その二『保健室の魔女』
「あー、それは『保健室の魔女』だわ」
午後の授業が全部終わって、帰り支度をしているとき。
保健室であったできごとを夏夜に話すと、そんな答えが返ってきた。
「保健室の魔女?」
聞いたことがない言葉だった。「なに、それ?」
「あれ、遥太、知らない? 保健室に髪の長い女の子が出るってウワサ。なんかずーっと本を読んでて、話しかけても全然しゃべんないんだって」
夏夜はまるで見てきたようにすらすらと話した。
髪の長い女の子。
ずっと本を読んでいて、返事もしない。
たしかにそれは、僕が会った女の子そのものだった。
「どこのクラスの誰かもわかんないんだけど、休み時間でも、授業中でも、いつ行ってもベッドに座ってるんだって。不気味だよね。 で、ついたあだ名が――」
「保健室の魔女、ってわけか」
僕の言葉に、夏夜はこくん、とうなずいた。
「変でしょ? なにが楽しくてずっと保健室にいるんだか。まったく、女ってよくわかんないよねー」
バカにしたように、夏夜は手をひらひらさせた。
いや。
っていうか、お前も女じゃん。
そう言いたくなったが、僕は黙って目をそらした。
夏夜は女子だけど、女の子扱いされるのをとってもイヤがる。前に一回クラスのヤツがやって、めちゃくちゃにらまれて、怒られていた。殴られなかっただけマシだと思う。
だいたい、夏夜はあんまり女の子っぽくない。髪は男子みたいに短いし、目もつり上がっていてきつい感じがする。服もお兄ちゃんのお下がりらしく、男物ばっかり着ていた。
ついでに言うなら、昼休みのサッカーで僕の顔面にボールをぶつけたのも、夏夜だった。こいつが男子に混ざってサッカーをするなんて、日常茶飯事だ。もしかしたら女子と一緒にいるよりも、男子と遊んでいるときの方が多いかもしれない。
そんなヤツだからこそ、僕は彼女のことを、あまり女子として意識したことはない。せいぜいサッカー仲間、どう言っても男友だちの延長みたいな感じだった。
「それでさぁ、遥太」夏夜はランドセルをせおいながら言った。「このあと三組のやつらと一緒に公園でサッカーやるんだけど、くる?」
「行く」僕は即答した。「今度こそオーバーヘッド、きめてやるぜ」
「できるわけないじゃん」夏夜はバカにしたようにさくっと笑った。「んじゃ、荷物おいたら公園集合ね。また後で」
「おう」
夏夜と教室で別れて、僕は階段を一段飛ばしで駆け下りていった。そして一階まで降りたところで、道が左右に分かれる。その場で立ち止まって、このどちらを進むか、ちょっとだけ悩んだ。
二つの道は、どっちに進んでも玄関までたどり着ける。右に進めば特に何事もなく玄関まで行けるけど、めちゃくちゃ遠回りだ。けっこう本気で、かったるいくらいに。
左からのルートは、玄関までのショートカットコースだ。めっちゃ近道。ふだんの僕なら迷わずこっちを進む。だけど、今日に限って言えば、あんまり気は進まなかった。
だって、左の道は、例の魔女のいる――保健室の前を、どうやっても通らなければいけないからだ。
正直、意識しすぎだとも思う。走っていけば保健室なんて二、三秒で通りすぎる。気にするのもバカらしいくらいだ。廊下を走ったら怒られるけれど。
だけど、なんていうか。
あの女の子に一瞬でも会うと考えただけで、言葉にできない気持ちがむくむくとふくらんでくる。もぞもぞずる。落ち着かない。
考えた末、結局僕は左の道、つまり保健室の前を進むことにした。
だってなんか、逃げたみたいでかっこ悪いじゃん。さけていくのってさ。
僕は左に曲がって、おおまたで、そして早足で歩いた。『廊下は走ってはいけません』って先生にいっつも注意されるから、急ぐときはこんなふうにして進むことにきめていた。
そしていよいよ、僕は保健室の前までやってきた。
どくん、どくん。
胸がすっごくドキドキしている。昼休みのときなんかより、ずっと。自分の心臓をこんなにうるさいと思ったのは、初めてだった。
ごくり、と唾を飲む。僕は緊張しながら、さっきより速いスピードで、保健室の前を歩いた。
保健室の扉は開いていた。見なければいいのに、それでも僕はなにかに引きよせられるように、室内を見てしまう。
白い部屋の中には、誰もいなかった。無人の空間で、カーテンが静かにゆれている。
そして。
「あっ……」
僕は思わず足を止めた。
昨日、彼女が腰かけていた真っ白いベッド。そこには、一冊の本が置いてあった。
茶色い表紙の、ハードカバー。タイトルは書いていない。誰かが読んでいる途中らしく、ちょうど本の真ん中くらいで開いたまま、ふせて置いてあった。
あの本は、確か彼女が昨日読んでいた――。
そのあと僕がとった行動は、自分でも理由がわからないし、上手く説明ができない。無意識の行動だったのかもしれないし、もしかしたら宇宙人に体をのっとられていたのかも。
とにかく僕は、気が付いたら、保健室に入って、ベッドの上にあった本を手にとっていた。
開きっぱなしのまま置いていたせいでクセがついているページに、目を落とす。
どうやら本は小説のようだった。それも大人が読むような、字が小さくてむずかしい言葉がいっぱい使われているやつだ。
「うへー……」
自分の口から勝手に、情けない声が出た。僕はあまり本を読まない。そのせいか、字ばっかりの本を見ると頭の中がかゆくなって、こんなふうに中途ハンパな悲鳴が出てしまう。
「あいつ、よくこんな本を読めるなぁ」
「こんな本で悪かったわね」
急に、後ろから返事がきた。
ぞわわ、と全身に鳥肌が立つ。誰だ。さっきまで、誰もいなかったはずなのに。
焦りながら勢いよくふり返ると、そこには昨日の女の子がいた。僕のすぐ後ろ。鼻と鼻がぶつかりそうな一だった。彼女は相変わらず髪が長くて、肌が白い。
そう、まさに『保健室の魔女』って感じで――。
「返して」彼女は突然、ひらべったい声で言った。「その本」
「え、あ、えーっと……」
僕はしどろもどろになって、言葉にならないなにかを垂れ流した。
カエシテ、ソノホン。
彼女がなにを言っているのかわからない。いや、僕の脳みそが理解に追いつかない。緊張とか、勝手に本をいじっていたバツの悪さとか。そういうので、カッとなってしまって、完全に頭は煮えきっていた。
そして、なによりも。
彼女を見ると、僕の心臓は、さっきの倍くらいうるさく、ドキドキと高鳴った。なぜかはわからない。でも、そのせいで、頭は完全にオーバーヒートしていた。
「その本、私の。続きを読みたいから、返して」
すこしだけ噛みくだいた言い方で、彼女は繰り返した。
「あ、うう、あ」
いっぽう僕は、まるで首から上が石になってしまったように上手くしゃべれなかったし、考えられなかった。
本を持つ手がぷるぷると小さくふるえている。緊張するといつもこうだ。イヤな汗でベタベタする。燃えたように体中が熱かった。
いつまでたっても返事すらしない僕に、彼女は不思議そうに首をひねった。
「どうしたの?」例のよく通る声で、彼女はきいた。
「べ、別に……」必死にそれだけ答える。
っていうか、別に、って。どういう返事だよ、それ。自分でも意味がわからなかった。
彼女は少しだけ、考えるようにアゴをなでていた。やがてなにかに思い当たったのか、小さく「あぁ」とうなずいた。
「その本、読みたいの?」
自分の耳をうたがった。それくらい突拍子もないことを、彼女はいきなり口にした。
「え?」
「いいわよ、貸してあげても。でも私もまだ読みきっていないから、早めに返してね」
「いや、あの」
「できれば一週間以内で」
「だから」
「まだなにか?」
それだけ言うと彼女は、会話終了とばかりに僕を無視してベッドに腰かけた。そしていつの間に持っていたのか小さな本を取り出して、ぺらりとページをめくる。
「じゃ、今日も私のジャマはしないでね」
そう言って彼女は本の世界へと入り込んでいった。僕は「う、うん……」とぎこちない返事をすることしかできなかった。
そしてそのまま、僕は保健室をあとにした。
そして、入室したときにはなかった、両腕にずっしりとくる厚ぼったい重さに、思わず長いため息が出た。
「……これ、どうすりゃいいの」
茶色い表紙のハードカバー。なんだかよくわからないうちに貸してもらったけれど。
だけど、僕は。
「……本なんか読まねーし……」
思いはそのまま、言葉になった。
重たい気分のまま、重たい本を持って、帰り道をトボトボ歩く。
結局その日は気分がのらず、僕は夏夜と約束していた公園サッカーをブッチした。