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1ヶ月間、看護に向き合って感じたこと〜現役高校生の日記〜

作者: 心

看護とは何か。あなたは答えられますか?

死とはなんですか、どう向き合うのが正解ですか?

この小説に少しでも興味を持っていただき、ありがとうございます。


「あなたは看護のリアル、知ってますか?」

この小説には、高校生の目線で見たそれがたくさん詰まっています。


短編小説のジャンルに含まれていますが、サラっと読めるような短さではないと思います。

けれど、私が感じたこと、看護に向き合ったことを細かく、毎日丁寧に記録しました。


お時間があれば、この時間を私にください。


読んでくれた方々に この小説を通して、生きる大切さが伝われば、これ以上に嬉しいことはありません。



--------------------------------------------------------------------



私は今年、大切な祖母をを亡くしました。それはとても辛く、悲しいことです。しかしながら、看護職を目指している者として、実際の看護師さんにご指導をして頂きながら、大変貴重なことを学ぶことが出来ました。

この経験により、「私のなりたい看護師像」というものを見つけることが出来ました。ここに来るまでにたくさん悩んで、たくさん家族で相談して、少しずつ決まっていくことがありました。

症状がどんどん進行していくのを見て、私には何も出来ないという、もどかしさも身をもって経験しました。

これは私の当時の日記と、心情を表したものです。



祖母の癌を私が、家族から知らされたのは前月の後半。見つかった時期的にも年齢的にも、病状的にも手術不可能で、私はまだ高校生ということもあり、祖母がその病気だと分かってからもしばらくの間、私に詳細は知らされませんでした。

祖母からはずっと足が痛いのだと言われていました。


ここで祖母のことを少しだけ。


祖母はずっと私の中で強い人間でした。

祖母宅は、私の家の近くだったので、小学校の時はほぼ毎日通っていました。


私は祖父母と仲が良く、旅行にもたくさん連れて行ってもらいました。


祖母は祖父よりも一家の大黒柱という言葉が合っていて、強くて、思ったことはすぐに口に出すような人でした。


今までたくさん怒られたし、たくさん泣かされました。だけど、本当はとても優しい人で、旅行先で興奮しすぎて眠れないときに私が眠くなるまで(夜中の2時半まで)付き合ってくれました。


そして、明るい色が好きだったり、花のブローチを、たくさん持っている可愛い1面もありました。



私のこともお話しておきます

私は医療に興味がありました。

看護師になりたいと思ったキッカケは、1番近くで患者さんと関われるということを現役の看護師さんにお聞きしたのが決め手でした。


夢が決まったことで私は、小学生時代全くやる気のなかった勉強に力を入れるようになり、中学の成績はクラスでランキングに入るくらいまで上がりました。


高校生になっても看護師という夢は変わらず、看護大学を目指して、数学が大の苦手ですが、理系クラスに進みました。


夢を叶えるために学校生活もそれなりに頑張っていたかと思います。




祖母は病気によって、弱くなった自分を孫に見せたくないと言っていました。


私もそんな状態だと母から聞いてから祖母と会うのを控えるべきだと判断し、祖父母の家を訪ねる頻度を減らしました。


しかし、久しぶりに祖母の顔を見たくなり、7日に会いに行くことに決めました。


7日

祖母に会いに行くと、喜んではくれましたが、途中で来客が来たので強めに「帰って」と言われました。


来た時はありがとうと言ってくれていたので少し驚いて、少し悲しくなりました。


看護師になったらこういう経験を沢山するのだと考えるとやっていけるかなと思ってしまうくらい、時間が経つにつれて悲しさが増してきました。


祖母は私と会いたくないのかなと思って、また行く回数を減らそうと考えた時でした。

私が先程渡していたプチシュークリームを2つも祖母が食べたと母から聞きました。それがきっかけでもう1度祖母に会いに行こうと思ったのです。


仕事帰りの父と母と待ち合わせして祖父母の家に行きました。そのとき祖母はベッドで横になっていて、車椅子でリビングに行きたいとのことでした。


父が支えながら祖母を車椅子に移動させました。

そして、車椅子の使い方を教えて貰いながら私が車椅子のストッパーを下げて、足を固定させ、リビングまで押していく。という経験をしたのです。


初めての経験だったので、壁やドアに足などをぶつけてしまわないかすごく注意してリビングまで車椅子を押しました。


あとは、曲がる時に「左に曲がるね」やカーペットの上を押す時に「少し揺れるよ、ごめんね」など声掛けをしました。


それから、私の家族と祖父母でリビングで少し話をしました。祖母は目を閉じて聞いているだけでした。


そのとき、私は偶然触れた祖母の手が冷たいということに気づきました。


祖母は数日前に体を触られるのを嫌がっているということを母から聞いていたので、迷いましたが、思い切って優しく私の暖かい手を祖母の手に重ねました。


氷のように冷たかった祖母の手がほんとにほんとに少しだけ暖かくなった時に祖母がそのとき「暖かいね」と言ってくれました。


「気持ちいい?」と聞くと少し口角を上げて頷いてくれました。

私は嬉しくなって手先だけではなく、手全体と手首まで温めました。


そして、体調も落ち着いたということで私たち家族は祖父母の家を後にしました。


私は家に帰って涙が止まらなくなりました。私が現役で働いている看護師ならもっとやれる事があったはずなのに。今は何も出来ないただの高校生。悔しくて、悔しくて、たまりませんでした。


それから私にできることは全てやろうと決めました。

力仕事は出来ないことが多いけど、自分にも出来ることがきっとあると信じて、毎日祖父母の家に通う生活が再スタートしたのです。



でも、このとき私は知りませんでした。祖母の病気によって家族が、祖父が、元々綺麗にそびえ立っていたピラミッドが少しずつ崩れ始めていることに。


8日

朝いつもより30分早く起き、祖父母の家に寄ってから直接学校に行きました。祖父は夜中の2時間おきに祖母を様子を見たり、姿勢を変えたりしていたので、この時間は寝ていました。


祖母の部屋を覗くと、ちょうどベットの角度を調節しているところでした。

なので、「行ってきます」というと、顔を上げて少し口角を上げ、「行ってらっしゃい」と言ってくれました。体調が良いようで私も嬉しくなりました。


9日

早く家を出て祖父母の家に向かいました。暖かく風の強い1日。今朝、祖父が1人で、祖母をベッドから車椅子に移動させたようで、車椅子で座っていました。


祖父も腰が弱いのに1人で移動させるなんて大変だっただろうな。と思いました。

けれど、祖父は父が今日ハードな仕事があるということを聞いていたので、父を頼らずやってくれたそうでした。


祖父が、「体勢を変えたい」や「寒い」、「暑い」などの要件で呼ばれること、それによって祖父が疲れてしまっていること。それを聞いて祖父を支えるために、父と父の妹が夜中の3時~5時頃に車で祖父母宅に行っていることを聞きました。


私は祖母が心配で、祖母の事ばかりを心配していました。


けれど、それだけじゃだめなんだ。と思いました。


確かに、祖母が1番大変です。病気の辛さは、本人にしか分からないから。そして、症状だけではなく、精神的疲労もかなりあるはずなのです。


けれど、父や父の妹について考えてみると、祖母と祖父を支えるために睡眠時間を大幅に削っていますが、通常通り仕事もしています。それがどれだけ大変か、私には分かりません。


それから父と父の妹と祖父がなるべく祖母を支えようということになったようで、そういう生活が始まったのです。


祖母が毎日やってきたこと。朝ごはんを作り、洗濯物をして、お昼ご飯を作って、お皿洗いをする。コーヒーを入れて、時にはお菓子を焼く、そして、買い物に行き、夜ご飯を作る。お風呂を沸かし、洗い物をする。毎日してきた事がたくさんあります。


祖父がそれらをやり、それに加えて、祖母の日中のお世話は全てやる。

そして、父と父の妹は仕事が終わったら早く帰って祖父を手伝ったり、祖父を休ませて、その間に自分たちが祖母を支える。ご飯を食べさせたり、オムツを変えたり、コミュニケーションも欠かさずに。


その晩。父がリビングのテーブルで盛大にビールをこぼしました。

私のお気に入りのノートはビールでびちゃびちゃになりました。ホントなら父のことを怒ったでしょう。


でも、今回は疲れている父を知っていたので、それが出来ませんでした。


自分でも驚くほど急に、怒りのパワーは減って行ったのです。


いつもはすぐ謝らない父が今日はすぐに何度か謝ってきて、疲れが溜まってるのだと判断も出来ました。


このように、大変な思いをしているのは、祖母だけではなく、その周りの支えている家族だということを今日で実感しました。これらを医療用語では「第2の患者」というそうです。


そして、第2の患者とは自分を患者の対象と見なさないため、いつの間にか、うつ病や睡眠障害、食欲不振などの症状が出ることもあるそうです。


もし、そういう状況の方がこの小説を読んでいらしたら、深呼吸をしたり、美味しいものを食べたり、ゆっくりお風呂に浸かったり、リラックスすることを心がけてみて下さい。気づいていないだけで疲労が溜まっているはずです。


10日

今日は父の仕事が休みでした。父が午前中からずっと祖父母の家に行っていました。


午後3時頃私は父、父の姉、祖父のために内緒で差し入れとして、シュークリームを持っていきました。

祖母に会うついでに3人にも休んで欲しいと思ったからです。


祖父母宅のリビングに繋がる階段を上っていた時に私はリビングで話していた3人の会話を偶然聞いてしまったのです。


父 「これからどうするんだ、しっかり考えないと」


祖父 「分かってる。おまえはどう思うんだ?」


父 「俺は仕事があるから、それ以外の時間ならできるけど」


父の妹「私もそう。私も働いてるし。でも、そうするとお父さんが大変だよね」


祖父 「もう歳でな。俺もお母さんの要求は全て聞いてやれねえよ。体力が持たねえよ」


父の妹 「それであの件どうなってるの?」


祖父 「先生と看護師さんに相談しているが、結局決めるのは俺たちとお母さんだと言われてな」


父 「このままだとみんな体が持たないし、そういう選択肢もあるということか」


祖父 「でも、お母さんは絶対同意しない」


私は3人がホスピスについて相談してることをここで初めて知ることになったのです。


ホスピスとは、終末期患者の痛みや症状の緩和に焦点を当て、人生の終わりに彼らの感情的および精神的な要求に対処することに焦点を当てた医療の一種。


そしてそれはつまり、祖母が祖父母の家を離れ、病院でその治療を受けることを指していました。

ただし、ホスピス治療には本人の同意が絶対。という条件があります。


私がそれを聞いた時、悲しくなってその場から立ち去りました。


祖母は病気のことに対しては1番に気を使って、敏感にしていました。


病気であることを近所の人に知られないために先生(お医者さん)には白衣を着用しないようにお願いしていたくらいです。


そんな祖母が、病院で最期を迎えるなんて、その選択を考えている父、父の姉、祖父が信じられなくなりました。


どうして、祖母と最期まで一緒にいてあげないのだろう。本当に最期なのに、、、。どうして?


そういう思いが何度も私の胸を過ぎりました。その日はシュークリームを渡さずに家まで帰りました。その道のりがとても長く感じました。


11日

自分の体で、大人の3人がどれほど大変な生活を送ってきたのかを知りました。

昨日までは3人のことをひどい。と思っていたのに、今日は昨日の正反対の考えに変わったのです。


看護の世界は大変幅が広く、経験しないと本を読むだけでは全く分からないのだと感じました。


私は看護師になると決めた高校1年生の時に、看護についての本を5、6冊読みました。看護の仕事内容、患者さんへの思いやり、ある程度の看護知識(高校生レベルの看護の基本)を理解していたはずなのに毎日驚きの連続でした。


だけれど、実際にやってみて初めて気づいたのです。サポートすることはとても大変でした。


今日、学校終わりに祖父母の家に寄った時、祖母に腕の運動をしてほしいと頼まれました。


やり方が分からなかったので、祖父に頼んでやり方を教えてもらいました。ゆっくり、祖母の手首を優しく持って、手を上げる、下げるを繰り返すというものでした。


右腕を10回やると、左腕もやってほしいと頼まれました。


祖母はベッドで寝ているので、私はベッドの奥の祖母の左腕を動かさなければ行けませんでした。


10回やると腰が痛くなりました。

この体勢は、運動部経験ありの高校生が痛くて、辛かったので、きっと祖父も父も父の妹も大変だっただろうなと思いました。


それからも祖母は腕の運動がお気に入りのようで、10回を5セット、合計100回やりました。



12日

今日は学校から帰宅後、「ただいま」と祖母に言うと、いつもの「おかえり」に代わって「服をちぎってほしい」と言われました。

何か分からなくて祖父に助けを求めました。祖父によると祖母は夢を見ているのだと言いました。けれど、その口調はますます強くなりました。


「お父さんはだまって!早くちぎって、これだと服が邪魔で鰻が食べられないじゃない」と。


どうやら、祖母が鰻が食べたいようで祖父が父に電話をして鰻を買ってくるように頼んでいました。


しかし、父がその日会社が遅く、まだしばらく帰れないと言いました。


「お母さん、鰻は明日買ってきてもらおう、もう遅いから」と祖父が言っても、


「今日がいい、鰻を食べるために邪魔だからハサミで服をちぎってちょうだい」と聞きません。


私は操り人形のように、ハサミを取りに行って少しだけ切ろうとしました。


少し切れば、祖母は満足するかと思ったからです。

目も開けられていなかったので、どれくらい切ったかなんて分からないと思ったのです。


私はとにかく祖母の要望に答えたくて必死だったのです。


けれど、祖父に止められました。


「これは俺が今日買った服なんだよ、切らないで欲しい、頼む」


だけれど、隣の部屋から声がします。


「お父さんの言うことなんて聞かなくていい、とにかく早く切って欲しいの。服なんて切ってもいいんだから」


祖母が声が出る限りの音で言っています。私は出来れば、そこに立ち会いたくありませんでした。


気を紛らわすために、祖母に何か飲む?と聞くと、炭酸が飲みたいと言ったので、やかんのような専用の飲む容器に炭酸水を入れて祖母に飲ませてあげました。


一旦祖母が落ち着いたので、そこで夜ご飯を食べました。そして、やっと父が鰻を買って帰って来ました。


それから父の妹が鰻がとたれとご飯を混ぜてうなぎ丼を作り、1口ずつ祖母の口にゆっくり入れました。

祖母は3口食べて、ご馳走様と言いました。


それから私は祖母に「つまようじを取って」と言われてつまようじを取りに行きました。祖母に渡すと祖母はゆっくり口に近づけて歯に挟まった鰻を取っていました。


それから、歯を磨きたいと言われて、父の姉が歯磨きセットを持ってきてくれました。ゆっくり入念に歯磨きをして、お薬を4粒飲んでくれました。


じゃあそろそろ、おやすみと言おうとしたら、ハーゲンダッツが食べたいと言いました。お薬も飲んだし、歯磨きもしたよ?と言ったけど、それでも食べたいと言ったので、また祖父を呼んで、事情を話しました。


「好きなようにさせてやれ」と言われたので、ハーゲンダッツのバニラを1口ずつ食べさせてあげました。


2口食べてご馳走様と言ったので、口をタオルで拭いて終了。それから、父の姉が洗い物をしている間に、祖母から腕の運動を頼まれたので、今日はそれを3セット、合計60回やりました。


それから、父の妹がオムツを変えてから帰るからもう大丈夫だと言うので、私は父と一緒に帰りました。


このように、看護に正解はないのだと初めて学びました。


普通は薬を飲んだら食べない、というのが正しい医療のルールだというのはみんな分かってるはずです。


だけれど、看護に関しては違うことがあるのかと思ったのです。


そのとき、そのときで満足してもらうことも大切なのではないかと。また考えが変わった瞬間でした。


13日

今日は塾帰りだったので、長時間祖父母の家に寄ることができませんでした。


ただいまと言うと、喉が渇いたと言うのでお水を飲ませてあげました。それからまた腕の運動をしてあげました。それからお家に帰りました。


私がお風呂から上がると、リビングで父が母と話していました。


祖母は、機嫌が悪いときに父のことをマムシと呼ぶ、と。それは私も知っていました。


父が家に帰ってきた時に苦笑いで「またマムシと呼ばれてしまった」と言っていたからです。


私が父にそれを聞いた時、「おばあちゃんも言いたくて言ってる訳では無いから、気にしない方が良いと思うよ」と言いました。


その時は、父もそうだねと言っていたのですが、ずっと心の奥底で悲しい思いをしていたのだと知りました。


もし、私が全く知らない誰かにマムシと呼ばれたら、私はスルーしてしまうと思います。けれど、大好きな家族や友達からそれを言われると、仕方ないと思っていたとしても、私も父のように悲しくなってしまうと思います。



15日

今日は塾から帰ってくると、祖母は寝ていて、祖父が1人だけリビングでテレビを見ながら夜ご飯を食べていた。私は祖父の肩をもみました。祖父の肩はとても、とても固く、石のようだったので力を込めてやりました。


それから寝ている祖母を起こさないようにそっと、帰ろうとした時に、ピロピロと音が鳴りました。隣の部屋の祖母が鳴らしたチャイムの音。つまり、祖母が起きた合図です。


「来たよ、おばあちゃん」そう私が言ってから、祖母の部屋の灯りをつけると、祖母は「しゅわしゅわが飲みたい」と言いました。


祖父に聞くと、しゅわしゅわというのは、レモン炭酸水と、砂糖入りのレモンソーダーを3対1で混ぜるということ。それが祖母の言うしゅわしゅわだというものを知って、私はさっそく目分量で2つの飲み物を混ぜて祖母に飲ませてあげました。


それから祖母は白菜が食べたいと言ったので、冷蔵庫から取り出して、1口サイズに切って少しずつ口に入れてあげます。


5口食べたところで、祖母は白米が食べたいと言い始めました。キッチンへ急いで、電子レンジの加熱で食べれる白米を小皿によそって温め、少し冷ましまふ。それから白菜と同様、1口サイズでゆっくりと口に入れてあげました。入れる時は、「入れるよ」と声をかけるのを忘れずに。


それから、祖母はキムチと白菜をおかわりしてたくさんご飯を食べました。


次に祖母は口をゆすぎたいというので、洗面器とお水を持って、祖母の元に戻ります。

水が垂れないように、首にタオルを巻くように置きます。祖母がうがいをしている間に祖母の首にピッタリ洗面器をくっつけ、いつでもうがいができるようにした。


それから、今日は初めて祖母の薬を飲ませるという大役を祖父から任せられました。

少しは成長したと祖父に思われたことが嬉しかったです。薬の飲ませ方について教えてもらうところから始まりました。


祖母が処方されている薬は粉薬で、薬だけではまずいので、ゼリーと一緒に飲ませるのだと祖父は言います。まず、スプーンに薄くゼリーを入れ、粉薬を全て投入し、また上からゼリーで被せる。イメージはサンドイッチ。私は言われた通りに薬の準備をして、祖母にしっかりと薬を飲ませることが出来ました。



今までは、コミュニケーションを取ったり、手を温めてあげたり、少しのことしか出来なかったけれど、自分でも少しずつできることが増え、祖母はもちろん、祖父や父が結果的に楽になるような仕事も任されるようになったことがとても嬉しかったです。


帰る時に、「おばあちゃん、もう大丈夫?私もうすぐで帰るよ」と言うと、「ありがとう」と言ってくれました。


塾帰りで疲れていたのですが、来て良かったと心から思いました。


「ありがとう」

その言葉は短いけれど、ホントの意味で魔法の言葉なのかも知れません。


18日

今日は祖父母の家を訪ねると、祖父がすぐに出てきて真剣な表情で、私の母に電話してくれと言われたのだ。


そして、「お母さんが動かない」と言いました。


私は驚いて、急いで電話をしてから、母が祖父母宅に着くまでの間に祖母の様子を確認しに行きました。


ゆっくりと呼吸している音が聞こえた。

「おばあちゃん、帰ってきたよ」と言うと少し頷いてくれました。

が、応答がありません。昨日までは祖母は自分でしたいことを口で言っていました。「水が飲みたい」や「しゅわしゅわが飲みたい」、「鰻が食べたい」や「ステーキが食べたい」、それから「うがいをしたい」。


けれど、今日はそれが全くなかったので私は心配になりました。


はい、いいえ、でしか答えられないので、私はなるべく質問を細かくして祖母に聞きました。


例えば、いつもなら、「痛いところある?」などと言いますが、今日は「背中は痛くない?」「暑くない?」「寒くない?」「食べたいものは無い?」「喉はかわいていない?」→「お水がいい?しゅわしゅわにする?」などでした。


祖母はだるそうな表情を浮かべながらも、私のたくさんの質問に首の動きで答えてくれました。


それから、母と祖父が、突然動かなくなり話すことが出来なくなった祖母の為にお医者さんを今呼ぶべきか、相談をしていました。


その間に私は祖母の手を握って思い出の話をしていました。祖母はまだしっかり話を聞くことができたので、楽しい時間を過ごしたいと思ったからです。


まず、北海道に旅行にも連れていってくれたこと、その観光中に祖父が迷子になって私と祖母で探し回ったこと。

その他にもあそこのラーメン屋さんが美味しかったねとか、あのお土産がずっと欲しかったとか。


時間が経つにつれ、旅行のような特別な思い出から学校生活のような日常の話に移り変わりました。


まるで、私が今、その当時を生きているかのように次々と祖母との思い出が鮮明に思い出されました。


その度に祖母の暖かい手が私の心を寂しくさせました。暖かいことが悪いということではなく、この暖かさがいつまで続くのか、と考えると涙がこぼれ落ちずには居られませんでした。


考えたくはありませんが、祖母の病状ははあきらかに進行していたから。

自然と考えずにはいられなかったのです。


しかし、寂しいことは祖母といる時は考えないように自分に言い聞かせました。

手を握ってるので、手から祖母がそれを感じたら祖母が悲しむと思ったからです。


考えてみれば、祖母が病気になってからこんなに長い時間祖母と2人で過ごしたのは今日が初めてでした。祖父と母の相談が終わるまでの約50分間、私はたくさんの祖母との思い出を振り返ることが出来ました。


祖母にも言葉1つ1つ伝わって欲しいと願いを込めながら。

祖母は先程よりは、体調が回復し、喉が渇いたと言えるほどになりました。ひとまず、安心。


20日

今日は祖母がおはぎを食べたいと言ってきました。母が2つ入りの小さいおはぎを買ってきてくれたので、それをまた小さく包丁で切って祖母の口に入れていきました。

祖母は美味しいと言っていましたが、1つのおはぎの4分の1程度しか食べませんでした。残りのおはぎは祖父が自分のおやつにしようと言って食べていました。


その代わりに祖母の中で白菜のおしんこがブームしているようで、おはぎを食べた後に1口サイズの白菜を10口ほど食べていました。


それからつまようじで食べた後に歯を掃除したいと言ったので、用意していたら、母がつまようじにハッカ油をつけてあげたら?と提案してくれました。


ハッカ油とは、天然のハッカのことで、スーと爽快感のあるとてもいい匂いです。


私は偏頭痛持ちなので、そういう時に母が頭のこめかみにハッカ油を塗ってくれるととてもいい気分になるのです。


匂いを嗅いだり、虫除けに使うことが出来るということは知っていましたが、適量なら口に入れても問題ないということを知らなかったので最初はびっくりしました。

※ハッカ油の種類によって、異なる場合があるのでそのハッカ油の説明書に従ってください



祖父母宅にはスプレータイプのハッカ油があったので、私はつまようじを持って、母がスプレーを1プッシュ押して、ハッカのいい香りのするつまようじを祖母に渡しました。


祖母はしばらく自分でつまようじを持って、汚れを取っていました。


それからお茶を飲みたいと言うので、冷たい水と暖かいお茶をまぜて、祖母のお好みの温度で作り、飲ませてあげました。


そして、もう寝ると言ったので、毛布をかけて電気を消して、祖父母宅から家に帰りました。


26日

最近部活が毎日あったので、祖父母の家に行くことが出来ませんでした。けれど、久しぶりに部活を休んでて祖父母の家に行きました。

祖父は家でテレビを見ながら夜ご飯を食べているところでした。


私が来ると、祖父は祖母を見てやってくれ。と言いました。私はいつもの様に祖母の部屋に入り、ベッドの柵から祖母を見つめました。


すると、祖母の目が開いていました。この前はずっと目を閉じながら会話をしていたので、少し嬉しくなりました。

もしかして、良くなってるのかな?そう思ってしまったのです。というよりはそう信じたかったのです。


けれど、その考えは10秒後に私の胸の中からふと消えてしまいました。


ただ、目を開けているだけで瞬きをしていなかったからです。祖母は起きているのか、目を開けたまま寝ているのかそのときは分かりませんでした。


なので、、声をかけてみることにしました。

「おばあちゃん、来たよ」

「、、、」

祖母から返答はありません。


ゼェゼェと祖母の呼吸をする音が部屋中に響き渡りました。祖母は呼吸をするのも苦しそうに、手を胸に当てて呼吸をしていました。


「足が曲がらないの」

私は驚きました。同じ言葉でも明らかに1週間前とは話し方が変わっていたからです。

声はかすれ、消えてしまいそうな声でささやくように祖母は言いました。


枝のように細くなった祖母の足を私は持ち上げて、少しクッションの位置を変えて、再びクッションの上に足を戻しました。


私はしばらく祖母を見守ってから部屋のドアを閉めて、リビングへと向かいました。


「どうだったか?」

そう祖父が私に聞きました。

私は寝ていたので声はあまりかけなかったと言いました。


すると祖父が「もう近いだろ」と言いました。

私はその言葉を聞いてやっと我に帰ったという気がしました。

祖母の隣で耳を傾けている時は私も現実では無いどこかにいるような不思議に気がしていたのです。

そして、祖母に死が近づいているのだと感じました。


27日

人生で1番緊張した私の誕生日でした。


この日が祖母と迎えられるのか。ということを常に考えていたからです。


祖母が病院でがんだと診断された時、余命は3ヶ月と言われていたので、本来ならば、迎えられなかったはずの私の18歳の誕生日に祖母に会うことが出来てとても嬉しい気持ちでいっぱいでした。


学校から帰ってて、すぐに祖父母宅に帰りました。

祖父に18歳になったということを知らせ、それから祖母に会いに行きました。


祖母は昨日と同じく、目を開けたままでした。けれど昨日と違ったのは少し意識があったということです。

「来たよ、私18歳になったよ」


すると祖母が小さい声で「おめでと」と言ってくれました。ただでさえ、呼吸が苦しいのに私のためにそう言ってくれたことが嬉しくては私は泣きそうになりました。


それからお水が飲みたいと言うので、キッチンのの冷蔵庫までダッシュして祖母に届けたのですが、「もういらない」と言われました。


すぐしまうのは勿体ないと思ってベッドのサイドテーブルの上に置いておくと10分ほどした後におみずが欲しいと言ってくれたので、お水を飲ませました。


1回で口に入れられる水の量はほんとに少しで、2滴、3滴ほど。けれど、それでも、飲み込むのに3回ごっくんをして飲んでくれました。それを、合計7回行いました。


それから、祖母と北海道に行ったとき楽しかったね。と話すと、祖母が少しだけ笑いました。

だから、ほかの思い出も!と思って、祖母と行った旅行先のホテルや観光地などを2~3個言ったところで祖母に「ほんとに楽しかったから話したくない」と言われました。


私は祖母の気持ちを考えられていなかったと思って、ごめんね、ごめんね、と祖母に謝りました。


それから、祖母が「足が痛い、曲がらない」と言ったので、昨日と同じく明日を持ち上げてクッションの位置を変えるという作業を2~3回して、帰ろうと思いました。祖母を不愉快な気持ちにさせてしまったので、早く帰った方がいいかなと思ったからです。


「おばあちゃん、もう帰るね」

そう言うと祖母は言いました。

「ごめんね」

私は目を見開きました。何についてのごめんね、なのか。

私の目からは、バケツから水が溢れ出るように涙がこぼれ落ちました。

「うううん、大丈夫だよ、私もごめんね」



帰り道に私は祖母が「ごめんね」と言ってくれたことについて考えていました。


私は祖母が病気になってからきつい言葉を言われることがありませんでした。(祖母の行動を察して寂しい思いをしたのはありましたが)なので、今回の「その話はしたくない」という言葉は私の中で少し寂しい思いになりました。


しかし、最後に祖母が「ごめんね」と言ってくれたことで全て救われた気がしました。


今まで早起きしたりして大変だったけど、祖母の為にやったこと、体を拭く、ご飯や飲み物は飲ませる、祖母が薬を飲むお手伝いをすること、全てが祖母に全て伝わっていたと思うことが出来ました。


28日

学校から電車に乗っている時に母に祖母の様子を聞くためにLINEをしました。


すると、話すことが出来ない。と返信が返ってきたのです。昨日は言葉数は少なかったけれど、話してくれたので驚きました。


直接祖父母宅に向かい、まず祖父に来たことを伝えて、すぐに祖母の部屋に行きました。


祖母は口を開けてゆっくりと呼吸をしていました。

しかし、昨日とは明らかに違ったことは、話が出来る状態では無かったこと、呼吸の回数が減ったこと、でした。


昨日なら「ただいま」や「起こしちゃってごめんね」などと言ったら呼吸の音が小さくなり、目を開けて、口を少し開けて、力を絞り出したような声で話せたのに、今日は「帰ってきたよ、私だよ、分かる?」と聞いても応答はありませんでした。


そればかりか、呼吸をするのが苦しそうで私は祖母の肩を撫でることしか出来ませんでした。


その夜、看護師さんが来てくれて祖母の血圧と酸素濃度を測ってくれました。そして、最後に「もしかしたら今夜かもしれない」と言いました。


その日祖父母宅に父が泊まると言っていました。


私は夜の10時頃に父の車で祖父母宅へ行きました。


祖母に会って、手を握って、「おばあちゃん、明日また来るよ」と言いました。


11時頃に祖父母宅を後にしました。帰りは父に車で送ってもらいました。



呼吸は、一般の人なら1分間に15回〜20回と言われていますが、この日の夜の祖母の呼吸は1分間に7回ちょうど。10回以下ならもうその夜に行ってしまう可能性があると言われていました。

私は寝る直前までそわそわしながら横になり、次の日を迎えたのです。


29日

私は朝6時半に起きました。


もし、祖母にもしもの事があったら父が母と私に電話すると言っていたので、その電話が無くて安心しました。


宿題をして、朝ごはんを食べたり、準備をして9時半頃に祖父母宅に向かいました。祖母は昨日と変わらず、意識はなく呼吸の音が部屋に響いていました。


私は「おはよう」と声をかけ、肩を撫でてたくさんお話をしました。それから、オムツを変えてあげようという話になったので、初めてオムツを交換するのを手伝いをしました。


父の妹が、綺麗にしている間に私は足に暖かいタオルを掛けてあげたり、冷えた手を温めたりしました。


私はそれから忘れ物を取りに行ったり、ちょこちょこ動き回っていましたが、その間に祖母の子供(父の兄弟)がみんな集まって祖母の顔を見て声をかけてから、リビングで話をしていました。


けれど、祖母の呼吸は1分間に5、6回と少なくなりました。そのとき、父が祖母の大好きだった曲をかけてあげようと言って、スマホで美空ひばりさんのメドレーを聞かせると祖母はあーと声を出すようになり、歌を一緒に歌っているのではないかというくらいでした。


それから、近くのお店で父の妹が祖父母宅にいる全員のご飯を買ってきてくれたのでそれを食べました。


そして、私は祖父母宅の上の階で学校の課題の調べ物を行っていて午後3時くらいにリビングに戻りました。私が戻った時は演歌の曲に移り変わっていました。それから、交代で祖母の様子を見ながら、残りの集まった人達はリビングで昔話などをしていました。




そして、

その時は突然やって来ました。祖母の部屋にいた父が急に何度も祖母のことを「おかあさん、おかあさん、おかあさん」と呼び始めたのです。


リビングにいる父の兄弟達、祖父、私、母はただ事では無いと思い、急いで祖母の部屋に向かいました。


祖母の呼吸は静かになりました。曲を聴いてもあー、と、声を上げることはなく、口は開いたまま。


30秒に1回ほど、下の顎が動いて少しだけ息を吸っていました。


私は先日から最期のことについてネットで勉強しました。

それは下顎呼吸というようで、その呼吸法は昨日ネットで見たままの形で、祖母が呼吸をし始めたのですぐにそれが下顎呼吸なんだと分かりました。


下顎呼吸が始まると残りは、1時間から2時間が目安だとネットには書いてありましたが、祖母の呼吸は明らかに下顎呼吸でも極端に少なくて、いつ呼吸が止まってもおかしくありませんでした。

私たち家族はその一瞬をじっと、無言で見つめました。



そしてー、

ふぃ。

小さく下顎が動いてから、その顎が再び動くことはありませんでした。


呼吸とは止まって、次の呼吸を待ちますが、その次の呼吸がないとわかった時に初めて亡くなったということを知ります。


なので、今、亡くなったね、という合図は明確には分かりませんでした。しかし、もう動く気配のない下顎を見つめ、父は「亡くなったかな」と涙を流しながら言いました。「そうだね」そう父の妹も言いました。


呼吸が止まっても心臓はしばらくの間動いている。ということを何かで聞いたことがあったので、それからすぐに脈を探したのですが、私は見つけることが出来ませんでした。


それから、すぐに看護師さんに連絡をして、30分ほどで行けるということを言ってもらいました。

私たちは待つ間、空気はどんよりと暗く、誰も何も話すことはできませんでした。


私たちが重い口を開いたのは30分後の看護師さんのインターホンを鳴らす音が聞こえてからでした。


看護師さんはまず、祖母を見て「たくさんの人が来てくれて良かったね、嬉しいね」と祖母に言いました。


それから、体を拭いて、祖母のお気に入りだった服に着替えさせると言うので、私は無理を承知で、見ていてもいいですか?と言いました。


すると看護師さんは一瞬驚いた顔をしてすぐに笑顔で「もちろん!おばあさまのこと支えてあげてください」と言ってくれました。


そして、30分から40分ほどかけて、祖母の薬の注射針を抜いて、服をぬがせて、丁寧にタオルで拭き、それから祖母のお気に入りの服を着させました。


暖かいお湯だったので、「おばあちゃん、気持ちいでしょう?」と言いながら、看護師さんの「もっと、こうするといいよ」などのアドバイスを参考にしながら行いました。


背中には血流が悪くなると出る紫色のものがたくさん出来ていて、すごく辛かったんだなということを目で感じました。


手の指先は既に紫になっていて、チアノーゼが出てると父が言っていました。


私、母、父の妹、看護師さんで祖母の体を綺麗にしている間に祖父、父、父の兄弟は祖母が亡くなったことを祖母の友人や親族、葬儀屋さんに伝える電話をしていました。


それから、その知らせを受けた親戚が次々と来てくれて、祖母を見て涙を流し、リビングで昔話をするという流れでした。


葬儀屋さんやお花屋さんもすぐに駆けつけて下さり、夜はとても賑やかになりました。そんな騒がしいこの家族のことが祖母はとても大好きだったので、「今頃喜んでいるな」という言葉を掛けながら時々涙を拭い、祖父たちはお酒を飲んでいました。


みんなが祖母を見て涙を流す中、私は祖母の顔を見ても涙が流れませんでした。なのにそこを離れると自然と涙が溢れだしました。


私はこの1ヶ月間ほぼ毎日ベッドの上に寝ている祖母を見てきました。そして、大人たちに混ざって、薬を飲ませたり、オムツを変えたり、いろんな経験をさせてもらいました。だから、信じられなかったのです。そこに眠っている祖母は、この1ヶ月見てきた祖母そのままの姿だったから。


親戚と夜ご飯を食べ、少し話して解散になってからも父と父の兄弟と母はしばらく残ると言うので、私も残りました。


祖父と父、私と父の兄弟と母でそれぞれ仕事を分けて作業をしていました。私たちは、ベッドの上に何個も置いてあったクッションを押し入れに閉まったり、水分をとる容器から水を出したりしました。


それから一段落着き、お疲れ様でしたと挨拶をしてから家に帰りました。

この日は本当に沢山のことがありました。私はまだ祖母を亡くしたという実感がありません。

信じられなくて。でも、信じたくもなくて。


しかし、今日、祖母の闘病生活は静かに幕を閉じました。


本当におつかれさまでした、おばあちゃん。




私が祖母のがんを知らされてから、祖母との最期のお出かけはしばらくした後でした。


従兄弟たちと私の家族と祖父母で、祖母の大好きな和食屋さんに久しぶりに足を運びました。


その頃は少しの距離ですが、ゆっくりと歩ける祖母を従兄弟と私で支えながら急な階段を上がり、下り、その際に思い出話をして祖母が笑っていた姿。


いつもは涙を見せない祖母が乾杯をするときの挨拶で涙を流したこと。


それにつられて大人たちもすすり泣きをしていたこと。そして、今までで1番賑やな乾杯をしたこと。


全て、昨日のように思い出せます。家族のあり方とは人の家系によって異なります。


けれど、この1ヶ月は本来の親族のあり方が崩れ、大人たちが言い合いになったこともありました。


けれど、祖母を最期まで支えると決めた日からの大人たちはみるみる変わっていきました。協力して、お互いの仕事を考慮し合い、まるで、ラグビー日本代表の「ONEチーム」になったようなくらい団結し、祖母の最期をたくさんの人達で迎えることが出来ました。


親しい人の死を乗り越えることはとても大変です。


しかし、今の、悲しいことも、辛いことも、全て経験した大人たちが「寂しいけど、頑張って自分たちは生きよう、前に進もう」という行動をしてくれるはず。


今の大人たちにはそれができるだけの力があります。そして、祖母の周りの親族たちがゆっくりと前に進める日が来る。そう信じています。







これで話が終わるはずでしたが、この話には続きがありました。


祖母の死が近いことは2ヶ月ほど前から知っていて、どんどんお別れが近づいているな、ということも分かっていました。

ずっと分かっていて、心の準備もしてきたのに。


けれど、寂しい。


私は親戚の がみんな涙を流している中、私は泣かなかったので、もう祖母の死を受け入れられたのだと思っていました。

そういう気持ちで、祖母が亡くなった次の日の朝を迎えたのです。


午前中、1人で勉強部屋にこもっていると、突然とてもつもなく悲しくなったのです。


毎日早起きして祖父母宅に行ったこと。祖母に「おはよう」と言って、遅刻しないように最寄りの駅まで走ったこと。今日からはそんなこともありません。


1回涙が流れると、私の心の中にあった前向きな気持ちが全て消えていきました。


祖母のことだけじゃありません。最近学校であった少し嫌だった出来事、テストの点数が悪かったこと、普通なら泣かないほどのことでもたくさんたくさん涙がこぼれ落ちました。


終いには、看護師になるのを辞めようかという気持ちになってしまいました。


看護師という職業に憧れていたからこそ、ここまで祖母を支えることが出来ました。


部活と勉強がありながら、ほぼ毎日、祖父母宅に通うことは決して楽なことではありませんでした。


日付けが変わらないギリギリの時間に父親の迎えで家に帰ってきたりすることもありました。


それが、全て終わってしまった今、私の心にはポカンと穴が空いていました。


看護師はこんな苦しい気持ちも味わうんだと思うと、今の自分が、看護師としてやっていける自信が無くなりました。


私に看護師は出来ない、、、。というよりは、怖い。というのがそのときのいちばん素直な気持ちでした。



そんな目の前が真っ黒だったに私を、いつもの私に戻してくれたのは学校の先生でした。


今私が感じていること、不安なことを全て打ち明けたのです。


すると、先生が

「ずっとこの夢追いかけてここまで来たのに、その程度の夢だったのか?」

と、そう言いました。



夢をあきらめるために祖母の死があったなんて思いたくない。思わせたくない。



だから、私はその日から変わりました。というよりは変えました。意識してでも、少しずつ元の私のように戻して言ったのです。


これはプラスマイナスゼロではありません。


全てストーリーがあって、ここにたどり着いたのだから、私はここまでの軌跡をプラスと考えを改めることにしました。



祖母のお葬儀が終わり、1ヶ月がたち、49日の前日になりました。父から聞いた話ですが、祖母は亡くなった日から49日間で極楽浄土に向かって歩き続けるそうです。そして、49日に極楽浄土に到着するというのです。

そんな49日の前日、私は祖母の夢を見ました。

場所は祖父母宅。祖母の御骨が祖母の部屋に置いてありました。

しかし、その御骨の入った箱を斜めの角度から見ると光が溢れ出し、目を開けると祖母が現れたのです。


そのときの祖母は病気で痩せた祖母ではなく、いつもの祖母でした。


私は過去に戻ったのかと思って祖母に触ろうとしましたが、その夢は叶いませんでした。


祖母が何かで透けているような感覚でした。けれど、笑って私を見ていました。それだけでも十分だったのに、さらに嬉しいことがありました。


急に背中が重くなったと思って、後ろを振り返ると、祖母が分身して、私の背中からハグをしていました。

つまり、前を見ても後ろを見ても祖母の顔が見えるという状況だったのです。


私は祖母からハグをされた経験は、記憶の中では無かったのでとても嬉しかったのです。

なので、とっさに涙が溢れ出てしまいました。


「おばあちゃん、ごめんね」

「なんで謝るの?」

祖母の優しい声を聞きました。

「おばあちゃんに沢山やってもらってばかりで、何もしてあげれなかった、ごめん」



そのときに目覚まし時計で夢から戻ったのです。私は起きても、しばらくはまだ夢の中にいるような気がしました。私の目からはたくさんの涙が溢れ出ていたからです。





最後に

私のずっと語ってきた「なりたい看護師像」について。

私は第2の患者さん(患者さんの御家族)のことをつねに気にかけられる看護師になりたいと、この経験で強く感じました。


苦しいのは患者さん本人だけでは無いということを知りました。


ご本人様が亡くなられた後、その運命を受け入れて、それでも前を向いて歩いていくのは、残された私たちだからです。


そういう私と同じような思いをして、苦しんでいる人に寄り添えるような看護師になりたい。そう強く感じました。


その辛さを経験したから、力になれることが必ずあります。




高校3年生で祖母から学んだ「なりたい看護師像」


私はこの経験をずっと忘れません。


そして、その夢を叶えるために私は、今まで以上に努力することを、ここに誓います。



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最期までこの小説を、読んでいただき、ありがとうございました。



コメントやレビューは全て読ませていただきます。


とても身に染みる、嬉しいお言葉ばかりでした。


いいねやブックマークも励みになります。


ほんとにありがとうございました。 心





























この小説を書こうと思ったのは、毎日祖母の記録をしているときでした。この体験を何かに残しておきたい。そう思ったからです。


今回、たくさんの方に暖かいコメントを頂きました。評価をつけて下さった方々に心より感謝申し上げます。


〜余談〜

筆者はこの小説を湯船につかりながら書いていました。

夢中になると、止まらなくなるのが私の性格なので、体が熱くなると、ふと現実に戻る空間は私にとってオンオフを分ける場所でした。






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― 新着の感想 ―
[良い点] 私も家族の介護経験があります。 思い出して、泣きました。 作者様の心は、本当に大丈夫なのでしょうか。 無理しないでください。
[一言] あなたの思いが伝わる、いい小説でしたよ。今後、あなたの人生にとってより良い物になるある意味、いい経験をされましたね。(しがないおっさんが、近親者の死を経験してのアドバイス)
[一言] 私も高校生なので親近感が湧きました。 そして、応援の気持ちでいっぱいです! 夢に向かって一緒にがんばろ!
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