8.あやしいかぜたより
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アダン・シュヴァリエは最優と名高い国立騎士団副団長である。騎士としての能力も、代々近衛騎士を拝命している家柄も、明朗でさっぱりとした性格も、何一つとして申し分ない。欠点は確かにあるにはあるが、彼の才能を前にそんな事は些事だ。例えば――に―――で―――――
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……そんな彼が空き部屋の前でぼんやりと立ちすくんでいたなんて何かあったとしか考えられない――と言うのが現騎士団長であるエドワルドの見解であった。自分たちの預かり知らぬところで、何かがおそらく起きている。風と共に舞い込んだ噂話を以てしても、それはおそらく間違いではない。
「……打ち合わせは夕方やったじゃないですか、殿下……」
「今はエドだ。怪しい噂を聞いたからな、意見が聞きたくて持ってきた」
「はぁ……城下町で怪しい噂?」
「そう。お前、団員から報告で聞いてないか?巡回に出てる連中が黒い獣を見たって言う話だ」
「今夜の報告はまだ届いていませんが……」
――深夜、王城にて。
アダンの部屋に自身付きの騎士ごと押しかけたエドワルドは叩き起こした部屋の主と対峙していた。最優と名高いこの騎士は鍵を開ける音で目を覚ましていたらしいが、いつもより瞬きが多い。完全に寝起きである。気つけの果実水を差し出しながらエドワルドは話を切り出した。
「今夜じゃない、ここ数日西のヘルゼの田舎の方で目撃されてるし、奇妙な噂が届いてる。花や写し絵やらが黒い獣に盗まれるんだと。そいつが日に日に王都に近づいてきてるらしい」
「ヘルゼの……では連続窃盗犯でしょうか。それにしては盗む品物に価値があるとは思えませんし、犯人が獣というのも謎ですが……」
「俺もそんなやつがそんなものを盗んでどうするんだってそう思うよ。けど同時に奇妙なことが二つも三つも起きたなら、それは大抵糸で繋がってるってもんだ」
甘酸っぱい果実水で完全に目が覚めたらしい、アダンが険しい顔で顎に手を当てる。
盗まれた花や写し絵のほかに手紙なんかも盗まれたと聞く。奇妙なのは何故か盗まれたと語る人々が多分その品が盗まれたのだと思う、と曖昧な言い方をしていることだ。黒い獣が訪れて、花瓶だけ残されているのを見て花が盗まれたと解釈する。黒い獣が窓から飛び立つのを見て、大切にしまわれたアルバムの空白に写し絵の喪失に気がつく。そんな曖昧で、けれど奇妙な報告が風に乗ってここに届いた。そしてここにも曖昧に姿を消したものがある。
「……団長の言う奇妙なもの、とはその窃盗事件のことを指しているのですよね」
「それと今朝のお前の様子だな。……アダン」
伺うようなエドワルドの声に青い瞳が揺れて、伏せられる。濡れたような黒い前髪が憂う表情を覆い隠す。やがてアダンはゆっくりと首を振った。
「俺は黒い獣は見てません。……でも、違和感は感じています」
「ほう。どんな?」
「隣で感じていた呼吸が足りない。いつも誰かと肩を並べて走っていた気がするんです」
アダン・シュヴァリエの欠点は、――では――ないところだ。彼は必ず――を――――。彼が騎士団に入団して頭角を表し始めた頃、エドワルドはそう語ったことがある。ある気がする。あったはずだ――そこまで考えて騎士団長は気がついた。様子がおかしいのはアダンだけではなく、エドワルド自身もだ。思考に穴が空いて、そこから手がかりが奈落にこぼれ落ちて消えていく。先程まで気づかなかった欠落に、密かに深呼吸をして平静を保った。アダンはどうやらエドワルドの動揺に気づかなかったらしく、隣で感じていた呼吸とやらに思いを馳せている。
「でも、おかしいですよね。隣で走っていた誰かがいたなら多分、俺が副団長に任命された時に何かしら役職を与えてるはずなんです。隣で走り続けるために」
「お前の一存で昇格は決まらんだろ」
「……それは、そうですが……」
「まぁ、お前の呼吸とやらも気に留めておく。それよりも気になるのは黒い獣だな」
家に侵入し盗みを働く獣。侵入する時点ですでに駆除対象であるが、本来オルヴェンにみられる獣に盗みを働く知能はない。のであれば誰かが裏で糸を引いている可能性が高いという二人の意見は一致した。誰かが何かの目的で、花や写し絵、手紙を盗んでいる。それはただの悪戯に思えて、ひどく居心地の悪い事件だった。
「……団に周知しておきます。黒い獣の目撃情報の収集も」
「頼む」
「俺にも何か影響が出ているとなると、他の団員にも影響が出ているかもしれません。調べますか」
「あぁ、……俺にも出ているようだからな。団に限らず探れるだけ探ってみてくれるか」
「騎士団だけでなく?」
「そりゃあお前、」
お前の呼吸の相手が騎士団の人間とは限らないだろう。城下町で惚れた花屋の女だったらどうするんだ。
そのエドワルドの言葉に思わずアダンが頭を抱えたのはこの部屋にいた三人だけの秘密である。