17 夜を這う黄金
地下帝国はつねに薄暗い。日が届かず、灯りは壁に張り付いた光苔、火や魔法の光だけだ。時間だけが朝昼夜を教えてくれる。
刻は夜半。ランタンの灯りだけを頼りに、娘はこっそりテントを抜け出した。向かうのはもちろん──
「まおうさま」
アイネは魔王のテントの前に立ち、そっと声をかける。護衛はいない。不死の魔王に護衛など必要ないからだ。従者や家令は、しごとや身の回りのことをサポートするためにいる。この世をなんでも思いのままにできるはずなのに、ひとりでは生きていくのが覚束ないひとなのだ。
「魔王さま」
返事はない。もう眠ってしまったのだろうか。少し迷って、そっとテントの中へと忍び込む。
魔王は持ち込んだふかふかのベッドの上で横になっていた。白いものの混じった黒く長い髪が寝具に散らばっていて、無防備な寝姿に胸が高鳴る。
やっぱり綺麗な方。
思わずじいっと見つめていると、
「いつまでそうしている気だ?」
「ひぇ⁈」
突然かけられた声に、細い肩がびくんと跳ねた。見つめていたベッドの主がのそりと起き上がる。顔がにやにやと笑っていた。どうやら起きていたらしい。
「夜這いならもっと近づいてこい」
「ち、違います! 決して夜這いなどでは……!」
「ほう。王の寝所に忍び込むなど、夜這いか暗殺しかないんじゃないか?」
「よ、夜這いなんてできるほど、まだそのお姿に慣れておりませんから!」
少し加齢した肌、わずかに落ち窪んだ目元、けれど美しさは損なわれていないと感じるのは、やはり造作が完璧だからだろうか。長い手指は節が目立つが、それが動いているのを見ると胸がぎゅっと引き絞られた。
好きすぎて緊張する……!
上擦った声を上げると、魔王は一瞬きょとんと目を丸くして、それから腹を抱えて笑いはじめた。
「ふっ……くく……! お前、私と2人の時はかわいいな……!」
「…………」
魔王に「かわいい」と言われるのは息が止まるほどうれしかった。同時に、そういうのが欲しいわけじゃない、とも思う。
「それで? 本当に夜這いなら歓迎するが、どうした」
「……そのお姿のことで、少々気になることがございまして……」
「ふむ? お前の好みかどうか、じっくり確認したいということか」
「魔王さまのすべてがわたしの好みですが!」
娘の絶叫に魔王は声をあげて笑った。
「なんだ。やっぱり夜這いだったか」
魔王は愉快そうにうなずいて、娘を指先で指した。その指先に引っ張られるように体が浮き上がって、魔王の膝元に座る形になる。間近で見る魔王は、齢を加えてもなお美しかった。心臓が潰れそうだ。
「あ、あの……?」
「お前を可愛がるのであれば、この泥の体ではもったいないな。どうせなら本体の方がいい。お前が奉仕したい、というのなら話は別だが」
「もう、からかっておいでですよね?」
「さて、本気かもしれんぞ?」
からかわれていようが本気だろうが、娘の呼吸は今にも止まりそうだった。
焦がれに焦がれた我が君に、耳元で誘惑されている。
甘い声と言葉に、頭がくらくらした。顔がいい。声がいい。こんな至近距離にいたら腰が砕けて動けなくなりそう! 精一杯理性を動員して、声が上擦るのを抑えた。
「……魔王さまが、わたしを望まれるのであれば、拒む理由はございません」
「そういう返答はつまらないぞ」
「わざとですよ」
「誰がお前の心を私から逸らしているんだろうな? 宵闇か、あのソスランという男か」
「なんでそんな話に……」
呆れた視線を向けたものの、魔王は意外と真面目な表情をしていた。長い指先で、アイネの黒くなった髪をもて遊んでいる。
「あの男とは長い付き合いだったのか?」
「……とある戦場で保護されまして」
「お前の特別だったのか?」
「……特別、と言えば、そうだったかもしれませんが……あの男は万人にとっての『特別』なんです」
アイネは瞳を臥せて、まだ幼くも惨めだった時代を思い起こす。ソスランと出会ったのは、戦歌姫になる前のことだ。
戦場で出会ってから、なんだかんだと世話を焼かれて、一時彼の家に身を寄せていたことがある。滞在中、ソスランが個人的に支援する孤児院や学校に連れて行ってもらったし、そこで子どもはもちろん従業員に慕われる姿も見てきた。
こんな、誰もが食うに困る時代に、他者にパンを分け与える男だった。ただパンを配るだけではない。いかにパンを得るかも教えるような男だった。
「……あんな男は、二人といませんよ」
「……なるほど。お前があの男に協力すると決めたのは、そういうわけか」
「いいえ。単純に、現王家よりマシであれば誰でも利用するつもりでした。彼個人に対する恩は、別の場所ですっかり返しておりますので!」
「ふぅん」
魔王はやはり、面白そうな顔をして娘の表情を覗き込んでくる。近い近い近い!
軽くパニックになっている娘を見つめながら、魔王はやや声を落とした。
「……私は人間や宵闇のように複雑なことは考えないが、あの男がお前をどうするつもりで連れてきたのかはわかっているぞ」
アイネは、あえて返事をしなかった。自分でも逃げだと理解しているが、できるだけ考えたくない類のことだった。
「お前だってわかっているはずだ。どうして従軍することにした?」
「……だって、魔王さまが土地と香辛料がほしいとおっしゃったんじゃないですか」
「なんだ? 本気にしたのか」
「本気でしたよね?」
「本気だったが、拒否してもよかったんだぞ」
「魔王さまが望まれることを叶える方法があるのに、そうしない理由がありますか?」
あまりにも当然のことだった。だから従者もなにも言わなかったのだ。それなのに、魔王はなんだか楽しそうに笑っている。
「お前は……本当に面白いな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「今すぐ抱いてもいいか?」
「〜〜〜〜〜〜ッ!」
完全にからかわれている。それはわかるが、娘にはどうしようもなかった。体が勝手に羞恥を感じてしまう。
「もう、そんなことを言ってからかうなんて! 後々後悔なさっても知りませんからね!」
「ほう、お前のような生娘がどんな後悔をさせてくれるんだ?」
娘は発作的に魔王の両頬に両手を伸ばして、そのまま口付けた。以前の口付けよりもずっと長く触れ合わせて、薄い唇を舌先で舐める。うっすらと開いた口腔へ、舌をそっと忍び込ませた。口腔は生温く、濃い魔力の気配が感じられる。
娘は魔王の舌を絡め取り、魔力の気配を味わった。魔王は最初だけ驚いたものの、面白がって娘の舌遣いに応えてくる。ちゅ、ちゅ、と口付けを繰り返しているだけで、少し、いやかなり多幸感を感じて体が昂ってくる。
「ん、っふ、まぉう、さま……」
「は……お前、人形相手ならこんなこともできるんだな?」
間近で見上げる魔王の色気は、壮絶だった。完璧な造作に納まった漆黒の瞳が、愉しげに眇められている。薄い唇から発せられるささやくような低音にめまいを覚えた。
息もままならないなか、喘ぐように娘は言った。
「……人形、なら逆になにもする気にならなかったと思います」
「──ほう。お前、魔術には詳しくないだろう? どうしてそんなコトを」
「勘です。……間違っていますか?」
「確かめてみるか?」
「わたしには確かめる術がないのです。ですから、直接伺いに参りました」
「ふむ、夜這いの目的はそれか。……泥人形は体液がない。泥だからな。生理反応もない。どうだ、確かめる気になったか」
娘は魔王の正面に膝立ちになり、そっと王の体をベッドの上に押し倒した。不敬を承知で、太い太ももをまたいで馬乗りになる。魔王の貌に自分の黒い髪が流れて、王の黒髪と混じるのを見つめた。魔王はずっと機嫌が良さそうに笑っている。
「……必要なことであれば、わたしは羞恥など感じませんよ」
「そうか。お前はそうやって生きてきたのだな」
「そうです」
「そのような心持ちでは興が削がれるが……お前は扱いにくいから、最初はこのくらいでもいいのかもしれんな」
そう思われていることは癪だが、アイネの語彙に二言の文字はない。床の作法にも幾分心得があった。
「では、僭越ながらこの黄金が、今宵の伽……いたっ!」
べし、と音がする程度に後頭部を叩かれた。
振り返ると、従者とソスランが生温い目でこちらを見ていた。
修羅場。
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