6 同族
何故20年以上もの時をあのマイペースなエルセーが静かに見守っていてくれたのか?
「馬鹿言っているんじゃありません!そろそろ怒鳴り込んであなたの顔をこね回してやろうと思っていましたよっ!」
と、危うく顔に『たるんたるん』の呪いをかけられるところだったようだが、そんなことを言っていたエルセーには分かっていた。
たとえこの20年が200年だったとしても、どれほど遠く隔たれていようとも、あらゆるものが不確実で頼りない可変な世界に有って彼女が不変であると疑わないもののひとつ……
「それはねえレイ……この世界に有るモノ全てには運命があるの。そして望む望まざるは別にして、人は関わったモノと絡みあいながら生きているし、その『もつれ』は簡単に解けるものでも無いの。たとえその時は離ればなれになっていても『もつれ』がある限り運命の糸が張りつめた時、振り子と同じで必ずまた未来で絡みあうものなの。もしもそれが許せないのならきっぱりとその糸を切ってしまうしかない、もう二度と絡むことの無いようにねえ、そして……もしもその糸を切りたくないと思うなら、自ら望んで何度も何度も絡み合いその糸を紡ぎなさい。そうやってお互いに強く強く紡いだ運命の糸はたとえ死んでも切れるものではないのよ?」
それはまだ、ウレイアがエルセーと共に暮らしていた頃の記憶である。エルセーとの茶会の後、ウレイアにしては珍しくベッドに身体を横たえて随分と昔の思い出を見ていた。
幼くして理性偏重の理論派を自負していたこともあって、その時はエルセーらしいロマンティシズムだと少し遠まきに聞いていたものだ。今さらそんな思考指針が変わることも無いが、その頃の自分を思い出すと何故か妙に可笑しく感じるのだ。
エルセーがすぐそばにいるせいなのかそんな記憶と自分の感情に遊ばれながら心地良く意識はうつろな闇の中へ沈んでいく。しかし、ゆったりと息をはく度に深さが増していっても、彼女はわずかな意識を現実に留まらせる。
留まれる深さ以上に眠ることは普段のウレイアには無い。それでもここまで深く眠ったのは久しぶりのことだった。
ところが、本当に久しぶりに眠りを楽しんでいた彼女の邪魔をしたのは、まったくもって不快な訪問者だった。昨夜、のぞきの視線を撒き散らしていった何者かがまたしても、雑でやる気を感じない技を披露していった。
「不愉快ね……」
目を開けるよりも先に怒りが口を突いて出た、どうやら前回よりは意識して視ていったようだが。
誰かの『監視』に晒された時には気づかないフリをするのが鉄則ではあるが、ウレイアが目を閉じたまま体を起こすのも腹立たしく感じていると、慌ただしくドアがノックと同時に開かれた。それは当然…っ
「お姉様っ」
トリーである。仕方なくウレイアも体を起こすが、ベッドから出るつもりはなかった。
「また来ましたね!お姉様っ?て、あれ?お姉様が寝てらっしゃるなんて……なんか久しぶりに見たような気が………」
「そう?まあ…それはどうでも良いけど……『のぞき魔』のことは気にせずにお眠りなさい」
「え?そう…ですか?では…」
トリーは真顔でウレイアに歩み寄って来るとなぜか隣に潜り込んで来た。
「トリー……私は自室に戻ってお休みなさいと言ったつもりなのだけど?」
「いえいえ、もしもですよ?もしも何か万が一が大変な事になった時、何かに備えて一緒に居た方が…」
「万がいちが大変……?はあ……」
少し首をかしげただけで、もう言い聞かせるのも面倒そうにウレイアもそのまま横になった。
「いいわ…今日はもう好きになさいな……」
「うふふ…」
トリーは満足そうに眼を一度閉じたが、少し間を置いてぱっと目を開けた。
「ねぇ、お姉様?」
「なに?」
「きょう…大お姉様はまるで力が衰えたような言い方をされてましたけど、私達は歳を取ると力が弱くなるのですか?」
そう聞かれるとウレイアはううむと少し考え込んだ。
これは忌み事のような、腫れ物に触れるような、そんな気持ちの良くない印象を抱いていた。少し答えの整理が必要である。
「そう、ね……考える力が衰えれば、それはそのまま力に影響するわね。けれど、エルセーの場合は違うのかしら……ところで、あなたは彼女のことを大分年長者だと思っているかもしれないけれど、20年前は私と変わらない見た目だったのよ。この20年、あなたは成長期だから少し大人になったけれど、私は全くと言えるほど変わらないでしょう?」
彼女達の寿命は普通の人間の10倍とも20倍とも言われている。個人差もあるようなので何とも言えないが、エルセーの身に起こっている事は彼女達にとってみれば尋常なことではないようだ。
「実は…昔からね、私達にまことしやかに語り継がれている言い伝えの中に、こんな話しがあるの……『男を受け入れると、力と寿命を削られる』と言う話がね……」
「はい?」
「『はい?』……もっと露骨な説明がお好みかしら?なら、私達は男と性…」
「いえいえっもう言わずもがなです、お姉様がおっしゃる意味はよおく分かりますっ」
「そう」
トリーは息を整え直す。
「はあ……でも、なるほど、そうだったのですね…?」
「あら?あなた随分簡単に飲み込んだけど、『まことしやか』と言ったでしょう?特に私はこの話には懐疑的なのよねぇ?」
寝返りをしてトリーはウレイアを見た。
「そうでしょうか?腑に落ちるお話ですけれど、どこか疑わしいですか?」
「んー、疑えるほど同じような例が身近には無いし、他で聞いた材料も無いけれど、納得がいかないのは確かね」
「納得…ですか?」
「そう、でも今日はもういいでしょう?休みますよ」
「えーー?んーわかりましたあ。おやすみなさいませ、お姉様…」
ウレイアの頰にキスをすると、トリーは毛布をかぶった。ウレイアも寝直してやろうと試みたものの、結局は一晩中トリーの寝息を聞かされただけだった。
夜明けを待たずにベッドを抜け出したウレイアは、ガウンを羽織ってヒンヤリと暗い屋敷の階段を下り、昨日エルセーと再開した中庭に出る。しっとりと重く冷たい空気を体に通して椅子に腰掛けて静かに夜明けを待つ。
夜に唄う虫の囁やかな声は闇の閑けさをことさらに謳っている。その中に浸れば世界と自分の境い目は無くなり、全てと溶けあうように拡散してずれてしまった心の脈動を調律してくれるような気がした。
自分も世界の一部分に過ぎない。そう思える『夜の世界』をウレイアは好んだ。
それにその終わり方も素晴らしい。深く、暗い空が藍色に染まりはじめる直前、舞台が切り変わる僅かな時間だけ世界は完璧な静寂に包まれる。朝を待ちわびていた生き物は合図を待っていたかのように一斉に動き出し、空が色づき始めると共に生命があちらこちらで爆発する。世界が光に満たされて極彩色に生まれ変わるこの瞬間も彼女が好きな時間だった。
夜明けと共に動き出したこの人も、まどろんでいるようなウレイアを気遣って静かに近づいてくる。
「おはよう。早いのねえ?と言うよりは眠らなかったのかしら?」
「おはようございます」
もちろんエルセーが近づいていたことには気が付いていた。
「階段の辺りからあなたの視線を感じましたよ?」
そう、ウレイアは暗闇で動く為に周辺監視を使ったのだが、習慣的にそのまま監視を続けていたのだった。しかし
「失礼ですがエルセー、私の監視に気付けたならば、昨夜何者かの遠距離監視にもお気づきになりましたか?」
愚問だ、大声で叫びながら獲物を探す様な連日の未熟者とは違って、ウレイアの監視は加減は当然のこと、闇の中を動きまわる程度の希薄で粗くしたものはそうは気付かれることは無い。
「ええ、まあセンスが無いのかしら?思わず笑ってしまいましたよ……もっとも、馬鹿力は自慢できそうねえ?」
「おはようございます。お姉様方…」
そこへトリーがやって来たが、朝から身なりを整えて登場するなど普段ではしない事なので、驚いたウレイアは思わずくすっと笑ってしまった。
「あら…ふふ、おはよう」
「おはよう、トリーちゃん」
「『あら』って、ひどいですもう……暗い内にお姉様が起きたのは気が付いたのですが、結局また眠ってしまいましたあ……」
「トリーちゃんもこちらにお座りなさい」
「はい、大お姉様」
「それでエルセー、昨夜の覗きの件ですが」
一昨日からの事件の内容をウレイアはエルセーに話して聞かせる。長くこの地に住んでいるエルセーならば、何か心当たりがあるかもしれないと思っていた。
「そう、そんなことがねえ…確かにおかしな事件の話しは聞いていますよ、けどねぇ」
「おかしな事件ですか?」
「ええ、最近この辺りの町や村で、子供が誘拐されているらしい、というものなの。でもねえ、レイが受けた印象からすると、まぁ…あくまでその誘拐犯が同族と仮定しての話だけどね、周囲の警戒のために力を使った、というのとは違う気がするわねえ」
トリーが嫌な確信に困惑した顔でウレイアを見た。
「お姉様…わたし、なんかよく似た事件に覚えがあるのですけど?」
「そうね、まったく…」
「あら、そうなの?」
ウレイアはカッシミウでの誘拐騒ぎのてん末まで説明する羽目になり、同時にやはり、情けをかけて見逃した事を少し後悔した。
「なるほどねえ、あなた達の言う通り犯人はその娘の可能性が高いわねえ……そうなるとやはり誘拐犯のその娘を誰かが探そうとしているのじゃないかしら?レイがそうしたようにね……レイの話に今朝の事を加味すると発信源はボーデヨール、領土内の町と村、その周辺を調べていた。犯人は不明で力はたいしたものだけれどまあ、技は未熟、今はそんなところねえ………それからもうひとつ、今の私でも覗かれれば気が付くし、意識すれば色んな事が分かりますよ?」
エルセーは覗きの犯人を想像しながら、まるでなぞなぞを出された子供のような顔をしていた。
「なんだか…楽しそうですね?大お姉様」
「ん?そうねえ…最近はすっかり落ち着いてきているけど昔はね、こんな事は日常茶飯事だったのよ?私達を信奉する者に利用しようとする者。追い立てる者や同族間の争い、基本的に私達は独善的になりがちで敵も多かったのよ。常に誰かとぶつかり合っていたんだもの、そういった駆け引きや謎解きを楽しめるくらいじゃないと…身が持たないでしょう?」
結果的には強く、常に賢明な者が残った。そしてその時期に、自身や力への理解も深まったと言えるだろう。
それにしてもやはり、エルセーを見る限りにおいても例の『言い伝え』に対するウレイアの疑いは、より濃さを増した。
「まあ何にしても、取り敢えずは気にすることもないでしょう」
エルセーは胸の前で手を軽く叩くと、軽口で覗き犯を両断して余裕を見せた。ただ言葉ではそう言ったが、何か気になる目でウレイアを見つめていた。あくまで『取り敢えず』という事だろう。
「では、私はトリーを見習って着替えをしてきます」
少しばかりばつが悪そうに笑うトリーの顔を横目に見ながらウレイアが席を立つ。そろそろ使用人達も動き出しているようで、部屋に戻るついでに中庭にお茶を持って行くよう、すれ違った使用人の1人にお願いしておいた。
「レイ…じゃないわね、ベオリアの所はどう?トリーちゃん」
「お姉様ですか……?怖いですぅ」
即答である。
「あら、そうなの?」
「怖くて…でも凄くお優しいですっ」
今度は顔がデレて緩んだ。
「そう、あなたがベオリアのことを好いてくれているならいいの」
「好きだなんてもう、私はお慕い申し上げていますっ、もう愛です!」
「そ、そう…良かったわ、上手くいっているならねぇ。そうね、たぶん…あなたは特別だったのね?」
「とくべつ…?何のお話ですか?」
トリーは首をかしげた。
「そうねえ……あの子に怒られてしまうかもしれないけど…」
たしかにこの場に居れば、ウレイアはエルセーの話を遮っていただろう。
「おそらく、あの子の所に居た前の2人の話はされた事がないでしょう?」
「あっはい、私もその……興味はありましたが、何となくですけど…聞いてはいけないかなーと」
エルセーは少し迷いながら話を続けた。
「そう、そうでしょうねえ…1人目は独り立ちして間もなく教会の神兵しんぺいに殺されてしまったし、2人目は音信不通になってしまったし……」
「そんな…っ」
「まぁ、私達にとっては珍しい事でも無いのだけれど…ああは見えても凄く情の深い子だから、あの子はもう、誰も育てる気は無さそうだったのよ…」
そう言ってエルセーはトリーのことを品定めするようにあらためて眺めた。
「では、なぜお姉様は私を?」
「だからね、たぶん、あなたにはどこか…特別なところがあったんじゃないかしら?20年以上も手元に置いていることも、十分特別だと言えるし」
エルセーの言葉はトリーに喜びと不安を同時に与えるものだ。
「お、お姉様にとって特別であるならば何より嬉しいと思います。けど、私には何もそんな特別なトコロなんて…」
「トリーちゃんそれでね…無理ならいいのよ?あなたにはまだ辛いことかも知れないけれど、あなたの語りたくない過去を……私に教えてくれないかしら?」
エルセーに過去を問われると、トリーの目には恐怖が浮かびまぶたは痙攣した。そんな顔を見せまいと顔を伏せてしばらく耐えていたが頭の中を整理して落ち着くと、なんとかゆっくりと話し出した。
「私が…耐えられなかった、罪と地獄のお話しはできません。それでも、お話しできるとしたら…」
「あの後、あんな事の後に、あの場から私はもうただ逃げ出したくて……何処とも知れない森の中を何日も彷徨って、そして遂には動けなくなりました」
「もう息をするのも怠くて、一度座り込んだら自分が泥なのか人なのかも分からなくなって…でもやっと終われるんだ、このまま動物のエサになって、森の肥料にでもなれれば、私が出来た唯一のいい事になるんじゃないかって……そんな救われるような気持ちで眼を閉じたんです」
「自分の身体がだんだん体温を失って死が覆いかぶさって来るのが分かりました。でもそれは、私にとってはまるで羽布団のようにかるくて、暖かかったんです。あんなに安らかに意識を失ったのは初めてでした」
「それなのに……もう二度と眼を覚まさなくてもいい、そう思って眼を閉じたのに…」
「私はそのまま、同じ場所で目が覚めました。死ななかった、死に切れなかったっ。私はそのことに絶望しました」
「でも、すぐに気が付いたんです、不思議と身体が軽くなっていて、動くことも出来なかったはずなのに平気で歩く事が出来て、しかも考えてみればお腹が空く様子も無かった」
「訳もわからずに結局は歩いて、彷徨って、何日かしてから何処かの町でお姉様にお会いできたんです」
それは思い出す度に胸を押し潰す悪夢であり、思い出す度に胸が熱くなる忘れられない瑞夢でもあった。
「なぜか、お姿が見える前からお姉様がいるって分かりました。お姉様と目があった時は泣きそうになる程嬉しかった……でもべつにおすがりするつもりは無かったんです。ただ嬉しくて……」
「そうしたら……お姉様は何も言わず綺麗なお召し物の中に私を包んで下さったんです…それだけで全てが救われてしまった、私が生まれ変わったのはその時なんです…」
トリーは眼を涙でいっぱいにしながら、嬉しそうに微笑んだ。エルセーは立ち上がると、トリーを背中から強く抱きしめた。
「ごめんなさいねえ、もういいの…よく分かったわ」
震える身体をしばらくの間抱き続けるとトリーの頭にキスをする。
「あなたは良い子ね。だからあなたは特別なのね」
「私が特別?」
「そうよ、だからお願い。死なないであげてっ、ずっと、そしてあの子を好きでいてあげてちょうだいね?」
「なぜ、そんなことを…?」
「私はもうあの子を見守り続けることはできないから…」
「お、大お姉様っ!」
トリーも立ち上がると、2人は強く抱きしめ合った。と、そんな2人の姿を着替えて下りて来たウレイアが遠巻きに眺めている。
(ええと…?)
2人がなぜ抱き合っているのか理由も知らないが、とにかく何か凄く間の悪い時に戻ったのは確からしい。
同じタイミングで朝のお茶を持ってきたメイドもまた、ウレイアの目を見て共感しているようだ。
「ええと…どうしたの?トリー、オリビエ…さま」
エルセーがトリーを優しく撫でている。
「私達がどれほどあなたを愛しているかと言う話をしていたのですよ?」
「は……?そう…ですか」
さすがのウレイアも対応に困る事はある。まあしかし、2人が親密になることは悪くないと思ったが、というか歓迎すべき所だが、はたと2人を並べてその性格を考えてみると、意外と似た者同士かもしれないと思った。
ただそれでもトリーはウレイアを常に尊重してくれるが、エルセーはそうはいかない。自分に同調してくれる者を得たとなればその女王様パワーは2倍、いや3倍4倍にもなってウレイアに降りかかって来るような気がして、少し心配顔になった。
ウレイアは身の置き所のないメイドからお茶を受け取ると、手ずからお茶を配って、しばらく3人で静かにお茶をすすった。
「ふう、さて…?今日はどうするのかしら2人とも。屋敷でのんびり?それともこの辺りを案内でもしましょうか?」
「大お姉様は普段は何をされているのですか?」
「そうねえ、暇を潰すには本、気が向いたら仕事、飽きたらお出かけ、かしらねぇ……」
「そうですかー……」
トリーの気の無い返事を最後にまた沈黙が続いた。
季節柄も良く天気も文句なし、紅茶のかぐわしい香りが漂い、風にあおられて草々の絨毯は波の音を立て、夜の間に浄められた空気が身体を撫ぜてはこの身も浄めていく………心が霧散しそうになった時にエルセーがぼそっと呟いた。
「なかなかでしょう?でもこれは…ちょっと危険かしら?」
「まったくです…」
ウレイアも相づちを打った。
ここへ着いてからと言うもの気が緩みがちだったが、これはとどめである。
「?!、何がですかっ?敵ですかっ?」
驚いたトリーは寝込みを襲われた小動物のようにキョロキョロと2人の顔を見ている。その姿にエルセーはくすくすと楽しそうだが、ウレイアは苦笑するしかない。
「かなりの強敵よねえ、私は…ともかくあなた達にとってはね……」
トリーにとっては全てを預けられる姉が2人。エルセーにとっては熟達した愛弟子と新たな孫弟子。そしてウレイアには心を許せる力の衰えた師と……手のかかる弟子?
(ん?結局私にしわ寄せがきているような…)
だからこそこの心地良い優しい抱擁にもまだ警戒心を根こそぎ持っていかれずに済んでいるのかもしれないが。
「まあでも、たまには悪くないわね…」
つい口を突いて出た言葉を取り消すように、ウレイアは咳払いをした。
「んっ、んん…っ、私は屋敷の周りの様子を散歩しながら確認してきます」
ウレイアは取り繕うように少なくとも半日は警戒のために費やすことにする。せっかくその為の準備も抜かりなく用意してきたのだ。
「なら私もお伴しますっ、勉強させていただきますっお姉様!」
トリーが殊勝なことを言うとエルセーがまた楽しそうに笑った。
同じ悪党ならば、やはり生き残るのは頭の使い方を知っている者で、そこから外れてもよいのは余程の強運の持ち主か、他に特技を持っている者だ。
夜の闇に紛れて仕事をする輩で少しでも頭が回る者ならば、新月か、もしくは雲の厚い夜か、とにかく月の灯りにも気を使ってしかるべきである。
ところが、まさしくその夜は満月だった。ロウソクなどよりも明るく、楽に本が読めるほどの月明かりの中で、どこかの町の通りを動き回る人影があった。
その無知な動きには既視感を感じるが、その影の正体はやはりエルシーである。ウレイアの街で、彼女の手を煩わしたあの小娘、芸も無く夜に徘徊するのが余程好きだったと見える。
夜の散歩ついでに適当な家に潜り込んでのんびりと物色しては、金品を拝借しているようだ。
そんな事を気の済むまで何件か繰り返すと、慌てる様子も無く町を後にするのだが、彼女らしいのは人目をはばかることも無く街道を悠然と去って行くところだ。
らしいと言っても褒めてはいない。当然周辺の監視は怠らずにいたとしても、遠目で自分の存在を知られる可能性を捨てているようでは彼女も先が知れると言うものだ。目が届く範囲全てをカバーできるほどの力があるとも思えないし、おそらく顔を見られなければ問題はない程度にしか思っていないのだろう。
町から少し離れて踏みならされた道に下草が目立ち始めた辺りでエルシーは急に足を止めた。言わぬことではない、傍の木の陰から男が2人姿を現した。
実は彼女は50メートルほど手前で一度足を止めていた。そこから察するにエルシーが監視していたのは精々半径50メートルだったということになる。ともあれ気づいて止まりかけたその時に男2人を始末する決断をしたのかも知れない。
「よぉ」
男の1人が気安く声を掛けてきたがエルシーの表情からすると返事を返す気はなさそうである。
「まあ安心しろ、別にどうこうするつもりはねえよ。それにガキだ、女だなんて言うつもりもねえ……声を掛けたくなっちまったのはなぁ、まあ遠まきに見ていたんだが…大したもんだっ、まるで幽霊みたいじゃねえか?」
後ろで周りをうかがっているのはその様子からすると手下のようだ。体格から見ても用心棒のようなものだろうか?
「お前達、2人だけか?」
突然のエルシーの問い掛けに声を掛けた男は驚いたようだが、後ろの男は癇に障ったらしい。
「あぁ?だったら何なんだ。俺達だけなら怖くもねえってか?口の利き方を教えてやろうか?小娘が……っ」
「こむすめっ?」
手下らしき男が肩を怒らせて一歩前に踏み出した瞬間、急に自分の胸を掴んで苦しみだした。顔色がみるみる赤くなり吹き出した玉のような汗が頰から顎を伝って地面にシミを作っている。
兄貴分は唖然とするばかりだったが、何かに心当たりがあったのか、即座に木の陰に身を隠すと娘を凝視した。
身を隠す事に意味があるかは問題では無い、長い生業の末に身に染み付いた反射行動にすぎなかったが、未熟なこの娘に対しては幸いにして効果があるだろう。
「お前、もしかして『魔女』ってやつかっ?」
言われた事に動揺したのか手下の顔色が少し良くなった。エルシーが兄貴分を睨みつけると冷や汗をかきながら慌てて顔を引っ込めた。
「あたしが魔女……?」
「まぁ、どっちでもいいんだが…すまねえな、そいつを許してやってくれねえかな?そいつはガキの頃、奴隷商から一緒に逃げてからってもの、ずっと一緒にやってきたんだ」
「奴隷?」
エルシーが手下の心臓を離したと思われた瞬間、手下はその場で崩れおちた。どうやら死んではいないらしい……ただ苦しそうに大きく息をしている。
「あ、ありがとうよ、まったく驚いたぜ…」
兄貴分がエルシーの様子を伺いながらゆっくりと姿を見せた。
「奴隷だったの?」
「ん?あ、ああ。売られる前に逃げることができたんだ。なんだ、気になるのか?」
「別に…」
この男、エルシーを観察しながら小賢しく探りを入れているようだ。
「そいつの礼儀知らずは謝る。さっきも言ったようにお前を敵にまわす気は無いんだ」
男は言葉を選びながら話を続ける。
「このまま、俺達を逃がしてくれるだけでもありがたいんだが…なあ、どうだろう、俺達の仲間にならないか?」
「なかま?」
エルシーの顔に困惑が見て取れる。
「いや、一緒に仕事をしてくれるだけでいいんだ。手下共を食わしてやらなきゃいけないってのもあるが、俺は復讐したいんだっ、この世界ってやつにな。だから…手を貸してくれねぇか?もちろんあんたが納得出来るだけの報酬も可能な限り用意する」
「ふくしゅう?」
「ああ、復讐だ。お前は違うのか?」
不自然だが唐突にいくつかのキーワードを散りばめて彼女が反応する言葉を探っていく。
「興味ない」
エルシーは2人を放って歩き出した。
「分かったっ、じゃあこうしよう!これから一週間、この時間この場所に見張りを置いておく。気が変わったらここへ来てくれ。お前、名前は?」
「言うわけないでしょ。追って来るなら殺す……」
エルシーはそのまま振り返ることも無く去っていった。
「追えるかよ、魔女姫」
もうすぐ日が落ちる何処かで、エルシーはそんなことを1人で思い出していた。そうこれは過去の話。彼女が子供をさらうようになるきっかけになった話である。
エルシーは膝を抱えていた左手で首を撫でた。そこにはウレイアがプレゼントした石が埋まっている。
「あの人に会いたい……」
目をつむるとエルシーが祈るようにつぶやいた。
「今日も夕陽が綺麗ですね?お姉様」
「そうね……」
同じ夕陽の中、ウレイアとトリーは屋敷の周りの確認と対策を兼ねて、昼からのんびりと散策をしていた。
かつての同族達が森林や山に隠れ住んでいたのは人から距離を置こうとしただけでは無かったのかもしれない。こういう場所には安らぎを感じるし、人間が自然の中に精霊や妖精を夢想してしまったのも無理からぬことだろう。
なにより自分を苛つかせるような人間もいない。彼女達の多くは一様に感受性が強くストレスやあらゆるプレッシャーに対して敏感であった。
そしてここは攻撃に対しても対処がしやすい。この屋敷も一見護るには難いように見えるが、反面攻め手が身を潜める場所も無いし行動の選択肢は数えるほどしか無いだろう。
侯爵家がここを領地としたのは偶然では無いということだ。山を背にしてボーデヨールに対しては開けた斜面、もしかしたらマリエスタ家は王家に対して代々確執を抱えていたのかもしれない。
(だとすれば……)
ウレイアは屋敷の裏手にそびえる山を見上げた。
「おや?また何か思いつかれたのですか?お姉様っ」
(この子は、私に対する観察力を他に向けてくれればいいのだけれど…)
抜け目なく自分の機微を拾うトリーにウレイアはひとつ息を吐いた。
「ふふ、何でもないわ。もう戻りましょう」
「またっもう!…いつもいつもずるいですっ。何なのですか?教えて下さいっお姉様!」
不満を残したまま屋敷に戻ったトリーは、ディナーの後エルセーに言った。
『明日は出かけたい!』
そんなトリーのわがままをエルセーは自信満々に請け負った。