32 来訪
「……私は別に話などありません」
冷たい表情でそう言う従者に、アイネはうっと息を詰めた。まだ怒っている。魔王が呆れたようにため息を吐き出した。
「いいから、ちゃんと話をしてこい。ただし、娘から目を離すなよ。お前の部屋に連れ帰ってもいいから」
「連れ帰りません!」
「じゃあわたしが連れ帰りましょうか?」
「お前は話をややこしくするな! というか、連れ帰って私になにをする気だ⁈」
「あら、そんなの……」
会話が盛り上がってきたところで、しかし廊下がにわかに騒々しくなった。寝所の扉の前で魔王を護衛していたバトラズが警戒の視線を周囲に向け、そして目を見開く。
「司令官殿?」
「バトラズ! 夜の王、アイネも魔王も起きているか⁉︎」
言いながら、もうソスランは半身を扉にねじ込んでいた。軽装だが、表情は切羽詰まっている。
『どうしました?』
「……王が……『望みの国』の王が、死んだ。今、王太子がこの都に来ている」
アイネは、一瞬自分の呼吸が止まったのを感じた。
『……なぜ……?』
「王の崩御を知らせに来た、というのがあちらの言い分だ。今ファルヴァラが対応に向かっているが、じきに俺もお前も呼ばれるだろう。身を隠せ!」
ソスランの言葉に、魔王が不思議そうに首を傾げた。
「この娘は、少なくとも人間の国にいたころはただの戦歌姫だっただろう? なぜ王太子からわざわざ呼び出されるんだ?」
「……アイネは一時、王太子の歌の教育係をしていたことがある。かなり気に入られていましてな」
『その時の縁で、王弟殿下にも気に入られてまあ、しつこくされたわけです。戦場で歌うのはわたしの務めですが、最終的には最前線からも外されました。魔王さまをお見かけする機会を幾ばくか奪われた恨みは殺しても晴れませんね』
「……つまり、その王太子はこの娘の見た目も中身も正体がはっきりしている、と?」
『いえ、だいぶ猫を被っていましたので。でも、顔を見られれば誤魔化しきれません』
ソスランが王都に王弟暗殺を報告していなかったのなら、戦歌姫の死亡など王都に届くはずもない。当然、アイネがいるものと思って呼び出される。ソスランが身を隠せ、と言ったのは、捕虜になっていることを伝えなければそのまま王宮に連れて行かれるからだろう。
「わかったら行け。護衛にバトラズを連れて行ってもいい」
「月光、いるか」
魔王の声に、アイネの影から月光が陽炎のように姿を見せた。これが魔術なのか夢魔の業なのか、アイネにはわからなかったが、こうやっていつも自分のことを見ていたのか、と驚く。
「御前に」
「娘を守れ。声は使わせるな」
「御意」
「黄金さま! お早く」
フードをかぶって廊下に出ると、バトラズに手を引かれる。けれど、一足遅かったらしい。
背後から、幼い少年の声が響いた。
「やぁ、ぼくのアイネ。どこに行くの?」
記憶よりも、はっきりとした物言いになっている。けれど、甘く砂糖菓子のような少年期独特の声は、アイネにとっても忘れられるものではない。
アイネは眉を下げて、ゆっくりと振り返った。
そこには、満面の笑みを浮かべた美しい少年と、杖を持った初老の男が立っていた。
少年の金茶の髪はつやつやと輝いていて、ていねいに手入れされていることが一目でわかる。傷ひとつない白い肌は柔らかそうで、瞳は紫水晶のようにきらめいている。無垢な笑顔は子どもらしく、発する言葉は無邪気で傲慢だった。
「迎えに来たよ。ぼくのアイネ」
『……王子さま。わたしは貴方のモノではないと、お話ししましたでしょう?』
「ふふ。でも、乳母たちはみんな『貴方さまに求められて、断る娘などおりません』って言うんだよ」
あのクソ女共、まだそんなことを言っているのか。
内心で口汚く罵りながら、アイネは困り顔をつくって見せた。
『でも、皆さまはこうもおっしゃったのでは? 「どこの馬の骨ともわからない下賤の娘など、侍らせても楽しくございませんよ」と』
「ふふふっ! やっぱりアイネはすごいなぁ。なんでわかるの? でも、ぼくは気にしないんだ。だって、ぼくとちゃんと遊んでくれたのはアイネだけだったから」
ソスランが、ちらりとこちらに視線を投げてくる。
──どんなコトして遊んでたんだ!
──本当に普通にお話相手をしていただけです!
アイネが王太子──当時は王太子ですらなかった──の教育係という名の話相手をしていたのは2年も前で、戦歌姫として名が広まったころに王宮で歌うことがあったのがきっかけだ。当時、少年は8歳で、アイネも15歳。大したことなどできるはずもない。
「盤上遊戯でぼくに勝ったのは、アイネとソスランだけだよ。だから2人が無事で、とてもうれしい」
アイネはソスランに視線だけで語りかけた。
──貴方だってなにしてるんですか!
──王命だったんだよ!
「2人のこと、ずっと心配してたんだよ? お父さまはもういないし、戦なんて止めて戻って来なよ」
「……それ、は……」
ソスランもアイネも、呼吸を止めた。
──戦を止める、というのは、終戦するということだろうか?
ソスランと魔王が結んだのは休戦協定だ。終戦するには王の承認がいる。だからこそ地下帝国はソスランの反乱に協力する必要があったのだ。王が休戦するというなら、地下帝国はソスランの軍に随行する必要はない。
一方、ソスランの反乱計画は地下帝国との終戦が目的ではない。あくまでも現王家の打倒と現制度の見直しだ。ここで地下帝国の協力が得られなくなるのは、ソスランにとって痛手だろう。
「……戦を止める、というのは、王太子のご判断ですか?」
「そうだよ、ソスラン。お父さまは亡くなったし……それに、叔父さまも死んだんだよね? だからきみたちがここにいる」
王太子は無邪気な笑みを深くした。昔から、彼は賢い子どもだった。きっと、どの大人よりも状況を把握する能力に長けている。王弟が死んだこともつかんでいるようだ。彼は魔族のようにチョロくはない。
「叔父さまもお父さまも死んだんだから、戦なんて止めて、ぼくたちもこれからは楽しく過ごそう!」
「──ひとの国の王太子よ」
低音の美声に、王太子が視線をそちらに向ける。部屋から姿を見せた魔王だ。
「その娘は私のものだ。勝手に連れて行かれるのは面白くない」
「……おじさまは……噂に聞く魔王さまかな? 美しいひとだね」
王太子は口元に笑みを浮かべる。けれど、瞳はじっと魔王を観察していた。
「でも無能だ。お父さまたちに戦で負けてコマを失うなんてあり得ない。ぼくでもそんなことにはならないよ」
「……貴様、王を愚弄して、生きて帰れると思うな……!」
今にもつかみかかりそうな従者を、ソスランが低い声で制する。
「夜の王、今は引いてくれ。戦になる」
「ふふふ! ソスランの言う通りだよ。せっかく戦を止めようって話をしてるのに、台無しになっちゃうよ?」
王太子は無邪気そのもので、魔王はため息を吐き出した。
「……私が戦下手なのは認めよう。だが、それと娘を連れて行くのは関係がない」
「あるよ! ぼくと一緒に遊ぶ方が、アイネだって楽しいでしょう? ソスランだっているんだし」
ソスランの表情を見ると、迷いが生まれていた。ここで王太子を捕えるか、まだ見逃すべきか。おそらく──
『……では、ご一緒いたしましょう』
「おい!」
従者の引き留める声に、アイネは振り向いた。首を横に振る。
ソスランが今、王太子を捕えようが見逃そうが、正直言ってアイネには関係がない。
ただ、今の地下帝国に人間との戦を乗り切るほどの体力はもうなかった。もし魔族が全滅するようなことがあれば、魔王が全てを泥に戻してはじめからやり直してしまうだろう。
なにより嫌なのは、泥の世界でひとり泣いている姿が想像できるところだ。アイネは魔王を悲しませたくない。
アイネの返答に、王太子は満面の笑みを浮かべる。
「やっぱりアイネはお利口だね。じゃあぼくはこれで帰るよ。ソスランと魔王さまは、あとからのんびり王都に来るといい」
王太子はアイネの手を取って、背後に控えていた初老の男に視線をやる。男は杖を振って、魔法陣を発動させた。形象魔術だ。形でもって『理』と対話する魔術。効果がなにかは娘にはわからない。
「待て。それは今、重い病を抱えている。面倒を見る者が必要だ」
「えっ、そうなの?」
王太子が見上げてくるので、アイネはうなずいた。魔王が言うのは魔力溜まりのことだろう。魔術の行使ができなければ、誰かに魔力を抜いてもらわなければならない。
「宵闇、お前が行け」
従者は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。王太子が唇を尖らせる。
「うーん。アイネが元気じゃなくなるのは困るし、仕方がないかなあ」
「……王太子。彼はかなり高位の魔人です。安易に連れ帰って、暴れられればお命が危険にさらされるやもしれませぬ」
背後の魔術師が進言した。王太子が眉を下げる。
「……うちの警備は、魔人がひとりで暴れたくらいで機能しなくなるの?」
「いえ。そのようなことは……」
「じゃあ別にいいよね! アイネはぼくのお妃さまになるんだから、従者くらいは受け入れないと」
王太子は笑って、従者に小さな手を差し出した。従者の方も戸惑いながら握り返す。
「じゃあね! みんな」
魔術師は今度こそ杖を振って魔術を行使する。白い光に包まれ、一瞬目が眩んだ。
──アイネが再び目を開くと、かつて見た王城の庭園に立っていた。
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