08
──10日後、冥道の森の先にある平地にて決戦を申し入れる。
矢にくくりつけられた文には、その一文と司令官の名前だけが記されていた。
「『望みの国』遠征軍総司令官 ソスラン。魔族に名を名乗るとは、愚かなのか馬鹿正直なのか」
『通常は誠意ですよ。もっとも、この方は誠意とは縁遠い方ですが』
従者が手に持った文を覗いて、娘が軽口を叩く。従者は横目で娘に視線をやった。
ここは娘が主人役となる調理場ではなく、従者の執務室だった。極秘文書のため、人が行き交う調理場で敵軍からの手紙の内容を話すわけにはいかず、移動してきていた。
この娘の態度は場所を変えたくらいでは変わらないのだな、とわかり切っていたことを改めて突きつけられる。
「知人か」
『ええ、まぁ。……おそらく、この方はわたしが生きていると察しておられるでしょうね』
「は? 貴様、連絡でも取っていたというのか?」
『そんなのムリでしたでしょう? この通り、歌を歌うことと料理をすることくらいしか取り柄のないただの娘ですので』
言っていることに嘘はないのだが、思わず従者は半眼で睨みつけた。この娘なら、それでもなにかを仕掛けたのではないかと疑ってしまう。
「……知人なのであれば、コイツの採りそうな作戦でも教えてもらおうか」
『わたしと同じ類の人間ですね』
「…………」
間髪入れずに返された答えに、従者は口をつぐんだ。それは、つまり。
『ですから、この開戦の文も文言通りに受け取らない方がよろしいでしょう。もちろん、戦の準備も必要ですが』
「……どんな策が控えているのか、わかるか」
『そうですね……正直、情報が少ないので断言はできませんが」
「構わない」
「わたしに出てこい、と言っているのでしょう」
従者は眉を上げて、娘を真上から見下ろした。娘は視線を上げずに、細い顎に手を添えて深慮望遠に意識を沈めているらしい。
「……目的はなんだ」
『……なにか交渉ごとをしようと考えているのはわかります。ただ、目的が……』
「わからんのなら、行ってみるといいだろう」
当然のように言うと、ようやく翡翠の瞳が従者を見上げた。大きな目をさらに丸くしている。
『……まあ、大胆な発想ですね』
「『交渉』なのだろう?」
『暗殺かもしれませんよ』
「なるほど。お前の同類が考えそうなことだ。ならば、私も同行しよう」
『それはもちろん。それでも、毒や呪い……戦歌姫の歌で拘束されるかも?』
「見くびるな。我が君ほどではなくとも、それしきで人間如きに遅れはとらん」
そう言うと、なぜか娘は悲し気に眉を下げた。この娘でも、こんな顔をすることがあるのか、と意外に思う。
『……本当に、従者さまは魔族らしい方ですね。魔王さまにそっくりです』
「なんだ、急に」
『脳筋ですね、と』
「文句があるならお前は来るな」
『それはそれで少し心配ですので、もちろんお供しますとも。……それでは、行ってみましょうか』
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娘が魔王の昼食の給仕をしてから、2人は馬で城を出た。馬に乗り慣れているらしい娘だったが、城を出てすぐ、視線があちこちとさまよっている。まだ街中なので、さほど速さも出ていないからだろう。
遅い午後。街には魔人も獣人もいて、ささやかな昼食を摂った直後でのんびりとした雰囲気だった。それでも露店の多い通りには武装した兵士が多く、彼らのぴりりとした雰囲気に戦時を窺わせる。
「地図で地形は把握していましたが、実際に目にするとやはり印象が変わりますね。本当に魔族の方ばかり」
声替えの術は、さすがに馬に乗りながらは難しいらしい。従者は不快感を堪えて、娘の言葉を受け止めた。
「ここは小さいながらも王都だ。これだけの獣人や魔人がいる場所はこのほかには地下帝国にはない。魔獣も、意思疎通が可能なものは都市内で生活している」
「星屑みたいな獣頭もたくさんいて、本当に地下帝国にいるとようやく実感が湧いてきました」
「観光気分か」
「従軍していたころはそんなゆとりがなかったもので。それにしても、以前から気になっていたのです。なぜ魔王さまのお城と王都は、冥道を出てすぐにあるのですか?」
娘の言う通り、地下帝国の首都たる王都「静かの都」は、冥道を出てから「沈黙の平地」と呼ばれる、草木一本生えない窪んだ平地を経てすぐの場所に設けられている。魔王城は都の中心にあるので、冥道から城まで、直線距離で一日も馬を走らせれば到着する。
すでに人間の軍は冥道の中腹まで迫っているので、いかに危機的状況か、魔族でもわかろうというものだ。
「人間の世界であれば、王は戦の最後まで軍を指揮するために奥の方に引っ込んでいますし、王都も奥まった場所につくります」
「我らが王に、なぜ身を守るなどという概念があると思う?」
そう返すと、娘は納得したように小さな口を閉じた。
「我が君が存在を害されるなど、この世のなにを持ってしても不可能だ。王を守るために城があるわけでもない」
「そうなのですか?」
「……王は、眷属たる魔族を守るために城を設けて、街をつくられた。一箇所に集めた方が、守りやすいと仰られる」
従者の言葉に、娘は体を震わせた。白い頬が紅潮して、翡翠の瞳が涙に滲む。虹彩が虹のようにきらめいて、宝石を散りばめた彫刻が命を持っているようだった。
「まぁ……! さすが魔王さま! 慈悲深くていらっしゃる……! そんな魔王さまに身も心も捧げられるなんて、なんというご褒美でしょう!」
「言い方」
「わたし、てっきり昔人間との交流があったころに『行き来するのが面倒くさいから』とか、そんな俗な理由を考えておりました。やはり、わたしは人間の卑小な発想を超えられませんね……」
「…………」
この娘の魔王を慕う気持ちは本物だ。なので、まあ、そういった理由もあったことは伏せておく。従者は忠臣であったし、娘の慕情は悪いものではないので尊重していた。
「……街を出ると、すぐに『沈黙の平地』だ。なにもなく、見通しが利く」
「人間の軍は5万ほどです。兵糧がなくなったり、前司令官が亡くなったりしていますから、腰抜けどもはすでに軍を離れているでしょう。200名ほどは減っているのではないでしょうか」
「それでも、平地が人間で埋め尽くされる」
「逆に言うと、それだけの兵を配置するには『沈黙の平地』以外にこの地下帝国にはありません。もし本気であちらが戦を仕掛けてくるなら、この場所以外にはないでしょう」
「"本気で"?」
「あの方、正面突破みたいなことはあまりお好きではありませんから」
あの方、というのは、例の『望みの国』遠征軍総司令官のことだろう。
「……親しかったのか」
「……まあ、それなりに。仲良しだったわけではありませんが、付き合いだけは長かったですね」
そう語る娘の瞳は、どこか遠くを見ていた。自分が棄てたものを思い返しているのだろう。だが、すぐに翡翠の瞳にきらめきを取り戻して、細くて白い指を持ち上げる。もう城門の前まで移動していた。娘が指す先には、薄暗くなにもない『沈黙の平地』が見える。
「『沈黙の平地』を取り囲むようにして、森がありますね」
「ああ。冥道から続く森だ。深いぞ」
「そちらに行きます。そうですね……冥道から続いているのなら、冥道の出入り口側に向かいましょう。彼がいるならそこでしょうから」
その口調からは、例の司令官が「いる」と確信しているようである。
窪んだ平地を見ながら森に入る。いくばくか馬を走らせながら、従者は口を開いた。
「……その男とは、どんな関係だったんだ?」
「騎士さまのことですか? ふふ。気になります?」
「ただの暇つぶしだ。答える気がないのなら別に構わない」
「兄、のような方でしたね。いえ、父親でしょうか?」
意外にも素直に応えが返ってきたので、かえって従者は面を食らった。隣にぴったりと馬を寄せてくる娘の横顔に気負いはない。森は深く、今は人間の気配はおろか、魔獣の気配さえもなかった。静かな森に、娘の美しく不快な声がそよそよと流れる。
「とある戦場で会ったのです。まだわたしが戦歌姫になる前、戦歌姫になって戦場に出ようと心を決めたころのことです。3カ月ほどともに行動をして、まあ、彼のコネを使って戦歌姫として軍に入り込みました」
「……恩人ではないか」
「その前にしこたま恩を売っておりますので、貸し借りはなしです」
どうやら、ずいぶん幼い頃からこの娘はこうだったらしい。別に戦場で性格が歪んだわけではなさそうでなによりだ。
「ともに過ごしたのは3カ月程度です。ただ、同じ戦場に立つことも多かったですし、わたしもあちらも目立つので、顔を見かけたら挨拶はする程度の交流は続いていました。それも、あちらが出世されて現場に出てくることが減ってきたころから、お見かけすることも減りましたが」
「……お前に悪知恵を教えたのは、そいつか?」
「いいえ」
くすり、と軽やかに笑うので、師弟というわけではないらしい。そこでほっと胸を撫で下ろした。この娘より弁が立って頭が回る人間に、魔族が対処できるとは思えなかったのだ。
「ソスランと言ったか。どういう人となりだ」
「古い騎士道精神を重んじる、古風な騎士さまですよ。ご実家は貴族で神に仕える血筋だそうで、生涯不通を誓われているとか。まあ嘘ですけど」
「神職の騎士か。よくお前のような邪悪とともにいられたものだ」
「神職が騎士をやっているんですから、半端者なんですよ」
娘の評価は辛辣だったが、その声には親しみがこもっていた。どうやら、兄だか父だか、近しく思っているというのは嘘ではないらしい。思えば、この娘は案外嘘は言わなかった。言わないことが多いだけだ。
「とってもお人好しで、孤児を憐れんで食べ物と寝床と働き口をよこすような変わり者です。部下からは慕われて、上司や王族、ついでに貴族にも嫌われている偏屈者です。……この出征にも、反対していました」
そこまで言って、娘はふと黙り込んだ。なにかを思いついたらしい。
「……そう、反対していたのです。それは──」
「お前にしては、血の巡りが悪いな。アイネ」
森から、男の声が響いた。若くも、年老いているようにも聞こえる。人間の年齢は魔族には分かりづらい。
人間の魔術で、声をどこかから届けているのだろう。姿も気配も付近にはなかった。それに構わず、娘は馬を止めて顔を上げた。
「お久しぶりです。顔くらいお見せになってはいかが?」
「なんだ、俺が恋しかったのか?」
「以前ご挨拶したのは、殿下の寝室前でしたね。ガン無視されましたけれど」
「上司の寝室前で、姫に挨拶なんぞできるか。空気を読んだだけだ」
「恋しかったとかよくもふざけたことが言えますこと!」
「お前がなんの考えもなしに男に股を開くか。悪巧みの邪魔をせず、むしろ感謝してほしいくらいだ」
……なんだか思っていたのと少し違った。
従者は戸惑いながら、旧知の仲である2人の会話を黙って聞くことに決める。この2人の間に入り込むほどの話術はなかった。周囲に意識を集中する。まだ人間の気配は見つからない。魔道具でも使って気配を消されているのかもしれない。それは厄介だった。
「まあ、悪巧みなんて人聞きの悪い。権力者に求められて拒否できる戦歌姫なんておりません」
「娼婦代わりの存在だと言って聞かせたのに、それでも戦場に出るために、と望んだのはお前だ。その先でなにをしようが、俺には関わりないことよ。……なんだ、止めてほしかったのか?」
そこで娘は口を閉じて、口角を上げた。男も笑った気配がする。
「ほら見ろ、悪い顔だ」
「……従者さま」
「わかっている」
娘の顔が見られる位置にいる。この見通しの悪い森で、遠くから娘の表情をうかがうのは難しい。
「そちらの美男は、魔族でも高位の御仁とお見受けする。申し遅れた。私は遠征軍総司令官ソスラン。あなたもこの娘の被害者か」
「そうだ」
「即答なさるのですね」
「魔族は名を明かさぬ。宵闇と呼べ。夜の眷属を率いる者で、王の補佐をしている」
声は一瞬途切れた。息を呑んでいるように感じられる。
「……このあばずれめ。大物を釣り上げたな」
「……従者さまをそこらの腐れ騎士どもと同じに考えているなら、あとで痛い目に遭わせますよ」
また息を呑む気配がした。あるいは、従者自身が息を呑んだのかもしれない。翡翠の瞳が、怒りの炎にきらめいていた。
「……宵闇どの。無礼を詫びよう。いささか、その娘に対しては過保護に扱ってしまう」
「私の過保護とは定義が違うようだ。……要件は娘にか、それとも魔族に対してか」
「どちらにも」
そこでようやく、ソスランは姿を見せた。なにもなかったはずの木陰から、ふいに馬に乗った騎士が現れる。やはりなにかの魔術を使っていたらしい。人間の魔力は魔族と比べると小さなものだが、技術や理論は連綿と受け継がれていて、技術面では魔族を上回る者もいた。
騎士は、容姿で判断すると中年に差し掛かったころだろう。筋肉で覆われた分厚い体躯、精悍な顔立ちには小さな傷跡がいくつも見える。濃い茶色の髪は短く刈り込まれていて、獣めいた雰囲気を纏っていた。目元は落ち窪んで加齢を感じさせるが、青い瞳には高い知性が感じられた。値踏みするような視線を体に受けて、従者は片眉を上げた。やっぱり思っていたのと違う。
「アイネ、まずはお前に。私とともに帰る気はあるか?」
「ございません」
娘は即答した。家出娘が帰宅を拒否するようなやり取りだと思う。もっとも、帰られると困るのは魔族だった。
「ソスランさまは、わたしの念願をご存知のはずです」
「魔王に一目会うこと、だったか」
「魔王さまに死に際を看取られることです!」
「そういう早死にしそうな夢は捨てろといっただろうに……」
「夢が叶いそうなのです。帰る理由がありません」
娘の言葉に、騎士は片眉を上げた。正気か、と青い瞳が言っていた。
「……我が君は、この娘を城の捕虜として扱うと決めた。再び戦場に出られると厄介なので、解放する予定はない」
従者の言葉を受けて、馬上でふんぞりかえる娘。
「愛は勝つ!」
「負け陣営に与しておいて勝つ気か」
「そっちの話ではございません。……もっとも、今はそちらの方が分が悪いのではありませんか?」
娘がにやり、といつも以上に意地悪く笑む。美貌は変わらないが、なんだか子どものようだった。
「誰かさんの入れ知恵のせいでな。……真面目な話だ、アイネ。俺とともに帰れ」
「だから……」
「宵闇どの。この娘を解放してくれたなら、我々は軍を引き、今すぐ地下帝国から撤退すると約束しよう」
地下帝国に陽は差さない。鬱蒼と繁った森にはほかに魔獣も人もおらず、夜より深く鎮まっている。
聞き間違えようのない状況だった。従者は、自分の息が止まるのを感じた。
「……正気か?」
「正気です。この娘には、それだけの価値がある」
──黄金の価値を持つ戦歌姫。
その、真の価値を知る者は限られている。輝く容姿でも、稀なる歌声でもなく。彼女の真価は──
「……どういうことですか、ソスランさま?」
「俺たちの戦う相手は、領地で大人しく暮らしている魔獣や魔人なんかじゃない。昔から、ずっとそうだっただろう?」
騎士の言葉に、娘は口を閉じた。どうやら人間には人間の事情があるらしい。
従者は、なにも言えなかった。本当ならなにか言うべきだっただろうが、なにも言えなかったのだ。表情だけは平静を装って、低く声を絞り出す。
「……この娘の処遇は、私だけの判断では決められぬ。持ち帰って主君に採決を──」
言って、従者はそこで口を閉じた。振り返って魔力をこめた手のひらをかざすと、そこに鋼の大剣が振り下ろされたところだった。
ぎぃいいんッ、と重い鉱物同士がぶつかる鈍い音が森に響く。
──疾い。
人間とは思えない速さで、その重い一撃は繰り出された。辛うじて捉えた人影は、まだ若い騎士のようだった。2撃目に備えて騎士の手元に集中する、その一瞬。
周囲に白い煙が立ち込めた。煙幕だった。
「しまっ……!」
魔力で瞬時に煙幕を吹き飛ばしたが、すでに騎士たちと娘の姿はなかった。
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