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その一『もう来ないでね』

「せんせー、はなぢ出たー」

 そう言って僕は保健室の扉を勢いよく開けた。

 いつもなら安芸あき先生が「遥太はるたくん、またなの? 少しは落ち着きなさい」と文句を言ってくるんだけれど、今日は誰の返事も聞こえなかった。鼻を押さえながらキョロキョロと見回す。どうやら先生、どっかに出かけているみたいだった。

 昼休み。友だちとサッカーをやっていたら、顔面にボールがぶつかった。めちゃくちゃ痛くて、泣きそうだった。でも、友だちの前で泣くのはかっこ悪いから、なんとか涙をこらえていたら、目じゃなくて鼻から涙がたれた。赤いのがぽたぽたと地面に落ちて、砂っぽいグラウンドに黒いシミを作っていた。

 本当はこのくらいのケガなら、保健室に来なくても平気だった。けれど、僕にボールをぶつけたやつが「遥太、血が出てる! 早く保健室!」とさわいで、無理やり保健室に行かされてしまった、というわけだ。優しいけど、強引なやつだった。

 僕は置いてある丸イスに座って、上をむきながらよじったティッシュを鼻につめる。少しだけクラクラするけれど、それももうなれっこだ。だって鼻血出すの、五年生になってもう三回目だし。

 僕はよくケガをする。理由は、安芸先生に言わせると「そそっかしいから」らしい。痛い思いをするのはイヤだけど、おかげでちょっと鼻血が出たくらいなら自分でなんとかできるようになった。そう考えると、悪いことばかりじゃないな、と思う。

 手当てが終わると、することもないのでヒマになる。僕は血が止まるまで、壁にはってあるポスターをボーッと見ていた。女の人の絵と、その横に「やめようイジメ」と大きく書いてあった。

 そのとき、僕の中に一つのアイデアがうかんだ。

 あの絵にイタズラしたら、おもしろそう。

 自分でも、悪いことだとはわかっていた。きっとバレたら、すっごく怒られるだろう。

 そう思っているのに、僕の足は勝手に、じりじりとポスターにむかっていった。

 大丈夫、だよな。

 保健室には僕以外いない。やるなら今だ。なにをしてやろうか少しだけ考えて、僕は鼻につめたティッシュを引っこ抜いた。とりあえず、こいつを装備させてやろう。

 半分だけ赤く染まった紙を、女の人の絵に近づける。そして鼻の部分めがけて、僕は静かに手を伸ばした。

「鼻血、止まったの?」

 後ろから急に声をかけられて、僕はびくん、と体を震わせた。そのいきおいで手に持っていたティッシュを落としてしまい、どこかに転がっていってしまった。

 体中が、吹き出した汗で冷たくなる。

 やばい。見つかっちゃった。

 このままじゃ、絶対怒られる。どうしよう。まだ顔はバレてないはずだから、走って逃げて、とぼけちゃおうか。

 あぁでも、この人は僕が鼻血を出したことを知っていた。休み時間に鼻血を出したやつなんて、きっと今日は僕以外いないに違いない。だとすると、ちょっと調べたら、すぐにバレちゃう――。

 そんな風に、一瞬でいろんな考えが浮かんでは、まるで泡のみたいにはじけて消えた。

 どくんどくん、と自分の心臓がやたらとうるさい。頭は熱くなって、今にも火を吹きそうだ。だというのに、体のほうは、怖いくらいに、冷たく凍りついている。

「ねえ」

 また、声をかけられた。よく通る、きれいな声だった。だけど、安芸先生じゃない。聞いたことのない声だ。だけどとても落ち着いていて、すっごく大人っぽいしゃべり方だ。

 誰だろう。少しだけ、興味が出てきた。そしてそれは、さっきまで感じていた怖さを、ほんのちょっぴり、上回った。

 おっかない。けど、誰だか見てみたい。けっきょく僕は好奇心に負けて、恐る恐る、後ろをふり返った。

 そこに立っていたのは、女の子だった。

 髪を腰くらいまで伸ばしていて、顔は長い前髪に隠れてよく見えない。それがとても印象的な、肌の白い女の子だった。

 背は僕より少し高いけれど、手足なんかはまるで木の枝みたいに細っこかった。しゃべり方のせいでてっきり大人かと思ったけど、たぶん、僕と同い年くらいだろう。

「聞いてる?」

 女の子は少し怒ったようににらんできた。

「う、うん……。聞いてる」ワンテンポ遅れて、僕は返事をする。

「なんだ、聞こえてたんだ。それで、鼻血は止まったの?」

「え? あ、うん」鼻の下をこする。指に血は付いていない。もう垂れてきてはいないようだった。

「そう」

 短く言うと、女の子はトコトコと歩いて、真っ白なベッドの上に腰かけた。そしてベッドの上に開いて置いてあったハードカバーの本を手に取り、目を落とす。

「じゃあ、出てってくれる?」

「えっ?」

「だから、出てってよ、保健室」

 本のページをめくりながら、言葉を続けた。「鼻血、止まったんでしょ? もう保健室に用がないんだったら、さっさと出てってくれる?」

 氷みたいに鋭くて、冷たい言い方だった。なんだかすっげー、イヤな感じ。

 一つ気に入らないところが見つかると、他の目につくところ全てが気に入らなくなり、ドンドンとそいつのことがキライになっていくことがある。今がそうだった。

 なんだよ、こいつ。そんな言い方しなくたって、いいじゃん。ていうか僕のいたずらのジャマしやがって。なんかこいつ、ムカつく。

「なんで、そんなこと言うんだよ。うぜぇ」

 ムッとした気持ちを、そのまま口にした。

「そう? ごめんね」

 だけど、女の子は本から目を離さず、すまし顔で受け流した。ちっとも悪いと思ってなさそうだった。

「私、見ての通り読書中なの。近くで騒がれると、すごくジャマ。わかる? だから出ていってほしいの」

 猫背気味に本を読みながら、うつむいてぼそぼそと言う。はっきりしないしゃべり方なのに、不思議と声はよく通った。

「……じゃあここで読まなきゃいいじゃん。図書室とか、教室とか。別のところで読めよ」

「それができないからここにいるの」

「はぁ? なにそれ。意味わかんないし」

「……」

「って無視かよ!」

 よくわからないことを言ったっきり、女の子は会話終了と言わんばかりに僕を無視して、本を読みふけった。いや、元々半分くらいは無視されていたけれど。

「おい」

「……」

「おーい! もしもーし! 聞こえますかー!?」

「……」

 どれだけ呼んでも返事はなかった。

「やってらんね。帰るわ」

 わざわざ彼女に聞こえるようにそう言って、僕は保健室のドアを叩きつけるように開けた。

「さよなら。お大事に」女の子は言った。「もう来ないでね」

「……頼まれたって来るかよ! バーカ!」

 僕は力いっぱい、乱暴に扉を閉めた。

 がぁん、とうるさい音が廊下に響いた。

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