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バウンド bound  作者: はねとり 諒
8/28

8 エルシー

 神秘的なブルーベルの異郷から町へ戻ったのは夕刻前、そのまま別宅へ連れていかれると執事のリードによって家は暖められ外泊の用意もすっかり整っていた。食事はこの町の店から、お酒はパブから、この町に住む別宅の管理人は常に家の中を磨き上げ、清潔な寝具を揃えてマリエスタの氏族を迎える。


 これはウレイアがマリエスタの屋敷を目にしてからずっと思わずにはいられなかったこと……


「エルセー……ご主人はどれほど、稼いでいるのですか……?」


「んん…?そうねえ、あなたが思うほどでは無い、と思うわよ?精々近隣諸国のワインは3割ほど…それから絹織物は6割くらいの流通をまとめている程度かしら?まあ扱う品目は100を超えるし、他にも色んな複合事業にかかわっているけどね……」


「そ、それは……」


 それは会社組織の末端が想像できない程の莫大な利権である。


「でもこの町の維持もそうだけど出ていくお金もスゴイのよ……まあそれは置いておいてあなたたち、食事はどうするの?」


「私…いえ私達は少し休んだら出かけますから。良いわね、トリー?」


「もちろんです。お姉様っ」


 気合い充分にトリーは力こぶを作って見せた。


「ではあなたたちが戻ったら軽くいただきましょうか?まぁ、心配は要らないでしょうけれど、しっかりねえ」


「もちろん大丈夫ですっ、ねえっお姉様?」


「ええ、すぐに終わると思います。暇をつぶすには丁度良いでしょう……」


 しくじる気は少しも無い、が、ここはホームでは無い。問題は綺麗に後始末が出来るかどうかだろう。


「それで事後処理ですが……」


「安心なさい、ここからそうは遠くないのでしょう?だったらどうにでもなるし、それくらいの面倒は見ますよ?あと一応ね、こちらも警戒しておくから戻る時に見られないようにねえ?私はここで待っていますよ」


「はい」


「でも何か……こういうのも懐かしいわね、レイ……?」


「!、そうですね……」


 しみじみと、おそらく追想に楽しむエルセーの顔を見ると、トリーはその話も聞きたくてしょうがない。でも自分と2人の間にある時間の隔たりを感じると、そこへ軽々しく踏み込むことはできなかった。


 それからしばらくの後、2人は様子を見るためにも早めに出発した。






「おい、姫っ!それじゃあまた狩り場を変えろってえのか?ここへ来てから3ヶ月も経ってねぇ…」


 エルシー達のアジトでは仕事の打ち合わせの真っ最中だったようだが、どうも穏やかな状況ではなさそうだ。実行グループのまとめ役と見られる男がエルシーに文句を言っている。


「ここをお膳立てするのにどれだけかかってると思ってるんだっ?この前も急に『この街はもう止める』とか言ってバックれやがって…お前は俺たちのボスでも何でも無いんだぜっ?」


 いかつい男に凄まれようが、エルシーはなんの意にも介さない。


「好きにすれば良いさっ……どの道あたしは狙われている以上もう仕事は手伝わない。まあ、あんた達も同じく狙われているけどね」


「一体誰に狙われてるってんだ?」


 声を荒げる男を上座に座った男がたしなめる。エルシーをこの一団に誘い入れたあの男だ。


「まあ待て、少し落ち着け……まあなあ、姫がそう言うんだからそうなんだろう。ここはほとぼりが冷めたらまた来りゃいい。それじゃあ、最後にすぐそこの町で何人かさらって今夜中に消えるか?」


 ぴくっとエルシーが眉間にシワを寄せる、エルシーにとっては一番避けたかった事態に話が進んでいった。


「待て、そこの町だけはダメだっ!」






 と、彼女が止めようとしている所からウレイアは様子を観察していた。


(2階の部屋にはエルシーと男が3人…)


 トリーも気づかれぬ様に『監視』を始めている。


「なにやら只ならぬ雰囲気…もめてますか……?」


「もめてるわね……」


「ふうむ……」

「ふうむ」


 2人はそろって唇に指を立ててうなった。


 エルシーを誘い出して説得して逃がす。後は無責任にエルセーにまかせて撤収する、それが一番シンプルな案だった。


「ちょっと…面倒な事になりそうね」






「何がダメなんだ?姫……」


「何がって…とにかくヤバいんだ」


 ウレイアの事を話すわけにもいかず、説得出来そうな言い訳も思いつかない。エルシーは追い詰められていった。


「だから何がヤバいのかをボスが聞いてんだろうがっ?」


 もちろん、エルシーは何も言うことは出来ない。


 するとボスらしき男が『姫』に問う。


「なあ、姫…最近どうしちまったんだ?その町に何かあるのか?お前がヤバいと言うならそうなんだろう。なら慎重に行こうじゃねえか?たとえ待ち伏せされてたって姫が居れば何とかなる、今迄のようにな」


「だから、もう仕事は手伝わないと言っただろう?あ、あんた達とはもう…これきりに、する…」


 エルシーのその言葉で、その場がざわつき緊迫感に包まれる。


「いい加減にキレたぜ」


 エルシーの隣に座っていた男が立ち上がった。


「たとえ『魔女』だろうがこんな小娘のわがままに付き合ってられるかっ?」


 その言葉に聞いた途端、エルシーの顔に怒りが浮かんだ。


「私を……『魔女』と呼ぶなっ!」


「!」


 その言葉はウレイアを動かすのに充分だった。周りの景色に同化するように姿を消すと、手近にあった石を握り込み建物に近づいて行く。


「?、お姉様?!」


 エルシーに睨まれた男は胸を掴んで苦しみだした。


 立っていることが出来なくなって膝をついた瞬間っ、その男の背後からボスと呼ばれた男の剣先が飛び出してくる!座ったまま身をよじったエルシーだったが左肩から袈裟斬りに背中を斬られてしまう!


「…っ!!」


 初めて斬られたっ。床に転げ落ちたがすぐに酷い痛みに襲われて身動きがとれない……


「なぁ、姫……実は俺の親父も魔女と一時期つるんでいたらしくてなあ、あんたらの弱点の事も聞いてたんだわ………しばらく一緒に仕事をして確信したが…魔女はその怪しい魔術とやらを複数同時には使えないんだろう……?」


 ウレイアは建物横に積まれた飼い葉に石を放ると玄関先へと移動する。それと同時にエルシーが気付くよう撫ぜる様に彼女の頰に集中した。


(今のは油断していたエルシーの不覚、並みの速さで私達を斬れるものか。ここまで来なさいっエルシー!)


 エルシーがウレイアの方を見る。


「魔術…?私を魔女と呼ぶなと言っただろうっ!」


 エルシーがボスを睨み返すとすぐに飼い葉から赤い炎が立ち昇り、一階の見張りが2階に向かって叫ぶ。


「火が出てるぞっ!」


 出口側に座っていたのが幸いして、3人が動揺した間隙をぬってエルシーは部屋の出口に身体を滑り込ませた。


 置かれている状況を整理しながらボスがもう1人に命令する。


「おい、殺って来い。だが用心しろよ?」


「なに、あれだけの深傷を負ってりゃあ……」


 エルシーを追って男が警戒しながら廊下に出る。その頃にはエルシーは痛みにフラつきながら階段を下り始めていた。


 外で待機しているウレイアの手のひらにはペンダントにしていた石がパラパラと溜まっていく。


 石を通していたテグスは見えない程細い鋼糸で出来ていて、ウレイアの意思で解けた鋼糸は全て伸ばすと5メートル以上になる。


 エルシーは他の男が火の手に気を取られている隙に外に飛び出して来た。


 シッ!!


 つられてエルシーを追って来た男が玄関を出た瞬間っ、ウレイアは鋼糸を鞭の様に走らせて男の首を半分ほど斬り裂いた!


 男の動きは徐々に遅くなり…その場にくたりと倒れ込む。振り返ったエルシーも何が起きているのか理解が追いつかなかったが、緊張が解けて倒れそうになるところをトリーが受け止めた。


「だ、誰……?」


 姿の見えないトリーに抱きかかえられて、エルシーは火の手とは反対側の建物の陰に引きずられていった。


 とりあえずエルシーをうつ伏せに横たえると、トリーはカモフラージュを解いて姿を見せる。


「!、あ…初めて顔を見た……あなたも綺麗だね…でもなんでここに?」


 痛みに耐えながらも嬉しそうに表情をゆるませるエルシー。


「なぜ?まったく…手の掛かる小娘ですねっ、お姉様のお情けに決まっているでしょう?」


 そしてウレイアも様子を見に姿を見せた。


「どうなの?」


「ああ…あ、あはは、死ぬ前に会えて良かったあ……」


 笑ってそんなことを言うエルシーの背中をぱんと叩いてトリーが言った。


「っ!イッッッ!?」


「大丈夫ですっ、こんな程度で死ぬわけありません」


「いぃっ!!!!!…っ、いーたーいーっ!」


「こらこら…まあ、肩甲骨で刃は止まってるし背骨にも大した損傷は無いわね、私達が戻るまで『傷は治る』と心の中で唱え続けていなさい」


 ウレイアは羽織っていた黒いシルクのローブでエルシーを隠すと立ち上がる。


「さて……下に3人いるけど大丈夫?」


「もちろんです!」


 するとすぐにローブの下からエルシーが問いかけてきた。


「全員、殺すの?」


「悪いけれど……こうなってしまってはね」


「…」


「それじゃあ、行きましょう」


 2人は再び姿を消して中に潜入する。


 1階には3人居たはずだが、1人は火を消しに外に出たようで、残った2人はそれぞれが窓に張り付いて外の様子をうかがっている。ウレイアは1階をチラッとだけ確認すると、そのまま音を立てずに階段を登っていった。


 火事はボヤ程度で済んだようだが誰かに見られていたかもしれない、ようやく見張り達は平静を取り戻して監視することに集中しはじめた、しかしその背後には…すでにトリーがいる。


 トリーは1人を選んで頭の中の血管を摘むと、糸が切れたかの様にその場に昏倒した。『摘む』とは言ってもまさか頭に指を突っ込むはずは無い。


 彼女達は新たな『目』と共に見えない『手』を持って生まれ変わる。個人差はあってもそれは基本的にか弱い細腕だが、実際の腕よりも長く、ゴーストの様に都合良く物や生物を通り抜けることができた。


「おい、どうしたっ?」


 もう1人が駆け寄って来た所を鋼糸の刃で頸椎を断ち切る。男は気付く間も無く死の淵に落とされた。


「ふー、まだお姉様ほどは操れません。後は……」


 そして死んだ男の剣を取ると意識を失った男の心臓を刺し貫き、すぐに剣を引き抜くと適当に放りだす。


「あ!いやいや、待って下さい……」


 何かを思い直して放った剣を拾い直すと、窓から火を消していた男の側に放り投げた。


 姿を消したまま窓の前で待っていると、血の付いた剣を発見した男が警戒しながら中の様子を見にこちらにやって来た。


「えいっ!」


 正面から鋼糸で首を一文字に裂くっ、男は窓の前に力なく倒れ込んだ。


 トリィアは気持ちが悪いのか鋼線の先30センチほどをねじって切り離してから元の形に戻した。


「おしまい…ですね。お姉様は……?」


 トリーは目で追うように2階を見上げた。






 2階に残っているのはエルシーに心臓を掴まれた男とボスの2人、ウレイアは扉が開け放されているその部屋にわざと姿を晒して入って行く。


 ボスは手下の報告を待っていたのか、苛ついた様子でウロウロとしていたが、音もせず突然入って来たウレイアを見ても起きていることが理解出来ずに目があってもしばらく動くことさえ出来なかった。


 彼がウレイアを見て硬直したのは女だからでもあまりの麗しさからでも無い。彼は一瞬、部屋に入ってきたものが人間では無く伝承に聞いた恐ろしい『バンシー』の様に見えて身がすくんだのだった。しかし思わず凝視した『バンシー』は見たことも無いような美女である。


「いっ?やっ…驚いたっ!いやいや、鳥肌が立つ程の美人だな、あんたっ……と言うか誰だい?」


 部屋の隅で休んでいたもう1人がウレイアの背後に回り込もうとしている。


「〝じっとしていなさい〟」


「っ?!」


 後ろに迫っていた男が右足を前に出したところで金縛りの様に動きを止める。心臓を掴まれた挙句に金縛りとは、ついていない男だ。


「おいおいっ!?まさかあんたもっ?余程魔女と縁があるのかねぇ俺は……?し、しかしっあんたはヤバそうだ…そうかっ!姫がヤバいと言っていたのはあんたかっ?」


 男の話に心の中でほくそ笑むと、ウレイアは話を合わせて少し遊ぶことにした。


「姫?あの小娘はどこ?」


「なるほどな、ウチの小娘があんたのお怒りを買ったわけか?!」


「ウチの?」


「!、いやいや違うっ!あのガキは俺にまとわりついてくるから手伝いをさせていたんだが、なんかどっかで粗相をして来たみたいでな?良かったぜ……さ、さっき始末をつけたところさ」


「始末?死体は?まあ、だとしても…あなたが拾ったのならあなたの責任で良いわよね?」


「!!……」


 冷や汗をかきながら取り繕う姿は滑稽で、少しはウレイアを楽しませてくれる。


「い、いや、拾ったわけじゃあ無いんだ。まとわりついて来て困ってたんだよ。こう…身体を擦り寄せてな………」


 こらえていたが、ウレイアはたまらず、


「くっ、あっははははは、まったくっ、はあ……笑える程の下種っぷりねえ?」


 と、そこへトリーが驚いて飛び込んで来た。


「どうされましたっ?」


「ああ、笑わせてくれるわよ、この男」


 ウレイアは微動だにせず鋼糸をふるった。後ろで立ちん坊だった男がぶるっと震えると、ごとりと床に首が落ちる。


「面白かったわよ、あなた……道化師にでもおなりなさいな、生まれ変わったらねぇ?」


 ウレイアに冷笑を見せられて、男は青ざめてガクガクと震え始めた。さっき感じた自分の認識が間違いでは無かったことを思い知る。


「もう、ひとり?あ、いや、違う、まあ待て…」


 ウレイアは大きくため息をつくと、


「もういいわ……」


 見えないが空気を切って唸り続けていた鋼糸がまいて、男の足首の腱を断つ!


「!っ、ぎゃっ?!!!」


 訳もわからず四つん這いに男が崩れ落ちた。


「いいっいでぇっっ!!」


「そうね、あなたが全て悪いわけじゃない、どちらかと言うと私のわがままかしら…?〝私を見なさい。ちゃんと、私を見て……〟」


 荒げることも無くウレイアは淡々と命令をする。


「ただ……今までエルシーを使って良い思いをしてきたあなたには、その対価を払って貰おうかしら。ふうむ、やっぱり…見られると不快ねぇ?」


 するとっ、男の黒目がミチリっと互いに外側に消えた。


「イッ!ああーーーっ????」


 目を押さえて天を仰ぐ男。


「あら、だから何故そんな汚い顔を私に向けるのかしら……?」


「か……っ…………!」


 ぐきりっ、というこもった音がして男の頭が180度ねじ切れた………………


 男の声が途切れあたりに静けさが戻ると、人形のようにごとりと後ろに崩れ落ちるその様をウレイアは感情の無い目で眺めていた。


「お姉様…」


 ウレイアは水晶の粒をいくつか取り出すと、軽く握って男のむくろに向かって振り撒いた。


 すぐに水晶から炎が渦巻くと、這うように男の死体を包み込んでいく。明らかに異常な死に様を消し去るためだ。


 そして残った宝石はネックレスの形に戻すと、首にかけ直した。


「さて、帰りましょうか」


 ウレイアの腕にはすぐにトリーが抱きついて来る。


「お姉様っ、素敵でしたーーっ!」


「こらこら…歩きにくいでしょう?」






 ウレイアがエルシーの所へ戻ると、彼女は素直にぶつぶつと傷の回復に努めていた。


「どう?」


 ローブを取って傷の具合を確認すると、出血も止まり肉も塞がりかけている。


「痛みも大分収まっているはずよ、もう動けるわね?」


「貴女が治してくれたの?」


 エルシーは今まで大した怪我をした事も無かったのだろう。


「私達の基本的な能力よ、よく覚えておきなさい」


「全員……死んだ?」


「ええ、ここに居た者はね」


 彼等への哀れみがエルシーの表情から見て取れた。相手がどの様な人間だったとしても、しばらく生活を共にしていれば情が湧くのも仕方がないだろう。それにこの娘はまだ、自分に対する認識が足りていないからだ。ウレイアやトリーにとって人間は、既に違う生き物に感じられるのだが……


「悪いけど、馬車と馬2頭は貰っていくわ。残りの馬で、あなたも早くここを離れなさい」


「お姉様っ、お待たせしました」


 そこへ握りこぶし2つ分くらいに膨らんだ袋を2つぶら下げてトリーが戻った来た。


「結構有ったのね…悪いことをしたわね?」


「いえ、探してたら何か楽しくなってしまって。泥棒も面白いですねー?」


「くす、悪い子ね」


 ウレイアは袋を受け取り例のごとく中身を確認すると、ひとつをトリーに返す。


「これは戻ったらあの人に渡して」


 そしてもうひとつはエルシーの横に置いた。


「これは持って行きなさい。当分は凌げるでしょう」


「!…………」


 エルシーは重そうに身体を起こすと、掛けてもらったウレイアのローブを慣れない手つきで小さくたたもうとしている。


「良いのよ、それもあげるから持って行きなさい」


 エルシーが貰ったローブを大事そうに胸に押し付ける姿を見てトリーはせつない気持ちにさせられたが、


「あなたが無礼なのは知っているけれど、ここまでして貰ってお姉様にお礼も言えないの?」


 そんなふうにトリーが彼女を叱りつけている光景もすっかり見慣れた光景になってきていた。しかし心の内ではエルシーを気遣っていると知っている以上はトリーが暴走しない限りウレイアも黙って見ていることにした。


「あ…ありがとう……」


 エルシーはウレイアと目が合うと顔を赤らめて緊張した様子で礼を口にした。


「もっと上手に生きることね、それではね。さあ、行きましょう」


 ウレイアはトリーに目配せをすると立ち上がる。


「頑張りなさい」


 心配そうなトリーの激励と共に立ち去ろうとした時、ウレイアはエルシーに裾を掴まれ引きとめられた。


「待って、ください。わたしも一緒に……お願いしますっ。そばにおいて…ください」


「あなたを連れて行く気は無いわよ?」


 ウレイアはため息を吐きながら冷たくあしらった。


「おねがいしますっ、おねがい……」


「〝離しなさいっ〟」


 びくっと手を離すが、身体に全力を込めてウレイアの言葉に抵抗すると、すぐに裾を握り直す。裾を掴んだそのままエルシーは突っ伏した。


「おねがいします…貴女の側がい…」


「しつこいわね、殺されないとでも思っているのかしら?」


 エルシーはなおさら裾を強く握ると顔を上げてぐっとウレイアを睨みつけた。


「わたしを助けた責任を取ってっ、ください」


「っ!、エルシー……」


 思わずウレイアが名前を呼んでしまうと、エルシーの顔に喜びが滲む。ウレイアはしまったと、更にため息を吐いた。


「ふう、あなたあの時……あなたは何故、『自分を魔女と呼ぶな』と言ったの?」


 会話を聞かれていたとは思わなかったエルシーは少し困惑していたが、すぐに思い当たってその表情は驚きに変わった。


「あっ!そ、それはっ…もしも、私と貴女が同じモノなら、魔女なんて呼ばせていい筈が無いと……なぜかそう思ったんだ……」


 この言葉に目をみはって喜んだのはトリーだった。


「あの、お姉様…」


「…………」


 ウレイアは考える。この娘をどうするべきなのか?いや、自分はこの娘にどうなって欲しいのか……?


 そして、また自分の甘さに呆れながら決断をした。


「いいでしょう…とりあえず1年、私に頼らず自分の正体を隠して生活してみなさい。他の人間達に紛れて暮らすのよ?まあ、外弟子の見習い、それを入門試験にしましょう」


 それだけの許可で、エルシーの胸は高なった。


「貴女のあの街で?」


「それは好きになさい。それからこの住所を覚えなさい、バートン通り32」


「バートン通り32?バートン通り32…」


 エルシーは繰り返す。


「そうよ、この家の屋根裏部屋の窓にロウソクを立てておきます。私に会う必要がある時はこのロウソクに火を灯しなさい、そして中央広場のどこかで私を待つのよ?でもこの家の中に入ろうなんて思わないこと…入れば間違いなく死ぬことになる、いいわね?」


「そんなっ、じゃあどうやって…?」


 落ちている小さな枯れ枝を拾いエルシーの目の前に差し出すと、トリーに目配せをする。


「はい、お姉様!」


 すぐに枯れ枝の先が燃え上がった。


「見たでしょう?これくらいは初歩の初歩よ」


 まずは驚いてからエルシーはすぐに自信の無い困った顔をした。


「あ、貴女の家は?名前は?」


「今は…教えない」


 本当は自力でウレイアを探し出すくらいで丁度良いのだが、あえてこの娘は探すことはしないだろう、そんな確信があった。だからなのかエルシーはひどく落胆していたが、それでもかまわずウレイアは話しを続ける。


「それから…」


 また小指くらいの小枝を拾い、今度は自分の髪の毛を一本抜くと、枝の芯にいとも自然に髪の毛を滑り込ませた。余分にはみ出た部分は千切って捨てる。


 それをくっと軽く握ってからエルシーに差し出した。


「もし、自分では対処出来ない緊急事態になった時には、身を隠して待つことができる場所でこれを折りなさい。私の手が空いている時に助けに行ってあげる」


 エルシーの広げた両手に小枝を置く。


「無くしてはだめよ、それに呼び出した理由で私の機嫌を損ねたら二度と渡さないから、いいわね?」


「わ、分かった…」


 この娘にとっては優しい事ではないだろう。それでも、不安ながらも真剣に頷くエルシーには好感と同時に、やはりまだ幼さを感じた。


「この後、ここには大勢がやって来る。早く離れなさい」


 そしてこうなると、ウレイアにはもうひとつ悩みがあった。黙って動かないウレイアを見てトリーが声をかける。


「お姉様?」


 ウレイアはエルシーの前にしゃがむと、ゆっくりとエルシーの首に手を伸ばして以前埋めた石を取り出そうとした。


 しかし埋め込まれている位置を確認した時、逃げるようにエルシーが後ずさって首を押さえた。


「これは、わたしのものっです。絶対に返さない」


 必至に訴えられて目的を失ったウレイアの手は空を彷徨う。そして彼女はその行動に困惑させられた。


「そのままでいいと言うの?」


「……はい」


「そう…あなたの自由よ」


 ウレイアが振り返ると、トリーが慈愛顔でエルシーを見つめていた。


「行くわよ?」


「あ…はい」


 2人は馬を馬車に繋ぐと、去り際に残った飼い葉に火をつけておく、おそらく町の警ら隊が気付いてエルセーが手際良く閉じ込められている子供達を救い出すことだろう。石造りの家が延焼してしまうこともないだろうし、そのまま2人は隠れ家を後にした。


「切ないですねぇ、エルシーの気持ちが私には良く分かります」


 胸に手を当てながら、エルシーの心情をトリーは自分と重ねていた。


「なに?」


「お姉様に頂いた物なら、毒だと分かっていても喜んでお飲みします……」


「……そう?」


「何ですかそれ、もうっ…憎たらしいお姉様っ!」


「くす」


「もー……あっ、そうだ、大お姉様と事後処理のお話しをされていた時、このような事を懐かしいとおっしゃっていましたが……」


「ん?それがどんな思い出かを知りたいの?」


 エルセーの前では2人だけの思い出に踏み入ることに遠慮していたがウレイアと2人きりだと好奇心が圧勝する。


「いやー、どうしても気になりましてー……でもおふたりだけの思い出に立ち入るのもなーなんて思って……」


「ん?ふうむ…べつに、気にすることはないわよ?」


 改めてそう言われると気はずかしさが先に立つ。


「エルセーには良い事も悪い事も……まあ殆どは悪巧みね、とにかく大体の策謀にずっと付き合わされてきたけれど、同族とはぶつかるばかりでは無くて、黙って手を貸したり、正体を明かさずに窮地から救ったりすることもたまにはあったの」


「なるほど、今のお姉様と同じですね?」


「そう、ね。そんな事を何度か、正確には私が一緒にいた間に14人の同族に何らかの形で手を貸したわね」


 ウレイアの正確な記憶にトリーは目をしかめる。


「お姉様……よく覚えてらっしゃいますね?まさかとは思いますが、相手のお名前まで……」


「ええ、知ることができた同族の名前は覚えているわよ?」


「げ…やっぱり」


「とにかく、そうやっていつもあの人に色々と押し付けられたのよ。そのおかげで随分と経験を積むことはできたけど」


 ウレイアの口振りからすると納得できないこともさせられたのだろう。それが今なら理解できる事もあるし、やはり気まぐれとしか言えないような事もあった。それでもエルセーと共に成した事の全ては大切な思い出となっている。


「そうですか……うん、思った通りでした。そのひとつひとつを聞かせていただくのはわがままにも程がありますよね?あ、でももしかしたら、今まで私が聞かせていただいたお姉様の経験談って、その時のお話も含まれていたのですか?」


「ええ…そうよ。特に失敗した話の殆どはその頃の経験ね。とにかくあの頃は本当に多くの同族と出会ったわ、その中でエルセーが殺すには勿体ない、忍びないと思った相手には手を差し伸べていた。あなたに教えたエルセーの別名、『マザー・ゲー』と言う通り名もそうやって助けた同族達によって勝手に呼ばれるようになった名前よ。何しろ助けた相手には顔や正体も明かさなかったものだから……面倒を嫌ってね」


「かっ、カッコいいですっ!名乗りもしない正体不明の救世主ですねっ」


「でもね、ほとんど交流の無い私達でもそう言った噂はゆっくりと拡がって、遂には教会の耳にまで届くと謎の大物として指名手配までされて…当の本人は高笑いをして喜んでいたけれど……」


「うお……実際に大物感が凄いですものね?なんだろう…お会いしてまだ数日なのに大お姉様なら絶対そうだと思えます。」


「そう?…それだけ長生きしているということね」


 ウレイアが言った言葉にビクッとトリーがおののいた。


「なっ!?、何故かそれも絶対言っちゃいけないということも解りますっ!」


「ふふ…そうね、うっかり口を滑らせると『パン屋』がやって来るかもね?」


「は?パン屋……??」






 拝借した馬車を町外れに隠して別宅に戻るとエルセーはワインのグラスをかたむけながら2人の帰りを待っていた。


「おかえり2人とも、取り敢えず10人程送っておいたけれどそれで良かったかしら?」


「はい」


「どうやら、上手く収めたようねえ?」


「いえ、それが少し面倒事を抱えてしまって…」


 エルセーはウレイアを見つめて首をかしげた。


「そうなの……?そんなふうには見えませんよ?」


「……そう、ですか?」


「ふふ……」


 エルセーは感情と思考の折り合いに戸惑うウレイアを見て笑った。他の誰が気づかずにいてもウレイアのこととなればほんの一瞬の僅かな揺らぎも見逃す筈が無かった。


 そんな2人の横でタイミングを計っていたトリーは託されていた物をエルセーに差し出した。


「あの、お姉様が大お姉様にこれを渡すようにと……」


「ん?これは……?」


 ウレイアは金額の多い方をエルシーに置いてきた。それでもこの袋の中には合わせて金貨で50枚程のお金が入っている。その袋を受け取ったエルセーは


「あらぁ、それじゃああなたの気持ちとして受け取るわ、ありがとう」


 そして受け取った袋をそのままウレイアに差し出した。


「これは師匠…いいえ、母からのおこづかいよ、はい」


 一周巡って返ってきた袋をウレイアは少し躊躇してから遠慮無く受け取った。


「そうですか、それではいただきます」


「私は軽く食事をいただくけれど、お腹が空いてなくても付き合いなさい、お酒でも飲みながら話を聞かせてちょうだいね」


 トリーは身体を洗いたいと言うので、湯を用意してもらうと、リードに案内されて浴室へ行った。ウレイアは事務的に彼等とその最後を報告する。


「一応斬り殺されたようには処理してきましたが」


「国には子供達を渡す時に報告するけれど、死体はこちらですぐに処分してしまうから大丈夫よ」


 そしてエルセーはトリーがいなくなったのを見計らったように自分の推理を語りだす。


「まあ、あのまま放っておいても彼等は最後の仕事でこの町に被害を出していたでしょうねえ?あなたがそのエルシーという子の扱いに困っていたのは本当でしょうけれど、このエダーダウンで再会した瞬間にこの危険に気がついたのでしょう?」


「!……」


「そしてその子の事も……あなたがこうなることを予想していなかったなんてあり得ないと私は思ってる。こうなっても良いと、意識していなくても納得していたのではなくて?」


「っ!?」


「もちろんあなたが全て自分で片をつけるという覚悟のもとでねえ?」


「…………」


 こうもあっさりと切れ味鋭く全てをエルセーに暴かれてはウレイアも苦笑いしか出てこない。エルシーのこともはたしてあれで良かったのか、今でも思い悩んでいたことも確かだ。


「やはりあなたは騙せませんね、エルセー?……本当は乗り込まずにここで迎え討つつもりでしたが、結局は話をややこしくしてしまいました。それに差し出がましいことを……」


「私に手柄を譲ろうとしたでしょう?そんなの気にすることはありませんよ、この町を救ったのはあなたよ、ありがとう。でもあれねえ、町の皆に自慢出来ないのはちょっと残念ねえ?」


「いいえ、だからこそお譲りしたかったのですが?」


「おほほほ……ところで、そのエルシーという娘は私が預からなくても良かったの?」


 ウレイアは口元まで運んだグラスを止めた。


「っ!……本気だったのですか?」


「面白そうじゃない?あなたにはトリーちゃんも居ることだし……言い訳を考えたってその娘のことが気になったのは本当なのでしょう?そうなら私も是非会ってみたいし……」


「!……だとしても、そんな危険なことはさせられません。それに、多少の面倒は見るとしてもトリーの様に内に入れる気もありませんし」


「ああ、そうそうウレイア、あなたそのトリーちゃんにちゃんとした名前を付けてあげなさい?」


 それは突然の、全く予期していない申し出だった。


「な、何ですか?突然……」


「突然、じゃありませんよ、3人目だからトリーなんて、こんな適当な名前なんてありませんよっ?」


「名前は好きに名乗るようにと、トリーにはそう言ってあります」


 そんなウレイアにほとほと呆れかえって、エルセーは言った。


「まったく……困った子ねえ。あなたが大して意味が無いと思う名前を何故トリーちゃんが名乗り続けているか考えなさい?あの子に名前をあげられるのはあなただけなのよ?」


「……考えておきます」


 口だけの返事でやり過ごしながらグラスを口に運ぶ。


「失礼しました」


 そこへ身も心もさっぱりした様子でトリーが戻ってきた。ウレイアはその場から逃げるように席を立つ。


「私も身体を流してきます」


 ところで、簡単に身体を洗うと言ってもここのように好きなだけお湯を使うというのは非常に贅沢なことで、寒い時期でも無ければ水で洗うのが一般的で当然だと言える。


 と言うのはこんな貴族の生活にトリーが慣れてしまわないか?ウレイアにとっては名前の事よりもそちらの方がよほど心配事なのだ。しかし……


『お姉様に頂いた物なら、毒だと分かっていても喜んでお飲みします』


 エルセーに名前の件について咎められた時、ウレイアの脳裏にはトリーのそんな言葉が蘇っていた。






 翌日、エルセーは事後処理とその指示に朝から忙しく、エダーダウンを出たのは午後になってからだった。


 実を言えばウレイアは昨日の一件からずっと、自分の判断に不安を感じていた。それはもちろんエルシーのことだが、些細な過ちを清算するための旅の筈が、自分の甘さから新たな過ちを生んでしまったかも知れないと考えていた。


 いっそこのまま家に帰ってしまいたいが、まだネストールにも会っていないし、育て親の亭主に挨拶もなしに帰っては非礼を精算する今回の旅の意味も無くなってしまうというものだ。


 マリエスタの屋敷に戻ったウレイアは拝借した馬車を購入したことにして、エルセーの馬車に続いて屋敷に入って行く。来た時の様に玄関前に馬車を止めると、出発前には居なかった男が彼女達を出迎えた。


 エルセーは頭を下げたその男を見るなり声をかける。


「いつ戻ったの?」


 声をかけたエルセーに一礼すると男は言った。


「はい、昨晩遅くでございます」


「紹介するわ、この子はベオリア、この子はトリーよ。2人とも、執事長のグリムスよ」


「グリムスと申します。お噂のお2人にお会い出来て光栄でございます」


「ベオリアです」


 軽く膝を折って会釈をする。


「よろしくお願いします、トリーと申します」


「旦那様もお2人にお会いするのを大変楽しみにしておられます。つきましてはご夕食をご一緒したいと仰られておりますが、いかがでしょうか?」


「もちろんです。ねぇ、お姉様?」


「ええ、是非にとお伝えください」


「ありがとう存じます。早速お伝えしてまいりますので失礼いたします」


 それほど歳は取っていないと思うが貫禄は十分である。頰に手を当ててトリーが言った。


「うーん、初対面のご挨拶は緊張しますね?」


「何をあなたらしく無いことを言っているのかしら?」


「ウチの旦那と会う時に緊張なんて必要ありませんよ?」


「大お姉様の旦那様では尚更ですー」






 そんなトリーの緊張も和らぐ間も無くディナーのお迎えがやってきた。


「あなたは気にせず食事を楽しんでいなさい。侯爵とは私が話すから」


「お姉様ー、お優しいですう」


 そして例の家族の食卓に案内されると、例によって先に家人2人がテーブルに付いて食前酒を楽しんでいた。


 部屋に入ると立ち上がるネストール侯爵、執事の2人が直々に2人の椅子に付いてくれた。椅子の横で待つとエルセーの紹介でディナーが始まる。


「では、紹介しましょう。まずは私の愛娘、まあ血は繋がっていないけれど…ベオリアよ」


「お招きありがとうございます」


 ウレイアは丁寧に会釈した。


「それからベオリアの…義理の妹かしらねえ?トリー」


「お会い出来て光栄に存じます」


 可愛らしく挨拶をする。


「そして、私の夫、ネストール・マリエスタです」


「当家へようこそ。やっとお会い出来た。そしてここは家族のテーブル、堅苦しい挨拶が終わったら、家族として会話をして下さい」


「ありがとうございます。なにぶん無作法者ですので、ご容赦を……」


 2人は引かれた椅子に腰を下ろす。そして執事の2人は素早くそれぞれの主人の椅子を捌きに動いた。


 場を和ませようと先ずはエルセーが口火を切る。


「気楽にねぇ、私と食事している時と同じで良いのよ?」


「本当に美しいレディー達を前にして、むしろ私の方が緊張しているよ」


「でしょうねぇ?」


 気を使っていただかなくともウレイアは緊張していないし、彼女は社交辞令のようなものは好きでは無いだけ……愛想で微笑むことすらしないウレイアはそんなことを考えていた。


「いつも妻からはミス・ベオリアの自慢話ばかり聞かされていてね、是非本人と話をしてみたいと思っていたんだが、正直に言えば予想を上回る驚きだ」


「まだお会いしたばかりで、言葉も交わしていないのにそれは過分なお言葉だと思います」


 とは言えエルセーの連れ合いとなれば、いつもの小芝居としてそつなく謙遜する。


「これは先祖から受け継いだ遺産だと思っているが、私は人を見る目には自信があってね、オリビエにもそうなんだが、君に対しても決して不遜な振る舞いは取るべきでは無いと感じているんだよ。むろん、ミス・トリーにもだが……」


「んくっ」


 急に名前を呼ばれ、料理を口に入れたままで首を振るトリー。見た目でははるかに若いウレイアに対してなかなか言える言葉では無いのだが、どうもネストールが嘘を言っているとも思えなかった。


「余程オリビエ様に褒めていただいたのですね?」


「ええ、たっぷり宣伝しておきましたよ」


 エルセーにはにっこりと会釈をする。


「聞けば美術品や宝石の鑑定をされているとか」


「そうですね、まあ専門は宝石なのですが……」


「うん、それではこれはどうかな?」


 ネストールが人指し指の指輪を外そうとした瞬間にウレイアは答える。


「アレキサンドライトですか?」


 ネストールは驚いた。


「この辺りでは非常に希少な石ですね。しかもその大きさと色が更に希少性を増しています」


「いや、まだ見せてもいないが…」


 指輪をグリムスに手渡すとウレイアの方へ向かって来る。


「仕事柄、つい目がいってしまうのです。ロウソクの光を反射した時の色にも特徴がありますし。拝見します…」


「……間違いなくアレキサンドライトですね。北方で採れる石で、光によって色を変えます。しかし…ほとんどは石が小さく、この大きさとこれほどに濃い赤の石は見た記憶がありません。非常に質が良く希少価値の高い石ですが、希少故に認知されておらず、まだ商取引には向かないと言わざる得ません。将来に期待して大切になさって下さい」


 グリムスに指輪を返すとすぐにネストールは感嘆の声を上げた。


「いや、見事だっ。ほとんどの宝石商が名前も言えなかったのだが、アドバイスまでいただけるとは。なるほど、鑑定士は必要だ。宝石商と言えど所詮は商人、目先の商売に追われて勉強不足になるわけだ!」


 トリーもへぇと感心しながらウレイアに確かめた。


「あの、そんなに凄い石なんですか?お姉様」


「ええ、交易の進歩や産出量によって変動するから正確には予測できないけれど……ネストール様のご商売はその貿易ですよね?」


「そうだね、様々な物を取り扱っているのだが、主にはこれと…」


 そう言うと、ワイングラスを掲げて一口含んだ。


「絹織物も主要なのだが、それに関してはオリビエにも手伝って貰っているよ」


 自分の着ているドレスの肩口を摘んで見せるエルセー。


「私の仕事はデザインと店舗の統括、ブルーベルの看板よ。あなた達のドレスも私がデザインしたものですよ?」


「ああっ!そう言うことだったのですね?」


 突然トリーが声を上げると皆んなの注目を集めた。


「「「???」」」


「お姉様のお召し物の多く…いえ殆どにはブルーベルのタグが付いています」


「トリー、そんな事は言わなくても良いのです」


 エルセーはとても嬉しそうに顔をほころばせた。


「まあっ、そうなの?」


「はい、私にも何着か買っていただきました」


「これは何とも嬉しいことだね、オリビエ。そうか、それならばなおさらだ。グリムス、指輪を……」


「はい、すぐにお持ちします」


 指示を受けてグリムスは部屋を出ていった。


「絹織物の他にも、例えば、服飾の工房の次にエダーダウンの産業にしようとしている蒸留酒…ああ、そう言えば町に行ったのならもしかして…」


「あぁそれなら、町に降り立ってすぐに看破されましたよ」


「それはまた凄い、まあ秘密にしているわけでもないのだがね。だから私には様々な先祖からの遺産がある。そのひとつがエダーダウンでね、私の周りや町の者の為にも先に進める環境を作っておかなければならない。だから私は国を頼った生活はしたくないし、その為には世界中とパイプを繋ぎ自由に商売をしたいと思っているのだよ」


 グリムスが戻ると、ネストールに目で確認を取ってからウレイアとトリーの横に小さな箱を置いた。


「お得意様なら是非ともそれを使って欲しい」


 可愛らしい指輪でもプレゼントされるのかとウレイアは思っていたが、ケースを開けると金の台にブルーベルの花の形に加工されたラピスラズリが埋め込まれている。ネストールの小指にはめられている物と同じデザインだ。ただ彼の物は一回り大きくデザインも複雑で花の一部にブルーサファイアが使われていた。


「会社の直営店でそれを見せていただくと、3割の価格で全ての商品がお求めになれますよ、お客様?確か……モーブレイにも店をだしていたね、オリビエ」


 ネストールは商人然とした口調で説明する。


「え?ええ…そうね」


 少し不意を突かれたようで、どうやらエルセーは指輪のことは知らされていなかったようだ。


 そしてこの扱いに困る贈り物を前にして、ウレイアの顔は曇った。


「大変光栄ですが、これは商品を割り引くための指輪では無く…マリエスタ家のシグネットリングですよね?」


「お姉様…シグネットリングとは何ですか?」


「シグネットリングは権威や一族、家族を象徴する物よ。ロウで封書を封印する時にも使われているでしょ?」


 いわばこの家の家人であることを意味している。


「いや、そんなに深く考えないで欲しい。今ではただの商人、妻の家族ならば私の家族でもあるのだから」


 一族の象徴?家族の繋がり?それはウレイアの望むものでは無いし、都合も悪い。


(私がこの指輪を持っているだけでこの家に…エルセーに危害が及ぶかもしれないのに)


 ウレイアはケースを閉じてテーブルに置いた。


「お気持ちは有り難いのですが、やはり受け取ることはできません……」


「ねえベオリア、気を使わずに受け取ってあげてくれないかしら?」


 ウレイアはエルセーを見つめた。


(この場は受け取れ、そう言うのですね?エルセー)


「良いのですか?分かりました、オリビエ様がそう仰るならば…有り難くいただきます」


 ウレイアは彼に頭を下げ、エルセーに許可された形で、しようがなく指輪を受け取った。


「良かった。差し支えなければ使って貰えると嬉しいのだが……ただサイズは直してもらわねばならないかな?」


 どうやら話が落ち着いたところでトリーも侯爵に礼を述べる。


「ありがとうございます。可愛いですね、大切にします」


 その後、ネストールは仕事で訪れた国の話を語り、あまり2人のことを詮索することは無かった。それでも意図された幾つかの問いかけと、ずっと思慮深く観察されている印象は変わらずにディナーは終わりをむかえた。






「緊張しましたー」


「嘘おっしゃい。でも、困ったわね」


 部屋に戻る途中、貰った指輪が悩みの種になっていた。


「捨てるわけにもいきませんしね?」


「まあ、エルセーに預けることになるかしらね、考えておきましょう」


 ウレイアはそのまま自室に戻ると、今は考えるのも煩わしいので、本を開いてゆっくりと過ごすことにする。今は静寂を味わいたい、そんな気分だった。


「後で散歩にでも行こうかしら」


 窓から空を見上げていると、ドアをノックする者がいた。



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