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十七話 朝食

 赤色に染まる瞼の裏。ほのかな温もりを感じて、薄く目を開く。

 ──眩しい。

 まだ薄暗い部屋。カーテンの隙間から漏れ出した朝日が一際明るく、シルクのように揺れている。

 狙い撃つように俺の顔を照らし、優しい声で「起きろ」と囁いている。

 俺はゆっくりと上体を起こした。

 

 霧がかかった意識が徐々に晴れていく中で、規則正しい寝息を察知する。

 俺に鍵をかけていた腕は安らかに弛んでいるが、庇うように伸ばされた腕には確かに俺を抱いていた名残があった。

 小さく首を傾け、リョウの寝顔を見る。


 ずっと、ここにいたんだな。

 

 伏せられたまつ毛は長く、人形のように思えた。

 大人びた顔立ち。自立した生活。なのに、寝顔にだけは無防備なあどけなさが宿っている。

 ずるい。小鳥が囀った。


 ──リョウ。


 起こそうとして出かかった声を押さえつけた。

 せっかく心地よさそうに寝ているのだ。起こすことはないだろう。


 俺は物音を立てぬよう息を殺してベッドを抜け出した。

 リョウの腕が行き場を求めるように伸びて、力なく落ちる。

 乱れた掛け布団を直す。心なしか、リョウの表情が綻んだ気がした。


 リョウが起きるまでの間、何をしようか。

 部屋の扉を静かに閉め、息を吐く。

 剥き出しになった木の床が冷えているのを、足の裏が触知した。


 一人で歩く廊下は、底冷えがした。

 昨夜、リョウと一緒に歩いた時は気づかなかった。彼が隣にいるだけで、この広すぎる屋敷の空気がどれほど体温を帯びていたのかを。

 足の裏から伝わる木の冷たさが、そのままリョウが積み上げてきた時間の冷たさに思えて、胸の奥がちりと焼ける。

 彼は、ずっと一人でこの静寂を飼い慣らしてきたのだ。


 その思考が胸に落ちた瞬間、視界の端で爆ぜるものがあった。

 突き当たりにあるリビングの大きな窓。そこから差し込んだ朝光が、磨かれた床に反射して、暗い廊下を一気に白く塗り潰していく。

 

 眩しさに目を細めた。

 永遠に続くかと思えた無機質な空間に、確かな温度を持った「光の道」が敷かれた。

 

 その光に導かれるように、俺は一歩を踏み出す。

 ただ守られているだけじゃ嫌だ。傷だらけで帰ってくるあいつの、その痛みを半分こにすることはできないけれど。

 でも、冷え切ったこの家に、少しだけ熱を灯すことならできるかもしれない。

 

「……朝ごはん」

 

 独り言が、静かな廊下に溶けた。

 リョウが用意してくれた、あの温かい湯気。

 あいつが目を覚ました時、食卓に何かが並んでいたら。俺が昨日感じたような「独りじゃない」という実感を、あいつにも手渡せるだろうか。

 俺は袖を捲り上げた。

 料理なんて、母さんの手伝いで野菜を洗ったことがある程度だ。包丁の握り方だって怪しい。

 それでも、胸の奥は不思議と高鳴っていた。

 

 冷蔵庫を開けると、整然と並ぶ食材たちが俺を待っている。

 あいつを驚かせたい。

 あいつの「美味しい」という笑顔が見たい。

 

 ただそれだけの、身の程知らずで切実な願いを込めて。

 俺は、リョウの聖域であるキッチンを、そっと足を踏み締めた。


 冷蔵庫から取り出した卵は、手のひらでひんやりと主張していた。

 目玉焼き。朝食の定番だ。これなら俺にもできるはずだ、と自分に言い聞かせる。

 コンロの火を点けると、青い炎が静かにシュンと音を立てた。フライパンが温まるのを待つ間、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。

 

 まずは、卵。

 卵かけご飯を作る時と同じだ。俺はフライパンの縁でコン、と軽くヒビを入れた。

 ……よし。

 片手とはいかないが、殻を混ぜることなく、透明な海の中に鮮やかな黄色い月を落とすことができた。ジュワッ、と小気味よい音が弾ける。ここまでは完璧だ。

 

「……あ、そうだ。水だ」

 

 ふと、母さんが台所に立っていた後ろ姿を思い出した。

 確か、蓋をする前に水を入れていたはずだ。そうすれば蒸気でふっくら仕上がるのだと、いつか聞いた気がする。

 俺はシンクへ向かい、コップに水を注いだ。

 どれくらい入れればいいんだろう。

 

 少なすぎて焦げ付くのが一番怖い。リョウの大切なフライパンを台無しにするわけにはいかないのだ。

 確信が持てないまま、俺は「念のため」とコップ一杯になみなみと水を溜めた。

 

「……これくらい、かな」

 

 意を決して、フライパンに水を流し込む。

 その瞬間、激しい破裂音がキッチンに響いた。

 バチバチッ! と熱い油が跳ね、慌てて顔を背ける。

 恐る恐る中を覗き込むと、そこには想像していた「ふっくらした目玉焼き」の姿はなかった。

 

 溢れんばかりの水の中で、せっかくの卵がバラバラに解け、無残に泳いでいる。

 白身は白く濁ったスープのようになり、黄身は勢いに押されて端の方で寂しげに浮いていた。

 焼くというより、もはや「得体の知れない煮物」だ。

 

 火を強めれば水分が飛ぶかもしれない。そう焦って強火にしたのが追い打ちをかけた。

 激しく泡立つ濁った水。やがて水分が蒸発し始めた頃には、フライパンの底で無惨に固まった「何か」が、無慈悲な焦げ茶色に変色し始めていた。

 香ばしいはずの香りは、鼻を突くような焦げ臭さに変わる。

 俺の期待も、リョウを喜ばせたいという願いも、真っ黒な煙の中に消えていった。

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