プロローグ
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世界は、闇色をした海から生まれた。
闇色の海から延びた枝の先に引っ掛けられた板が大地だ。
だから大地は丸くはない。海は広いが終わりがある。空高く舞い上がると、ふいに世界の終わりが現れて、別の世界に転落する。
最初からそういう世界だったわけではない。世界という言葉もないころに、いくつかの知性体がいた。
そのうちの一体は、ひどく気まぐれだった。気まぐれに闇の海をつくって、面白半分に枝を生やした。ふとみると、その枝はときおり増えたり減ったりしている。
「お前にはあの枝をくれてやろう」
ある時、戯れにそんなことを言われた。別に欲しくはなかったが、おそらく好意からだろうと思ってあいまいに笑っておいた。
そのころは時間の概念などなかったので、それからどれくらい経ったのかはわからない。
ただ、いつのまにか「それ」は、そこにいた。
気がついたら、そこに存在していたのだ。
「あれ」の仕業だというのはすぐにわかった。しかし、枝の上から空を見上げても、「あれ」の気配は感じられない。枝の上の世界は小さすぎて、できることは限られていたのだ。
「それ」は枝の上に放り投げられたことで、肉体を得て、五感を得た。その枝はまだ成長途中のようで、大地にはようやく動くなにかが生まれたばかりだった。
自分はどうやら、ヒトのカタチをしているらしい。ヒトというのだと、別の枝で見たことがあった。真っ黒い髪と、闇色の目をしている。
そういえば、「あれ」は金の髪に赫い瞳だったと、ヒトの概念を得てようやく気がついた。思えば、「あれ」はヒトをすこぶる好んでいた。
──どうせなら、同じにしてくれればよかったのに。
そんなことをぼんやりと思いながら、ひとまずは立ち上がった。
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遠くの街が燃えていた。
街といっても、王都以外は大抵が木造で、ひとの数も多くはない。王が戦争をしたがるので、成人するとみんな戦に出るからだ。
この前まで隣国と戦争していて、勝ったと思ったら次は地下帝国に攻め入ったと聞く。地下帝国は金銀財宝がたくさん採れるので、他の国も欲しがっていたが、戦争にはならなかった。
地下帝国は魔物が住む国だ。
魔物や魔人は強い魔力を持っていて、人間よりも強くて頑丈だ。なのでむやみに戦争したりしなかったのだが、この国の王はそうではなかった。魔物に金銀財宝をくれてやるのはもったいないと本気で思っているらしい。あるいは、この世の富はすべて自分のものだと心の底から信じていたのかもしれない。世の中にはいろんな種類の人間がいて、ろくでなしはどこにでもいるものだ。
それで王は、魔物たちと戦争をしている。魔物は姿が恐ろしいし、時折人間を殺すことを娯楽にしている者もいるが、どちらかというとそれは少数派でほとんどは人間に干渉してこない。人間が手出しさえしなければ、彼らは自分たちを襲ったりしない。魔術を扱う野生動物とさして違いはなかった。
ただ、魔術を使う野生動物と敵対するとどうなるのか。
その結果、遠くに見える街は燃えているのだろう。
旅をした先でこんな光景を見るのは別に珍しくもない。滞在していた村が軍に徴収されて、軍人たちの慰み者になることだって、はじめてではなかった。
金の髪に翡翠の瞳、肌は真珠のようになめらかで、異質なほどに整った容姿を持って生まれてきていた。嫌でも目立つので、職に困らない反面、戦果に巻き込まれたら真っ先に狙われるのも避けられないことだった。命があるだけマシというものだろう。
けれど、本当にマシなのだろうか。
ふらつく意識の中無理やり目を開いて、娘はなんとか立ち上がった。男たちに乱暴に扱われて、身体中が痛かった。そばで転がっていた死体から衣類をひっぺがして、それらを裸の身に纏っていく。
死体は、同じ年頃の少女だった。彼女は男たちを拒んで殺された。好いた男でもいたのだろうか。それとも、まだ見ぬ誰かのために操を守りたかったのか。立派なような気もするし、命あっての物種だろうと思わないでもない。悲壮な顔のまま固まった首と、胴体は中途半端に皮一枚でつながっていて、うろんな瞳が虚空を見つめていた。
重い体を引きずって、さて、と考えた。
自分と村を襲った男たちは、軍服を着ていた。軍人と言っても国に雇われた傭兵で、統率なんて取れているとはお世辞にも言えない状態だった。だから、平凡な村を突然徴収して、食べ物も女も金も根こそぎ奪って平気な顔をしていられる。
それでも、奴らはあの街に行った。戦って、きっと死んだだろう。
あの街には、地下帝国の魔物たちが来ているらしい。だからきっと、人間は全員殺される。
「……行ってみようか」
自然と、燃える街に向かって足が動いた。
もう、旅をするのも、歌うのも、生きるのも疲れた。疲れ果てた。
魔族は人間をおもちゃにしない。邪魔ならただ、殺すだけだ。
古の神の血が濃い存在。人間とは異なる在り方をするもの。純粋な力。
あそこで、終わりにしよう。
希望を見た気がして、娘は傷だらけの足を一歩前へと進めた。