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黒の魔王と黄金の歌姫   作者: 芝村あおい
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01


「──いと気高き魔王さま。どうしてこんな見窄らしい我が身を拐かされたのですか」

 細く、美しい声だった。陽の差し込まない地下世界において、一筋の光のように感じられる。


 故に、魔に嫌われる娘であった。


 とはいえ、そういった人間は稀に現れる。この娘が特別珍しいわけではない。

 この娘がとりわけ目を引くのは、黄金の髪と翡翠の瞳、真珠のようななめらかな肌に、神々がよほど上機嫌の時に細工されたと思われる美貌であった。とはいえ、神にも等しい魔王の身では、それとて特別注視に値するものではないが。

 しかし、この娘は魔に嫌悪される素質に美貌を合わせて、人間の軍でこう呼称される。


「──黄金。この世で最も価値ある者よ。お前が見窄らしいとは笑わせる」


 鼻で笑うと、しかし娘は柳眉をわずかに下げて、こちらを見上げてきた。


「……それは誰かがそう評価しただけのこと。魔王さまの評価ではございませんでしょう?」

「……なるほど。ではお前は、『黄金』などと呼ばれながらその価値はないと?」

「ええ」

 儚げに微笑む姿は、たしかにただの人間の娘に見えなくもない。


 だが、それがそもそも異質だった。


 敵対国である王の前で死を待つだけの捕虜が、微笑むなどと余裕を見せている時点で、この娘は只者ではない。数多の戦場の最前線で「原始の力」である『歌』を歌うことで魔を祓う戦歌姫。


 黄金の歌姫とは、すなわち人間にとっての魔に対する勝利の象徴だった。


「お前に『黄金』の価値があるかは、私にはどうでもいいことだ。だが、人間たちはそうだと信じている。それこそが重要なのだ。お前を攫えば障害が減って魔物たちの進軍は早まるし、人間の軍は士気を欠く。戦線から離脱させるのは当然だろう」


 戦略としても自明だった。もっとも、こんなただ美しいばかりの娘に戦略など語っても意味のないことだろうが。

 だが、娘は平然と言葉を重ねてくる。


「それであれば、わたしを殺せばよろしいでしょう。なぜ、皆の前でさらい、わざわざご自身の城に連れ帰って来られたのですか」


 娘の指摘通り、ここは魔王の城だった。地下世界にあって珍しい、人間世界の文明を模した石造の城である。

 城の地下牢であるとはいえ、この場所には人間の文明らしき臭いが残っていた。それで、娘はまだ恐怖に飲み込まれていないのかもしれない。

 娘は翡翠色の大きな瞳に真摯な光を宿して、祈りを捧げるようにまっすぐに魔王の金の瞳を見つめてきた。そのまっすぐさに気圧されて、魔王はわずかに眉を顰める。


「……生かして捕らえたのは気まぐれだ。別にここで殺しても構わん」

「そうですか。では、わたしは殺されるのですね」

「…………」


 娘は翡翠色の瞳を閉じ、美しい金色の長い髪をさらりと揺らした。いかにも儚げだったが、本当に儚い人間の娘は今ここでこんな会話をしたりしない。


 面倒くさい。殺せばよかっただろうか。


 ふいにそんなことを思ったが、すぐに理性が鐘を鳴らした。この娘は賢しいだけで、別に死に値する悪行を成したわけではない。この娘の声がいかに魔を祓う力があっても、せいぜい「ちょっと気分が悪くなるから近寄りたくない」といった程度のものでしかない。その力で眷属たる魔物を殺したことなど一度もないのだ。罪のない者を殺すことは性分ではなかった。

 なんと説明するのか、考えることも面倒になって控えていた従者に視線をやると、ふいに可憐な声が響いた。


「いつでも殺せるのであれば、わざわざこんな地下牢につなぐ必要もないのではありませんか? なら、城の中だけでもわたしを自由にしてくださいませ」


 天上の歌声とも言われる美声が、突拍子もないことを言い出した。


「……自由にしてなにをする気だ」

「魔王さまは、今はわたしを殺す気がないのですよね? でも、魔族は人間の食べるものを用意できるのですか? できないのであれば、材料さえあれば自分でなんとかいたします。ついでに下働きくらいのことはさせていただきますよ」

「……変わった命乞いだな」

「食べ物がなければ、人間は飢えて死んでしまいますからね。命乞いでも下働きでもしますとも」


 線の細い、金の髪と翡翠の瞳を持つ娘は、その美声でさっぱりと自活を宣言して立ち上がった。立ち上がっても、まだ魔王の胸にも背の届かない、小さな娘だった。ただ、瞳だけはきらきらと輝いている。


「……その目で見るな」

「ああ。わたし、声だけでなく目にも魔力が宿っているのでしょうか。それは初耳ですが」


 おっとりと微笑む姿に、魔王は確信した。この娘は普通ではない。


「……お前のような人間は、苦手だ」

「魔王さまが人間を苦手とするなんて、随分おかしなことをおっしゃるのですね」


 娘が笑った。嘲笑でもなく、本当に冗談を聞いたような笑み。こういった手合いを相手にするのは、本当に苦手だった。かつての知人を思い出させる。

 思えば、この娘と同じような金の髪だったのではないか。あまりにも古い記憶で、もう朧げにしか思い出せないが。

 強引な娘に、魔王はあっさりと折れた。強く反発しても、さして得るところもない。


「……好きにしろ」


/*/



「魔王さまも人間の食事は召し上がりますか? 一人分つくるのも、二人分つくるのも大差はありませんから、同じものでよければどうぞ召し上がって」

「お城のお掃除、お手伝いさせてくださいませ」

「魔王さま、ぬばたまの美しい黒髪、手入れさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 娘は、少し強引だった。

 少し、だと魔王は思うが、周囲の魔族は随分とイライラしているようだった。とくに身近に侍ることの多い従者は、娘の『声』に眉をひそめていた。城勤めのほかの魔族や魔物は娘の声を嫌って遠巻きに見るだけだ。お前たち、しごとをしろ。


 魔王のだだっ広いだけでほとんど装飾のない質素な寝室。遠巻きに魔族の従者たちが見守るなか、娘は魔王の黒髪をまるで宝物に触れるように慎重に手に持った。

 別に、放っておいたら伸びただけの髪だった。それをていねいに梳く娘に、魔王はあきれた視線を向ける。


「……魔王の世話など、よくする気になるものだ。私はお前たち人類の敵だと言うのに」

「まあ、そういうことになってはいますね」

「……どういう意味だ」


 黒い瞳で睨みつけたが、娘の白い顔は平然としたものだった。


「今回の戦は、地上にある『望みの国』の王が、魔族が生きる『黄金眠る地下帝国』の鉱物資源を独占しようとして起こしたことです。貴方がた魔族が仕掛けたものではありません」

「……だが、人間が魔族を敵視しているのは昔からだ。だから、欲の深い王の望みを諫める者がいなかった」


 魔族の歴史は人間からの迫害と戦いなしには語れない。かつて魔族は地上でヒトとともに暮らしていたが、やがて地下帝国のみを自国としたのはそのためだった。

 迫害する理由はわかる。


「ヒトは牙も、爪も、強靭な肉体も魔力も持たない。寿命は一般的な魔族の3分の1ほどだ。未知なる生き物を恐れない生物はいない」


 魔王の言葉に、娘はなにも言わなかった。ただ、髪を梳く手つきは変わらず柔らかだ。


「ええ。魔族に暴力で訴えられたら、ヒトはなす術なく殺されてしまうでしょう。実際、魔族に滅ぼされた村は望みの国だけで両手の指を超えました。

 ……でも、今地下帝国は負けそうになっていますよね」


 魔王は柳眉をひそめた。その通りだった。圧倒的な力を持っているはずの魔族だった。それなのに、なぜ弱きひとの子に勝てないのか。


「なぜ勝てないのか? それは、魔族の数があまりに少ないからです」

「……」


 魔王は、意外に思って娘の言葉に耳を傾けた。魔王をして娘の『声』は不快ではあったが、他の魔族たちほど影響はない。


「……たかが戦歌姫が、王の前で戦況を語るのか」

「これでも、多くの戦場を渡ってまいりましたから。詳しいわけではありませんが、なにも知らないわけでもございません」


 ゆっくりと髪を梳く手は、ずっと優しげで心地よい。心のこもったしごとだとわかる。およそ会話内容と動作が連動せず、魔王は違和感を抱いた。

 魔王がそんなことを考えているとは思っていないらしい娘は、唄うように言葉を紡ぐ。


「巨大な力を持つ魔族ですが、数の力で押し切られて現戦況はかなり不利になっています。本当なら、魔族と人間ほど力の差があれば、これほど戦況が不利になることはないと思うのですが……」

「……ふん。人間たちが害虫のように数を増やして雪崩れ込んでくる。我らとて害虫駆除はさほど経験があるわけではない」

「単純に戦がお下手なのでは?」

「小娘! 口に気をつけろ!」


 かろうじて側に控えていたヒト型の従者が鋭い牙を剥き出しにする。魔王はそれを片手で制して、とうとう背後を振り返った。娘は至って落ち着いた様子で、そのまま話を続ける。


「わたしが囚われたときに、『なぜ殺さなかったのか』と伺いましたよね」

「言ったはずだ。気まぐれだと」

「わたしのような扱いに困る人質など、さっさと殺すべきなのです」


 娘は微笑みさえ浮かべてそんなことを言う。理解に苦しんで、魔王の方が眉間に皺を寄せた。


「わたしはただの戦歌姫で、どこぞの王族でも姫でもないのです。なにか作戦があって人質に、と考えたとしても、あまりにも人質の価値が低すぎます」


 娘がいっそ清々しいほどきっぱりと言い切る。なにも悪いことを言ったつもりなどなさそうだった。ますます眉間に皺が寄る。


「しかも、魔王自らがさらう場面を騎士たちに見られています。人間の軍は今ごろ、わたしを奪還せんとさぞ士気を上げているでしょうね。わたしなら、そんなやっかいなだけの異種族、殺しています」


 対処に困って、傍らに控えた従者に視線をやると、彼も困ったように眉根を寄せていた。もっとも、この男はいつでもこんな表情をしているので、娘の発言のためかは魔王もよくわからない。

 仕方がないので、魔王は小さくため息を吐き出して、娘に言った。

 

「……お前。私が言うのもなんだが、己の命をそこまで卑小に扱うものではないぞ」


 翡翠の瞳はぱちぱちと瞬いて、それから哀しいような、高揚したような、どっちつかずの奇妙な顔になった。それから蚊の鳴くような小声で、


「……魔王さまのそういうところ、とっても素敵だと思います……」

「今はそのような話はしていないと思うのだが」


 娘はひとしきり顔を変化させて、可憐なほど小さくこほん、と咳払いした。


「とにかく。わたしのような厄介者はさっさと殺しておくべきです」

「お前、自殺志願者だったのか?」

「今は違います。ですが、この戦の情勢を立て直すには、そうした思考が必要だ、という話です」

「なら、お前がこちらの思考を汲み取るべきだ。地下帝国ではそのように生命を軽んじることを是としていない。魔族も、ヒトも、ただの命だ。私の前では、大体において同じ価値を持つ命だ。

 私はお前を戦場から排除することだけが目的だった。それ以上は不要だ。世界は過不足なく均等に保たれるようにできている。過剰な行為は、いつかどこかで歪みが生まれるものだ」


 世界の事情を口にするが、娘はどこか納得していないような表情を浮かべる。


「……少なくとも、戦略上は殺すべきと思います。過剰な攻撃的思考ではなく」

「必要ない」


 重ねると、娘は浅くため息を吐き出した。なんだその「仕方ないな」みたいな態度は。


「……あんまり戦がお上手ではないと思っていましたが、筋金入りですね」

「お前の感想はわかった。だが、そもそも戦が上手いことは統治者にとって必須の要素ではない。王は臣下を飢えさせずに養うことが第一だ」


 その応えに、再び翡翠の瞳はまたたいて、次に微笑んだ。


「……それについては、なにも反論できませんね。魔王さま、これまでの失礼な発言をお許しください」


 しずしずと頭を下げる娘を見て、妙に居心地が悪くなった。

 本当に、この娘は少しヘンだ。


 魔王は無言で立ち上がった。早くこの翡翠の視線から逃れたい。ふらつきながら部屋を出ようとすると、後ろから衣類をつかまれた。


「……なんのまねだ」

「御身に触れる不敬をお赦しください。……いろいろと無礼を申し上げましたが……戦下手な魔王さま。……わたしは、あなたのお役に立ちたいのです」



 その姿は、これまでの図々しい言動が嘘のような、か弱い声だった。可憐な美声と伏せがちな翡翠の瞳が、儚く美しい少女に見せる。おそらく錯覚だろう。


「……もうしばらく、この城に置いていただけますか……?」


 まるで懇願するような視線を向けられて、魔王は嫌そうに顔をしかめた。

 本当ならどこか適当な人間の土地に捨てに行きたい。

 しかし、この娘が再び戦場に戻ってくると、魔族の王としてまたこの娘と対峙しなければならなかった。それは、面倒だと思う。


「……すきにしろ」


 それだけ言って、魔王は娘を残して部屋を後にした。あまり関わりたくないな、と本気で思った。


/*/


 黄金の娘は、調理場でうさぎ肉を煮込みながら上機嫌で香草を刻んでいた。


 魔王さまから直接、城に残っても良いと言われた!


 今日は善き日だ。いもしない神に祈りたくなる。いや、そういえばかの魔王は神代から生き続ける魔性という話があったか。ならば自分は魔王に祈ろう。


「お美しい魔王さま、黄金は生涯貴方さまに尽くします……!」

「………………」


 娘の浮かれた様子を、調理場の隅からじっと見ているのは魔王の従者だった。青緑色の肌と月光を宿した眼を持った人型で、造作は恐ろしく美しかった。おそらく、魔王の姿を模したのだろう。実力ある魔族ほど、ひとの姿に近付く。人型の魔族を魔人と呼んだ。

 この魔人が指を振るうだけで、娘の細首はかんたんに胴から離れてしまうだろう。

 それなのに、娘はけろりとした表情で従者を見た。


「ああ、従者さま。いつからそちらにいらしたのですか?」

「……お前が鍋に火を入れたところからだ」

「かなり最初からですね。お声をかけていただければよろしいのに」

「お前の声が不快なんだ。できれば話しかけずに済ませる方法はないかと考えていた」


 柳眉をひそめてそう言われると、娘はああ、と納得して頷いた。魔族に娘の声は、あまり心地良いものではない。

 娘はいくどかあー、と発声を繰り返し、あらためて従者に向き直った。


『これで大丈夫でしょうか』

「……奇妙な娘だ。魔を払う声をわざわざ隠す技術も持ち得るとは」

『わたしの声は厳密には魔を払うものではありません。ひとの心をわずかに操るものです。魔族の皆さまには、それが少し効き過ぎるようですね』


 娘は特別魔族や魔術に詳しいわけではなかったが、自分の声についてはそんな風に分析していた。


 心地よい声、というものがある。耳に馴染む声というものもある。そして、気持ちが高揚する抑揚、リズムもある。その技術が昇華したものが音楽だが、日常にその要素は散らばっているものだ。

 歌がひとの心を打つのなら、声や言葉だけでも心に届く。


 ──心を支配する。

 

 そうしたものが、力ある生物たる魔族には不快なのだろう。そして人間は、こんなわずかな力が通じるほど、我欲が少なくないためさほど効果はない。


 娘は刻んだ香草を鍋に入れて蓋をした。そのまましゃがんで、釜戸の火を見る。

 その様子を見ながら、従者が口を開いた。


「……先ほどの話は、本当か?」

『魔王さまに生涯を尽くすという言葉に嘘偽りなどございません!』

「それではない。……人間の軍が、お前を奪還しに来る、と」


 従者の問いに、娘はああ、とそっけなく応えてうなずいた。


『まあ、予想、ですけれど。ですがわたし、そこそこ人気のある歌姫と自負しておりましたので、まあファンの方々はさぞ魔族憎しを募らせているでしょうね』


 娘の言葉に、美しい魔人は長い指先で額を抑えた。


『……今からでも殺しますか?』

「そうしたいところだが、我が君はお前を生かすと決めた。それをほかの魔族も聞いていた。王の約束を果たすのは、臣下の務めだ」

『魔族って義理堅いんですね』

「お前たち人間が、生者に対しての誠意が足りなさすぎるんだ」

『一言も反論できません。……では、どうなさいます?』


 娘が言ったことは、すべて娘が把握している事実だった。「黄金の歌姫」は最前線に立つ騎士を護るために、自ら激しい戦場に従う戦歌姫だ。その人気は、荷姿が新聞にでも掲載されればたちどころに重版がかかるほど。

 目の前で奪われたのなら、奪い返しに来るのは間違いない。


「……無論、迎え打つ」

『この前の戦でも、わたしを連れて兵を引きましたよね。負けていたとは言いませんが、かなり危ない状況でしょう。すぐに向かい打てるような体制なのですか?』

「無理でもやる。それが戦だ」

『……貴方がたがはじめた戦でもないでしょうに……』


 娘は、ここにきてはじめて心を痛めた。誠実さと実直さを持つ魔族に、嫌悪など抱きようがなかった。

 娘は釜戸の前から立ち上がって、改めて美しい魔人と向き合う。


『……従者さま。もし重ねてわたしの言葉を信じてくださるのなら、今から言うことをやってみてもらえませんか?』

「は? お前、なにをさせようと──」

『このままでは、地下帝国も魔族も滅びてしまうのですよね?』


 娘の言葉に、従者は渋面をつくった。事実だとわかってはいるが、認め難かった。


『大袈裟な策ではありません。ただ、ほんの少しだけ時間を稼ぐ方法です。ダメでもともと、と思って試されてはいかがでしょうか?』

「……お前が人間の国のスパイだと、疑っていないとでも思うのか?」

『わたしを攫ったのは魔王さまではないですか。魔王さまがそんなことをするなんて、あらかじめわかるような預言者なんて人間の国にはいませんよ』


 それで従者は納得したらしい。攫った時には、従者自身もその場に居合わせていた。以前からもっとも激しい戦場で歌う歌姫が、スパイ教育を受けているとも考え辛かった。あまりにも顔が広まり過ぎて、スパイに向いた人材とは到底言えない。


「……なにをすればいい」

『大したことではありません。

 ──わたしの死体をつくってください』


 娘の言葉に、従者は眉をひそめた。


「いっそ本物の死体をつくってやろうか」

『まあ恐ろしい! でも、魔王さまはわたしを城に置いてくださるとおっしゃいました。臣下は王の約束を果たされるのですよね?』


 生意気を言った自覚はあった。従者は渋面をつくって視線を逸らしたが、それでもなにも言わなかった。魔族は本当に根が素直で誠実だ。


「お前の死体で、なぜ軍の進軍が止まるんだ」

『わたしを取り戻そうとするのが士気に関わるのなら、もう取り戻せない、とわかったときも士気にかかわるでしょう?』


 従者が改めて娘を見たので、娘は視線を合わせたまま続けた。


『ですから、死体を。それと、この手記を死体のそばに置いておいてください。これできっと、軍はしばらく動きません』


 娘は肌身離さず携帯していた手記を、従者の大きな手のひらに握らせた。


『わたしの、本物の手記です。これがあれば、髪色が似た若い女の死体なら顔を焼けば大抵は誤魔化せます』

「……わかった」


 従者は手記を受け取って、浅く頷いた。内心、息を吐く。


『これで少しでも相手の進軍を遅らせれば、魔族の軍も立て直す時間が稼げるでしょう。やってみたところで、女の死体一体で済む話です。従者さまに損はありませんよ』

「わかっている。だから余計にわからない」

『なにがですか?』

「お前、これがうまくいったら、もう国には帰れないんだぞ」


 娘は驚いた。あんまり驚いたので、翡翠の瞳をまあるくして、まじまじと魔人を見上げてしまう。


『……心配してくださっていたのですか?』

「別に。お前にこの国に居つかれると迷惑なんだ」

『ふふ、そういうことにしておきましょう』

「事実だ!」


 むっすりと口をへの字に曲げた従者を見つめて、また娘は笑った。本当に、魔族というのは善良だ。庇護欲をそそられる。


『……わたしが魔王さまのそばにいるためにも、この戦、負けてもらっては困るのです』

「……お前は、負けると思うのか」

『このままでは』


 激昂するかと思ったが、従者は静かだった。どうやら、王よりも戦況を把握しているらしい。


『我が身は卑小な人間ですが、戦場はたくさん、たくさん、見てきました。人間のことも、きっと魔族の皆さんよりも知っています。

 ですから、どうかわたしを利用なさいませ』


 娘の言葉に、従者は眉間に深い皺を刻んだ。


「……お前のような気持ちの悪い娘ごときに、なにができる」

『傷つく評価ですね。……でもきっと、従者さまはわたしとまたお話がしたくなると思いますよ』

「最低の予言だな」

『人間の軍が止まったら、また調理場でお話ししましょうね?』


 娘は笑った。

 従者が、こくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ気配がする。


「愛する魔王さまには、この戦、負けていただいては困りますから。──負けさせませんよ」



 ──3日後、従者は人間の軍の足が完全に止まったことを娘に告げに調理場を訪れた。



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