09
「宵闇、宵闇はいないか」
偶然、魔王の執務室前の廊下を掃除していた星屑は、低く心地の良い声を耳にしてあわてて主君の部屋をノックした。
「入れ」
「はい、我が君。星屑の部屋の世話係が御身の前に失礼します」
「構わん。宵闇はどこへ行った? 書類の在り方がわからない」
「はい、我が君。宵闇さまは、黄金さまとともにお出かけになられています」
星屑の言葉に、魔王の柳眉がしゅんと下がった。
「そうか……逢瀬であったか……。堅物の宵闇にも、そういうことだってあろうな……」
そんなことを言うので、星屑はたちまちメイドの礼儀作法を明後日に放り投げた。
「魔王さま! 黄金さまと宵闇の君は、おともだちですとも。ただちょっととっても仲が良いだけです!」
「だが、仲が良いんだろう?」
「だって、黄金さまが愛しておられるのは魔王さまではありませんか」
星屑がそう言うと、黒曜石の瞳がきょとん、と見開いた。次に、ことり、と首を傾ける。
「……そう言えば、そんなことを言っていたか」
「黄金さまは、魔王さまをお見かけするために戦歌姫になって戦場へ立たれたと仰っていました」
「迷惑な話だ。あの娘の歌のために、いく人の同胞が逃げ遅れたことか」
「えっ」
一瞬、星屑はその言葉の意味が理解できなかった。黄金の歌姫の歌声で、死人が出たことはないと聞かされていた。
星屑の様子に、魔王は意地悪く笑う。
「なんだ、考えたことがなかったのか? なぜ私自らあの娘を拐かしたのか。あの娘が、よりによって最前線で歌うからだ。勢いがものを言う最前線の戦場では、一瞬の硬直、判断の鈍りが致命傷になる。撤退時に至っては、逃げ遅れて何人もの魔獣や魔人が人間たちに背中を斬られている。
……あの娘の歌は小さな魔術だ。大した効果はないが、だからと言って何の影響もないわけではない。大きな変化は、いつだって小さなきっかけからはじまるものだ」
そう言って、魔王は口と目を閉じた。
星屑は、体が震えて動けない。
彼女は人間だけれど、魔人のようにとても美しいひとだ。料理が上手で、とてもやさしく笑うひとで、星屑がはじめて知った人間。同胞を傷つけたことがないと、信じていたのに。
呆然としていた星屑だったが、ふいに魔王が目を開けた。それから、慌てた様子で星屑に近寄ってくる。
「その……すまない。お前にこんなことを言っても仕方がないのに。少し虫の居所が悪かったらしい」
「い……いえ、そんな。とんでもないことです……」
そうは言うものの、すっかり混乱した星屑はなんだか泣きそうだった。紅い瞳に水の膜が張っていく。魔王がまた慌てたように話しかけてくる。
「……お前が泣くなら、あの娘を殺してこようか?」
星屑は目一杯首を横に振った。魔王にそんなことを言ってほしくなかった。だって。
「……黄金さまは……本当に、ほんとうに、魔王さまのことがお好きなのだと。それだけは、絶対に、本当のことなんです。星屑は、お友達のことを信じています」
魔王の食事をつくる時、朝の支度を手伝うとき、彼女はいつも、とても幸せそうに笑っていた。宝石を散りばめた彫刻よりも、ずっと鮮やかに輝いていた。星屑は、そんな彼女が好きなのだ。
「……黄金さまが、ずっとこの城にいたら、もう同胞を傷つける手助けをすることはありません。だったら、魔王さまが娶ればいいのです!」
「むう……お前、発言が極端だな」
「だって、魔王さまが酷いことをおっしゃるから……」
紅い瞳からぽろぽろと涙がこぼれると、いよいよ魔王は慌てた。
「な、泣くな……私は、お前のような幼子が泣くのは苦手だ……」
「幼子ではないです。もう80歳です!」
「ついこの前城に上がってきたばかりだと思っていたのに……」
「魔王さまがおじいちゃんなだけです。せっかく黄金さまみたいな若くて美しい方に好かれているのですから、ちょっとくらいいいじゃありませんか!」
「泣くのか怒るのかどっちかにしろ。……じじいと言っているのだから、そこら辺も汲んでくれんか?」
「黄金さまは、魔王さまでないとダメなんです」
魔王をしっかりと見上げる。本当に整ったお顔をしている。夜より深い黒が、何度も瞬いていた。
「……こんな死に損ないに、なにを期待しているんだ」
魔王は星屑の毛並みをなでながら、なにかを考えているようだった。あの美しい友人のことだったらいいな、と思った。
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「ソスランさま! ソスラン! 放しなさい! か弱い乙女を誘拐するなど、誉ある騎士のすることではありませんよ!」
「はっはっは! か弱い乙女が聞いて呆れる! しばらくぶりだが、少し頭のネジが緩んだのではないか? いや、締まったの方が正しいのか」
騎士は豪快に笑って、肩に担いだ少女の体をわざと揺らす。馬はかなりの速度を出していた。ただでさえ激しく揺れる馬上の振動に、さらなる動きを加えてやるだけで娘の顔色が悪くなった。吐かれると困るのはこちらなのでほどほどにしておく。
「……あの。自分も、いくらなんでも誘拐などは……」
馬で追いかけてくる従卒に、娘が視線を向けた気配がした。
「お若い騎士さま。わたしがどんな悪事を働いたというのでしょう? このような仕打ちはあんまりです!」
きっと潤んだ翡翠の瞳に涙でも浮かべて見せたのだろう。従卒の顔色が変わり、非難の視線がこちらを貫く。
「司令官どの! この方の仰る通りです。いずこの姫君か存じませんが、あまりに乱暴では?」
「コイツは姫君などという器ではないし、どんな悪事を働いてきたかは自分の胸に手を当てて訊いてみるんだな」
自分の胸に手を当てるまでもなかった悪い娘が、じっとりとした視線を寄越してくる。
「その、司令官どの。……この方は、一体……? たしか、私は魔族を指揮する人間を捉えるために連れて来られたと記憶しているのですが……」
「こいつがそれだ」
もう一度担いだ細い体を揺らすと、もう呻き声も上げなかった。従卒は榛色の瞳を何度も瞬かせる。
「この姫君が、ですか?」
「お前は『黄金の戦歌姫』を知っているか?」
騎士の問いに、従卒は眉を下げた。なにを当然のことを、と戸惑いの表情が語っている。
「それは、もちろん。死体も調査しましたし……。私はその歌声を遠くから耳にするばかりでしたが、どんな激しい戦地にも赴かれ、前線で歌われる勇敢な方でした。まるで女神のように美しい方で、絵姿も人気が……」
そこまで言って、従卒はぐったりとした娘を見た。ぐったりはしているが、おそらく顔は彫刻のように整っていることだろう。従卒の目が見開いた。
「まさか、この方が! たしかに、女神のようにお美しいです!」
「まあ、正直な子。久々に容姿を称賛されました。こんな状況でなければ茶番も素直に楽しめましたのに……」
「楽しめ。帰路は長いぞ」
娘は浅くため息を吐き出す。わかっているのだろう。もはや自分が、この地下帝国から離れる運命にあることを。
「……本当に、地下帝国から軍を引かれるのですね」
「お前の奪取は力づくになったが、約束は守る」
「相変わらず嘘ばっかり。魔族を相手にしている時間がないだけでしょう?」
中年騎士は笑った。どうやら、こちらがなにを考えているかはわかったらしい。相変わらず、聡い娘だ。
「お前の考えを聞かせてみろ」
「……このままソスランさまが軍を掌握して、国にとって帰ります。帰り際に大規模出兵ですっかり弱体化した街々を占拠しながら王都を目指す──つまり、反乱ですね」
話を聞いていた従卒が、驚いたように目を見張った。なぜそれを、と目が語っていた。
「もっとも、その街々だってとっくに貴方の手が回っているのかもしれませんけれど」
「概ね正解だ。残念ながら、手が回っているのはせいぜい三分の一といったところだがな」
「相変わらず、手際のよろしいことで」
「お前がいたら半分は掌握できていただろうよ」
顔の近くの囀りが途切れた。煌めく翡翠の瞳が、じっとりとこちらを眺めているのを感じる。
「……だったら、地下帝国に出兵する前に誘ってくださればよろしかったのです。そうなら、協力するのもやぶさかではありませんでした」
「出兵時、軍司令部は王族に占拠されていた。お前は王族に侍っていたし、時期が悪かった。それに、お前が本当に魔族のもとに行くことになるとも思っていなかった」
「乙女の夢と希望をなんだと思ってたんですか!」
「たわごとだよ。お嬢さん。夢物語だ。随分と血生臭い夢物語だがな」
鋭い視線を感じる。本気で怒っているのだろう。それでも抱える腕の力を緩める気はなかった。目的のために手段は選んでいられない状況だった。
「……場合によっては手を貸しても構いません。ですが、わたしは魔王さまのそばを離れる気はありません。まずは帰してください」
「……本当に、魔王の元にたどり着いたんだな」
──あの城壁で、魔王に出会ってから。あの肉と泥の地獄を見てから、娘がずっと魔王のことだけを考えて生きてきたのを知っていた。
それからの娘の眩いばかりの戦歴は、全て魔王に会うためのもの。娘の本質は、一途と言えば聞こえがいいが、人間社会への憎悪と魔王への強烈な羨望だ。
「女の執念とは恐ろしい」
「一途な恋心です」
「初恋は実らないと言うぞ」
「わたしは日頃の行いがいいし美しいので実ります」
言い切った。相変わらず、娘は娘のままだった。
「……あきらめろ。お前が傾国の頭脳を持っていても、ひとの身で神に侍るなんてのは、死ぬことと変わりない。自殺願望も大概にしておけ」
「この話、何回目ですか。耳タコなんですが」
「お前が折れるまで何回でも言ってやる」
きっと娘は、白い頬を膨らませているだろう。それを思うと、懐かしい気がした。
「そろそろ口を閉じろ。さらに飛ばす。今日中には軍に帰って──」
そこで一瞬、違和感を感じた。抱えた細い体がわずかに硬直していた。静かに呼吸を整える気配。歌うたいは、肺で呼吸をしない、腹で呼吸をする。嫌な予感がした。
「おま」
「たぁああすうぅぅけえぇぇてぇーーーー! じゅーしゃさまぁああーーー!!!!!」
きん、と耳鳴りがするほどの声量だった。静かな森にぐわんと美声が広がる。地下帝国は天井がある。空はない。相当に広いとは言え、そこは地上よりも閉ざされていた。反響する声。
ひやり、と悪寒がした。慌てて娘の口を塞いで周囲を伺う。従卒が素早く鋼の大剣を抜き、空に一振りする。
ぎいん、と大剣がなにかの攻撃を受け止めた。全く見えないが、受け止めた衝撃で風がぶわりと舞い上がって砂煙が巻き起こる。
攻撃が来た方向の上空に、夜の眷属の王が怒りの形相を浮かべていた。
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