スノウマンの日
その日、会社の帰り道に、私はほんの出来心で、いつもと違う角を曲がった。
大通りの信号が妙に混んでいて、一本、裏に入れば早いだろうと思っただけだ。仕事鞄の重みが肩に食い込み、革靴の底が乾いたアスファルトを軽く鳴らしていた。空は、灰色に沈み、都会の夕暮れにしては妙に静かで、車の音だけが遠くで薄く反響していた。
曲がってすぐ、違和感を覚えた。風の匂いが変わったのだ。排気ガスと焼き鳥の煙が混じる、あの馴染みの匂いが消えて、代わりに湿った土と、古い木材の匂いが鼻に触れた。足元の感触も硬さを失い、砂を含んだ土のようにわずかに沈む。
私は、立ち止まり、振り返った。来た道が、もう見えなかった。ついさっきまであったはずの交差点の明かりが、闇に吸い込まれたように消えていた。背中に冷たい汗が浮かんだが、体は不思議と震えなかった。
昨年、オリオン座のベテルギウスが超新星爆発してから、世の中ではおかしな話が増えた。ニュースは最初こそ熱狂したが、数か月も経つと、天文の話は日常に埋もれた。その一方で、神隠しのような行方不明事件がじわじわ増え、やがて人々は「そういう事故もある」と受け流すようになった。学者の中には、爆発で大量に放出されたニュートリノが、時空の性質を変化させたのだと真顔で言う者もいた。私は、笑い話として聞いていたが、今は笑えない。
視界が開けた。そこには、どう見ても都区内とは思えない古い木造建築が並ぶ町があった。二階建ての商家が肩を寄せ合い、格子戸の影が雪面に長く伸びている。軒先には氷柱が垂れ、屋根は重い雪をかぶっているのに、崩れる気配がない。街灯は見当たらず、薄暗い夕闇が、町全体を均一に包んでいた。
雪が積もっていた。新雪が柔らかく光を吸い、私が踏み出すたびに、足首まで沈んだ。都区内でこんなに雪が積もることはないだろう。普通なら冷気が靴下を刺すはずなのに、寒さがない。薄いコートの襟を立てる必要もなかった。むしろ運動後のように体が温かく、頬に触れる風が心地よいくらいだった。
人影はなかった。犬の吠える声も聞こえない。看板はあるが、まるで生成AIが描いた謎文字のようだった。しかし、読めないはずなのに意味だけがぼんやり伝わってくる。ここは「宿」、ここは「湯」、ここは「米」。そんな気がした。
私は、歩きながら、自分に言い聞かせた。落ち着け。慌てるな。異界に迷い込んだら、パニックになって遠くまで行かず、あまり長くいなければ、大丈夫だという話しを聞いた。そう、そういう噂を、昼休みに同僚が話していたのを思い出した。冗談のように笑いながらも、皆どこか本気で怖がっていた。
路地が枝分かれしていた。どれも似ていて、どれも雪に覆われている。私は、一つを選んで進んだが、すぐに自分が輪の中を歩いているような感覚に襲われた。同じ格子戸、同じ軒、同じ曲がり角が、少しずつ角度を変えて現れた。町が私を回しているのか、私の頭が回っているのか分からない。
ふと、遠くで何かが落ちる音がした。木の実のような乾いた音だ。私は身をすくめたが、次に聞こえたのは笑い声でも足音でもなく、雪が静かに鳴る、きしりという音だった。
私は、歩くのをやめ、耳を澄ませた。すると、背後の雪面に、自分以外の足跡がないことに気づいた。私の足跡はまっすぐ続いているが、その両脇に、薄く丸いへこみが並んでいる。小さく、規則的で、まるで誰かが素足でそっと立った跡のようだった。
視線を上げると、屋根の縁に白い影が見えた。雪の塊が形を変えたような、子どもの頭ほどの丸いものが、じっと私を見下ろしている。目鼻はない。それなのに「見られている」と分かった。私は、喉がからからに渇くのを感じた。
「……すみません、通り道を間違えただけです」
そう口に出すと、白い影は、ふわりと溶けるように消えた。雪が、さらさらと落ちる音がして、軒先の氷柱がきらりと光った。私はその場を離れたくて、早足になった。逃げるのではなく、帰るために歩くのだと自分に言い聞かせた。
しばらく進むと、町は唐突に終わり、山の麓の小さな広場に出た。広場は白い平面で、雪に埋もれた石の縁だけが輪郭を示していた。中央には何もない。ベンチも噴水もない。ただ、雪と、薄い空と、山の黒い稜線があるだけだった。
ここまで来れば、出口が見つかるかもしれない。そう思ったが、どこへ引き返しても、同じ町並みが同じ角度で現れ、どこが来た道なのか確信が持てなかった。私は立ち尽くし、雪の匂いを吸った。空気は澄んでいるのに、胸の奥が重くなった。
そのとき、私はふと茶目っ気を出した。いや、茶目っ気というより、恐怖を誤魔化すために何かをしたかったのだ。手を雪に差し入れ、雪玉を作ってみた。割と水分を含む雪なのか、簡単に固めることができた。指先は冷たくならず、雪は、手の熱でほどよく締まっていく。私は思いついて、その雪玉を雪の上で転がした。面白いぐらいに雪玉は膨れて大きな球になった。
自分でも驚くほど夢中になった。現実から切り離された場所で、意味のある行為をしたくて、私は雪だるまを作ってしまった。胴体の球を作り、頭の球を乗せる。形が崩れないように雪を足し、撫でて整える。
「やれやれ、こんなのは小学校以来だな」
独り言が、白い空気に吸われた。私は、東北の田舎出身なので、冬は、雪かきの雪を使って、よく雪だるまを作ったものだった。
そう、子どもでもいれば一緒に遊べるのだろうが、中年の坂をだいぶ越えた安サラリーマンでは望み薄だ。私は、自嘲気味に息を吐き、雪の上に小さく笑った。
雪をかき分け、ちょうどよい大きさの小枝を掘り出した。仕事鞄に入ったままになっていたインキのペンのキャップで目鼻を作ると、それらしくなった。片方の目がほんの少し上がり、口元が丸くなる。なぜか、その顔が微笑んでいるように見えた。
私は一歩下がって、出来栄えを眺めた。広場の白の中に、妙に「いる」感じがした。雪の塊に過ぎないのに、誰かがそこに立っているように思える。
「うむ、良いできだ」
満足したが、このままこの異界にいるのも怖い。帰ることにした。私は雪だるまに声をかけた。
「じゃあな、またくるよ」
冗談のつもりだった。しかし、雪だるまの目が微妙に光った気がした。たぶん、気のせいだろうと思いつつ、来たはずの方向へ引き返した。歩き出して十数分、角を一つ曲がると、上手い案配に、知っている道に出た。信号の音が戻り、コンビニの明かりが滲むように見え、排気ガスの匂いが鼻を刺した。
私は、ほっとしつつ家路を急いだ。怖さが抜けると、急に寒さを覚えた。ぶるぶると震えて、体が現実に戻ったことを教えてくれる。
足早にマンションにたどり着き、オートロックをくぐると、エントランスに管理人さんがいた。いつも着物姿で、年齢不詳の美女だ。姿勢がすっと伸び、髪は艶やかで、肌は雪のように白い。なのに冷たい感じはなく、むしろ近所の親戚のような親しみやすさがあった。
彼女は、この賃貸マンションのオーナーでもあり、一番上の階で一人で住んでいるらしい。挨拶だけでなく、時折、世間話をする仲になっていた。私は、彼女の名前を知らないまま、なんとなく「管理人さん」と呼んでいた。
「あら、今日は、遅かったですね?」
彼女の声は、柔らかいのにすっと耳の奥まで通る。疲れがすっと取れるような気がした。
「え、あ……ほんとだ。異界は、時間の流れが違うんだっけ……」
慌てて腕時計を覗いて、愕然とした。夜十一時過ぎになっていた。私は、職場は半分公務員のような特殊法人で、残業は基本的にないから、いつも定時退社だ。つまり、こんな時間に帰るのは稀だ。
――異界にいた感覚はせいぜい一時間程度だったのに、現実では四、五時間が過ぎている。
異界は、この世界と物理法則が違っていると聞いたことがあるが、本当らしい。浦島太郎のようにならなくて本当に良かったと、背筋が少し、ちりちりした。
しかし、彼女は、私の言葉に、目を輝かせた。
「まあ、異界に行っていたの? 凄いわ。ぜひお話を聞かせてくださいな。そうそう、おでんを作ったの! 一人では食べきれなくて。よかったら、ぜひお食べになって」
こんな美人に誘われて、もったいないとは思ったが、独身女性の部屋に行くのは気が引けた。どう断ろうかと考えあぐねていると、ぐうとお腹が鳴った。彼女は、それを聞き逃さず、くすりと笑った。
「ほら。身体は正直ですわ」
現実に戻ると、時間経過相応にお腹も空くらしい。私は負けた気分になって、頭を下げた。
「はあ……それじゃ少しだけ、おじゃまします」
彼女に礼を言って、エレベーターに乗り込んだ。最上階は、すべて彼女の部屋で、踏み入れたのは入居の時、菓子折りを持って挨拶に行って以来だった。
扉が開くと、空気が違った。暖房の温かさではなく、冬の夜に火鉢の前に座ったときのような、芯からゆるむ温度だった。趣味の良い洋風のリビングに通されると、天然木造りのダイニングテーブルとソファが置かれ、趣味のよい山の日本画が飾られていた。画の山は、雪に覆われているのに、どことなく暖かい感じに見えた。
台所から、「だし」の香りが漂ってきた。昆布と鰹の匂いが、仕事の疲れを、ゆっくりほぐした。
「どうも、いただきます」
おでん鍋を運んできた彼女に礼を言い、先ほどの出来事を説明した。裏道に入ったこと、古い木造の町に出たこと、雪が深いのに寒くなかったこと、広場で雪だるまを作ったこと。話すうちに、自分が体験したことが現実味を増していき、同時に怖さも蘇った。
「あら……でも凄い体験ですわよ。怖かったでしょう? どうぞ」
彼女はとっくりから日本酒を注いでくれた。私は、恐縮しながら頂いた。澄んだ泉のような端正な酒質で、口当たりが柔らかく、まるでフルーツのような良い香りがした。喉の奥が静かに熱くなる。大分、高価そうなお酒だと思った。
「とても美味しい酒ですね」
「これは、亡くなった主人の好みのお酒ですの。彼の地元の地酒」
彼女も、お酒を飲みながら、身の上話を始めた。私は、背中の皮膚が、またちりちりする気がした。彼女から夫の話を聞いたのは初めてだ。彼女は箸を止め、湯気の向こうを見つめた。
「あの人は、出張先でも、私が送ったのを飲んで、泳いでいたのだわ。まさか、あんな頑丈なひとが、海でイモ貝に刺されて死んでしまうなんて……」
管理人さんが、目頭に手をやった。私は、咄嗟に言葉が出ず、ただ頷いた。
「大変でしたね……」
「でも、一人で頑張って、こうやって人並みに生活できるようになりましたの。そろそろ故郷が恋しくなってきたのですけど」
彼女の横顔は、静かで凛として見えた。私は、どう返せばいいか分からず、口の中の大根をゆっくり噛んだ。だしが染みた味が、妙に現実的だった。
「……私も時折、故郷の村が恋しくなりますな。そういえば、あの異界は、古い建物の雰囲気が似てましたよ」
私は、強引に話題を変えた。彼女は、すぐに顔を上げ、涙の跡を隠すように笑った。
「まあ、そうですの?」
彼女は、大変興味深そうに身を乗り出した。話を聞く目が、子どものように澄んでいる。
「わたしも、その異界に行ってみたいわ。明日は、お休みですわよね? ぜひ案内して下さいな」
「えーと……いつでも行けるとは限らないらしいですよ。それに危険だし……」
私は、戸惑いながら首を傾けた。しかし、彼女は、頭を振った。
「大丈夫ですわ。そうと決まったら、善は急げですわ。明日に備えて、寝ましょう。十時くらいに迎えにきて下さいね。ではまた!」
あれよあれよという間に部屋を追い出され、私は腑に落ちない気分のまま自室へ戻った。布団に入っても、雪の匂いと町の沈黙が脳裏に残り、眠りは浅かった。それでもいつしか意識は落ち、夢の中で、私は何度も同じ角を曲がり、同じ広場に立っていた。
***
翌朝、十時きっかりにエレベーターを降りると、管理人さんがすでに待っていた。
昨日よりも白い着物で、青みがかった丸い模様が散っている。よく見ると、それは雪結晶のようにも、夜空の星のようにも見えた。
「おはようございます。では、行きましょう」
彼女は、当たり前のように腕を組んできた。絹の着物越しに、腕の温度が伝わった。私は、思わず姿勢を正した。
「あなたの腕がこんなに太くて、とっても頼りがいがありそうなんだもの」
彼女は、いたずらな笑みを浮かべた。
「まあ、体だけは頑丈で」
悪い気分ではない。私は、彼女に向かって微笑んだ。柔道家だった父の影響で、私はがっちりした体つきだ。そのせいで事務職の職場では少し浮いているが、今日は役に立つかもしれないと思った。
昨日、曲がった角に来た。昼間の東京は、あまりにも普通だった。車が走り、学生が歩き、コンビニの店員が会計をしていた。私は、内心で「頼むぞ」と祈るように、あの裏道へ足を踏み入れた。
すると、また匂いが変わった。
土と木と雪の匂いがした。背後の音が遠のき、足元が柔らかく沈んだ。
「……入った、みたいですね」
「ええ。やっぱり開いていましたわ」
管理人さんは、その異界を、何の躊躇もなく進んだ。まるで、知っている場所に帰ってきたみたいだな、とふと思った。
町並みは昨日と同じだった。古い木造建築、格子戸、雪。しかし、昼の光の中で見ると、細部がはっきりしている。柱には古い傷があり、戸の木目には手の脂が染み、軒下には小さな注連縄のようなものが吊られていた。
私は、思わず、それらを一つ一つ確かめるように見た。
そして気づいた。生活音がなかった。雪に足を取られるざくざくという自分たちの足音だけが、妙に大きく響いた。
しかし、人がいないのに、生活の匂いはあった。かすかな味噌の香りや、薪の焦げるような匂いが、風に混じって流れてきた。
……誰かが、見えないところで暮らしているようだった。
「昨日は、ここで迷う感じがしました。お気をつけて」
「大丈夫ですわ。迷うのなら、迷うのに付き合います。あなたと一緒ですもの」
彼女は、そう言って、私の腕にさらに体重を預けた。私は、返事をし損ねた。胸の奥が妙に落ち着かなかった。
町を抜け、昨日の広場を目指して歩いた。しかし、途中、道が少しずつ変わっている気がした。昨日はなかったはずの石段が現れ、曲がり角の先に小さな社が見え、屋根の上に白い影がひゅっと走った。私は、視線で追ったが、影は雪と同化して消えた。
管理人さんは、まるでそれらが見えていないかのように、あるいは見えていても気にしないかのように、鼻歌でも歌いそうな足取りだった。
「怖くありませんか?」
「怖いのは、知らないからですわ。知ってしまえば、怖さは形を変えます。あなたが教えてくれるのでしょう?」
言葉の意味が半分しか分からないのに、なぜか、背中の力が抜けた。
やがて広場に出た。そこには、昨日私が作った雪だるまが立っていた。少し溶けかけていた。しかし、ただ形を崩して流れたのではなく、全体的にスリムになっていた。
「おや……?」
私は、近寄りながら呟いた。溶けたのがまた凍ったのか、少し透明感があり、まるで人型のように見えた――腕のような突起があり、肩の線があり、頭の輪郭が妙に整っている。
「これだと思います。だいぶ変形してますが」
「まあ……やっぱり私の見立ては間違っていませんでしたわ!」
管理人さんは、感極まったように言った。私は、何のことだと聞く前に、彼女が雪だるまに向けて右手の平を添えるのを見た。指先が雪面に触れると、そこだけがふっと白く輝いた。彼女は息を吸い、ふうっと白い息を吹きつけた。
すると、白い息が触れた部分から雪だるまがみるみる色づき、表面の氷が流れ、透明感が肌の艶に変わった。そして、目鼻の位置が定まり、頬に血の色が差し、髪の輪郭が現れた。私は言葉を失って立ち尽くした。
やがてそこにいたのは、四、五歳くらいの着物を着た幼女だった! 白い頬に赤みがあり、黒い瞳がきらりと光った。
「おかあ様!」
幼女は、弾む声で言い、管理人さんに抱きついた。管理人さんは迷いなく抱き上げ、頬ずりをした。嬉しそうに、そして切なそうに。
「おお、小雪ちゃん。ようやく会えたわ」
「な、管理人さん……これはいったい……?」
私は、訳が分からず叫ぶように尋ねていた。異界では人知を越えた現象が起こる、とは聞いているが、目の前の出来事は、その範囲をあっさり踏み越えていた。
管理人さんは、私に視線を向けた。泣き笑いのような表情で、謎めいた笑みを浮かべる。
「あなたの雪だるまを作った想いを寄り代に、娘が実体化したのですわ」
私は、言葉を失った。想い、寄り代……そんな言葉は、私の生活にはない。しかし、雪だるまを作っているとき、確かに私は、願っていたのだ。ここで誰かに会えたらいいのに、と。怖さを分け合える誰かがいたらいいのに、と。
「そうそう。これからは、わたしのことを『お雪』と呼んでくださいね、あなた」
彼女がそう言った瞬間、風が吹いた。雪混じりの風が広場を横切り、彼女の長い髪を揺らした。着物の青い雪結晶の模様が、雲間から差し込んだ光を反射して、冷たい火花のように瞬いた。私は、ただ見惚れた。管理人さんの顔が、今までよりずっと近く感じた。
「お雪……さん?」
恐る恐る呼ぶと、彼女は満足そうに微笑んだ。
「ええ。そう呼ばれると、嬉しいわ」
小雪ちゃんは、私の方を見た。目が合うと、幼女は首を傾げ、少しだけ笑った。
「おとう様?」
私は、心臓が跳ねた。否定したいのに、声が出ない。お雪が、そっと言った。
「この子は、あなたの雪から生まれたのですもの。あなたの温かさも混ざっているわ。だから、そう呼びたくなるのですわ」
「そんな……私は……」
私は、そう言いかけて、言葉を飲み込んだ。否定しても意味がない気がした。ここは常識の通じない場所だった。であるならば、常識で抵抗するほど、かえって自分が壊れると思った。
そのときだった。広場の周りの雪が、さらさらと動いた。最初は風だと思ったが、違った。白っぽい服装の人々が、いつの間にか集まってきていた。
静かに、音もなく、雪面から湧き上がるように現れた。皆、肌が白く、目が澄んでいて、どこか人間離れした端正さを持っていた。中には、肩が妙に広い者や、背が高すぎる者もいた。また、明らかに人間ではない風貌のものもいた。
私は思わず、自分の腕時計をした腕を見た。毛が増えている。いや、毛が生えている。黒く、密で、冬毛のようにふわりと立っている。手の甲も、指も、いつの間にか強く、太くなっていた。喉の奥から、低い息が漏れた。
「……そうか」
私は、妙に納得した。恐怖よりも、腑に落ちる感覚が先に来た。雪の中で寒くなかった理由、町の沈黙が嫌に馴染んだ理由、雪だるまの顔が微笑んで見えた理由――それらが一本の糸で繋がった。
この異界は、雪女と雪男の世界なのだ。
私は、ここで雪男の一人として暮らすことになるのだろう。そんな結論が、誰かに告げられたわけでもないのに、胸の奥にすとんと落ちた。
お雪は、小雪ちゃんを抱いたまま、私の前に立った。彼女の微笑みは、優しくて、どこか諦めを含んでいた。まるで「もう戻れませんわ」と言っているようにも見える。
「昨日、あなたは迷いましたわね。怖かったでしょう」
「……ええ。怖かったです」
私は、正直に答えた――嘘は通じそうもないと思ったので。
「でも、その怖さの中で、あなたは雪だるまを作った。誰もいない広場で、誰かのために顔を作って、笑わせた。あなたは、独りでいることに飽きていたのですわ」
私は、反論できなかった。仕事と家の往復の生活で、私はいつの間にか、何かを諦めていた。誰かと暮らすことも、誰かのために手を動かすことも、遠い話だと思っていた。
「……私は、ただ帰りたかっただけです」
「ええ。帰りたかったのでしょう。でも帰る道があるからこそ、あなたはここに来られたの。あなたは扉を知った人ですわ。扉を知った人は、扉に選ばれることもあります」
お雪はそう言って、私の手を取った。冷たいはずの手が、驚くほど温かかった。温かいのに、指先の感触が雪のようにさらりとしている。私は、その矛盾に息を呑んだ。
小雪ちゃんが、私の肩に小さな手を伸ばした。指が触れた瞬間、胸の奥がじんと熱くなった。幼い手の重みはほとんどないのに、確かに「家族」としての重みがあった。
周囲の白い人々が、静かに頷いた。誰も声を出さない。だが「受け入れた」という空気が広場に満ちていく。雪が少しだけ舞い、建物に積もった。
私は、最後に、現実の世界を思い出した。狭い部屋、机の上の書類、毎朝の目覚まし、同僚の顔……全部が急に遠く感じた。恋しくないわけではないが、戻っても私はまた同じ日々を繰り返すだろう。
ここに残れば、何が待っているか分からない。危険もあるだろう。だが、少なくとも私は、独りではない。
お雪が、にっこりと微笑んだ。
「悪くないでしょう?」
私は、ゆっくり頷いた。
「……まあ、それも悪くないか、と思います」
自分の声が、いつもより低く響いた。雪の匂いが胸いっぱいに満ち、足元の新雪が柔らかく沈んだ。私はお雪の手を握り返した。小雪ちゃんが嬉しそうに笑った。
――そして、私は異界の住人になった。雪の町でさまよった夜の怖さも、広場で作った雪だるまの馬鹿らしさも、すべてが一本の道の途中だったのだと、今なら分かる。
扉は、偶然に見えて、たぶん最初から、私のために用意されていたのだろう。
(了)
これも、今はなき「ゆきのまち幻想文学賞」に投稿(して落ちた)ものの一作です。例によって、元々、10枚くらいのを引き延ばしていますが、一発ネタなので、もうちょいアイデアを入れた方が良さそうだったかも。




