十話 要領
「ここ、次のテストに出るからな」
このワンフレーズを、今日だけで何回聞いただろうか。
使い古された脅し文句が、乾燥したチョークの粉と一緒に教室の空気に溶けていく。
定期テスト一週間前。
いつもなら放課後のチャイムと同時に飛び出していく連中も、今日ばかりは机にかじりついている。部活動が休止になった静かな廊下には、どこかピリついた、けれどどこか浮ついた独特の湿り気が充満していた。
「あー……無理。もう脳みそが扇状地になって流れていく……」
隣の席から、地を這うような情けない声が聞こえてくる。
見れば、リョウが教科書に顔を埋めるようにして突っ伏していた。世界を救うはずのヒーローの背中が、今は数学の微積分の前に完敗を喫している。
「……何が扇状地だよ。それ地理だろ、今は数Ⅱ」
「どっちでもいいよ、もう。ユイトぉ……助けて……」
リョウが縋るような目でこちらを見てくる。その視線の先、机に置かれたリョウのスマホには、俺が贈ったあのレザーストラップが揺れていた。
テスト勉強。それは、特殊な力を持っていても避けられない、学生という身分が課す残酷な現実だ。
「目標があったら頑張れると思うんだよね……そうだ。テストの順位で勝負するっていうのはどう?」
突拍子もない提案に、俺はノートを捲る手を止めた。
リョウはシャープペンシルを指先で器用に回しながら、悪戯っぽく片目を瞑ってみせる。
「……勝負?」
「そう。負けた方は勝った方の言うことを一個だけ、なんでも聞く。どう? 燃えるでしょ」
なんでも聞く。その言葉の響きに含まれた、ほんの少しの危うさと幼さに、俺の心臓が不意に跳ねる。
こいつのことだ。どうせ「購買のパンを買ってこい」だとか「次のノートも写させろ」だとか、そんな下らないことを要求してくるに決まっている。いや、あるいは……もっと、俺が想像もできないような『おねがい』をされるのだろうか。
「……いいけど。後で泣き言言うなよ」
「言わない言わない! よーし、がぜんやる気出てきた。目指せ、打倒ユイト!」
リョウはそう宣言すると、さっきまでの死にそうな顔が嘘のように、猛然と問題集に向かい始めた。
現金な奴だ。けれど、その横顔には、普段の「ヒーロー」として戦う時の険しさはどこにもない。ただの、負けず嫌いなクラスメイトの顔だ。
俺は視線を自分の参考書に戻したが、文字が上滑りしてなかなか入ってこない。
なんでも、言うことを聞く。
もし俺が勝ったら、俺は何を望むだろう。
「もう危ないことはしないで」なんて、そんな叶うはずのない約束を、俺はこいつに求めてしまうんだろうか。
俺は小さく息を吐き、熱くなった頬を隠すようにして、ペンを握りしめた。
「……負けないからな」
「受けて立つよ」
返ってきたのは、短く、けれど確かな決意を秘めた声だった。
静かな教室。ペンの走る音だけが、二人の間の新しい約束を刻んでいく。
「ねぇ、場所変えない? ユイトと二人っきりなら、もっと頑張れる気がする」
リョウはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
教室の喧騒を離れたいだけなのか、それとも言葉通りの意味なのか。あいつの真意を測りかねている俺を置いて、リョウは手際よく荷物をまとめ始める。
「ほら、昨日の敵はなんとやらって言うでしょ?」
言葉の使い方が絶望的に間違っている気がするが、それを指摘する間もなく、俺はリョウに連れ出されるようにして近くのファミレスへと向かった。
ドリンクバーのメロンソーダを一口飲み、俺はリョウの解いた数学のプリントを覗き込む。
「……お前、いつ勉強してんの?」
思わず、本音が漏れた。
学校生活を送り、ヒーローとして街を守り、その上でこの難解な数式の羅列を事も無げに解いていく。そんな時間がどこにあるというのか。
「うーん。暇な時、かな? 勉強は短時間で効率よくコツコツやる、がモットーなんだよね」
リョウはシャーペンをくるりと回し、俺が詰まっていた問題の余白に、サラサラと図解を書き加えた。
「ここはさ、公式を丸暗記するんじゃなくて、この座標の動きをイメージすればいいんだよ。ほら、こう動くから、答えは自ずと……」
「……あ」
一瞬だった。
何時間も頭を抱えていた霧が、リョウの数行の言葉であっさりと晴れていく。
教えてもらっている側なのに、胸の奥にチリリとした小さな痛みが走る。
リョウは要領がいい。
戦うときも、きっとこうして瞬時に最適解を見つけ出しているのだろう。
それに比べて俺は、あいつに何もしてやれないどころか、勉強ですら結局こうして助けられている。
「……ユイト? どうかした?」
リョウが心配そうに顔を覗き込んできた。
自分の不甲斐なさと、彼に対する淡い劣等感。けれど、それを悟られるのが癪で、俺はわざとらしくノートを自分の方へ引き寄せた。
「……別に。教え方が上手いから、納得しただけ」
「あはは、光栄だなぁ。じゃあ、次はこの英語の構文。これ、結構面白いよ?」
屈託のない笑顔。
眩しすぎるその隣顔を見つめながら、俺は「なんでも言うことを聞く」という賭けのハードルが、想像以上に高くなっていることを思い知らされていた。




