07
娘は厨房で野菜をみじん切りにしながら、混乱した思考を整理しようとしては、何度か失敗を繰り返していた。
世界の理。それは、『この世界がなんであるのか』という問いに対する答えだ。そして、そんな抽象的な問いに、明確な答えが用意されているとはさすがの娘も思わなかった。
つまり、この世界は──。
「魔王さまと前のオンナとの、思い出の縁ということですか……ッ!」
だん、と大きく振りかぶった包丁がにんじんを真っ二つにする。その爽快感も、今の娘の心を落ち着かせることはなかった。
魔王は『王に仕えていた』と言っただけだ。だが、娘の勘は、オンナだと告げていた。間違いない。しかも、心底忠誠を捧げた、「たったひとりのひと」がいたのだ。そして、そのオンナから下げ渡されたものだからこそ、故郷に帰る方法も忘れるほどこの世界を大切に育んだのだ。
まるで、2人の愛子のように──
「くぅ……! 過去のオンナに勝つ方法ってないんですよ! 思い出って美化されますから!」
ぐだぐだの破片になるまでにんじんを切り刻み、熱したフライパンに放り込む。次に入れるのは芋だ。大きめに切っていいはずだが、諸事情で多少細かくなっている。味は変わらないから問題ない。少し火の加減を抑えるために、普段なら釜戸の炭を調整するのだが。
「……空気を抜いてくださいな」
すると、ゆっくりと大気が揺れて、火の勢いが落ちていく。ごっそりと体力を持って行かれた感覚がするが、今は怒りと混乱が大きくて気にならなかった。
魔術はこの世界との『交渉』だ。語りかけ、同意を得て理の力を得る。ということは、理本体に語りかけるという気付きが『魔術の理』だろう。
──わたしはあなたの新しい義母です。わたしのお願いを聞いてくださいませんか?
そんな心持ちで世界に語りかけると、手応えが返ってくる。
──人間風情が義母とは笑わせる。笑った分だけ返してやろう。
それで、魔力量に対して微々たる効果しか得られないのだ。本来の魔術の使い方から考えれば、完全に舐められていた。くそう。
「生意気な子、生意気な子……! きっと前のオンナのまねっこしているに違いありません!」
仮想敵であるオンナの容姿を脳裏に浮かべる。赫い瞳の金の王。魔王さまの『この世でもっとも価値あるもの』。
「……ずるい」
思わず口から出たのは、人生で数度も口にしたことのない言葉だった。
──わたしだって、魔王さまにそんな風に想っていただきたい。
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「訓練は無事に終えられたようだな」
調理場で夕食を摂る従者に、そう声をかけられた。いくらか心配している声音を感じて、娘はこっそり癒される。
『ええ。ご心配いただき、恐縮です』
「……なにか、戻ってきてから荒れていた、という報告が上がっている。お前、声も変えずに延々ひとりでぶつくさ言っていたそうだな。狂気を感じて皆が不安がっていたぞ」
『あら』
それは申し訳ないことをした。先ほど、魔力の乗った声は相手を縛ると教わったばかりだというのに。しかも、『世界の理』を理解してしまったのだから、効果も多少は違うはずだった。
『申し訳ありません。以後気をつけます』
「なにをそんなに荒れていた? 魔王さまにいじめられたか?」
『それだったら、かえってごほうびだったのですが』
「お前本当に気持ちが悪いな」
『……従者さまは、魔王さまと魔術のお話をされたことはありますか?』
「いや。畏れ多くてそんなこと、考えもしなかった。私はよく使える方で、教えを乞う必要もなかったしな」
『……そうですか。わたしのほかに、魔王さまと魔術のお話をされた方って、いらっしゃいます?』
「聞いたことがない」
それで、娘はようやく機嫌を直した。
過去のオンナの話をしはじめるのは、こちらに関心がある証だろう。それならばいい。
もとより、完全に魔王の心を手に入れよう、などと大それたことを考えているわけではない。本当に、今の生活が死ぬまで続いて、死ぬ間際に彼にそばにいて、そしてあの美しい涙を流してくれれば、それだけで後悔のない人生だったと胸を張れると信じているだけなのだ。
『……なら、良いです』
「? まだ具合が悪いのか」
『いいえ! いつでも魔王さまのために昔のオンナと対決する用意はできています!』
「お前の思考が明後日すぎて狂人にしか見えん。……それより、お前の言う通りに兵の編成を急がせたぞ。明日にはある程度、塊で動くようになるはずだ」
『まあ、ありがとうございます』
直前の暴言は聞かなかったことにして、にこりと微笑みを浮かべる。夕食の野菜スープと芋パンを食べ終えた従者は、姿勢を正して娘と視線をあわせた。
「……今回はこちらから戦を仕掛ける、という話だったな」
『はい』
魔力溜まりの不調から回復してすぐ、次の打ち手をこの魔人に語っていた。娘も最後の芋パンのかけらを口に含んで飲み込む。
『できるだけ、速やかに戦の準備を整えてください。きっとすぐに人間の軍が戦を仕掛けてきますから』
「なぜだ?」
『補給がないんです。ごはんがなくては、ひとは戦えないんですよ』
だから、相手に時間はない。すぐにでも魔王の首を狙ってくる。もしくは、魔王の城を目指して進軍してくる。
「? なら、正面から向かえ撃たずとも、自滅するのを待てばいいのではないか?」
『あら、従者さまにしては真っ当な策ですね。わたしの性格が移りましたか?』
「私を侮辱する気か!」
『まさかのマジギレ。いえ、その策は正直好みなのですが、それだと、魔族の側に犠牲が大きいのです』
「なぜだ?」
『追い詰められた鼠は猫を殺してしまうこともありますから』
食糧がなくなり、自暴自棄になった人間は恐ろしく攻撃的だ。道連れに多くの魔族が犠牲になっては、なんのためにここまでこっそり駒を進めてきたのかわからなくなる。
従者は納得した表情でうなずいて、
「ならばどうする?」
『……そうですねえ……ここは少しだけ、考えどころなのです』
魔族に軍隊らしき機能を持たせようと、隊を編成してもらった。歩兵と飛行兵で編成して、隊の最小単位は3名。中隊は小隊10組の集まりとし、大隊は中隊4組で構成した。
けれど個人主義の魔族がその動きに馴染むには、全く訓練が足りない。なので、真正面から戦わせるわけにはいかなかった。
『狙うのは短期決戦です。しかも、人間側の士気を徹底的に挫くほど、圧倒的な勝利が必要です。ですが、向こうも必死に抵抗するでしょうからよほどの決め手をつくらなければ』
「……心当たりが、ないでもないが」
『まぁ、本当ですか! でしたらさっさとお使いになればよろしかったのに!』
「……圧倒的な力というのは、使い所が難しい。この世が終わるかもしれない力を、たかが人間との小競り合いで持ち出すわけにはいかんだろう」
苦い表情を浮かべているので、冗談ではないらしい。娘は一瞬、考えた。
『……魔王さまのお力を借りる、ということでしたか?』
「そうだ」
創世の王。この世を創ったと言われる神のごとき存在。実際は神にこの地に堕とされた健気な天使といったところだ。神からこの地を託された、真の王の力。
それを娘は、かつて目の当たりにしたことがある。
『……できれば、使わないでいたいものですが』
「ああ、あの方のお力は強すぎる。人間を根絶やしにしては、こちらとしても後味が」
『魔王さまが、悲しそうな顔をされますもの……』
かつて娘が見た魔王の力。あらゆる存在を泥にしていた。存在を泥に変質させるのではない。人間を泥のような肉塊と血だまりに変えていた。どのような魔術なのか、はたまた魔法なのかはわからない。
それでも、彼が腹心の魔人を殺されるまでその力を使わなかったのは。
『きっと、あの力を使うことは、お好きではないのでしょうから』
「……ああ」
お優しい魔王さま。そんな美しい貴方だからこそ、黄金は貴方を、愛おしいと思うのです。
「……ならばどうする? 必勝の策などあったら、それこそもう使っているぞ」
『そうですよねえ。ううん……わたし、そもそも軍の作戦などには向いていないんですよ。戦の裏でちょっとしたいたずらを仕掛けるのがせいぜいです』
「……ちなみに、軍や作戦のことは置いておくとして、お前の戦の前後の計画を聞いておこう」
『短期決戦で圧倒的勝利を得て、向こうの指揮官と交渉します。捕虜をこちらで保護すると誓約した上で、和平条約を締結。人間の軍が帰途につく半年間の間で、人間の国が地下帝国に関わっている状況ではなくしてやります』
上品に笑ってみせたつもりだったが、従者は半眼で眺めてきた。所詮、流民の生まれでは上品さも上っ面だけだと見抜かれてしまったか。
「……捕虜は返すのが普通ではないか?」
『向こうは今、食糧が枯渇しています。帰路で余計な人員を増やすわけにはいかないでしょう。それなら、生存を確約させた上で後日引き取りに来た方が都合がいいのです』
「なるほど」
『捕虜はもちろん、丁重にもてなします。ええ。なにせ、いずれは人間の国に帰るのです。この国がとっても居心地が良いと伝われば、良い評価を国に持ち帰ってくれるでしょう』
あのクソのような人間の国より、ぜったいにこの国の方がいいと言わせる自信が娘にはあった。
捕虜を引き込み、国に反乱の火種を持ち帰らせる。
どれもこの先に必要な打ち手だ。
どこまで意図が伝わったかわからないが、従者は静かにうなずいた。
「……なるほど。お前の戦場は、戦場ではないのだな」
『ええ。つねに勝ち続けたいのなら、勝てる土俵に立つことが肝要です』
それでも、つねに勝ち続ける、などということは現実的ではない。負けないこと。それが勝ちを引き寄せる場所づくりの第一歩だ。負けなければ次がある。
『……これまで戦で負け続けても、最後に和平を結べれば負けではありません。なんとしても、今回の戦だけは効果的に勝つ必要があります』
「わかった。なにか、こちらで策を考えて──」
「宵闇さまー! 宵闇の君ー!」
ぱたぱたと騒々しい足音とともに調理場に入ってきたのは、星屑だった。
「やっぱりこちらにいらっしゃった! こんなところで黄金さまといちゃいちゃしている場合ではありません!」
「お前一言多いと言われることはないか?」
「軍の伝達係が、人間の軍からの文を持ってきています!」
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