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二十二話 お化け屋敷

 メイド喫茶という名の異界を命からがら脱出した俺を待っていたのは、さらなる試練だった。

 三組が営むお化け屋敷『旧校舎の神隠し』。入り口は黒いビニールシートで無造作に覆われ、そこから漏れ出す不気味な読経のBGMが、廊下の喧騒を塗りつぶしている。

 

「……リョウ。やっぱり、やめないか。ほら、あっちで吹奏楽部の演奏が始まるみたいだし」

「えー、せっかくここまで来たのに?」

 

 リョウは並んでいる列の中で、楽しげに俺の顔を覗き込む。

 俺は、幽霊の類が死ぬほど苦手だ。虚構だとわかっていても、生理的な恐怖を煽ってくる。

 リョウは俺が小刻みに震えているのに気づいているのか、いないのか。やがて俺たちの番が回ってきた。

 

「二名様、ご案内しまーす。中は暗いので足元にご注意くださいね。……あと、内装は壊さないでくださーい」

 

 受付の男子生徒が投げやりに告げ、ビニールシートを跳ね上げた。

 一歩踏み出した瞬間、視界が奪われる。

 窓をすべて塞がれた教室は、昼間だというのに完全な闇に包まれていた。古い埃と段ボールの匂いが微かに漂う。


 足元から冷気が這い上がってくるような錯覚に陥り、俺は思わず足を止めた。

 遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。バタン、と何かが倒れる音。その一つひとつが、俺の心臓を鋭く突き刺す。

 

「ユイト? 大丈夫?」

 

 前を歩いていたリョウが振り返った。暗闇に目が慣れてくると、彼のシルエットがぼんやりと浮かび上がる。リョウの声は落ち着いていて、どこかこの状況を楽しんでいる余裕すら感じさせた。

 

「だ、大丈夫。ただ……ちょっと、暗いだけ」

「ふーん。……ねえ、手、繋ごっか?」

 

 リョウがさらりと、呼吸をするような自然さで提案してきた。

 差し出された彼の手。それを握れば、この心細さから解放されるだろう。温かくて、強くて、安心できるリョウの手。

 けれど、俺の中のちっぽけなプライドが、それを拒んだ。

 

「いい……」

「え、本当に? 結構怖いよ、ここ」

「……俺だって、男だ。これくらい、一人で歩ける」

 

 強がって、リョウの脇を通り抜けようとした、その時だった。

 

 ギシャアアアアアッ!!

 

 足元のロッカーが突如として激しく揺れ、中から血塗れの白い手が飛び出してきた。

 同時に、天井から冷たい糸のようなものが頬をかすめる。

 

「ひ、あ……っ」

 

 情けない悲鳴が漏れた。腰が抜けそうになり、俺は無意識に隣にいた「何か」にしがみついた。

 

「……ふふっ。一人で歩けるんじゃなかったの?」

 

 頭の上から、堪えきれないといった風の笑い声が降ってくる。

 俺が必死に掴んでいたのは、リョウの腕だった。それも、かなり強く。

 

「……う、うるさい。今のは、不可抗力ってやつだ」

「はいはい。じゃあ、びっくりしないように、俺が捕まえててあげる」

 

 リョウの手が、迷うことなく俺の手を探り当てた。

 指の間を滑り込み、深く、強く指を絡める「恋人繋ぎ」。

 お泊まり会の夜、何度も触れそうで触れなかった距離が、この暗闇の中で呆気なく埋まる。

 

「……リョウは、お化けとか怖くないのかよ」

「俺? ……うーん、本物に比べたら、クラスメイトが頑張って塗った白粉なんて、可愛いものだよ」

 

 リョウは笑いながら、俺の手を引いて歩き出す。

 彼の掌は驚くほど温かかった。そして、少しだけ汗ばんでいる。

 その湿り気が、彼が最強のヒーローではなく、ただの「緊張している男子高校生」であることを俺に教えてくれる。

 

「それにね、ユイト」

「……なんだよ」

「こうして暗闇の中を歩いてると、なんか不思議な気分にならない? 世界に、俺たち二人しかいないみたいで」

 

 リョウの言葉に、心臓が跳ねた。

 仕掛けのお化けが飛び出してくるたびに、俺はリョウの手に力を込める。そのたびに、彼は優しく握り返してくれた。

 暗闇は恐ろしいはずなのに、リョウと繋がっている右腕だけが、熱を持っているように熱い。

 

 出口の光が見えてきた頃、俺は少しだけ、この暗闇が終わってほしくないと思っている自分に気づいた。

 外に出れば、また「ヒーロー」と「民間人」に戻ってしまう。

 誰の目も届かないこの段ボール迷路の中だけが、俺たちがただの少年同士でいられる聖域だった。

 

「……あ」

 

 最後、ゴール地点で待ち構えていた、落武者コスをした先生の猛追を振り切り、俺たちはまばゆい光の差す廊下へと飛び出した。

 一気に押し寄せる喧騒と、焼きそばのソースの匂い。

 

「ははっ、ユイト、顔が真っ青だよ。そんなに怖かった?」

「……まぁ、クオリティは申し分なかったな」

 

 俺は慌てて、繋いでいた手を離した。

 急に冷たくなった右手が寂しくて、俺はそれを制服のポケットに隠す。

 

「でも、楽しかったね。……守ってあげられたかな」

 

 リョウが眩しそうに目を細めて笑う。その瞳の奥には、お化け屋敷の暗闇よりも深い、何かを見据えるような光があった。

 

「……ああ。助かった」

 

 俺は小さく答えた。

 守られたのは、幽霊からじゃない。

 この不安定な世界で、独りぼっちになるという恐怖から、俺は彼に救い出されたのだ。

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