その三『またね』
あれから一週間がたった。今日は借りていた茶色い本の、返却期限だ。
放課後。授業が終わると同時に、僕はまっすぐ、彼女の元をめざして走ってきた。そして保健室の前まで来た。そこまでは良かった。けれど。
「あいつ、いるかなぁ……」
保健室の前につっ立って、いったい何分が経過しただろう。僕は両手で分厚いハードカバーをしっかりと抱えて、何度目かのひとりごとをもらした。
今日の目的はもちろん、たった一つだけ。彼女に押し付けられたこの本を、返すことだ。
言ってしまえば、それだけ。どうってことないように聞こえるかもしれない。でも。
「はぁ……」
それでも僕は、保健室への一歩をふみ出せずにいた。
なんでときかれると困ってしまう。けれど無理やり理由をあげるなら、例の女の子だ。あの保健室の魔女だ。僕はどうにも、彼女が苦手だった。
あの子の姿を見ると、頭が熱くなる。冷たい言葉を聞くと、体が固まってしまう。そんなふうに自分がおかしくなるのが、どうしようもなくイヤだった。怖かった。要するに、ビビっているのだ、僕は。かっこ悪ぃ。
「ふぅ……」
借りた本は、なんとか昨日の夜に最後まで読み終わった。剣とか魔法とかが出てくる、ファンタジー小説だった。読書なれしていない僕は何度も読むのをやめそうになったけれど、それでもなんとか最後まで読むことができた。途中で投げなかった自分をほめてあげたい。
感想を言うと、ぶっちゃけ、あんまり好きなタイプのお話ではなかったし、そこまで面白くもなかった。それでもおしつけられた本をバカ正直に読んだのだから、僕は案外お人好しなのかもしれない。
「うーん」
それはともかく。
どうしよう……。
「あいつ、いるかなぁ……」
そして僕はけっきょくフリダシに戻って、ぐるぐると考えをループさせ続けるのだった。
だめだ。今日の僕は、なんかもう、どうしようもなくだめだ。あんなやせっぽちの女の子ひとりを怖がって保健室に入れないなんて、どうかしている。
帰ろう。調子が出ないし、ひとまず今日はやめておこう。んで、別の日にあらためよう。
本は返しそびれちゃうけれど、別に一日や二日くらいおくれたって――。
「ねぇ」
そんなふうに考えていると、背後から急に声をかけられた。突然のことに、体が大きくふるえる。
「保健室、入らないの?」
落ち着いた、キレイな声だった。それほど大声ではないのに、よく通る。
この声。
この声の主を、僕はたぶん、知っている。
だって、この温度を感じない、氷みたいなしゃべり方は。
心臓の動きがドクドクと早くなる。ああ、この感じ。一週間ぶりだ。間違いない。後ろを見なくてもわかる。だけど確認しなくちゃ。イヤだけど。怖いけど。
僕は深呼吸を一回して胸をおちつけてから、さびたネジみたいにぎりぎりと首を回し、ゆっくりと後ろをふり返った。
「……久しぶり」
「そうね」
背後には当然のように、保健室の魔女がそこに立っていた。
……いや、まぁ。誰が後ろから声かけたか、大体わかってたけどさぁ。
「急に声かけんなよ。ビビるじゃん」
「保健室、入らないの?」
彼女は当たり前みたいに僕を無視して、同じ質問をくり返した。いつもどおりの冷たい口調。それがなぜか、僕にはどうしようもなく挑戦的に聞こえてしまう。
「……。入るよ!」
ついさっきまで帰ろうかと考えていたのに、とっさに正反対の答えが口から出た。完全にいきおいだった。売り言葉に買い言葉っていうか、そういうやつ。
言ってからハッと気づいて、とり消そうとした。でも、もう遅い。彼女は「そう」と小さくうなずいてから、無造作に保健室の扉を開けてスタスタと中へ入っていった。
そして、入ってから数歩歩いて。
「ようこそ」
くるりとふり返って、わがもの顔で彼女は言った。
っていうか、保健室はお前の部屋じゃねーだろ。
「これ」
いつものしかえしとばかりに僕は彼女を無視して、そっと茶色い本をさし出した。
「借りていた本。読み終わったから返すわ」
そう言ってつきつけるように腕をのばすと、彼女は珍しいものでも見るみたいに僕と本へ交互に視線をむけてきた。
「わかった」
彼女は短くそう言って、おずおずと本を受けとった。
よかった。これで今日のやるべきことは達成した。ホッとするのと同時に、胸の中にじわじわと満足感が広がっていった。逃げなかったし、ちゃんと本、返せたし。よしよし、僕、やるじゃん。
と、そんな自画自賛モードに入ったのもつかの間。
「ねぇ。本の感想、どうだった?」
彼女のそんな一言で、ふわふわと宙に浮いていた僕の心は、一気に地ベタへ叩きつけられた。
「えっ?」
「本の感想。ここが面白かったとか、好きだったとか。あるでしょ?」
「え、えーっと……」
僕はちょっとだけ困ってしまった。もともと本を読まない人間なので、当然、読書感想文なんかは大の苦手なのだ。それにこいつ、確かまだ最後まで読んでないんだよな? ネタバレにも気をつけなきゃいけない。そこまで考えた上で気のきいた言葉なんて、とっさには出てきやしなかった。
「……とりあえず、話が長かった」
僕は口ごもりながら、とりあえず答えた。
「あとは?」
「ファンタジーっぽい話だったけど、こういうの、そこまで好きじゃないんだよね」
「あとは?」
「あとは……」僕は彼女から目をそらして言った。「あんまり、面白くなかった」
言っちゃった。バカ正直に。少しのおせじもまぜずに、本音を堂々と。
せっかく貸した本を、面白くなかったと言われて嬉しいヤツがいるわけない。きっと彼女も、シュンとしちゃってるんだろう。そう思うと、まともに相手の方を見ることなんて、、僕にはできなかった。
それからしばらくのあいだ、二人とも無言だった。あまりの静けさにたえられなくなって、ちらり、と彼女の方を見る。長い髪にかくれて、表情はわからなかった。
「そう」
長い時間の後、彼女は静かに、そう言った。
もともとボソボソとしたしゃべり方をするやつなので、悲しんでいるのかどうかはわからなかった。
「じゃあ、次はこれ」
急に。
彼女は手に持っていた茶色い本を適当にほうりなげた。そして近くにおいてあった青い表紙の文庫本を、こちらによこしてきた。
「はい」
「あ?」
変な声が出てしまった。はい、って言われても。なに? なんだよ、この本は。
「今度はこの本、貸してあげる。こっちはもう読み終わったから、返すのはいつでもいい。……それにこの本は面白い。おすすめ」
そう言いながら、彼女はグイグイと文庫本を僕の胸におしつけてきた。
「だから、読んで」
彼女にしては珍しい、力強い言い方だった。
「お、おう」
そして僕は、気が付いたら首を縦にふって、本を受け取っていた。完璧、迫力に負けていた。情けねぇ。
っていうか、なんで? なんでこいつは僕に本を貸しまくってくるの? なんの理由が?
「じゃあ、私は読書するから」
クエスチョンマークだらけの僕をまたもやおきざりにして、彼女はたった今、返したばかりの茶色い本を読みはじめた。ファンタジーで、あんまり面白くない本を。
「ジャマしないでね」
「わかってるよ」
僕はなげやりに答えた。こいつは読書をジャマされるのがイヤなんだ。だからいつも一人で本を読んでいるし、読みはじめたら返事だってしやしない。さすがに僕も、それくらいのことは段々とわかってきていた。
「じゃ、また読み終わったら返しにくるから。じゃーな」
返事は期待せず、とりあえず形だけのあいさつをして彼女に背をむけた。
「わかった。待ってる」
彼女は意外にも、返事をしてくれた。完全に予想外だった。
思わずもう一度、彼女の方をふりむく。
「またね」
相変わらず本に目を落としたままだったけれど、彼女はよく通る声で、そう言った。
優しい、声だった。
「……おうよ!」
僕は気前のいい返事をしてから、うかれた気分で保健室を出た。
自分でも、なんでこんなにうれしい気持ちなのか、わからなかった。だけど、そんなこと数秒後にはこれっぽっちも気にならなくなった。それくらいうかれていた。
ドキドキ。ドキドキ。
胸が熱くなるのを感じながら、僕ははねるようにして、本をかかえて歩いた。