あの子が居ない世界(赤眼ゾンビ)
「ねぇ」
背後から声がかかった。日に日に刺々しくなっていくその声は、いったいいつ爆発するのか。
「もう良いでしょう」
俺は彼女の骨張った手を、壊れない程度に力を込めて握った。血の通わないその手が握り返してくれることはない。
深く、嘆息の気配。
「そろそろその子を、眠らせてあげたいの」
その言葉に俺はようやく、顔を上げる。緩慢に振り返り、声の主を睨みつけた。
声の主は血の煮え滾るような目で俺を見下ろしていた。
「駄目だ」
絞り出した声は酷く掠れていた。水は飲んでいるとはいえ、喉の渇きも強くなってきていた。
それでもこの手は離せない。
赤眼が、ふっと諦めたように伏せられた。今日もいつも通り、背を向けて避難所にくずおれる人々を埋葬してやりにいくのだろう。
そう思い、冷たい床に横たわる彼女へと目を向けようとしたときだった。
冷ややかな笑い声が、静かな体育館に響く。
「忠犬ね、あなた」
明らかな皮肉に、俺は応えないよう顔を背け続ける。
「海音はあなたの事なんか、覚えてない」
その言葉に大きく瞠目する。彼女と繋いでいる手も、もはや同じ温度だった。
「聞いた事ないもの。お祭りで迷子になっただとか、誘拐されかけただとか」
「……どうして知ってる」
どうにかして動揺を悟られないよう、俯いたまま平坦に問いかけた。伝えた記憶はおろか、まともな会話すらした覚えはない。
は、と嘲笑の気配。
「ずーっと、一人で喋ってたわよ」
思わず振り返ってしまって、臍を噛む。赤眼の彼女の、貼り付けたような薄い笑み。
赤い瞳を細め、彼女は更に続けた。
「私が後ろに立っても全く気づかなくて、面白かったわ」
喉が妙に乾いていたのは、少量しか水を飲んでいなかったからじゃない。掠れていたのはまともに喋っていなかったからじゃない。
「海音に救われたのね。自分を肯定されて嬉しかったんでしょう。それだけで生きてきたんでしょう」
つっとその白い顔を歪める。
「気持ち悪い。……海音にそんな重荷背負わせないで」
吐き捨てた彼女に、俺は二の句を継げない。
背負わせるつもりなどなかった。ただこんな時にこの子を守りたいから自衛隊になった。だから支えにしていた。
それは、重荷だったのだろうか。
胸の空く思いがして、唐突に己の異常さを自覚する。目の奥がじんと熱くなった。
「あぁ、やっと目が覚めた?」
面倒くさそうに白髪を手で払うその姿が歪んで見える。
「まぁ……今更急かす気もないし。ゆっくりお別れでもしていたら?」
彼女の声はほんの僅かに和らいでいた。次いでさっさと背を向ける。
俺は浮かんだ涙を雑に拭い、静かな表情で横たわる彼女へ口を開いた。
「……俺の事を忘れていても構わない」
彼女は俺の独白を、全て聞いていてくれただろうか。
「守ってやれなくて、すまなかった」
しん、と耳鳴りがする程の静寂だった。謝罪さえもはや意味を成さないことに気付いて、キツく瞼を閉じる。
俺が親と死に別れたあの女の子を家まで送り届けず、そのままここへ向かっていれば、間に合っていたのかもしれない。
目を開けて、彼女の乾いた頬を撫でた。
積み重なる後悔は、しかし赤眼の彼女から言わせてみれば自分勝手な感情なのだろう。
もう、死を悼むべき時が来ていた。
俺はそっと彼女の手を離した。それから両手を胸の上で重ねてやる。
不意に肩の力が抜けた。胸に空虚な穴がぽっかりと空いたような気分だったが、不思議と悲しくはなかった。
横たわる彼女の体に手を回し、横抱きに抱えあげた。
立ち上がり、赤眼の彼女を探す。
いつの間にか体育館に折り重なっていた死体は、全て無くなっていた。
その事実に、僅かに目を瞠る。まさかあの少女一人で、ここまでやったのか。
俺への憎らしい口調と、冷えた目が憐憫とともに瞼の裏にチラついた。
俺は緩く頭を振り、体育館を出る。勝手に蘇る懐かしい記憶を辿りながら、グラウンドへと足を進めた。
ザク、ザク、と土を掘る音。白髪が日を受けて時折虹色を見せた。唐突に変わってしまった自身の体を、彼女はどう受け止めていたのだろうか。
ふっと彼女が振り返る。
「何? もう、いいの」
あれだけ執着していた割には、早くないか、と目が雄弁に語っていた。
俺はゆっくりと彼女に近づく。
「……すまなかった」
赤眼がぱちりと瞬く。それから嫌そうに顔が顰められた。
「――何を謝る事があるの?」
苛立ちも混じって芯の硬い声だった。シャベルの先をカツンと地面に当てて、彼女は体ごと俺に向き合う。
「別に、海音にお別れを言ったならもう良いんだけど」
挑むように見上げられて、俺はそっと膝を折った。
「……この子の埋葬も、君がやってくれるか」
海音の体を下ろし、そのままの姿勢で赤眼を見上げる。
この子も見知らぬ男より、良く知った友人の手で埋葬される方が休まるだろう。
「当たり前でしょ。埋葬もさせてくれなんて言われたら、シャベルで殴ってるとこだったわ」
ふん、と鼻を鳴らした彼女に、俺は苦笑した。今までよりもずっと年相応の仕草に見えたからだった。
「それは良かった。……俺は、あっちに戻っている」
「ええ」
言うや否や、彼女は振り返ってまた穴を掘り始めた。俺が遠く、居なくなったところで、彼女は漸く海音と別れを告げる事が出来るのだろう。
立ち上がり、膝に付いた砂を払って体育館へと戻る。
がらんとした体育館を見て、ふらふらとさ迷っていた心が落ち着いた。
あの子が居ない世界は、まだ続いていく。俺はそれを受け入れて、生きていかなければならないのだ。