狂う恋 (赤眼ゾンビ)
戸倉さんとジェイドさんを探さないと。
だるいような体を抱えつつ、暗闇の中に目をこらす。薄らと見える物の輪郭から、エスカレーターを目指し、一つ下の階へ降りた。そこで戸倉さんは眠っている筈だ。
と、暗闇を切り裂く鋭い悲鳴が耳を打った。
「戸倉さん!?」
声を上げ、俺は走り出す。銃をコッキングしいつでも撃てる状態にしつつ、暗闇をひた走った。
「――いや、いや!」
狂乱に叫ぶ声に、嫌な予感がする。心臓が耳元で鳴っているようだった。
声が近づく。身を絞るような泣き声が混じり、俺は胸が痛いのを堪えて更に走るスピードを速めた。
揉み合う人影が暗闇にぼんやりと見えた。
「戸倉さん!!」
あぁ、嫌だ、やめてくれ。
信じたくない。信じられない。
でも状況は嫌でも目に飛び込んでくる。
組み敷かれている白い足。またがる大柄な男。その先は、見たくない。
男が振り返った。名前は梅谷だったか。俺と目が合うと、頬を歪めて笑った。
「あ、あーごめん。彼氏とか? いやでも初めてでしょ、この感じ。違うよね」
白々しく、悪びれもせず。
「どうでも良いだろ。どけよ」
銃口をその頭へ向ける。相手は目を見開いた。
「まじ?」
「今ならまだ見逃してやるよ、どけっつってんだよ。なぁ」
語気を強めると、梅谷は大げさにため息をついた。そして渋々といった様子で腰をあげる。
その一挙手一投足に苛立ちながら、俺は辛抱強く梅谷が戸倉さんから離れるのを待った。
離れたら周辺を撃って威嚇する。グリップを握る手に力をこめ、目をこらす。
梅谷がわざとゆっくりとズボンのチャックを閉める。顔をあげた梅谷は、にやりと笑った。
「いや、白樺くんさぁ、こういうの慣れてないでしょ」
言うやいなやさっと戸倉さんの腕を掴み、目の前に持ってくる。彼女から小さな悲鳴が上がった。
「ッこの!」
彼女を盾にした形に、俺は頭に血が上る。しかし撃つことも出来ず歯ぎしりするしかない。
「戸倉さん!」
呼びかけるが、彼女の目は虚ろだった。たくさん泣いたのだろう、目の縁が赤い。その目には最早もう何も映っていない。
自分の息が上がっている。目の奥が煮えるように熱かった。
「別に撃とうとしなきゃこんな事はしなかったんだけど。その銃下ろせよ」
すっと戸倉さんの首筋にカッターナイフがあてがわれた。彼女はびくりと震えたのに、顔をうつむけたまま動かない。いや、動けない。それ程までに憔悴させられることを彼女はされた。
俺は梅谷を睨みつけながら、ゆっくりと銃を床に置いた。
「クズ」
「何とでも言え」
分かっている。カッターナイフでは死ぬほどの傷はそうそう与えられない。
けれど恐怖に震える彼女を、早く解放してあげたかった。
「銃、こっちの方に蹴ってくれる?」
「……」
「はーやーく」
自分の甘さに吐き気がする。ゆっくり足元に置かずに、弾倉も抜いて遠くへやれば良かったのだ。
黙り込んでいると、梅谷が戸倉さんを乱暴に抱き寄せた。カッターナイフが彼女の首筋を撫でる。
「ひ、」
「やめろ!」
「なら言う通りにしなよ」
あぁ、ごめん、戸倉さん。ごめん。怖がらせてごめん。全部全部、俺のせいで。
俺はもう、彼女を守れない。
手からこぼれ落ちる砂を見ている事しか。
「――海音!」
ふ、と彼女の瞳が動いた。梅谷はばっと左を向く。
空気が動いた。意識が俺からそれたと感じた瞬間に地面を蹴って飛び出した。
銃を拾い上げ、低い姿勢から梅谷の右腕を掴んでカッターナイフから彼女を遠ざける。
「くそ、っ」
腕を地面に押さえつける。戸倉さん共々倒れ込みそうになって俺は叫んだ。
「ジェイドさん!」
大きな手が彼女の肩にかけられる。彼女の体が軽々と持ち上げられた。
バチンッと派手な音が鳴って視界が揺らいだ。鈍い痛みが目の上の骨に響く。二発目が来る前に俺は梅谷の腹に膝をのせた。
体重をかけると相手は呻きを上げ、更に藻掻く。俺は真正面に銃を向けて撃った。膝の下がびくりと震える。
「本気だって」
コツ、と梅谷の額に熱くなった銃口を押し当てる。
「分かんない?」
どんどんと梅谷の目が見開かれていく。
「――に、言ってんだよ。……何言ってんだよ! お前だって同じだろ!? 女どもに嫌気が差しただろ! それで、殺してここに居るんだろ、なぁ!? 同類なんだよ、何自分だけ正義のヒーローぶって悦に浸ってるわけ!?」
そうだ、俺は自警団だった。お前と同じ。だから彼女は助けられない。ジェイドさんのように、正義のヒーローにもなれない。
俺はヒーローなんかじゃない。
「何ごちゃごちゃ言ってんの?」
うっすらと嘲笑を含めると、梅谷の顔が赤くなった。
コツ、コツ、と額を叩き続ける。
「そうだよ、俺はヒーローじゃないよ。正義のヒーローじゃできない事をこれからやるんだから」
復讐を。彼女がやらない選択をしたものを俺は拾う。
「やめろ、何で死ななくちゃいけないんだよ、ここまで努力してきたのに! 分かってくれよ、」
よく回る口だなぁと他人事のように眺める。不愉快な羅列がつらつらと流れているようだけど、もう聞く気もない。
「じゃ、仲間に会えるといいね」
引き金に指をかけ、滑らないように、押し込むように体重をかけていく。
「秋、やめろ」
低い声の聞こえるその近さに驚いて振り仰ぐ。そのタイミングを待っていたかのように右腕を捻り上げられた。
「いっ……」
堪らず銃を手放すと、腕の関節を極めたジェイドさんは地面に落ちる前にそれを掴んだ。
「あ、」
梅谷が希望を見つけたように声を上げた。それをきっと睨みつけると、タン、と乾いた音と一緒に、梅谷の眉間から血が飛び散った。
「……へ」
俺は間抜けな声を発して、何も言わなくなった梅谷を見つめた。唇は笑みのように引きつって、光の無い目が俺を見上げている。
どうして、こうなって。
「……ジェイドさん?」
俺は無表情のジェイドさんにすがりついた。
「こんなこと、しちゃダメでしょ」
「どの口が言うんだ」
「ジェイドさんがしちゃダメだって言ってるんだよっ!」
ボタリと、訳も分からず大粒の涙が溢れてきた。俺はしゃくりあげてジェイドさんの足に拳を叩きつける。
「ジェイドさんは戸倉さんのヒーローじゃん! 何で俺にやらせてくんないの!?」
「秋」
不意にジェイドさんがしゃがみ込んだ。俺に目を合わせるその表情があまりにも優しくて、思わず口を噤む。
「共犯だな。俺達」
唇がブルブル震えた。せっかく閉じた口から嗚咽が漏れる。
「なんでっ……なんでだよぉ」
顔を隠したくて俯くと、ジェイドさんが小さく笑った。
「笑うか泣くかどっちかにしたらどうだ?」
「だってさぁ〜ジェイドさん」
ぐちゃぐちゃと感情が混ざっていく。涙は止まらないのに、笑いが込み上げてくるのだ。
「俺のヒーローにまでならなくて良いじゃん」
ジェイドさんは馬鹿だ。すっげー馬鹿だ。
乱暴に涙を拭って顔を上げると、ジェイドさんはしゃがみ込んで頬杖をついていた。右腕はだらりと下げて銃を持っている。そして困ったように言った。
「そのヒーローって言うの、やめてくれないか」
「えーほんとの事だし」
鼻をすすり、笑って立ち上がる。
「ねぇ、戸倉さんは……大丈夫?」
こちらを向き床に横たわっている戸倉さんには、ジェイドさんの上着がかけられていた。
「あぁ、気絶してるだけだ。……ただ精神的には、普通じゃ居られないだろうな」
「……うん」
当たり前だ。平静で居られる訳がない。俺が遅かったからだと自責が過ぎるけど、自分を責めても仕方がない事は分かっている。
ジェイドさんが彼女を抱き上げる。
「秋、自分の荷物を取ってこい。ここを出るぞ」
えっと俺は目を丸くした。
「他の人達は?」
歩き始めたジェイドさんに続きながら聞くと、彼は薄らと笑った。
「"三人"の方が良いだろう」
様々な含みを持った言葉に、俺はすうっと首筋が冷えるのも束の間、嬉しいような感情に淡く口角を上げる。
「そーだね」
戸倉さんを傷つけたここの人達は、捨て置いて。ジェイドさんは俺達二人を優先してくれた。
それは俺にとって、この異常な世界での普通が続くということだった。
デパートを脱出し、手頃な家を探し出して戸倉さんが休めるようにする。
ソファに戸倉さんを寝かせるや否や、日が出始めた辺りでジェイドさんは食糧調達に行くと言う。
「え、でも」
俺は戸倉さんをちらっと見やる。ジェイドさんの声に反応した彼女だから、ジェイドさんはともかく俺を怖がりはしないだろうか。
「何だ?」
しかしジェイドさんはその事は全く気づいていない様子で首を傾げる。
「……やっぱ何でもない」
俺が居る間に戸倉さんが目覚めるとも限らない。
ジェイドさんを送り出し、俺はローテーブルを挟んだ向こう側で体育座りをする。
コチコチと時計の秒針が刻むのを、どれくらい聞いていただろうか。
「ん……ぅ」
戸倉さんが苦しげに呻いた。嫌なものから顔を背ける仕草の彼女に、流石に心配になってしまって、そろそろと近づく。
近づいてはっとした。彼女の顔は涙と汗に塗れて、髪が張り付いてしまっている。
急いでタオルを水で湿らせ、彼女の頬や額を優しく拭う。ふっと彼女の眉間のしわが解けほっとしたのも束の間、ぱちりと目を開けた彼女に、俺は肩を跳ねさせる。
勢いよく後ずさると、彼女の焦点の合わない目がいつの間にかしっかりとこちらを向いていた。
しばらく俺を見てぼんやりしていた様子だったけど、不意に彼女の口が動いた。彼女の目から涙が流れ落ちる。
「ご、ごめん、ごめん。俺どっか行くから、
これ、水、」
やはり俺は怖いのかもしれないと、テーブルにペットボトルを置き、逃げようとする。
「まっ、て」
彼女はけほっと小さく咳き込む。
「待って」
はっきりそう言いながら、彼女は頼りなく手を伸ばした。思わずその手を掴む。
「しらかば、さん」
「うん」
戸倉さんの声に嗚咽が混じった。
「白樺さん」
彼女が俺の手を引き寄せる。大粒の涙をぽろぽろ流し、弱い力で懸命に俺を引き寄せる。
「ここに居るよ」
言うと彼女は、声を上げて泣き始めた。ほっとしたように。
「こわ、かったです。すごく」
「そうだよね。ごめんね、遅くなって」
耳元で小さく言うと、彼女は強くかぶりを振った。それから涙が止まらない様子で、しばらく嗚咽を漏らしたあと、引きつった呼吸を何度かする。
「…………助けてくれて、ありがとう」
その言葉は、俺にとってあまりにも救いで。それなのに堕ちていくようで。
俺はもう、この子から離れられないんだろうと、そう思わされてしまった。
「戻ったぞ……って、」
静かに入ってきたジェイドさんを二人して見やると、彼は珍しく吹き出した。
「ジェイドさん?」
タオルで目元を拭う戸倉さんも首を傾げる。
くつくつと笑うジェイドさんに訝しがっていると、彼は緩く手を振った。
「二人とも同じような顔になってたから、つい……悪い。目が覚めてよかった」
同じような顔、と頬に手をやって、びしょびしょに濡れている事に気づく。
「えぇ! 俺泣いてた!?」
戸倉さんを振り返ると、彼女は赤い目でこくりと頷いた。
「言ってよ〜……」
恥ずいじゃん、と項垂れると、彼女はいつかのようにタオルを俺の顔に優しく押し当てる。
「あ、ちょっと湿ってる」
戸倉さんはタオルを広げて、自分が涙を拭った部分を当てないようにしてくれたんだろうけど、俺が先に水を含ませていたから少し湿っている。
「え!?」
途端に顔を真っ赤にした彼女は、多分勘違いしているのだろう。そのままタオルの両端を持った手を引こうとする。
俺は回収される前に自分の手でタオルを素早く抑えた。
「は、離して! 離してください! 汚い!」
取り乱す彼女に爆笑する。余程恥ずかしいらしい。
「全く……俺は食べるものを準備してくる。喧嘩は程々にしとけよ」
ジェイドさんの呆れた声にはーいと返事する。
「何なんですか!」
いつネタばらししようかなーと笑いつつ、俺は結局、ジェイドさんがご飯を持ってきてくれるまで、戸倉さんをからかい続けたのだった。