王子様と危険な夜
緑の匂いに誘われて、適当に進んでいくと石畳の道を見つけた。ほんのり暗い道を歩いてしばらくすると、噴水や花が咲き乱れる広場に。見たこともない形状の花――星型の花や、真四角の花など――に感動していると、ふ、と視界が少しだけ明るくなった。
「……あ」
顔を上げると、暗い夜空に黒い雲。それは、日本と同じ風景なのに。大きな空の真ん中にぽっかりあるのは、まあるい青い月だった。青、と言うにはもっと深い。
「瑠璃の月、か」
夜明け前の空を瑠璃色と言った人がいたけれど、こんなに綺麗な青なんだろうか。暗い夜空でも隠れることなく、優しく輝く。けれどその輝きは、やっぱり元いた地球の金よりは弱くて。気付かぬうちに、ため息を吐いていた。
――本当に、日本じゃないんだな。
パニックになり、とりあえず身元を保証させるために冷静であろうと務めていたけれど。あたしは元々、家に帰るところだったのだ。一週間ぶりの、自分の匂いの染み付いた敷布団にくるまって、畳の匂いを嗅いで眠りたかった。お味噌汁や白米、お漬物とか、そういう普通の日本食を食べたかった。兄弟間で下らないおかず争奪とか、したかった。
家に帰れる当てはあるから、とりあえず三か月くらいゆっくりしよう、って思ってる。だけどやっぱり、帰れる!!と思ってから飛ばされたという変化は大きかった。まだしばらく、住み慣れた我が家には帰れない。小さな六畳間の部屋、妹と二人で寝ているあたし。あの客室は広く、ベッドだって大きいから、家よりずっと寝心地はいいはずなのに、落ち着かない。
「……うああああ」
なんかやだな、ホームシックの乙女か!!と自分に水平チョップ喰らわせたい気分。どんな時だって図太く賢く生きて行こうと思いつつ、実際にはこの体たらく。
ぷるぷると気持ちを切り替えるように、頭を振る。もう一度瑠璃の月を見ると、優しい青に心が慰められるみたい。目を細めて、大きく息を吐いた。きゅ、とカーディガンの裾を握る。今がどんな季節かは全く分からないけれど、五月くらいの気候に感じる。蒸した感じもなく、爽やかな風が吹き抜ける。後で知ったけれど、セルディアには四季はないらしい。基本的には穏やかな陽気が一年中続くそうだ。
爽やかな風に吹かれて髪が揺れる。手櫛で梳けばぱらぱらと零れる。……ううん、メイドさん達がやってくれたトリートメントは強力なようだ。剛毛のあたしの毛がこうなるとは、ちょっと感動。暇潰しに手櫛を続け、顔を上げる。すると、あたしの背中に。ふわりと、柔らかな香り。
「夜遅くに女の子一人で出歩くのは、感心しないね」
耳元で囁かれる、甘い、甘い声。まるで睦言を囁くかのような声音に、あたしは。
「っうぎゃああああああ!!」
――絶叫した。
叫びながらダッシュで逃げようとするあたしの腕は、がしっと捉われる。更にはそのまま、首に腕を回され抱き締められる形になり、全身に鳥肌が立った。へ、変質者だ!!変質者がここにいるよ!!ここ偉い人がいる場所なんだろうから、もっと警備ちゃんとしてよー!!パニックになるあたしの耳元に、もう一度唇が寄せられた。
「ミワコ、人の声を聞いて逃げ出すなんてどういうことだい?」
「は、離せ変質……って?」
笑いを含んだ甘く低い声。それに呼ばれた自分の名前に、目をぱちくりさせた。恐る恐る、顔を上げるあたしのすぐ上には、逆光に月の光を浴びた――ラルディアさんがいた。何度も目を瞬かせるあたしに、ラルディアさんは笑みを深める。
「叫ぶくらいなら、こんな時間に外には出ないことだね」
「はぁ……すみません」
夜遅く、というけれど今は何時なんだろう。首を傾げるあたしに、ラルディアさんは月を指差して説明してくれた。
「セルディアは農業を営む民族だと言っただろう?だから、朝が早いんだよ。正確な時間はないけれど、瑠璃の月が四分の一を過ぎる頃には、基本的にもう夜中になるね」
随分と早いなぁ。異世界ならではらしい事情に納得する。納得はしたけど。
「……ていうかすみません。この手、離してもらえませんか」
あたしの首に回されたままの腕(気付けばかなりがっしり抱き締められている)に、ぎゅう、っと爪を立ててみる。殴ってないからね!!ていうかこれは乙女の危機だと思うの!!女の子にそう簡単に触れるのって、駄目、絶対!!
じと目になるあたしに、「ああ、これは失敬」と白々しく言って解放する。離れてすぐに距離を取るあたしを微笑みながら見るラルディアさんは、さっきまでとは大分様子が変わっていた。
ふわふわの栗色の髪は、お風呂上がりなのかぺちゃんとしている。ピアスと指輪は変わらずだけど、格好が全然違う。重そうなローブは脱いでいて、胸元が大きく開いた白シャツに黒いぴっちりしたパンツ、裾は茶色い編み込みショートブーツに仕舞ってある。何ともシンプルな格好なのに、色気がむんむんなのはどういう訳か。というかもう、モザイク掛けないと人前に出せないレベルだよこれは!!乙女には刺激が強すぎます!!
鼻を摘んで威嚇するあたしに、王子は余裕の微笑み。く、くそぅ。今度は何を言うつもりかと身構えるあたしに。
「ミワコ、君今時間あるかい?」
……。
予想外に普通な言葉に、一瞬思考が固まり、危うく頷きそうになる――が。
待て自分落ち着け、ここで暇だと頷いたらこの性悪王子にどこに連れて行かれるか!!夜に女の子が外で歩くのもどうかと思うし、ここはやはり。
「えぇっと、そろそろ眠くなったし寝ようかなーって」
「そう?じゃあこれ、食べてもいいかな?」
作り笑いで首を傾げ、断りの文句を口にしてみるあたし。よしこりゃ完璧だ、と内心にやつくあたしの目の前。王子が、手にしているのは。
「あ、あたしのマカダミアナッツチョコ!?」
「ミワコが持ってきた箱、あったでしょう?それの中一応点検してみたら、これは食べ物だったみたいだから」
異世界のお菓子か、楽しそうだね、なんて包みを破ろうとするその手に、あたしは涙目でしがみついた。
それハワイ土産なんだよ!!日本で買えるか分からないんだよ!!食べちゃ駄目、駄目ったら駄目ー!!ふるふると首を振って、ぎゅっとラルディアさんの腕に抱き付いて、自分に出来る最大限のお願いポーズ。その青い瞳を見つめると、彼はしばらくして、目を細めて甘く笑った。
「――ミワコ、君今時間あるかい?」
片手に持った箱が、上下に振られる。つるつるのビニールが月光できらめくのを見ながら。
「……あい」
あたしはただ、通じないと分かっているのに上下に首を振るしか出来なかった。
* * *
「はい、どうぞ」
「……ありがとうございます」
人質(物質?)を取られ、ラルディアさんの後ろをのろのろ着いて行った。しばらく歩いて着いた先は、階段をいくつか昇った屋上のようなところ。煉瓦造りの壁が反射して、淡く光る。その真ん中に誂えられた白いテーブルと椅子に促され、腰掛けるとすぐにティーカップとソーサー、お茶を出してくれた。昼間に出されたものより、もっと甘い香り。特徴的な香りに、ふとキャラメルを思い出した。ラルディアさんの笑顔に促されるように紅茶を口に含むと。
「美味しい!!」
一口、二口。飲めば飲むほど、味が深くなっていく。飲む前には甘ったるさすら感じたのに、実際口に含んでみれば花のようなふんわりとした香りになる。夢中になって飲むあたしに、ラルディアさんはにこにこしている。
「気に入った?」
「はいっ。お代わりしたいくらい」
「どうぞ、好きなだけ」
その言葉に甘えて、空のカップをラルディアさんに渡す。するとポットから彼が直接注いでくれた。不思議に思い、首を傾げる。
「……あれ、これラルディアさんが淹れたんですか?」
「そう。魔法薬を作る時、色々香草が余ったりしてね。勿体ないから、こうしてお茶にしているんだ」
「へぇ」
魔法薬ね。一発で脳内変換出来ちゃう自分が若干空しい気もするけれど、結果オーライということで。それにしても、美味しい。基本的にお茶は砂糖とか入れないと飲めなかったんだけど、この世界のお茶はぐいぐい行けちゃう。何て言うんだろうな、喉に引っかからないすっとした喉越し?……お酒のキャッチフレーズのようだ……。
「……ぶっ」
だけど、あたしの真面目な思考は空気が抜けるような音に遮られた。ぱちくり、と音がした方向を見やる。するとラルディアさんが、口元を押さえて、震えていた。なんか、見覚えあるような。
思わず半目になってしまうあたしに、ラルディアさんは目元の涙をぬぐった。潤んだ瞳はすごい破壊力。この場に女の人いたら卒倒しちゃうんじゃないの?
「ミワコ、君、表情ころころ変わるね……っ」
「……お褒めに預かり光栄ですぅぅ」
考えてること駄々漏れの顔と昔から言われましたとも。どうせ考え込んで変な顔してたんでしょうね。ラルディアさんの美麗すぎるご尊顔に比べりゃ、ちんくしゃですよあたしは!!
ぶすっと唇を尖らせれば、ラルディアさんは一口お茶を飲み、テーブルに肘をついてあたしの顔を覗き込む。観察されるような視線が気にいらなくて、じっと睨んでみた。そうすれば、二重の涼やかな目は静かに細まる。
「ミワコは、変わらないね」
「変わる、って何がですか」
この世界に来てまだほんの数時間、いきなり精神異常でも起こす人が多発してるのか?首を傾げるあたしに、ラルディアさんは笑いながらため息を吐いた。……そのため息は馬鹿にされてる気がします。
「王族って聞いたり、僕の顔を見て態度が変わる人間は多いからね。異世界人だろうと、この世界の人間だろうと。だから、初めてなんだよね。そんな風に反抗心剥き出しで、抵抗する人間は」
――そういうことか。
本当に不思議そうに言うその姿に、顔を顰めた。そりゃ、王族ってこっちの世界でも偉い人って言うイメージは共通だからびびるよ確かに。ラルディアさんはすごい整った顔立ちなのは異世界人のあたしでも分かる、女性なら大量に寄って来るでしょうね。それでも。
「あたしは、あなた達セルディア王族がどんな立派なことをしてきたかも知らないもの。あなた達を敬わなければいけない理由は、ない」
日本は無宗教なんだぞ!!天皇だろうがイギリス王族だろうが、本人にその気がなければ敬わなくてもいい。あたしは一般ぴーぷるだからそんな人に会うこともないだろうし、だったらそんなの自由だと思う。異世界だと言うのならば、尚更。……ラルディアさんに関しては最初の人をおちょくった態度があまりに気に食わないからなんだけど。
「それにラルディアさん、王子だし今は別に国の政権とかに関わってないでしょ?だったら別にラルディアさん本人は偉くないじゃない。王族だろうと関係ないよ」
ふ、と屋上の下を覗いてみる。ここは多分、お城なんだろうな。広い敷地の外に広がるのは、無数の小さな家々。暗闇に紛れて見えない向こうには、きっともっと広い土地が広がっている。それらが全て、この人達のものだとしても。
「王が存在するのは、国民がいるからでしょ?それでその王も人間、つまり国民の一人。人間みな平等、だよ。あたしがこっちの世界で生きていくために、確かにラルディアさん達の力は必要だろうけれど、勝手に呼び出したのそっちなんだから責任取るの当たり前じゃない?今更取り繕ってゴマする必要もないでしょ」
……そりゃ、まぁ万が一の場合はゴマすることも考えたけど。身分保証されてるのが分かったんだもん、言いたいことくらい自由に言わせてよね。
言うだけ言ってさっぱりしたあたしに、彼はあたしが笑顔以外で見る、初めての表情を見せた。きょとんと目を見開いた、驚いた顔。そうすると、途端に彼の雰囲気も少年みたいに見えてくる。西洋系の顔の作りだから詳しいことは分からないけれど、それにしたって二十代、前半くらいじゃないかなぁ。
しばらく黙った彼は、不意に目元を手で覆って、小さく笑った。
「……そうだな、全く。ミワコの言う通りだ」
ふ、と優しく目元を和ませる。何だかその表情に、すごくほっとした。こっち来てからラルディアさんの笑顔ばかり見て来たけれど、何だかあまり色、っていうのかな。生気と言うか、とにかく人間味がなかったんだよね。笑顔だけって言うのも、変な話だしね。人間て、喜怒哀楽あって成り立つもんだ。やっとバリケードを外してくれたのか、素直なその笑みに安心してあたしも笑みを返した。
気付けば、カップはもう空っぽ。笑顔で、ラルディアさんに差し出す。
「ラルディアさん、もう一杯!!」
「ああ、どうぞ。もう今日はこれで終わりなんだ」
「あ、そうなの?十分だよ、ありがとうございます」
「いいえ」
少し温くなったお茶を飲み干すと、ラルディアさんは指パッチンでポットやカップなど、全て消してしまった。移転の術で、厨房に片しただとか。……魔法って、人を堕落させる気がする。
その後は部屋まで送ってもらった。ちなみに、クローゼットの中の服について尋ねると「ミワコの好きにしていい」と言われた。お言葉に甘えることにする。スーツケースはしばらく調査するために、あたしの元に戻って来ないらしいし。
「じゃあ、ありがとうございました」
ぺこり、部屋の前で頭を下げる。予想以上に遠出したらしい、戻って来るのに十五分は掛かった気がする。一人じゃ帰れなかったよ、これ絶対。素直にお礼を言ったあたしに驚いたのか、ラルディアさんは目を丸くして、すぐにニッコリ微笑んでくれた。……うーん?なんか、その笑みちょっと怖いな。まるであの玩具発言した時のような、隙がない感じで意地悪な――。
「ああ、それじゃあ良い夢を、ミワコ」
「え、あ、はい。……おやすみなさい」
だけどあたしの疑問が解消される前に、彼はあっさり踵を返し、暗い廊下を足音をさせながら戻っていた。とりあえず、足音が聞こえなくなるまで見送り、部屋に戻る。サンダルを脱ぎ捨て、大きなベッドにダイブして、目を瞑った。
今日は疲れたなぁ。飛行機乗ったし、異世界トリップしちゃったし、散歩もしたし。とりあえず、ゆーっくり眠ろう。
――なんて、能天気に考えていたあたしは気付かなかった。
あの性悪王子が何故あたしをお茶会に誘ったのか、あんなにお茶を勧めたのか、あんな風に笑ったのか。
あたしがこの夜の意味に気付くのは、ずっと後になってから、だったんだけど。




