悪役令嬢の娘の母親という、婚約破棄と冷遇と夫の裏切りにまみれた圧倒的モブポジションに転生したけれど、全てを覆して隣国皇太子の溺愛を勝ち取り、復讐と共に幸福を掴んでみせます。
夜会の大広間は煌びやかな光で満ちていた。
宝石のように輝くシャンデリアの下、貴族たちは笑い声を交わし、音楽と舞踏に酔いしれている。
――その場の片隅で、私は一人、冷えたワインを口にしていた。
「リディアーナ夫人、相変わらず冴えない顔をしていらっしゃること」
嫌味を含んだ声が背後から降ってくる。振り返れば、義娘のエリスが嘲るように微笑んでいた。
彼女はこの国で「華」と讃えられる美貌を持ち、王太子の婚約者として注目を集めている少女。
――そして、私にとっては義理の娘。
「ええ、私は冴えない母親ですもの。舞台袖がお似合いなの」
「まあ、自覚があるなら良いことですわね」
そう言い残して、彼女は取り巻きたちと笑い合いながら去っていった。
胸の奥が焼けるように痛む。だが、この程度は日常茶飯事だった。
私――リディアーナは、この国でも指折りの大貴族に嫁いだ女。
だが夫からは愛されず、政略の道具として扱われ、義娘からは邪魔者としか見られていない。
本来なら「悪役令嬢」として破滅するはずのエリスを導く立場にある母親。
だが私は前世の記憶を持っていた。
ここは乙女ゲームの世界。
原作では、エリスは主人公に敗北し、断罪され、処刑される運命にある。
その母親である私は、ただの背景。救われることも、報われることもない。
――それが、転生して与えられた役割だった。
けれど。
「そんな未来を、私が甘んじて受け入れるとでも?」
胸の奥で、かすかに炎が燃える。
私はもう前世のように、ただ従順に耐える女ではいられない。
***
ある夜、夫の書斎に忍び込んだ私は、決定的な証拠を目にした。
「……これは」
そこには、夫が裏で王国の敵国と通じ、金銭と引き換えに国の情報を流していた記録が残されていたのだ。
夫は裏切り者。
そして私やエリスをも、その陰謀に利用していた。
――このままでは、私たち一家ごと破滅する。
「いいえ。私が破滅するのはごめんだわ」
震える手を握りしめる。
逃げなければ。夫からも、義娘からも、そしてこの国からも。
***
夜の帳が下りる頃、私は屋敷を抜け出した。
金目の物も、着替えも最小限。背後では、まだ煌びやかな夜会の音が響いていた。
「さようなら、腐った家族。もう二度と戻らない」
馬車を拾い、国境を目指す。
冷たい風が頬を打ち、涙が滲む。だが胸の奥は、不思議と軽かった。
初めて、自分の意思で選んだ道を歩いているのだから。
***
隣国との国境付近、山間の小さな村で私は倒れ込んだ。
慣れぬ旅路に体は限界を迎えていたのだ。
「大丈夫か!」
誰かの声が耳に届く。
視界に飛び込んできたのは、燃えるような赤い瞳をした青年。
彼は迷わず私を抱き上げ、手を取ってくれた。
「……あなたは?」
「俺はアレクシス。隣国の皇太子だ」
皇太子――?
そんな偶然が、あっていいのだろうか。
「安心しろ。君は俺が守る」
その言葉に、意識は闇へと沈んでいった。
***
目を覚ました時、私は豪奢な寝台に横たわっていた。
アレクシスは傍らに座り、真剣な眼差しでこちらを見ている。
「ようやく目を覚ましたな。君を見つけた時、本当に息が止まるかと思った」
「助けてくださって……ありがとうございます」
私は事情を語るべきか迷った。だが彼は微笑み、こう告げる。
「無理に話さなくてもいい。君が何を背負っていようと、俺は君を手放す気はない」
胸が震えた。
誰からも冷遇され、必要とされなかった私が――初めて、誰かに「守る」と言われたのだ。
その瞬間、心の奥で決意が芽生えた。
――私は、必ず幸せを掴む。
もう誰にも弄ばれず、踏みにじられず。
アレクシスの隣で、新しい未来を築いてみせる。
だが同時に、頭の片隅で警鐘が鳴っていた。
夫も、義娘も、決して私を逃がすまいと追ってくるはず。
そしてこの国と隣国の間には、政治的な緊張が走っている。
「復讐も、幸福も、全部私が掴み取る」
私は深く息を吐き、アレクシスの瞳を見返した。
――悪役令嬢の母という、ただの舞台装置だったはずの私が。
今度こそ物語の主役になるのだ。
ーーー
「リディアーナを匿っているだと? あの女は我が国の裏切り者だ!」
王城の謁見の間に、夫――公爵オルフェンが怒声を響かせていた。
彼の隣には義娘のエリス。相変わらず傲慢な笑みを浮かべている。
「お父様、このままでは王太子殿下との縁談に傷がつきますわ。早くあの女を処分なさらないと」
――そう、彼らは私を「駒」に使おうとした。
そして今は、邪魔になった私を消そうとしている。
だが。
「残念だったな。リディアーナは俺の婚約者だ」
堂々と立ちはだかったのはアレクシスだった。
隣国皇太子の宣言に、大広間はざわめきに包まれる。
「ば、馬鹿な……! あの女はただのモブ同然の存在! あなた様に相応しいはずが――」
「相応しいかどうかを決めるのは、俺だ」
赤い瞳が鋭く光る。
その瞳に射抜かれ、夫もエリスも一瞬言葉を失った。
「彼女を見下す者は、この俺が許さない。彼女は俺の心を救った唯一の人だからだ」
その言葉に、胸が熱くなる。
誰からも否定され続けた私を、彼だけが肯定してくれる。
***
だが、夫とエリスは引き下がらなかった。
「よくもまあ、そんな戯言を。リディアーナには国を裏切った証拠があるのですよ!」
夫は私を貶めるつもりで声を荒げた。
だが、私は静かに口を開いた。
「それは違いますわ。裏切り者はあなたでしょう?」
会場にざわめきが広がる。
私は懐から、一冊の帳簿を取り出した。
「これは、あなたが敵国と密通し、情報を流していた記録。私が見つけて持ち出したものよ」
夫の顔色が蒼白になる。
「そ、そんなもの……偽物だ!」
「いいえ、すでに隣国の監査官によって照合済みです」
アレクシスが一歩前に出る。
彼の手に握られた封書には、敵国との往来を示す証拠が揃っていた。
「オルフェン公爵。お前が売り渡した情報のせいで、幾人もの兵士が命を落とした。これは反逆罪に等しい」
「なっ……!」
夫は崩れ落ち、エリスが悲鳴を上げる。
「いや……いやですわ! 私が王太子殿下の婚約者になるはずだったのに! どうしてあんな女が!」
彼女の叫びは、虚しく大広間に響くだけだった。
私はゆっくりとエリスを見据える。
「エリス。あなたが私を憎んでいるのは知っているわ。でもね、私はあなたを憎んだことはないの」
「……っ」
「けれど、自分の過ちに気づかぬままでは、あなたも滅びるだけ。どうか――自分の未来を選び直しなさい」
エリスの瞳が揺れた。
それ以上言葉を返すことなく、彼女は衛兵に連れられていった。
***
処刑の日、広場は人で溢れていた。
オルフェン公爵は国の裏切り者として断罪され、民衆は怒号を浴びせる。
私はその光景を見つめながら、心の奥で小さく息を吐いた。
復讐の炎は、ようやく鎮まった。
「リディアーナ」
隣に立つアレクシスが、私の手を取る。
「君はもう自由だ。過去の鎖も、苦しみも、全部捨てていい」
「……本当に、私が幸せになっていいのかしら」
「当然だろう。俺が、君を必ず幸せにする」
その言葉に、涙が零れた。
私は強く頷き、彼の手を握り返す。
***
それからの日々は、夢のようだった。
アレクシスは毎日のように甘い言葉を囁き、私は少しずつ自分を取り戻していった。
「リディアーナ、君は美しい。誰よりも、誇り高い」
「もう……からかわないで」
「からかってなんかいない。本気で言っている」
彼の溺愛ぶりに、侍女たちが呆れるほど。
けれど、胸の奥は温かく満たされていく。
私はもう、誰かの影ではない。
ただのモブでも、舞台装置でもない。
「リディアーナ」
ある日、彼が膝をついて指輪を差し出した。
燃えるような赤い宝石が、夕日の光を受けて輝く。
「俺と結婚してくれ。君と共に歩む未来を、ずっと見ていたい」
「……はい」
涙と共に、私はその指輪を受け取った。
***
数年後。
玉座の間で、私は彼の隣に立っていた。
「王妃リディアーナ万歳!」
民衆の歓声が響き渡る。
かつて「悪役令嬢の母」というモブポジションに過ぎなかった私が、今は一国の王妃として愛され、守られている。
アレクシスが耳元で囁いた。
「俺の最愛の人。もう二度と君を一人にはしない」
私は微笑み、彼の手を強く握った。
――これが、私の選んだ未来。
復讐も、愛も、幸福も。
全部、私自身の手で掴み取ったのだ。