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Y先生のこと

作者: 阿門 右



近頃はその恩恵をとんと受けていないが、私には不思議な巡り合わせがある。

年配の男性の、それもかなり質のいい男性から目をかけてもらうことが、これまで何度もあったことだ。そうした人は今ではもう亡くなった方が多いのだが、忘れ難く、ときおりふといつかの夢のように思い出すことがある。高校生の時に知り合ったY先生も、そのなかのひとりである。

Y先生はバイオリンの先生であった。

京都フィルハーモニーを引退された後、自宅で教えておられて、妹がピアノを習っていた。私はバイオリンの演奏に昔から憧れがあったので、高校入学と同時に親に頼んで通うことになったのであった。最初に会った感想は優しそう。そしてその印象は間違いなく、Y先生は優しくて忍耐強い先生であった。

映画「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公フロドの伯父さんにそっくりの外見で、背丈は小柄、ロマンスグレーの長髪は音楽家らしく、少し浮世立ったところがあった。奥さんも二科展に何度か入賞している方だったので、やはりその雰囲気は一般の家庭とは違っていた。

暖かい客間。

Y先生の家で最初に思い出すそれである。ソファなどの応接セット一揃えとピアノが置いてあった。先生はときどき自分でピアノを弾きながらバリトンの柔らかい声で歌われることがあった。この人はほんとうに音楽が好きなのだなと思ったことを覚えている。

先生の言われたことで覚えていることがいくつかある。練習のあいまに休憩している時だった。

「阿門君はなにか夢があるのですか」

私は誰にも言わずに胸に秘めていることを言った。そうすると先生は楽譜の入った本棚を眺めながらつぶやくように言った。

「それはね、大事にしないといけないですよ。必ず叶いますから」

また雨の降る日のこと、親が車で迎えに来るのをふたりで待っていた。

「まだ、来られてないですね」

先生は客間の窓を少し開けて、玄関の方を覗きながら言った。外の冷たい空気が練習でほてった私の額にあたって心地よかった。なんとなく手持ち無沙汰で、かといってそれが嫌なわけではなく、二人してしんみりと雨の音を聴いていた。私はふと思いついて言ってみた。

「先生はどうしてバイオリニストになろうと思ったんですか」

先生はセピア色のアルバムをめくるような懐かしい顔で、最初はピアノを習っていたこと、親戚の家にバイオリンがたまたま置いてあって手に取ったことを話してくれた。

「それが運命の出会いだったんですよ」

はじめて触れた時にこれを一生の仕事にしていくという確信のようなものがあったそうだ。その他にも大手の保険会社に勤めていた父親のことなどを話してくれたと思う。

不思議な時間だった。

そのとき間違いなく私達の心は通っていたのである。高校生と還暦を過ぎた人間がお互いの核となる部分を打ち明け合ったためだろうか。それともY先生が殺伐とした実社会から距離をとった芸術の世界でやわらかな心のまま生きて来られたからだろうか。

それからしばらくして私はバイオリンにあまり熱を入れなくなった。けれど囲碁の方に興味を持ちだして先生はそれを趣味としていたので、練習が終わると囲碁を習うというなんともよくわからないことになった。その合間に奥さんがアイスキャンディなどを差し入れてくださるのだった。

そんなことが五年ほど続き、私はなんとなく次の段階に進むべきだという気がしていた。そして電話で辞める旨を伝えたのだった。

「ああ、今日の練習はお休みされるのですね」

先生は勘違いされているようだった。そこでもう一度辞めることを伝えた。

電話越しに先生が動揺されている様子が伝わってきた。

若さとは残酷である。

ほんの気分でこれまで作り上げてきた素晴らしい関係を捨ててしまうのである。それがこれからの人生で二度と手に入らないほど得がたいものであると知らずに。

菓子折を持って先生のところに挨拶に行くと、奥さんと二人揃って出迎えてくださった。


それから幾年月たった。

先生が寝たきりになられたこと、奥さんがそれを苦にして精神的に参られたことを知った。ときどき見かけていたお孫さんが自閉症であることも知った。しかし私は自分の問題で忙しく、そのことに心を砕くこともなかった。

最近、地元に帰ると先生の家に行ってみることがある。

私がバイオリンを練習していた暖かいサロンのような客間やほどよく草むした庭、赤い屋根の離れなどを見ることができる。しかし苦難の嵐はそこに住む先生達をどこかに連れ去ってしまった。

私は無人となった家の前で立ち尽くすこともできずに通り過ぎる。そして自転車で練習に向かう高校生だった頃の自分とすれ違いながら、あのやさしかった先生夫妻と過ごした素晴らしい時間がなくなるはずないのだと思う。

それは丁寧に梱包されて私や先生の家のまわりを穏やかに漂っているのだ。




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