第一章
俺の名は横峯英二、殿梨高校に通っている高校1年生だ。
俺は小さい頃から引っ込み思案で友達も少なく、それがもとで小・中学校時代は虐めとまでは行かないが、それなりにからかわれて過ごしてきた。
高校生になってもそれは変わらず、勉強の成績もスポーツもパッとしない所謂陰キャとして、教室の隅で目立たずひっそりと生活している。
そんな俺の唯一の趣味は読書で、親父が雑誌の編集部で働いている影響で、小さい頃から本と関わる機会が多かったせいか、色んな本を読み、それが高じて、自身でちょっとした小説も書いており、何時しか将来は本に関わる仕事か、小説家をやってみたいと密かに思い続けている。
基本的には自分の机に座り、休み時間は本を読むか自作の小説を書いたりして過ごしているが、そんな俺にも密かに思いを寄せている人が居る。
「おっはよう~!」
勢いよく教室の扉を開けて元気よく挨拶するのは、佐倉有希。
クラスの中心的存在で、今時のギャルと言った容姿ではあるが、頭脳明晰で運動神経抜群、見た目も可愛く人当たりも良いので、学年一、否、学校一のマドンナ的な存在として皆に慕われている。
入学時のクラス割り当てで、教室に入って彼女を見た時、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
俗に言う一目惚れというやつである。
だが、俺は自分の置かれたキャラを充分理解している。
というのは、彼女はその容姿の可愛さや、人当たりの良さから、月に何度かは学年問わず色々な男子から告白を受けており、中には運動部のエースやキャプテンといった有能な男子や、イケメンと言われている男子からの告白も断っていて、そんなことだから、陰キャの俺なんかが告白したところで成功するはずもなく、逆に気持ち悪がられるかもしれないと言う事で、俺は道端の小石に徹することにして、彼女への思いを封印した。
そんな風に必要最低限にしか人と関わらないような学校生活を送っていたある日、思いもよらない出来事が俺の身に起こった。
その日の放課後、掃除当番に当っていたので教室掃除をやり、終わって帰ろうとして自分の下駄箱を開けると、中に一通の手紙が入ってあった。
外見は薄いピンク色の、如何にも女子が喜びそうな可愛いキャラクターがプリントされてあり、表紙には、女子が書いたと思われるような字で、
「横峯へ」
と書いてある。
これはもしかしてと思った瞬間、今自分が何を受け取ったのかを想像し、心臓の鼓動が一気に跳ね上がった。
色んな本を読んできた中で、恋愛小説というのも何度か読んだことがあり、その中で、下駄箱にラブレターを入れるというシーンも何度か見たことがあった。
確かにロマンティックではあるが、自分の身に起こることなんて全く予想したことはなく、あくまでも本の中のシチュエーションと割り切っていたことではあったが、やはり自分の身にも起こって欲しいという願望があっただけに、心の踊り具合は思っていた以上に尋常なものであった。
誰にも今の自分の表情を悟られないように平静を装いながら、人目に付かない場所に移動し、中を開けてみると、
「いつも気になっていました。放課後、学校の向かいにある公園に来て欲しい。」
という一文が書いてあるだけで、差出人の名前は何処にも書いていなかった。
だがラブレターといっても差し障りのない代物であることは確かだと思った。
俺はとにかく宙に舞い上がってしまいそうな軽い足取りで、待ち合わせ場所の公園に向かっていた。
だがこの後、自分の身に、あんなとてつもない悲劇が起こる事になろうとは、この時の俺は、まだ知る由もなかった。
あたしの名前は佐倉有希、殿梨高校に通う華の女子高生だ。
自分で言うのもなんだけど、勉強も運動もそれなりに出来て、人と接するのが好きで、そのお陰で男女問わず友達も沢山居て、充実した高校生活を送っている。
両親が美男美女(特にお母さんが)で、そのお陰と、容姿やお洒落にもそれなりに気を使っていた事もあって、学校の色んな男子に告白される事も結構有ったりする。
中には運動部のエースっていう男子だったり、皆がイケメンっていう男子からの告白も受けたりするけど、あたしも普通の女子高生だから、恋愛したくない訳じゃない(むしろめちゃめちゃ恋愛したい)けど、何となく自分とフィーリングが合いそうな男子じゃなさそうと思い、全部断ってる。
勿論自分ではそんなつもりはないんだけれど、高望みしているような印象を周囲に与えてるみたいで、一部の女子からは高慢な女として妬みの対象にされてるらしいんだけど、友達が多いお陰で、気にせず楽しく過ごしている。
ある日の昼休みに、教室で仲の良い友達4人で大富豪をして遊んでいたんだけど、それには罰ゲームが決められていて、一番多く勝った人が負けた人に罰ゲームを課すって内容だった。
あたしは結構カードゲームには自信があったんだけど、その日はかなり負け越してしまっていた。
「はい!あたしの勝ち~。一番負け多かったのは有希だね~。」
勝ち誇った顔をしてこっちを見ているのは、黒木麻衣、中学2年の頃からの友達だ。
あたしがお洒落に興味を持ったのも、この娘の影響が大きい。
「ええ~マジで~。チョ~悔しい~!あまりキツくないのにしてよ。」
あたしは悔しさのあまり、机に突っ伏した。
「そうだな~。よし!それじゃあ、今からこの紙1枚ずつ6枚に男子の名前書いて裏返しにするから、それを選んで、選んだ男子に告白するって罰ゲームで!」
麻衣は、とんでもない罰ゲームの内容を言い放った。
「ええっ!そんなのやだよ!別のにしてよ~。」
「それじゃあ、1週間昼の学食ウチらに奢るってのはどう?」
「1週間もキツいよ~。今月お小遣いピンチなのに。」
「文句言わない。負けたのは有希でしょ~。告白か昼食奢りか2つに1つ。どっちか決めなよ。」
麻衣は昔からかなりの頑固者で、1度言い出したら聞かないのがタマにキズで、麻衣のことは嫌いではないが、この頑固な性格には少々辟易しているところもある。
「それじゃあ、告白で…。」
ここ最近、お小遣い使いすぎだと、お母さんに注意を受けていて、あまりにも使い過ぎが続いたらお小遣いを減らすと言われていたあたしは、これ以上減らされたらたまらんと思い、渋々ながらも告白を選択した。
「よし!それじゃあ告白する相手決めるから、有希は後ろ向いてて。」
「うん…」
渋々後ろを向いて待っていると、
「ええっマジで~!」
「ヤバ~い!」
という友人たちの嬌声が次々に背中越しに聞こえ、あたしはゲンナリしながら待っていた。
「はい。有希、出来たよ。こっち向いて。」
友人の1人、間野恵梨香に声をかけられ、あたしは振り向いて視線を机の上に落とすと、6枚の裏返しにされた小さな紙が並べられている。
「さあ佐倉有希よ。好きな紙を選び給え!」
麻衣が芝居掛かった口調で、得意げに言う。
恵梨香ともう一人の友人名塚沙織も、面白がって囃し立てる。
あたしは嫌々ながらも、6枚並べられた小さい紙の1つを選び、めくって書かれていた名前を見て、更にがっくり肩を落とした。
そこに書かれていた名前には、
「横峯英二」
とあった。
横峯英二。
あたしたちのクラスメイトの1人で、いつも自分の席に座って本を読んだり、勉強をしているのか何やらノートに書き込んだりして過ごしている、大人しい男子だ。
あたしたちと違って、他のクラスメイトや担任の先生とも必要最低限の会話しかせず、いつも一人で過ごしている。
他のクラスメイトには、大人しい陰キャということでからかわれてたり、酷い奴はパシリに使ったり、強引に掃除当番を押し付けたりと、虐めとまではいかないけど、大抵のクラスメイトにからかわれてる男子で、正直あたしもあまり関わりたいとは思わない。
「横峯ねぇ。あの陰キャかぁ。まあ、嘘告白としては妥当じゃない。」
麻衣がニヤニヤしながら楽しそうに言う。
「ねぇ。ホントにやるの~?」
あたしがみんなに聞く。
「文句言わない。負けた有希がだめなんでしょ~。それとも昼食奢りにする?」
今度は恵梨香が言う。
「わかったわよ。やるよ。」
あたしは本当に渋々ながら頷く。
「よし決まり!あたし良いもの持ってるよ!」
沙織がカバンの中から、最近流行りのとあるマスコットキャラのイラストが描かれた薄いピンク色のレターセットを取り出して、あたしに差し出した。
アンタなんでそんなもん都合よく持ってんのよと、内心突っ込みを入れながらレターセットを沙織から受けとり、封筒と便箋を一式取り出した。
生まれて初めて書くラブレター。
その相手が、別段好きでもないクラスの陰キャ男である横峯に書くことになるなんて、本当に凹むわぁ~と、内心本当に落ち込みながら、文をしたためる。
「告白する場所は、向かいの公園にしといてね。」
麻衣が注文を付ける。
「ああっ。そこ良いね~。場所的にもうってつけね~。」
「確かに!」
恵梨香と沙織も同意する。
何度か告白されたことのある場所を指定されて、こいつら他人事と思って好き放題言いやがって!と内心毒づきながら文章を書き終え、友人たちに見せる。
「う~ん。ちょっとパンチが弱いけど、まあこれで良いんじゃない。」
沙織が若干不服そうなリアクションを見せながら、OKを出した。
その後、今日は横峯が掃除当番に当っていたので、その間に横峯の下駄箱に手紙を入れるって事になって、それから沙織が同じ塾に通っている他校の男子に、ラブレター(こっちはガチ)を書くためにレターセット持ってたという話で盛り上がりながら残りの昼休みを過ごし、いよいよ放課後になって、あたしたち4人はダッシュで教室を出て、打ち合わせ通り横峯の下駄箱になんちゃってラブレターを入れ、公園へ向かうのであった。
その時のあたしの心境は、まさにどん底といった感じだった。
そしてこの後、あたしは自分のやらかしたこの嘘告白を、とてつもなく後悔することになろうなどとは、想像だにしていなかった。
待ち合わせに指定されてた公園に着くと、人は疎らだったが、それらしい人を見つけることは出来なかった。
暫く公園を歩き回ったが、中々それらしい人を見つけることが出来なかったので、一息つこうと思い、近くにあった自販機でペットボトルのお茶を買い、ベンチに腰掛けお茶を飲もうとペットボトルを口に近づけかけた時、不意に、
「横峯。」
と、背後から声をかけられ、危うくペットボトルを落としそうになった。
驚いて振り向いたとき、俺は自分が夢を見ているのかと思うほど更に驚愕した。
そこに居たのは、紛れもなく俺が入学してから密かに思い続けていた、佐倉有希その人だった。
「よッ。ゴメンね。急に呼び出して。」
「い、いや。き、気にしなくていいよ。」
平静を保とうと必死になっていたが、やはり憧れの女子を前にして冷静でいられるほど、俺のメンタルは強くはなかった。
暫く沈黙が続いていたが、中々佐倉が言い出しそうな感じではなかったので、なけなしの勇気みたいなものを振り絞って、俺から話を切り出した。
「そ、それで、俺に何か用事?」
「うん。あのさぁ。」
俯きながらも、時折こちらを上目遣いで見つめて来る佐倉の仕草に内心悶絶し見惚れながらも、俺は佐倉の次の言葉を待ち続けていた。
「あたしさぁ、入学してから横峯の事良いなと思ってたんだよね。だからさぁ。」
また沈黙が訪れる。
「好きなんだよね。付き合ってくれない?」
声量こそ途中から小さくなったが、確かにそう聞こえて、俺の頭の中は文字通り真っ白になった。
片思いの相手である佐倉有希が、俺と同じく入学した時から思いを寄せていてくれていたという事実に、俺の心は、これ以上ないくらいに歓喜に包まれていた。
「な~んてね。嘘だよ~ん。」
一瞬何を言われたのか、理解出来なかった。
俺の事好きって言ってくれていたのに、嘘ってどういう事?
今目の前で起こっている事に頭の理解が追いついて行かず、オロオロしていると、佐倉の斜め後ろにある茂みの中から、
「キャハハハハッ!」
と、複数人の女子の声が上がったと思うと、佐倉と同じような容姿の女子が3人、お腹を抱えて笑いながら現れた。
いつも佐倉と一緒にいる、黒木麻衣、間野恵梨香、名塚沙織の3人だった。
「おいおい陰キャ。まさか真に受けたのかよ。ウチらがアンタみたいなの相手にするわけないじゃ~ん!」
「そうそう。ホントさっきのリアクション、マジでキモいんだけど~。」
口々に俺に対して放たれる罵倒に、何も言えず佐倉の方を見ると、俯きつつ何とも言えない様な表情で、さっきと同じ上目遣いで俺を見ている。
「そんな。こんなことって…。」
目の前で起こっているあまりにも理不尽な出来事と、憧れの女子である佐倉が、こんなことする人間だったんだということに失望し、その場にいることが耐えられなくなった俺は、脱兎の如くその場から逃げ出した。
後ろから聞こえてくる、俺へ向けられた下卑た嘲笑を耳にしながら。
その場から駆け出した横峯の後姿を見ながら、あたしは、ちょっと悪い事しちゃったかなという考えに至り、何とも言えない気分になった。
公園を出て、いつも行くカフェに入り、思い思いの飲み物を注文しながら、さっきの出来事について話した。
「大成功だったね。」
「そうそう。あん時の横峯の顔、マジでウケたわ~。」
「有希。アンタもお疲れだったねぇ。これにて罰ゲームは終了ね。」
友人達の会話を聞きながら、あたしは再び何とも言えない気分になっていた。
勿論今まで、こんな嘘告白なんてしたことも、他人を貶めるようなこともした事なかったし、さっきの横峯の、如何にも絶望したような顔が思い返されて、もしかしてあたしは、とんでもなくヤバい事してしまったのかという気持ちになり、友人たちに切り出した。
「ねえ。あたしさ。明日横峯に謝ろうと思うんだ。なんか悪いことしたと思うからさぁ。」
「ええッ。別にしなくて良くない?真に受けたほうが悪いんだし。」
「そうだよ。あんな陰キャ、なんもしてこないだろうし、そもそも仕返ししてこようなんて度胸も無さそうだし。」
麻衣と沙織が、事もなげに言う。
「でも。」
「有希、気にし過ぎだよ。何、もしかして、あんた本当に横峯の事好きだったの?」
恵梨香が、からかうように言う。
「違げぇし!ただ、やっぱり悪いことしたなって思っててさぁ。」
「もう終わったんだし、気にしない気にしない」
麻衣にそう言われて、そうだ終わった事なんだと、その時は自分に言い聞かせ、暫く友人たちと他愛もない会話に興じていた。
「もうこんな時間か。んじゃ、今日は解散しますか?」
「そうだね。んじゃ、明日学校でね。」
「うん。バイバイ~」
友人たちと別れ、家に帰宅し、食事・風呂・学校の宿題と、いつものルーティンを過ごし、自室で寛いでいると、ふと、今日の横峯の事が頭に浮かんで来る。
さっきは友人たちに言われて無理やり納得したけど、考えれば考えるほど、やっぱり悪いことしたなっていう感情が湧き上がってくる。
そもそも横峯の事は、あまり関わりたくないなとは思ってこそいるものの、決して毛嫌いしてる訳じゃない。
クラスメイトの中には、陰キャの横峯が居るだけで空気も陰鬱になるわぁっ、なんて言ってる奴も居るけど、横峯本人は、何かクラスメイト達に対して嫌がらせしてるわけでも、まして迷惑をかけるような事をしてたわけでもない。
寧ろあたしたちが、何も悪いことしてない横峯に対して、噓告白なんて傍迷惑なことをやってしまったのだ。
そう思い至り、麻衣達には気にするなと言われたけど、やっぱり明日横峯に謝ろうと決めて、その日は眠りについた。
次の日、何時もより少し早めに家を出て、学校へ向かっていた。
その間、どうやって横峯に謝ろうか、どういうシチュエーションで話を切り出そうか、教室で話すより、人目に付かない場所に呼び出して話をしようか等々、色々考えを巡らせていたが、中々妙案が思いつかない。
ことが事だけに、友人たちに相談するのも憚られて、どうしようかグルグル考えを巡らせているうちに、学校に到着した。
何時もより早く登校したため、教室にはクラスメイトは殆ど来ておらず、友人たちも、勿論横峯も来ていない。
さて、どうしたものかと考えを巡らせているうちに、続々とクラスメイト達が登校してきた。
「おはよう有希~。今日は早いねぇ。」
沙織が声をかけてくる。
「ホントだね。いつも遅刻寸前なのにね。今日は槍でも降ってくるのかなぁ。」
恵梨香が茶化してくる。
「うっさいわねぇ。あたしだってたまには早く来るわよ!」
あたしは少しむくれながら、友人たちに言い返す。
暫く友人たちと他愛もない会話を続けながらも、あたしは横峯が気になったので、時折教室の入り口を見ながら、横峯が登校するのを待った。
普段横峯の事なんて気にすることなかったから、いつ来るのか全然わからなかったが、そこそこ時間が経っているが、横峯が来る様子は無い。
「ねえ有希。さっきから入口気にしてるけど、何かあったの?」
あたしの様子に気づいた麻衣が声をかけてきた。
「えっ。別に何でもないよ。」
何となく話すのが憚られて、あたしは麻衣の質問をはぐらかした。
それから、友人たちに気づかれないように教室の入り口を気にしていたが、朝のホームルームの時間が始まろうとしているにも関わらず、横峯が入ってくることはなかった。
それから暫くしてホームルームを告げるチャイムが鳴り響き、あたしたちはそれぞれの席に座り、担任の教師が来るのを待った。
程なくして教室の扉が開き、入ってきたのは担任の前川恭子先生ではなく、副担任の島原博先生だった。
何だろ、風邪でも引いて休んだのかなと思っていると、島原先生が話し出した。
「ホームルームを始める前に、皆に伝えておくことがある。実は昨日、横峯英二が交通事故に遭って病院に運び込まれた。前川先生は横峯の容体を確認するために、搬送先の病院に行っている。」
予想だにしていなかった横峯の突然の悲報に、教室内が騒然とし出す中で、あたしは頭の理解が追いつかず真っ白になった。
「横峯は…。横峯はどうなったんですか!?」
あたしは思わず立ち上がって、絶叫するように言い放った。
「詳しいことはまだわからん。横峯の第一報が入ってきたのは朝方の事で、前川先生はすぐに横峯が搬送された病院に向かった。いつ前川先生が帰って来るかはわからん。よって3時限目の国語の授業は自習とする。横峯の事に関しては以上だ。」
ざわつきが収まりそうにない雰囲気の中、淡々とホームルームが終わり授業が始まったが、授業内容が頭の中に入ってくることはなかった。
授業の合間の休み時間は、横峯の事でもちきりになっていて、横峯の事を心配する声もちらほら上がっていた。
「横峯、大丈夫かな。」
あたしは素直に自分の心情を吐露した。
「確かにねぇ。いくら付き合いが無いって言ったって、仮にもクラスメイトなんだから、心配っちゃ心配だね。」
「そうだね。」
恵梨香と麻衣も相槌を打った。
「もしかして死んじゃったりとか。」
沙織が不吉なことを言う。
「ちょっとあんた!縁起でもないこと言わないでよ!」
瞬間頭に血が上り、思わず沙織を怒鳴りつける。
突然上がったあたしの怒鳴り声に、教室内の視線が一斉にあたしたちに向けられる。
「ごめん…。」
沙織が小さな声で謝った。
「有希…。」
あたしのあまりの剣幕に、麻衣と恵梨香は二の句を告げれずに黙り込んでいた。
暫く沈黙が続き、あたしはその場に居づらくなって、自分の席に戻ると、気が抜けたように椅子に座り込んだ。
横峯が事故にあったのが、あたしがやった噓告白が原因だとしたら…。
そう思うと、罪悪感が濁流のように襲ってきて、居ても立っても居られなくなったが、どうすることも出来ず、あたしは思考停止状態になって、その後の時間を一人で過ごした。
4時限目の数学の授業が終わって、担当の先生が教室を出たのと入れ替わりに、担任の前川先生が教室に入って来た。
「昼休みに入る前に、皆に横峯君の事をお伝えします。」
前川先生の発言に、あたしは思わず居住まいを正して、先生の次の言葉を待った。
「昨日横峯君が交通事故に遭って、病院に運ばれたことは、皆も知っていると思います。搬送されたのは、昨日の夕方6時ごろの事で、直ぐに緊急手術が行われました。一時はかなり危険な状態だったようですが、何とか一命を取り留めました。ですがまだ予断を許さない状態であることに変わりはなく、現在も意識不明の重体だそうです。」
とりあえず助かったということで幾分か安心したが、時間が夕方の6時ということに、あたしは、あの噓告白が原因であるかもしれないという罪悪感が湧き上がって、再びいたたまれない気持ちに陥った。
だが次の先生の言葉に、あたしの思考は今朝の第一報に匹敵する衝撃を受けた。
「ですが車に轢かれた際、右腕が車体の下敷きになって殆ど潰れてしまっており、放置すると壊死が広がって命にかかわるとのことで、右腕を切断せざるをえないということになりました。」
噓でしょ、右腕切断って。
あまりの想像を絶する横峯の状況に、気が付いたら、あたしは机に突っ伏して、大声で泣き喚いていた。
ふと目が覚めると、先ず最初に視界に飛び込んできたのは、見覚えのない白い天井だった。
ここは一体何処だ?俺は何故こんな所に居るんだ?一体どうなっているんだ?
段々意識がはっきりするにつれ、全身に鈍い痛みが走って、俺は声にならないうめき声をあげた。
「誰か…。誰か。」
声を出そうとするが、どういう訳かうまく声を出すことが出来ない上に、全身もうまく動かす事が出来ない。
益々訳が分からず呆然としていると、扉の開く音がしたので、目線だけをそちらに向けると、白衣を着た女性が入って来て、俺の様子に気が付くと、慌てた様子で声をかけてきた、。
「横峯さん!横峯さん!気が付かれましたか!?ここが何処か分かりますか!?」
声を出すことも出来なかったので、わずかな力を振り絞って首を横に振ると、その白衣を着た女性が言った。
「ここは病院ですよ。殿梨医大病院。分かりますか?」
病院?何でそんな所に居るんだ?そもそも何故こんなに全身が動かないんだ?
今自分の置かれている状況が分からず困惑していると、その女性が足早に部屋を出ていき、暫くすると、別の白衣を来た男性を伴って再度部屋に入って来た。
ベッド脇に立ったその男性が、俺の顔を覗き込んで、徐に話し出した。
「横峯さん。気が付かれましたね。私はあなたの処置を担当した司馬と言います。ここは殿梨医大病院の救命救急外来に併設している集中治療室です。何故ここに運ばれたのかお分かりですか?」
相変わらず声が出せないので、首を横に振って返答する。
「あなたは6月14日の夕方、殿梨市内の路上でトラックに轢かれ、ここに運び込まれました。一時はかなり危険な状態でしたが、もう大丈夫です。しかし単純なものや複雑なものを含めると10か所を骨折しておりますので、回復には時間がかかりますが、横峯さんの年齢や体力面を鑑みても充分元に戻りますので、その点はご安心ください。」
医師の診断説明に少し気持ちが落ち着いたが、次の司馬医師の言葉に、俺は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けることになった。
「ですがトラックに轢かれた際に、右腕がタイヤの下敷きになり、殆ど潰れてしまった状態になりました。そのまま放置しておくと、細胞の壊死が広がって非常に危険なことになると判断して、右腕の前腕部を切断しました。今は優秀な義手もありますので、その義手になれるためのリハビリも併せて実施いたしますので、承知しておいて下さい。」
咄嗟に右腕に視線を移すと、確かに本来あるはずの右腕が無くなっている。
声は出せなかったが、思わず涙が溢れてきた。
「ご家族にも、貴方の状況は説明しています。混乱されているかと思いますが、先ずはしっかり体力を戻す為にも、暫くゆっくりお休みください。」
司馬医師はそれだけ言うと、病室を出て行き、入れ替わりに泣き腫らしたらしい両親と姉の香代子が入って来た。
「英二。大丈夫か?」
父の紘一が話しかけてくる。
まだ話せなかった俺は、首を縦に振って答える。
「本当に心配したんだよ。でも…本当に良かった。」
姉が、涙ぐみながら言った。
本当に心配してくれていたのか、家族全員本当に安堵の表情を浮かべているが、弟の、そして息子の片腕切断という痛ましい現実を見せつけられて、やはり動揺しているという雰囲気が、ひしひしと伝わってくる。
「大丈夫よ。先生も言ってたけど、今は良い義手があるらしいから。」
母の君江がぎこちない笑顔を浮かべながら言うが、極力俺の腕を見ないようにしていたのは、見ていて痛ましかったし、何より申し訳ないという気持ちが湧き上がってきて、いたたまれなくなってきた。
それからは誰が話すということもなく、暫く沈黙が続いたが、看護師が家族に面会時間が終わる旨を告げに来たのを機に、
「それじゃ、父さんたちは帰るな。また来るから。とにかくゆっくり休むんだぞ。」
そう言い残し、家族は病室を出て行った。
一人になって、さっきの司馬医師の言葉を思い出した。
右腕が無くなってしまった、こんなことって有りかよ、憧れの佐倉に嘘の告白なんてされて、あんなに謂れのない罵倒受けて、その上こんな事故に遭って、右腕無くすとか。
俺が何したって言うんだよ、何でこんな目に遭わなきゃいけないんだよ、これからどうやって生きていけばいいんだよ。
様々な負の感情が津波の様に押し寄せていて、俺はその日の夜は眠ることが出来ずに、ひたすら泣き続けて過ごしていた。
それから暫くは、俺は腑抜けの様にぼぉっと過ごしていた。
その間警察が来て事情聴取と説明を受けた。
それによると、事故当時青信号の交差点を歩いていた俺は、居眠り運転をしていたトラックに轢かれて、このような状態になったとの事だった。
その後、相手の保険会社の人や弁護士などの人たちが代わる代わる病室を訪れて色々な話をされてが、俺の頭の中に、それらの話が入ってくることはなかった。
何度か学校の先生や一部のクラスメイト達が面会に来たそうだが、会いたくなかったので、病棟前の受付で断ってもらった。
俺が意識を回復してから暫くして、ある程度体力が回復したのを見計らって、俺のリハビリが始まった。
だがほぼ無気力状態の今の俺にとって、リハビリはただの苦行でしかなかった。
ある朝の回診の時に、俺は司馬先生に心情を吐露した。
「調子はどうですか?」
「辛いです。俺何も悪いことしてないのに、こんな事故に遭って右腕迄失って。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんですか?こんな辛いことならいっその事死んでたら良かったのに!何で俺を助けるような事したんですか!?」
俺の半ば絶叫にも似た主張に、司馬先生の顔が一気に険しいものになった。
「患者を助けるのは私の仕事です。それから、この救命救急に運ばれた人の中で、一命を取り留めることが出来た人は、僅かに2割、多くても4割程です。大半の方は命を落としています。君とてここに搬送された当初は死んでいたっておかしくない状態だった。だがこうして生きている。右腕を失ってしまったことに関しては本当に気の毒だと思うが、それでも君は今生きている。死にたいなどという言葉、ここでは決して口にしてはいけない。」
口調こそ丁寧だが、僅かに怒気を孕んだ声色で、司馬先生が言った。
「それに、死んだら悲しむ人が居る。そういう人間は、簡単に死んではいけないのです。少なくとも君の家族は、今君が死ねば確実に悲しむ。だから君は精一杯生きる義務がある。お分かりか?」
今度はトーンを落として、諭すように司馬先生が言った。
先生の言ってることは理屈では理解できても、納得するには、やはりまだかなりの時間が必要だと俺は思った。
司馬先生が病室から出て行った後、俺は今しがた言われた司馬先生の言葉を、頭の中で反芻していた。
考えてみれば、先ず母は毎日リハビリの時間に必ず来てくれて、付き添ってくれているし、父や姉も時間を作って頻繁に面会に来てくれている。
息子や弟が体の一部を失くしてしまったという現実が辛くない訳ない。
俺だって家族が同じ目に遭ったら、心配で居ても立ってもいられなくなる。
それでもその気持ちをおくびにも出さず、いつも笑顔で接してくれている家族の事を思うと、少しだけこのままではいけないと思うようになった。
それからの俺は、前向きにリハビリに取り組むようになった。
一番苦労したのは、歩行練習と、左手で箸を使ったり、文字を書くことだった。
俺は右利きだったので、当然最初は苦労したし、歩行練習にしても右腕が無くなったことで、バランスが取れなくなって上手く立ったり歩いたり出来なかったが、それでも時間が経つにつれて、少しずつ今の状態に慣れることが出来た。
そして、俺が事故に遭ってから約4か月経った9月25日、念願の退院日を迎えた。
病院のロビーには、母の他に父と社会人の姉も仕事を休んで迎えに来てくれていて、更には副担任の島原先生も顔を出してくれた。
「横峯さん。良く頑張りましたね。若いとはいえ、ここまでの驚異的な回復力を見せた患者さんは、私が担当した患者さんの中で、君が初めてです。本当に大変なのはこれからですが、今の気持ちを忘れずに精一杯生きて行って下さいね。」
司馬先生が、労いの言葉をかけてくれた。
「はい。今まで本当にありがとうございました。」
見送りに来てくれた司馬先生をはじめとした、病棟の看護師長さんや看護師さんに深々とお辞儀をして、俺は父の車で帰路に着いた。