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十九話 できること

十九話 できること

 二人で並んで食器を洗う。俺は水気を拭う係だ。

 

 次の食器を受け取ろうと手を伸ばした時、リョウの手がぴたりと止まった。

 洗剤の泡がついたままの指先が、微かに震えていた。

 

「……リョウ?」

 

 声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。さっきまで溶けるように笑っていた瞳には、もう俺の知らない「戦士」の光が宿っている。

 窓の外、どこまでも青く澄んだ空を、リョウは睨みつけるように見つめていた。

 

「ごめん。……行かないと」

 

 リョウの声は低く、どこか遠い場所から響いているようだった。彼は急いで手を拭い、リビングに置いていたジャケットを羽織る。

 

「漫画読んでてもいいし、ゲームしててもいいし。……棚にお菓子入ってるから、お腹空いたら食べて。好きにしてて大丈夫だからね」

 

 矢継ぎ早に言葉を並べるリョウの背中が、みるみるうちに小さくなっていく。

 俺が「行かないで」と言う権利がないことなんて、わかっていた。彼が行かなければ、誰かが死ぬ。彼が行かなければ、この平和な朝食さえ存在し得なかった。

 

「リョウ……!」

 

 玄関に向かう彼の背中に、俺は声を絞り出した。リョウは足を止め、振り返らずに片手をひらりと振る。

 

「すぐ戻るから。……待ってて」

 

 重厚な扉が閉まる音が、静かな家の中に冷たく響き渡った。

 リョウが去った後の部屋には、まだ焼き立てのパンの香りと、さっきまで隣にあった確かな体温が残っている。それなのに、世界から色が抜け落ちてしまったかのような喪失感に、俺は立ち尽くすことしかできなかった。

 

 そらからの時間は、永遠のように長かった。

 リョウに言われた通り、本棚から適当な漫画を取り出してページを捲ってみる。けれど、文字は滑り、物語は一切頭に入ってこない。

 ゲームの電源を入れても、コントローラーを握る手が汗ばんで、すぐに消した。

 時計の針が刻む音が、まるでカウントダウンのように聞こえる。

 窓の外が、朱色から群青色へと染まっていく。街に灯りが点り始め、夜の帳が下りる頃、家の中は押し潰されそうなほどの静寂に支配されていた。

 

 ――あいつは、今、どこで傷ついているんだろう。

 ――あいつが守ろうとしている「誰か」の中に、俺は含まれているのだろうか。

 

 キッチンの椅子に座り、俺はただ玄関の扉を見つめ続けていた。

 リョウが一人で暮らすこの家で、彼はいつも、こうして戦いから帰る自分を待ってくれる「誰か」のいない時間を過ごしてきたのだろうか。

 そう思うと、胸が締め付けられるように痛んだ。冷たい廊下、広いリビング。そこにある静寂は、彼がヒーローであるために支払ってきた代償そのものだった。

 夜の八時を過ぎた頃、ようやく、待ち望んでいた音が聞こえた。

 ガチャリ、と鍵が回る音。

 

「リョウ!」

 

 俺は椅子を蹴るようにして立ち上がり、玄関へと駆け出した。

 そこに立っていたのは、ボロボロになったジャケットを肩にかけ、壁に寄りかかるようにして立つリョウだった。

 

「ごめん。……少し手こずっちゃって、遅くなっちゃった」

 

 無理に作ったような笑顔。けれど、その頬には血が滲み、制服の袖は無残に裂けている。リョウは左腕を庇うようにして、一歩、一歩と重い足取りでリビングへ入ってきた。

 

「今、手当てを……」

「いいよ、自分でできるから。……慣れてるし」

 

 リョウはソファに腰を下ろすと、救急箱を取り出し、慣れた手つきで傷口を消毒し始めた。

 剥き出しになった肩には、新しい裂傷のほかに、いくつもの古い傷跡が重なっている。彼は眉間に皺を寄せながら、一人で自分に包帯を巻き、止血していく。

 俺は、その光景をただ見ていることしかできなかった。

 消毒液のツンとした匂いが、朝のパンの香りを完全に消し去っていく。

 

 世界を救って帰ってきたヒーローに、俺がしてあげられることは何もない。

 レタスを千切ることさえ「重要な任務」だと笑ってくれたあいつに、俺は何一つ返せていない。

 

 こみ上げてくるのは、怒りにも似た無力感だった。

 なぜ、あいつ一人がこんな傷を負わなければならない。なぜ、俺はあいつの痛みを代わってやれない。

 

「……何か、俺にできること」

 

 気づけば、声が震えていた。

 

「俺、なんでもするから。リョウが楽になれるなら、俺、なんだって……っ」

 

 溢れそうになる涙を堪えてリョウを見つめる。

 すると、リョウは手当てをしていた手を止め、ふっと力を抜いた。

 

「ユイト」

 

 名前を呼ばれた瞬間、俺の体は強い力で引き寄せられた。

 リョウの、鉄と血の匂いが混じった腕が、俺の背中に回される。

 

「な、何して……傷が……」

「いいから。……こうさせて」

 

 リョウの顔が、俺の肩に深く埋められる。

 ヒーローとして化け物を屠るその肩が、微かに震えているのが伝わってきた。

 

「ありがとう、ユイト。……君がそこにいてくれるだけで、俺は、まだ人間でいられるんだ」

「リョウ……」

「何もできなくていい。何かをしようとしなくていい。……ただ、ずっとそばにいて。それだけでいいんだ」

 

 それは、助けを求める子供のような、切実な願いだった。

 俺は、戸惑いながらも、彼の背中に手を回した。ヒーローとしての鎧を脱ぎ捨てた、驚くほど細くて、温かい少年の背中。

 

「……当たり前だろ」

 

 遠くでサイレンの音が鳴り響いている。

 明日になれば、彼はまた傷つきに向かうのだろう。今日が人生の最期になるかもしれないという恐怖を、笑顔の下に隠して。

 けれど、今この瞬間だけは。

 消毒液の匂いが消えるまで、俺たちはただの高校生として、互いの鼓動を確かめ合った。


***


 玄関の扉を開け、日常へと戻る俺の背中にリョウの声が届く。

 

「また明日、学校でね」

 

 その「また明日」という言葉が、世界で一番尊い祈りのように、俺の胸に深く刻まれた。

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