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バス停にて〜ライトホラー

作者: あみれん

私はバス停にいた。

そのバス停は、広大な田畑の間を貫く舗装道路の脇に位置しており、時刻表が印刷されたバス停看板が取り付けられた標識の脇には、4人程が座れるベンチを備えた粗末な木造の小屋が立っていた。

私はそのベンチの端に座って20分後に到着するはずのバスを待っていた。

小屋の外に広がる目の前の景色は、真っ青な空、その西側を流れるオレンジ色に染まった筋状の雲、背の低い山々の緑のグラデーションによって美しい色合いに染まっていた。

このバス停の周りにある建物といえば私が先ほどまで滞在していた古い宿と、道路脇に据え付けられた野菜の無人販売所、そしてこのバス停の小屋だけだ。


私が滞在した宿の主人は、この辺りのバスは時刻表通りに来ないことが多く、予定時刻よりも早くバス停に到着してもバス停に乗車客がいないと素通りしてしまう、と言っていた。

このバスを逃すと、次のバスまで3時間近く待たねばならないので、私はバスの出発予定時刻の30分前にこのバス停に着いたのだった。

目の前の舗装道路を行きかう人や車を目にすることはなく、聞こえてくる音と言えば、山の方角から何百もの小さな鈴を一斉に鳴らしているかのような蝉の合唱が心地よく響いているだけだ。

蝉の合唱は、私の耳から脳の深い部分に鋭く流れ込んでくるようで、しばらくそれに耳を傾けているうちに、思考が停止していくような錯覚を覚えるのだった。


「ちょうど10年前の今頃だったかな…」


突然響いて来たその声に私は身を震わせた。

見ると、ベンチのもう一方の端に老人が座っていた。

人の気配を感じることもないほどに、私は放心していたようだ。

私は姿勢を正すように座り直し、タバコに火をつけた。


「あなた、知っておられますか、この辺りの山で10年ほど前に起きた遭難事故のこと」


私は「はぁ?」と小さく呟いた。

ここには私とその老人しかいないので、老人が私に話しかけているのは分かっていたが、地元の人間でもない私が知る由もない遭難事故の話を突然されたことに、私は少し気分を害していた。

私は老人に目を向けずにぶっきらぼうに「いいえ」とだけ答えた。


「新聞にも載ったのですよ。この辺りの山はそれほど高くないし、清流もあるのでね、夏になると山歩きやキャンプの人々で結構賑わうのですよ」


老人は勝手に話し始めていた。

こんな場所で見知らぬ老人から遭難事故の話などを聞く気分ではなかったので、舌打ちでもして睨みつけてやろうかと思ったが、相手はこんなバス停で見知らぬ人間に唐突に遭難事故の話をしてくるようなイカれた老人だ、邪険にして後々面倒な展開になるのも嫌だったので、適当に相槌を打つことにした。


「この辺りの山ではね、遭難事故は案外少なくないのですよ。山歩きやキャンプと言ってもね、やはり山は山ですからね、ろくな準備や装備などせずに軽装で来ると、つまり山をナメてかかるとね、思わぬしっぺ返しを食らうのですよ。山には危険がいっぱいですからね」


この老人は、私がこれから山歩きをするのだと勘違いして、警告のつもりで話しているのだろうか。

確かにリュック1つで軽装の私はハイカーに見えなくもなかった。


「とりわけ10年前のあの遭難事故の事はよく覚えていますよ。ある東京の会社の社長とその社員合わせて5人が山に入って遭難したのですがね、5人のうち2人は生還できたのですが、残りの3人の行方は未だに分かっておりません。もう10年も前のことですから生きてはいないでしょうがね」


そんな陰鬱な話には興味はない、と言わんとばかりに、私は上を向いてタバコを大きく吹かせて見せたが、老人はかまわずに話を続けた。


「その社長は確か当時70歳くらいだったと思いますが、健康志向の強い人だったようで、ジョギングやらテニスやらで普段から体を動かすことが好きで、社員の前では盛んに自分の健康自慢をしておったようです。

また、ワイン好きだったようで、何ですか、あのボジョレー何とかの季節になると、そのワインと自慢の手料理を振舞いたくて、社長宅に社員を招いてパーティーなどを催していたようですな。

その招きに応じた社員を特別にえこひいきして出世させたりしておったようで、随分と他の役員や社員から反感を買っていたらしいです。

いわゆる、ワンマン社長ですな。

その社長がある時、社員を4人引き連れて、この辺りの山に日帰りの山歩きに来たのですよ」


遭難事故の話にしては、事故にはおよそ無関係に思えるその社長という人間の人となりの詳しさに違和感を覚えていたが、恐らく週刊誌などでその事故に関する詳細な取材記事でも読んだのだろう、とそれ以上気にすることはしなかった。


「4人の社員のうちの1人は30代の女の人事部長でしてね、これが社長の愛人と噂されるくらいに社長の太鼓持ちのような人間でね、社長の言う事には何でも従う。

例えそれが如何に理不尽で、社員に不利益をもたらす様なことであってもね。

口先だけは達者な女で、自分の後ろ盾は社長であることを仄めかしながらね、言葉巧みに社員を丸め込むような嫌な女だったらしいですよ。

言っていることは社長の言葉のオウム返しですからね、中身なんてありゃしません。

そうそう、東北の方で大震災が起きた時は東京も相当揺れたそうですが、その人事部長はですな、いの一番で仕事を放り出して帰宅していったらしいです。

人事部長ですからね、本来は全社員の身の安全の確認を真っ先にすべきでしょうがね。

まあ、無能なくせに、出世欲だけは人一倍強い人間だったんじゃないでしょうかね。

ですから、一部の社員からは毛嫌いされていたようですな」


吸っていたタバコを携帯用灰皿で揉み消し、腕時計を見た。

バスの到着までにまだ15分もあることを知ると気が滅入ってきた。

こんな本当だかどうだか分からない話に、これからあと15分も付き合わなければならないのだ。

どうせ老人が暇つぶしにする与太話か、地元の人間ではないと知って私をからかっているのだろう。

週刊誌の取材記事の受け売りにしても人物描写が詳しすぎる、恐らく作り話なのだろう。


「もう1人は60代の営業部長でしてね、社長のことを嫌っていたようですが、社長には逆らえない性格であったようです。

なにせ入社以来40年近くも社長のイエスマンに徹した末に、やっとの事で営業部長という地位を得たのですからね。

ですから山歩きなどするような男ではなかったようですが、断り切れずに付いて来たのでしょう。

断ったところで、後でどんな社長の仕打ちが待っているか分かりませんからね。

残りの2人は営業部門の若い社員で、共に非常に優秀で営業成績も大変良かったようです。

1人はモノを積極的にはっきりと言うタイプで客受けもよく、もう1人はとても大人しい性格ですが、物事を用意周到に進めるタイプで、その硬い仕事ぶりが客から気に入られておりました。

社長としては、この優秀な若者2人を手懐けておきたかったのでしょう、ベテラン社員達を差し置いてこの2人を指名したのですからね。

ベテラン社員の中には随分とやっかむ者もおったようです。

ですのでね、この若者2人も満更ではなかったのでしょう、社長の誘いに付いて来たのですからね。

とにかく、この5人が日帰りで山歩きに来て、午前10時頃に山に入った後、翌日の午前11時頃になって下山して来たのは2人だけだったという事で、さっき話したように、残りの3人は未だ行方知れずのままです」


作り話と知りつつも、下山した2人は誰であったのだろうか、とふと考えてしまった。

それを知りたいという衝動がない訳でもないが、どうせまだこの作り話しを勝手に話し続けて、いずれその事にも触れるのだろうと思い、その衝動を飲み込んだ。


「下山した2人はその後警察に連絡を入れ、他の3人が山中で遭難した可能性があると伝えましてね、それで地元の山岳救助隊によって残りの3人の捜索が行われましたが、結局3人の行方は分からなかったのです。

当時は何故2人だけが下山できたのかと、2人は随分と警察から事情徴収を受けたようですが、彼らの説明はなかなか警察が納得できるものではなかったようです。

ですのでね、警察は事件の線でも捜査を進めていたので、2人も容疑者としてマークされていたのではないでしょうか」


「何故2人の説明が受け入れられなかったのですか?」


つい口を衝いて出してしまった言葉にバツの悪さを感じながら老人の方を向くと、老人は、やっと興味を持ってきたかね、といった表情で私を見てニヤリと笑うとまた話を続けた。


「まあ、いろいろありましたがね、結果的には遭難事故として処理されることになりましたよ。

遭難の原因はですね、他の遭難者と同様に、やはり彼らも山歩きの準備を怠っていた、つまり、山をナメていた、という事につきます。

軽装でコンパスも持たずに山に入ったのですからね、営業部長は地元で配布している観光案内用の地図を持っていたらしいですがね、そんな物は山中では使い物になりません。

当時の山中では携帯電話も使えませんでしたね、今は分かりませんがね。

実は5人とも山歩きに関してはド素人だったらしく、どうやら健康自慢の社長さんは、知り合いから日帰りの山歩きコースの話を聞いて社員同伴の日帰り山歩きを思いつき、気楽な日帰りだからと、ろくな準備もせずに出かけたらしいですからね、これでは一旦道に迷ったら遭難するのも当たり前ですな。

つまり、この辺りの山はですね、彼らの様なド素人が山中で一旦迷ってしまったら最後、2度と山から降りて来られない、そういう山なのですよ」


この小屋から望める山々に目を向けてみたが、どれも山肌が深い緑に覆われていているせいで山の地形までははっきりと見てとることは出来ない。

だが、稜線はどれもなだらかに見え、遭難者を出すような山には見えなかった。


「それで、どの様にこの事故が起きたかといいますとね…

一行が入山してから5時間程経って日が傾きかけた頃、彼らは道なき道を進み始めていました。

彼らの選択したルートは7時間程で完歩できるはずでしたので、この時点で彼らがルートから外れていた事は誰もが容易に想像できたはずです。

だって、あと2時間でゴールという時点で、道なき道を歩いていたのですからね。

皆が不安を感じ始めていた時、社長は皆を心配させまいとしたのか、不安な素振りを一切見せずに、更にその道なき道をどんどん進み続けたのです、心配などせずに黙って自分について来い、ってな感じですな。

他の4人は社長に誘われて来ていたので、皆社長は山歩きに詳しいのだろう、と思い込んでいて、黙って付いていったのですよ。

しかし、それから2時間程歩いてみても出口に近づいている気配など全くなく、ましてや正しいルートに戻っている様子もない有り様でした。

加えて、辺りが暗くなっていくことを不安に思った若手のAが、あの物静かな若手ですが、もう1人の若手のB、つまりはっきりとモノを言う若手に、これ以上進むのは危険なので、後戻りするか夜が明けるまでここで待機したほうが良い、と小声で話しかけたのです。

しばらく考えた後にそれに同意した若手Bは、若手Aの言葉を社長に伝えたのです。

それを聞いた社長ですが、一瞬その表情を歪めると、烈火の如く怒りだしたのです。


“貴様らのようなガキに何が分かるのだ、貴様らよりもはるかに人生経験を積んだこの私に何を物申しているのだ、この山歩きは私が考えたことだ、つまり私が責任を持つと言っているのだ、黙って私について来い!“とね。


いい歳をしてみっともない様でしょう?

この場合、責任を持つ、というのは全員を無事に下山させる、という事でしかないのですが、全くもってノープランの状態で、一体どう責任を取るというのでしょうかね。

無責任極まりないですな。

当然この社長は、彼らが本来のルートから外れていた事をもっと前に認識していたはずです。

まぁ、実は社長自身も自分達が遭難しかかっていることにずっと心中穏やかではなかったのでしょうね、だがそれを自分から言い出す事は出来ない、自分の過ちを自ら晒す事になりますからね。

そんな彼の胸中を若者に見透かされた気がして、こんな風に無様に怒ったのではないでしょうかね、なにせワンマンで気位の高い社長だったらしいですから。

会社でも、こんな調子でよく癇癪を起こしていたのでしょうね」


この話に感じていた違和感は益々強くなっていった。

どう考えても作り話にしか聞こえない。

人物や事故に至る過程の描写が不自然に細かすぎるのだ。

週刊誌の受け売りだったとしても、この事故をここまで詳細に追うものだろうか?

待てよ、ひょっとするとこの老人は、生還した2人を事情聴取した刑事だったのかも知れない。

無責任社長が起こした遭難事故に立腹していて、だから社長に対する見方が不自然に否定的なのかもしれない。

いや、刑事ではなくても当時の事情聴取時の調書を入手できる立場にある人間であれば、人物や事故について詳細に知っていたとしても不思議ではないかもしれない。

だとすると、やはり私をハイカーだと思い込み、警告を発しているつもりなのだろうか。


「あの女人事部長はと言うとですね、その社長の反応を見るとすぐさま静かな口調で、社長を援護するかの如く若手Bに向かって話し始めたのです。

こんな感じだったでしょうか、


“いいですか、社長はこれまで数々の困難を乗り切ってきた立派なお方です、あなたのような未熟な若者とは訳が違うのですよ、これまで皆社長の指示に従って来たからこそ今の会社がある、つまりあなたの現在の労働の場があるのですよ、ごらんなさい、社長を、あなたみたいに怖けていないでしょう、何故だかわかりますか?社長はあなたが想像できない程の沢山の困難な経験をなさっているのです、だから社長にはどんな困難をも乗り切る自信があるのです、経験は貴重なものです、お金では買えません、あなたの恐怖心は経験の無さによるものです、こういう状況において最も信頼できるのは経験豊かな人の言動です、さあ、黙って社長について行きましょう”


社長の太鼓持ちらしく機を逸せずに社長を持ち上げようとするあたりは流石ですな。

語り口は静かで冷静を装ってはいますが、当然彼女も不安だったでしょうね、しかし言っている内容はほとんど支離滅裂ですね、無能で出世欲だけが強く、自分を取り繕うのがお上手な腹黒人間の典型的な言い様じゃないでしょうかね。

しかしですね、優秀な若手2人は、社長や女人事部長の不安で焦燥した心中を既に見抜いていましたし、これ以上社長について行くのは自殺行為に成りかねない事をはっきりと確信しておったのです。

強く危機感を持った若手Bは若手Aが言った通りに、引き返すか、夜明けまでここで待機すべきだと訴え続けましたが、それはさらに社長の怒りを増長するだけした。

しばしの口論の後に若手2人がこの膠着状態に困惑していると、またもあの女人事部長が若手Bに向かって言ったのです、


“あなた、期待していた程のコミュニケーション能力を持ち合わせてはいないようですね、人を納得させる為にはそれなりの言い方というものがあります。相手はあなたの社長ですよ、これ以上社長に逆らうのであれば、今後のあなたの査定に影響するかもしれない“ とね。


本当に嫌な女でしょう?

コミュニケーション能力というのは、確かに話し手の能力も大事ですが、聞き手の姿勢や理解力も同時に大事なはずなのですがね。

するとね、社長はこの女の言葉に反応したように若手2人を睨みつけ、こう言ったらしいのです。


“来たくない者は来なくてよろしい”


そう言い残して、また道なき道を進んでいったのです、当然あの女人事部長も社長の後について行きましたね」


やはりこの老人は、この事故処理に関わった人物なのであろう。

それにしても、この老人にとってよほど迷惑な遭難事故だったのだろう、社長や女人事部長に対する殆ど人格否定と言ってよいその言い回しからそれが見て取れるようだ。

私はタバコに火を付けると大きく吸い込み、上を向いて溜息を吐く様に煙を吐き出した。

気がつくと車のエンジン音が聞こえていた。

その音のする方向を見ると、西日を背後から浴びて大きな影のように見えるトラクターが、後方に白い噴煙を吹き上げながらバス停が面している舗装道路をゆっくりとこちらに向かっていた。

トラクターのけたたましいエンジン音は、ずっと鳴り響いていた蝉の合唱を徐々に掻き消していった。

老人は話すのを止めていた。

恐らくあのトラクターの唸り声のような騒音が通り過ぎるのを待っているのだろう。

時計を見ると、バスの到着予定時刻の5分前になっていた。

生還した2人が誰なのか、老人の話になかなか登場してこない営業部長が何をしていたのかを聞きたいと思っていた。

トラクターが爆音を上げてバス停の前を通り過ぎて、そのエンジン音が小さくなりかけた時、私は老人に尋ねた。


「ところで、あの営業部長さんはどうしたのですか?」


老人は過ぎ去って行くトラクターを見送るように見ていたが、顔を正面に向き直して再び語り始めた。


「あの営業部長はただ場に居るだけで何もせんのですよ。

風見鶏のような男なのでしょうね、若手2人と社長、女人事部長が口論している間中ずっと彼らを無視するかのように、持っていた役に立たない観光用の地図に目をやっていたようです。

自分もこの危機的状況から脱する為に努力をしている、というポーズだったのでしょうが、皆あんな地図は役に立たない事を知っていました。

常に問題に背を向け続けてきた彼らしい振る舞いじゃないですか。

それにしてもねぇ、よりによってあんな渦中にあって役立たずの地図を読むふりをするなんてねぇ、幼児にも劣る振る舞いだと思いませんか?

60年以上も何をして生きてきたら、あんな男が出来上がるのでしょうかねぇ。

結局、社長と女人事部長に付いていきましたね」


なるほど、この役立たずの営業部長も老人にとっては、迷惑な遭難者の1人だったのか。


「という事は、生還したのは若手2人なのですね?」


バスの到着までにもう時間がないので、この話の顛末を急いで聞きたいと思っていた。


「そうです、あの若手2人です。

あの大人しい若手Aは流石に用意周到なだけあって、彼らが通ってきた道にある木やら葉っぱに、赤いマジックでマークを付けていたそうですよ。

若手2人は社長達と別れた場所で夜が明けるまで待機した後で、その赤いマークを辿って歩いて来たルートを戻り、正しいルートに出て入山した入口地点に帰ってきたそうですよ」


事故そのものは悲劇ではあるが、登場人物、特に社長と女人事部長の人物像はあまりにも滑稽に思えた。

非日常的な状況下にあっても、自分達が属する日常の狭い世界でしか通用しない見栄や体裁、或いはこれまでに築いた自分の立ち位置に固執して外部からの意見を排除した結果、何の価値も無いそれら諸々と自分の命とを引き換えるという悲劇を招いてしまったのだ。

これを滑稽と評してもあながち間違いではないのではないか。


もうじきバスが来る頃だ。

バスを待つ間の良い暇つぶしになったし、私へ警告を発してくれたのだと仮定して、私は老人にその礼を言おうと思った。


「大変興味深い話でした。ありがとうございました。

2人だけでも生還できたことが救いですね。

それにしても、一番不幸だったのは社長さんと、女性の人事部長さんじゃないでしょうか。

自分の我を通したばかりに命を落としたのですからね」


老人はゆっくりと私の方に顔を向けて言った。


「そうでしょうかね、少なくともあの二人は、良し悪しは別として最後まで自分の意思を通したのですよ。

一番不幸なのは…あの営業部長ではないでしょうかね。

何故なら、最後まで確固たる自分の意志を持つことなく、常に周りの様子を伺って…つまり自分のことを自分で決めることができない哀れな男ではなかったか、と思うのですね。

社長に付いて行かなかった場合に、その結果として先々に起こり得るであろう自身に降りかかる不利益を憂慮し、自分の命に係わる待ったなしの非常時であるにも関わらず、その場ですべき自分自身にとっての最善の決断を先送りして社長について行ったのです。

しかもあの女人事部長のような、社長とは一蓮托生、といった覚悟もなく、だらだらと流されてしまったのでしょう。

死んでしまったら先行きも何もないのにねぇ。

だから、はっきりと自分の意志を示した他の4人に比べ、とりわけ社長と女人事部長は命を落としながらも自分の我を通した、という事に比べると、フワフワと流れに任せて死んでいったあの営業部長こそ不幸であったと言わざるを得ない気がします。

恐らく、仕事でも家庭でもずっとそんな風に生きてきたのではないでしょうか」


「なるほど、そうかもしれませんね」


「実はこの辺のあちこちでね、時々その営業部長らしき幽霊が出る、なんて言う噂がありますよ。

なんでも遭難時に持っていた観光用の地図を握りしめていたそうですよ。

しかし何で観光用の地図なんでしょうかねぇ。

ひょっとしたら、あの遭難時の口論の最中に知らぬ存ぜぬでその地図を読むふりをした無様な様を酷く後悔していたのかもしれないですね、それと本当は若手2人の意見に賛同したかったのに、それが言い出せなかったのかも、ですねぇ。

だとしたら、さぞかし心残りだったでしょうに、不幸ですよねぇ。

死んでも死にきれずに後悔の念を残したままあの世に行って良いものかを自分で決めかねていて、その魂だけがフワフワとこの辺りを彷徨っているのかもしれませんね、なにせ優柔不断な男ですからねぇ」


「はぁ…幽霊ですか…」


「幽霊になっても尚、誰かにその後悔の念や、社長と女人事部長に対してずっと抱いていた恨み辛みを伝えることが出来れば、きっと成仏するのかもしれませんが」


老人は冗談っぽくそう言うと、その顔に笑みを浮かべた。


バスがやって来た。

ほぼ定刻通りだ。

バスの乗降ドアが開くとタバコを携帯用灰皿に突っ込み、バスに乗り込んで後ろを振り返ってみたが、あの老人がバスに乗りこんで来る様子はなかった。

そもそもバスに乗るのではなく、ただあのバス停で休憩でもしていたのだろうかと思い、バスの車窓からバス停脇の小屋を見下ろしたが、そこには老人はいなかった。

ただ、ベンチのあの老人が座っていた位置には、一片の紙切れのようなモノがあるのが見えた。

あの老人のものだろうか。

バスが動きだした。

バスの後方にある大きな窓ガラス越しに小屋の方に目をやると、その紙切れのようなモノは、まるで私に手を振っているかのように小屋の上をゆらゆらと風に舞っていたが、やがて上空高く舞い上り、そして消えていった。

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