30 理の器
「お前、『理』に飲み込まれているぞ」
魔王の顔色は、泥人形らしく真っ青だった。いつになく余裕のない緊迫した表情を浮かべている。
けれど、この麗しい王がなにをそんなに慌てているのか、アイネにはさっぱりわからなかった。
「どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。お前は『理』の器になりかけている。と言っても、『理』そのものに意思はない。取り込まれて『枝』を彩る新芽になるだけだ」
いろいろと理解し難い単語が多い。まだ飲み込めずにいると、魔王は焦れたように、
「要するに、人間ではなくなる」
と言った。
今まで「悪魔」「女狐」「泥棒猫」「呪い子」「人形」「魔女」……散々人間以外の存在に喩えられてきたので、いまいちぴんとこない。
「……わたしが人間以外になると、なにかまずいことになるのでしょうか?」
「お前が人外級に見目が整っていて底意地が悪いことは皆が承知している。重要なのは『理の器』の方だ」
『理』。またはこの世界そのもの。『理』とコミュニケーションを取ることで、ひとや魔人は魔術を行使できる。
コミュニケーションとは言うが、おそらく『理』側に意思はない。そういった、温もりのある反応はほとんど来ないのだ。あるのはただ、「こう言えばこう答える」という反射。あるいは学習の結果による反芻。反射の数が数多あるため、意思を持っているかのように見えるだけの自動存在。
「……あれに器が必要なのですか?」
問いかけると、魔王がまた息を呑んだ。こちらをまっすぐに見つめる黒曜石の瞳は見たこともないほど真剣で、ずっと見つめていてほしくなる。
「……そう、あれに器は必要ない。『理の器』は結果に過ぎない。実際は、お前の意識が『理』に飲み込まれて一体化し、お前そのものが『理』になる」
「『器を持った理』という表現の方が近そうですね」
「『理』はただの『世界樹』の防衛機構だ。反射でしかない。だから誰がなにを呼びかけても返すのは反射としての役割りだけ、つまり魔術反応だけだ。
だが、私やお前は『理』の本質に呼びかける。だから『理』も本質を返す。本来、『理』に語りかけられるのは私のような創世にかかわる者だけだが、お前はどうやら世界の成り立ちを理解したらしい。そのくせ魔力も体も貧弱で、自衛できない。だから『理』に取り込まれる」
「では、このまま魔術を使う……『理』と会話を続けると……」
「お前は、お前ではなくなる。ただ『世界樹』の反応を返すだけの存在になる。かつて人間たちはそれを神だとか巫女だとか言っていて、今の神殿で祀っているのもそうしたモノだった。笑わせる。神と人形を同じにしてくれるな」
魔王が言う神とは、彼の王──つまり、前の女のことである。確かに、人形と同じにされたくはないだろう。
「……このまま、魔術を使わなければいいのでしょうか?」
「今はまだお前の意識がかなり残っている。人間の一生は短いし、気をつけていれば大丈夫だろう。……もうお前は魔術を使うな。魔力溜まりは私や宵闇が魔力を抜いてやる」
「……歌も、歌ってはいけませんか?」
歌うことは生活の糧を得るための手段だった。これから歌えないとなると、自分の手札が一枚減ることにもなる。
一縷の望みを託して魔王を見上げると、整った顔が残念そうに左右に動いた。
「そうですか……」
「お前は『理』を理解した。お前の声も言葉も『理』に届く。『理』に届けば、あれは反応を返す。お前は対価として、お前の意識を差し出すことになる。『理』の本質を借りる対価として、お前が渡せるものはそれくらいしかないからだ」
「……そうですか」
「お前が美しいのも良くない。美しいということは、『形が整っている』ということだ。整った形には力が宿る。お前は存在するだけで魔術的な意味を帯びている。戦歌姫としてお前の歌の効果が高かったのは、魔力の有無よりも形として魔力の媒介になっていたことの方が影響が大きい。それが『理』を理解した今、ただの言葉以上に力を持つことになる」
「なら、顔に傷でも入れれば多少は効果が薄れるでしょうか」
「やめろ! 顔に傷などつけるな! 自分を大事にしろと言っているだろう!」
魔王は叫ぶように言って、娘の両手を握りしめた。今すぐ短刀で顔を切りつけるかもしれないと思われたらしい。するどい。止められなければ迷わず実行していた。
「そうは言っても……」
「その声もやめておけ。普段宵闇や月光と話しているときの声にしろ」
『……そうは言っても、顔の傷ひとつで寿命が伸びるなら、やって損はないのでは? いくらわたしが命知らずでも、魔王さまや宵闇さまを前に、望んで早死にしようとは思っていません』
「嘘をつけ。お前、家出したときに『失敗して死んだらそれまでだ』とか思っていただろう」
──本当にするどい。
なにも言い返せないので黙っていると、魔王は大きなため息を吐き出した。
「何度も言うが、お前は本当に自分の存在を軽く扱いすぎだ。そうしなければ生きていけなかった事情は汲むが、これからそういう考えは捨てろ」
『わたしの体です。わたしの人生です。どう扱おうとわたしの自由では?』
「お前ひとりで生きているつもりか。お前は誰に生かされてここにいる?」
また黙るしかなかった。地下帝国の捕虜になってからのことだけを考えても、魔族がこれほどチョロ──温かいひとびとでなければ、娘の命はすでにないだろう。人間の国の他国と戦争中、捕虜になれば命があっても食うに困るのが常だ。もちろん、アイネはそんな場面でも汚く生き延びる方法は心得ているが、そうまでして生きようと思えたのは魔王の存在あってこそである。
少なくとも、アイネはこれまで魔王の存在によって生かされてきていた。
『……魔王さまはずるいです。魔王さまにそう言われて、わたしが反論できないのをご存じなのですから』
「自覚があるなら、何度も私に言わせるな。さすがに不快だぞ」
『でも、それならなおのこと、顔に傷をつけるか、手足の一本くらいなくしてしまえば良いのでは? その分長く魔王さまたちと一緒にいられるわけですし』
「だからやめろ。最悪の事態になれば考えないでもないが、今はそんなことをしなくてもいい」
そう言う魔王があまりに必死な様子なので、場違いにも娘の口元が綻んだ。きっと魔王は不快に思うだろうし、実際にじろりと睨まれる。
「……なにがおかしい」
『いえ。魔王さまって、意外とわたしの顔がお好きだったのですね?』
興味がなければ、傷をつけようがどうしようが構わないと言うひとだ。自傷を推奨するような人柄ではないけれど、命と比べれば命を優先する。それが、こんなに懸命になって止めるのは理由があるからだ。たとえ、自分で自覚していなくても。
「な、なにを……」
『美醜について頓着する方でないのは存じています。なにせ、ご自身がこの世で一番お美しいのですから! でも、わたしの見た目は魔王さまにとって、それだけではなかったのでしょう?』
さて、誰と重ねているのか。アイネには皆目見当がつかないが、きっと彼の長い永い生の中で、思い出に残る誰かに似ていたのだろう。この世に生まれ変わりがあるかは知らないが、見た目が似ることくらいはあるだろう。生きている間でも「他人の空似」はあることなのだし。
魔王は動揺したように視線をさまよわせた後、口を閉じてしまった。指摘されて、一生懸命思い出そうとしているらしい。世界を育てたひとなので、記憶量は膨大なものに違いない。本当に忘れてしまっていてもおかしくないだろう。
アイネは笑った。
『いいんですよ。魔王さまが、誰かと重ねたからわたしを大事にしてくださっているのではないことは、十分承知しておりますから』
「……私は、そんな不誠実なことはしない」
『ふふ。そうですね』
まだ両手を握られたままだったので、アイネは自分からも魔王の両手を握り返した。温もりはない。泥人形だからか、もしかすると自分の方が人形になりつつあるからだろうか。
「……このことは、宵闇と月光、それからソスランにも話す。いいな?」
『……せめてわたしから伝えさせてくださいませ』
「構わないが、またなにかを誤魔化したり事態をややこしくしたり、作戦に使おうとするなよ」
『覚えておきます』
しないとは言えない。使えるものはなんでも使う主義なのだ。自分は魔王とは違う。誠実さなど赤子のころ親と一緒に殺されているだろう。親が死んでいるのかも知らないが。
魔王は呆れた表情を浮かべて、眉根を寄せた。
「お前と言う奴は……いよいよ見張り役が必要になってきたな」
『そんな、わたしごときにそのような……』
「宵闇。入ってこい。娘がお前に話があるようだぞ」
魔王が寝所の外に声をかけると、ゆっくりと扉が開いた。
不機嫌そうな表情を浮かべた夜の王が姿を現す。月の光を閉じ込めた瞳が一度アイネを見て、それから王に頭を垂れる。薄灰色の長い髪がさらりと肩口に流れた。
「……私は別に話などありません」
「いいから、ちゃんと話をしてこい。ただし、娘から目を離すなよ。お前の部屋に連れ帰ってもいいから」
「連れ帰りません!」
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