は放課後に保健室に毎日、よっていくようになった。最近いちおしの、サッカー漫画を持って。
彼女は僕の持ってきた漫画を珍しそうにながめてから、パラパラとめくった。
「私、男の子の漫画を読むの、初めて」
そう言って、彼女はその日の放課後だけで持ってきた十冊を全部、読み切ってしまった。
「面白かった」彼女は表情をかえずに言った。「また明日も、お願いね」
「おう」僕は得意げになって、二つ返事でOKした。
――そして。
「で? 遥太、それからずーっと本を借りに行ってるってわけ?」
「いや、まぁ、……うん」
昼休み。
僕と夏夜は、誰もいない中庭で冬のくもり空をぼんやりとながめていた。
「最初に本を借りてから、どれくらいたった?」
夏夜は紙パックのジュースをチューチュー吸いながらきいた。
「三ヶ月くらい」
僕は空になった紙パックをベコベコとふくらませながら答えた。
この三ヶ月間ほとんど毎日、僕は放課後、保健室に通いつめた。
先生にばれないように、こっそりと一日十冊ずつ漫画を持ち込んで、彼女に貸し読ませた。たまに安芸先生に見つかったりもしたけど、先生は笑ってゆるしてくれた。
僕の方は、彼女から借りた本をだいたい一週間に一冊くらいのペースで読んだ。
最近ではだいたい日がくれるまで、二人で保健室にいすわって読書をするようになった。最初は女の子と無言で読書することにとまどいがあったが、今ではもうすっかりなれっこだ。むしろその沈黙が心地よいとさえ感じる。
……そんな感じですごしていたら、あっという間に三ヶ月がすぎていた。
「通りでここんところ、サッカーに誘ってもこないわけだ」
夏夜は挑発するように鼻で笑った。
「それは別に関係ねーよ」
「関係ないわけないじゃん。放課後、毎日そっちに行ってるんでしょ? 保健室の魔女に会いに」
「そう、だけど」
「やっぱりそうだ」勝ちほこったように夏夜は笑った。「遥太、私たちと遊ぶより、魔女と一緒にいるほうが面白くなったんだ」
「ちげーよ。そんなんじゃねーって」
「その子のこと、好きなの?」
「ちげーって言ってんだろーが!」
僕は大声を出した。思わずどなってしまった。女の子とか、好きとか。そういう話は苦手だった。恥ずかしかった。そういった話はむずがゆくて、友だちとはしたくなかった。
夏夜はびくり、と体をふるわせて、少しだけおびえた表情を見せた。だけど、それは本当に少しだけ。次の瞬間には、いつもの夏夜に戻っていた。
「違わないでしょ。女の子と二人っきりがそんなに良いんだ。あーあ、残念。遥太って、けっこうスケベだったんだね」
「この野郎、いいかげんに……!」
流石に頭にきて、僕は夏夜につかみかかった。服のえりを乱暴にひっぱる。そのいきおいで、二人の飲んでいた紙パックが地面に落っこちた。僕のは空だったけれど、夏夜のはまだいくらか残っていたようだ。ぼとり、と重さのある音とともに、パステルカラーの液体がもれ出していた。
「やめてよ!」
彼女は冷たく言って、僕をふりはらった。
「女子に暴力ふるうとか、遥太、最悪」
普段は女子あつかいすると怒るくせに、夏夜はこんなときばかりつごう良くそう言った。そして、視線だけで僕を殺そうとしているんじゃないかってくらい鋭く、こちらをにらんでくる。
「もういいよ」
夏夜ははきすてるように言って、僕に背をむけた。
「遥太は魔女とイチャイチャしてればいいんだよ。このスケベ!」
捨て台詞を残して、夏夜は中庭から走りさってしまった。僕はそれをただ呆然と、アホみたいにつっ立て見送ることしかできなかった。
……なんだよ。なんなんだよ。なんで夏夜のやつがキレてんだよ。意味わかんねーよ。
僕は心の中にくすぶった気持ちを少しでもはき出すために、地面に転がっている紙パックをできる限り乱暴にふみつけた。
びゅっ、と液体がとびちり、パックはぐちゃり、と簡単にひしゃげた。