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くらげのあし  作者: 海月
1/5

ジェイドさんの訓練 (赤眼ゾンビ)

 今日は過ごしやすいだろうな。


 起きたときの空気ですぐにそう思った。カーテンから射し込む光や、冬とは違う、暖かくて軽い空気。

 きっと外にはすっきりした青空が広がっているはずだ。


 ちょっと良い気分で、身を起こそうとして。


「っ……」


 体中のそこかしこが、きりきりと鈍い痛みを訴えてきた。同時に思い出すのは、一昨日のトレーニングだった。

 腹筋、腕立て、スクワット。どれも最初は十回から始めて、ようやく三十回を余裕でこなせるようになっていた。

 それが一昨日は、それぞれ百回と。

 驚きに思わず声をあげた私に、ジェイドさんは静かに言った。


『限界だと思う前にやめるのが今日の課題だ。要は体力を残す練習だよ』

 今の限界は三十回です! と言いたかったけど、結局はそれぞれ四十回ほど出来たし、腹筋に関しては五十回目前だった。

 ちなみに体力は全く残っていなかったので、ジェイドさんには少し呆れられてしまった。

 百回と言われるとついそこを目指してしまう。

 でも自分の中で動けなくなる前の感覚はわかった気がするから、今日はそこでやめよう。昨日は一日休んだし、きっと今日も同じようなトレーニングをするだろう。




「今日は鬼ごっこするぞ」

 予想が外れて、きょとんと私は目を丸くする。鬼ごっこ?

 小学生の頃は楽しくやっていたけれど、中学生になると、途端にやらなくなっていたそれが、トレーニングになるのだろうか。

「普通に、ですか?」

 やるとなればグラウンドに出ないと、ジェイドさんから逃げ切れる気がしない。捕まえられる気もしないけれど。

「いや」

 パチン、とジェイドさんがおもむろに手を叩く。静かな廊下に、それは良く響いた。

「俺がこうやって手を叩いたら、廊下の向こうまで走れ。壁をタッチできたら勝ちだ」

「……………………無理…………」

「無理じゃない」

 

 何度想像してもジェイドさんに勝てる気がしない。

 

「ジェイドさんならすぐ腕を伸ばしたら捕まえられるんじゃないですか」

 鬼ごっことなぞらえたのだから、ジェイドさんは私をタッチすれば勝ちになるんだろう。

 遠い目でジェイドさんの長い手足を見ていると、ふっと苦笑された。

「そんな位置で始めるか。俺は廊下の端、お前は半分くらいの所からやる」

「それなら……」

 勝ち目はあるか。


 ――と、思ったのは完全な間違いだったらしい。

 息を切らして廊下の壁に手をつき項垂れる。


 …………怖かった……。


「まさか悲鳴をあげられるとは思わなかったんだが?」

「ごめんなさい……」


 手を叩く音がして。走り出して。

 ジェイドさんとの距離はどれくらいかと後ろを振り返ったら。


 既に手を伸ばされていた。タッチ寸前だったのだ。

 三階だからと、普段は自制している声量が大きくなった。

 けどかなり、怖かった。なんというか、原始的な恐怖だった。小学生なら笑って終わりだったものが、ただの叫び声に変わっていた。もはや反射的なそれは止める間もなく口をついて出た。


「あの、本当にジェイドさんが怖いとかじゃなくて、追いかけられたのが怖かったというか、見たことない速さだったからびっくりしちゃったんです」

 ジェイドさんが心なしか悲しそうなので慌てて否定するが、飛び出た悲鳴は消せない。気まずく思っていると、なんとジェイドさんはくつくつと肩を揺らして笑っていた。

「ジェイドさん!」

「すまん、俺は別に気にしてないぞ」

 言いつつまだ笑っている。悲しげな雰囲気はどうやら嘘だったらしい。

 騙されたことにむっとしていると、ジェイドさんはようやく笑いをおさめ、穏やかに言った。

「後二回、やろうか」




「……みたいなトレーニングもしました。実は拍手に反応して走り出すまでが速ければギリギリ捕まらない距離だったんですけど、いつもギリギリっていうのがすごく怖かったです」

 思い出して遠い目をする。今思えば、感染者に見つかってもすぐに反応できるようにするためだったのだろうけど。

 

「それ、ジェイド、さんすごいね」

 白樺さんの相槌に私も頷く。ジェイドさんの加減が上手なのだ。

 

「でも、それ今言うっ……必要、あった……!?」

 白樺さんの声がぷるぷる震えている。

 慌ててストップウォッチを見れば、表示されている時間は残り僅かだった。

「あっ、あと十秒です! 十秒! がんばって!」

 そのままカウントダウンし、ゼロになった瞬間、白樺さんは耐えかねたようにぺちゃりと床に伏せた。

「お疲れ様です」

 つい浮かんだ記憶をそのまま喋ってしまったが、プランク中の白樺さんには迷惑だったろう。

 二分間のプランクをやりきった白樺さんの顔は真っ赤だ。


 謝りながら水を渡せば、彼は緩く首を振った。それから息も落ち着いた頃合いで軽く笑う。

「でもジェイドさんに全力で追いかけられたら笑っちゃうかもなぁ」

「本当に怖かったんですよ?」

 白樺さんは体験していないから分からないのだ。

「えー、大げさだな戸倉さん。全力って言ってもジェイドさんは人じゃん」

 感染者の速さには敵わないだろう、と。

 そう言う白樺さんの背後を見やって、私は口を開いた。

「じゃあ白樺さんはジェイドさんに追いかけられても怖くないんですね?」

「うん」

「叫ばない?」

「もちろん」

 自信ありげに頷く白樺さんの後ろに、無表情のジェイドさんが立っていた。

「なら、やってみるか」

 バッと勢いよく白樺さんが振り返る。目が合ったジェイドさんは、にっこりと微笑んでみせた。



「ぎゃーーーーっ!? 無理無理無理、あぁっ!!」

 ジェイドさんに一瞬で追いつかれた白樺さんが悲痛な声をあげる。それは広い室内に良く響いた。

 彼が振り返ったときの引きつった顔を思い出す。

「うふ」

「戸倉さん笑ってるでしょ!」

 白樺さんの叫びに、私はさらに声をたてて笑う。

 ここは仮住まいをしていた家からほど近い市民体育館だ。室内の端から端までは五十メートルはあるだろうか。

「どうでしたか白樺さん」

 駆け寄って感想を聞いてみると、白樺さんはぷくっと頬をふくらませた。

「戸倉さんどうなるか分かってたでしょー」

「怖くないって言ったのは白樺さんですー」

 口調を真似れば、ジェイドさんが忍び笑いを漏らした。

 それを見た白樺さんが目を丸くする。ついでその顔に、嬉しそうな笑みが浮かんだ。

「ジェイドさんが笑ってる! 超レア!」

 騒ぎ立てる白樺さんに、ジェイドさんは笑みを消した。ほんの少し寄せた眉からは、ちょっとした不満も垣間見える。

 心外そうな表情をするのは、ジェイドさんが自分の笑顔がレアだとは自覚していないからかもしれない。

「あー! なんで真顔に戻るのジェイドさん顔怖いんだから、もっと笑ってればいいのに。ね、戸倉さん」

「え、はい……あ」

 どんどん眉間の皺が深くなるジェイドさんにハラハラしていた私は、急に水を向けられて、とりあえず頷いてしまった。


 一瞬の間の後、ジェイドさんはもう一度、超レア(・・・)な笑顔を浮かべた。

 嫌な予感に身構える。

「ほら、走れ」

 ――パチンッ。

 


 手を叩く音に、二人して慌てて駆け出して、今度は何故か笑いが込み上げていた。当然すぐ追いつかれるけど、ジェイドさんはそれはそれは珍しく声をたてて笑っていたから、ちっとも怖くない。



 そんな事を思い出して、私はくすりと笑う。なんだかあの日からジェイドさんは笑うことが多くなった気がする。

 目の前では白樺さんが、意気揚々とこのトレーニングの話をしていた。

「本当に怖かったんだよ。ねー戸倉さん」

「はい」

 そんなことないだろ、と金井さん三ノ輪さんが笑う。白樺さんと全く同じ反応だ。

 

 もうすぐジェイドさんは食料品の点検から戻ってくるだろう。嬉々として誘導を始める白樺さんに、相槌を打って応援した。

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