最終話 選択
春の気配を孕んだ風が、街角を吹き抜ける。
ふわりと、鼻をくすぐったのは、甘くて香ばしい生地の焼ける匂い。
「……クレープ」
その言葉が、無意識に唇から溢れた。
道端のワゴン車。並んでいる親子連れ。それを見た瞬間、胸の奥がひどく疼いた。懐かしいような、それでいて泣き出したくなるような、強烈な既視感。
落ち着かない心地でポケットに手を入れると、指先に硬い感触が触れた。取り出したスマホの端には、薄汚れた犬のストラップが揺れている。
――これ、リョウに似てると思って。
脳裏に、無愛想で、けれど心地よい少年の声が響いた。
一瞬、視界が歪む。
俺はこのストラップを、誰かに選んでもらった。誰かと一緒に笑いながら、このクレープを食べた。
その「誰か」の輪郭が、霧の向こうから急速に形を成していく。
「帰らなきゃ……」
衝動に突き動かされるまま、俺は走り出した。
一度も「自分の場所」だと思えなかった、あのガランとした家へ。
玄関の鍵を開け、一歩足を踏み入れた瞬間だった。
冷たい廊下。広いリビング。
それらが、一変して鮮やかな色彩を放ち始める。
視界に重なるのは、あの朝の風景。
キッチンで不器用にレタスを千切る、白い指先。
エプロンの紐を結んでやった時に触れた、確かな背中の温もり。
「宇宙一美味しい」と笑い合った、あの日曜日の静かな光。
『ずっとそばにいて。ユイト』
『……当たり前だろ』
記憶の決壊だった。
自分がヒーローだったこと。世界を救うために、あの公園で最悪の嘘をついたこと。
彼を傷つけ、絶望の底に突き落としてまで、俺が守りたかったもの。
「ユイト……!」
すべてを思い出した。
俺が命を懸けて繋ぎ止めた未来に、一番大切なあいつがいないなんて、そんなこと許されるはずがない。
記憶喪失という名の「安寧」に浸っている暇なんて、一秒もなかったんだ。
俺は再び、玄関を飛び出した。
肺が焼けるような熱さを訴え、足がもつれそうになっても、止まるわけにはいかなかった。
あの子は今、どこで、どんな顔をして空を見上げているだろう。
俺が遺した「明日」を、あの子はどんなに寂しい思いで歩いているだろう。
「ユイト……今、行くから!」
春の嵐のような風を切り裂き、俺はただ一人の少年の名を叫びながら、かつて二人で歩いた道をがむしゃらに駆け抜けた。
***
放課後の教室は、驚くほど静かだった。
部活動へ向かう生徒たちの喧騒や、遠くから聞こえる吹奏楽部の音色。それらすべてが、厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように感じられた。
俺は、いつものように窓際の席に座り、ただ流れる雲を眺めていた。
隣の席は、もうずっと、空席のままだ。
あの日、リョウが俺に投げつけた言葉の刃を、今も鮮明に覚えている。
『君にはわからないよ。……世界を背負って戦うことが、どれだけ孤独で、どれだけ重いか』
あんなに優しかった瞳を冷酷な色に染めて、俺の心を抉ったリョウ。
本当は、わかっている。
あれは、嘘だった。
俺を日常に留めておくための、あいつなりの、最後の、残酷すぎる「お守り」だったんだ。
わかっている。あいつは、俺を守るためにあんな言葉を吐いたんだ。
けれど、わかっていることと、耐えられることは別だった。
視界が熱い膜に覆われ、世界が歪んでいく。一度溢れ出した熱は、もう止まってはくれなかった。
「……っ、……う」
喉の奥をせり上がってくる嗚咽を、握りしめた拳で無理やり押し込める。けれど、抑えれば抑えるほど、心臓が爆発しそうなほどの悲鳴を上げた。
あいつは今、どんな傷を負って、どんな場所で誰にも知られず消えようとしているのだろう。
世界がこんなに平然と、昨日と同じ顔をして回り続けているのが、吐き気がするほどに恐ろしかった。
「リョウ……っ、リョウ……!」
名前を呼んでも、帰ってくるのは西日に照らされた埃が舞う音だけだ。
ヒーローだなんて、そんなのどうでもよかった。
俺が欲しかったのは、ただ、明日も明後日も、この隣の席でリョウがくだらない冗談を言って笑っている、そんな当たり前で、ちっぽけな未来だけだったのに。
俺は、あまりにも無力だった。
あいつがひとりぼっちで血を流していた時、俺はただ安全な場所で、何も知らずに弁当を食べていた。あいつが命を削りに行く時、俺はただ、行かないでと縋ることさえできずに立ち尽くしていた。
「頑張って」なんて言えるはずがない。それはあいつに「死んでこい」と言うのと同じだ。かと言って「行かないで」と引き止める強さも、俺にはなかった。
机に突っ伏した腕の中に、顔を埋める。
嗚咽が、もう制御できないほどの塊となって溢れ出した。
「あああああ……っ、う、ああああ!」
声を殺すことさえ忘れて、俺は子供のように泣きじゃくった。
鼻水を啜り、涙で袖をびしょびしょに濡らしながら、もうここにはいない体温を求めて身体を丸める。
どれだけ強く願っても、どれだけ神様に祈っても、俺の細い腕ではあいつを戦場から引き戻すことなんてできなかった。
リョウ。
君を救えない俺は、君のいない世界で、どうやって息をすればいい。
たった一人の好きな奴すら守れない、この両手が、情けなくて、惨めで、どうしようもなかった。
夕闇が迫る教室で、俺の慟哭だけが、出口のない絶望みたいにいつまでも響き続けていた。
――バァンッ!!
静寂を切り裂くように、教室の扉が勢いよく開け放たれた。
驚いて顔を上げると、そこには肩を激しく上下させ、ボロボロに乱れた服で立ち尽くす一人の少年がいた。
「ハァ、ハァ……っ、ユイト……!」
聞き間違えるはずのない、透き通った声。
逆光の中に立つそのシルエットを、俺は夢を見ているような心地で見つめた。
「……リョウ?」
名前を呼ぶと、あいつは崩れ落ちるように歩み寄り、俺の目の前で立ち止まった。
「……ごめん。本当に、ごめん……ユイト」
リョウは掠れた声で、絞り出すようにそう言った。震える手が、俺の頬をそっと撫でる。
「あの時は、あんな酷いこと言って……。君を傷つけなきゃ、突き放さなきゃ、死なせてしまうと思った。君を捨てるような真似をした……。本当に、最低だ」
溢れ出す言葉と一緒に、リョウの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。俺の机を濡らすその雫は、確かに熱を持った人間のものだった。
「もう……終わったんだ。戦いも、ヒーローとしての俺も、全部。……ただの、自分勝手なリョウに戻ったんだ。ユイト、君に嫌われても仕方ないって思ってた。でも……どうしても、一目だけ、君に……」
リョウの言葉を、俺は最後まで待てなかった。
怒りなんて、一欠片も湧いてこなかった。ただ、目の前にあいつがいる。冷たい記憶の残骸じゃなくて、今、俺を呼ぶ声がある。その奇跡に、胸の奥が震えて、熱くて、どうしようもなかった。
「……っ、うあ……!」
俺は椅子を蹴るようにして立ち上がり、リョウの細い身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。
ボロボロの制服からは、戦いの煤と、あいつが必死に走ってきた春の風の匂いがした。
「リョウ、リョウ……! よかった……生きてて、よかった……!」
「ユイト……怒ってないの……?」
「怒るわけないだろ……! バカ、バカ……! 勝手にいなくなって、勝手に終わらせて……俺、怖かったんだぞ……!」
俺はリョウの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。さっきまでの、絶望に満ちた孤独な涙じゃない。冷え切っていた世界に、ようやく体温が戻ってきた喜びの涙。
リョウも、俺の背中に腕を回し、しがみつくように力を込めた。
「ユイト、これからずっと、俺のそばにいてくれる?」
囁かれたその言葉に、俺は一度顔を上げて、涙でぐちゃぐちゃのままあいつを見つめた。
「……俺、リョウに何もしてやれなかった。……隣で泣くことしかできなかったんだぞ。それでも、俺でもいいのかよ」
情けない。ヒーローだったあいつの隣に、ただの民間人の俺がいていいのか、今さらそんな不安が口をつく。
けれど、リョウは困ったように、けれど今日一番の優しい笑顔で笑った。
「俺は、ユイトがいいんだ。……ユイトがいなきゃ、俺は、俺に戻れなかった。俺には、君が必要なんだ」
放課後の教室。夕焼けが、抱き合う二人の影を長く、一つに溶かしていく。
今日が最期になるかもしれないと怯えた日々は、もう終わった。
これからは、ただの少年として。
当たり前の明日を、二人で数えていくんだ。




