5 祝福
2日目、ウレイア達は既にハウィックを出発して今日の目的地であるクリエスに向かっていた。
この様な旅で馬や馬車を利用するのは先ずは高い地位を持つ者や富裕層、それから任を負った騎馬兵、それ以外では体力の無い女性や子供、老人が殆どであった。それはつまり『男子たる者は自らの足で大地を踏みしめ、何処へだろうとどこ迄も艱難辛苦を乗り越え其処へ至るべし、それが出来ない男は男じゃ無い、ああ不甲斐ない…』そんなツラい社会常識の中で男は生きていた。
まあ世界の何処に行ったって旅の基本は徒歩だった時代だが、この国では、いや近隣諸国も含めて五体満足な男が馬車に乗っていれば軟弱であると思われたのだ。
ちなみに馬車を所有しているのは一部の富裕層だけで、経済的に余裕がある家でも使用する頻度が低ければ、必要に応じて馬や馬車を借りる方が当然経済的と言えた。
正直言って2人も馬車を借りるのが一番都合が良いのだが、女だけの旅を頻繁にしている事を宣伝するのも好ましくないので、たまには乗り合いの馬車に紛れなくてはならないのも仕方がないことだった。やはり世間の常識としては、女だけの旅は危険な行為とされているからだ。とはいえ、ウレイア達には当てはまらないのだが…
この馬車のように用心棒が随伴していれば小悪党相手には牽制になるだろうが、もしも相手が組織立った盗賊団であれば乗り合いの馬車が楽な獲物であることに間違いはない。
だからこそこのような馬車をはじめとして、旅は明るい時間帯の移動が基本になっている。暗い中での移動で一番恐ろしいのは、道に迷うことでも野獣でも無く、欲望に貪欲な人間達なのだ。
もしもこの馬車が盗賊共の襲撃を受け、もしも用心棒達が対処出来ない状況になったとしたら、残念だが盗賊とこの馬車に乗っている全員は悲運に見舞われる事になるだろう。その時の犯人役は勿論、盗賊達に演じてもらおうとウレイアは思っている。
「皆様、本日お昼頃に立ち寄る村は食事ができる店も少なくご不便かと思います。昨日と同様に粗末ではございますが、お食事のご用意をさせていただいておりますので是非ご利用下さい」
丁寧にモーリーが説明を終えると、皆が手を挙げて食事を希望した。
こればかりはしようがない、不審…と言うか、不思議に思われないように2人も頂くべきだろう。もっともトリーはそのような事とは関係なく食べる気満々のようだ。
「昨晩は良くお休みになられましたか?」
モーリーが気さくに話しかけてきた。
「はい、十分に。モーリーさん達は昨夜はどちらにお泊りになったのですか?」
「私達従業員は、それぞれの町や村に決まった宿が有ります。翌日の支度などにも都合の良い宿でないといけないので…」
そう言うと火の入っていた火鉢に大きな鍋を置いて見せた。それは火鉢に被っているゴトクにぴたりとはまるようにようになっていて、馬車が揺れてもはずれないようになっている。
「今から温め始めないと間に合いませんので」
今ではひとつひとつに興味を示すトリーの反応がすでにクセになっているようで、自分の仕事にわざわざ注釈をつけてくれるようになっていた。
「昼食が楽しみですねっ?お姉様」
「そうね」
人は緊張していると普段よりおしゃべりになったりするものだが、乗り合いの旅も2日目になると顔を知っているというだけで警戒心も薄れていく。面通しの済んだ者同士のリラックスした雰囲気の中で、昨日にも増して静かに、そしてゆっくりと景色が流れていった。
トリーもウレイアの膝枕と馬車の揺れを満喫しているし、ウレイアはいつも通りに本の世界を出たり入ったりしている。
気が付けば陽も高くに昇り、ピクリと建物を感じ取ったトリーが不意に起き上がると満足そうに伸びをする。
「んっんんー、ありがとうございました…お姉様、天国でしたー」
「そう…」
例によって馬車は道から少し外れて、細い川の側に停車した。乗客は馬車を降りると食事を受け取って思いおもいに散って行く。2人も食事を受け取ると、他の客から離れて川岸に腰を落ち着けた。
「今日のメニューは豚肉のトマトソース煮ですね。お肉がすごく柔らかくなってますよ?」
「そうね」
ウレイアはここで、口調を改めて話し出す。
「ところでトリー」
「どうかなさいましたか?お姉様」
「明日にはエルセーと会う事になるけど、今の彼女は『オリビエ・マリエスタ』よ。他の人がいる時には間違ってもエルセーと呼んではいけませんよ?」
「はい…オリビエ様、ですね。大丈夫です、安心して下さい」
「そう?ならいいわ」
この自信が何を根拠にしているのかは分からないが、とりあえずはこの子を信用しておくことにした。
「あと一応言っておきますけど私の名前は…」
「ベオリア様ですよねっ?解かってます。でも…私にとってはやはりお姉様です。『お姉様』が、お姉様のお名前です」
「そう…ま、まあ、いいわ」
「でも…『ウレイア』と言うお名前も素敵ですよね。やはりエルセー様に頂いたのですか?」
そうトリーに問われると、ウレイアはふと懐かしむように僅かに微笑んだ。
ウレイアにもエルセーに拾われた時に与えられた名前があった。この名前を知る者は本当に僅かで、この20年余りはベオリアで通している。
「そうよ…まあ、国を変える度に名前も変えてきた私には、名前の意味も価値も随分と薄れてしまったけど」
「ううむ…お姉様はクールと言うか、ドライですよねー?」
「そう…?」
「そう言えば、ええと…オリビエ様が結婚されたお相手はどんな方なのですか」
「相手はネストール・マリエスタ。ハルムスタッドの元貴族の家系で、商売で成功した今でも爵位は持っているようね。たしか侯爵だったかしら……」
「ほほーう…もしかしたら、オリビエ様は侯爵家を隠れみのとして利用しているとか?」
「良い案ね、でも違うと思うわよ。僅かの間ならともかく、20年…ただの人間と暮らし続けるのは並大抵では無いし、なにより、実は随分前に貰った手紙には『彼を愛してしまった』と、はっきり書いてあったのだけど…」
トリーの表情には困惑が浮かぶ。
「そ、それは、なんと言うか……お姉様にまでそうおっしゃるならば……」
「ただあの人の場合は言葉どおりに……いえ、言葉を理解するだけでは十分とはいえない厄介な人だった。まあ……ワザとそうしていた節もあったけれど、私を鍛えるためにね」
エルセーの結婚は、ウレイアがエルセーから距離を置くようになったきっかけにもなった。
「お姉様も言葉の端々から相手の心理を常に想像するようにと、教えてくださいましたよね?ただ、お姉様はド直球ですけど」
「きっとあの人に育てられたせいね」
エルセーの結婚に怒りと言うものは無かったし、蔑んだわけでもない。ましてや悲しみでも無くむしろ彼女らしいと思ったほどなのに、何か理解はしても納得が出来ない、そんな気持ちの上だけの理由で、決して嫌いになれない相手に対して目と耳を背けて聞かなかった振りをすることしか出来なかった。
それでも、ウレイアの気持ちの整理が付くまでの間、エルセーは黙って待っていてくれていたのだ。あの時、トリーがエルセーに逢いたいと願ってくれたことでウレイアは救われた。
そして馬車の長い旅は、エルセーの前に立つ心の整理と覚悟のための時間をウレイアに与えてくれた。
クリエスには4時前に到着して、2人は気晴らしの散歩で気分をほぐしてから宿に落ち着いた。
「明日は…午前中にはエルセー様にお会いできますね?」
「おそらく昼頃に着くと思うのだけど……手紙には、ハルムスタッドに入って最初の町のクルグスに迎えを送ると書いてあったわね……」
「ほうほう…では、そのお迎えは何色の旗を持ってらっしゃるのでしょうね?」
「そうねえ…アオムラサキ色かしらね?」
「ええっ?まさか、本当に旗を?」
「冗談よ、ブルーベルの花をかたどった紋章が入った馬車らしいわよ?」
ブルーベルとはアオムラサキ色の小さな可愛い花を咲かせる植物のことだ。
「もうっ、お姉様ったら…」
トリーが何かを言おうとしたその時っ、一瞬鋭い光が横切った様な感覚を二人は身体の内で感じた!
トリーは固まり、ウレイアは放たれたと思われる方向に身構える。
「お姉様っ、今のは!」
「何もしてはだめよっトリー!誰かが見ようとしていた……」
「でもっ大丈夫なのですか?……えっ?見ようとしていた?」
「屋内だし、おそらく認識もされていないと思うわ」
その印象はあまりにも乱暴で雑だが、反面かなり強い力と予想も出来ない程の距離をウレイアは感じていた。未熟や稚拙と言った方が良いのかもしれない。
何にせよエルセーの住むハルムスタッドの方向と思われる。しかしウレイアには分かる、明らかに別の誰かによる『監視』だ。
「異常な程に遠かったわね…!たしかに幅を絞れば遠くまで見通せるとは思うけれど、感じとしてはせいぜいこの建物が視界の端に入ったくらいかしら………おまけに俯瞰による『監視』では屋根があるだけで遮られてしまうだろうし」
もしくはその程度で十分な理由と目的があったのかもしれない。何しろ『力』そのものはかなりのものを感じたからだ。
「お姉様のは全方から触れられているようでぞくぞくっとしますけど、今のは何か見下されているように感じて何だか気分が悪いですっ」
トリーは辛いものでも口に含んだように舌を出した。
「確かにそうね、神の目線にでも立っているつもりかしら?でもあれよ…今ではあなたも私の事は言えないけど?」
「それはまあ、そうですよー、だってお姉様に教えて頂いたのですから…」
「とにかく…何者かがいる、ということが分かっただけで闇雲に正体を探るのはうかつなことよ。警戒は強めるとして、今後は情報を見逃さないように気をつけましょう」
おそらくハルムスタッドからの怪光、エルセーはそう遠くない場所にそこそこ長く住んでいるはずなので、聞けば何か情報を得られる可能性は高い。
次いで昨日老夫婦からトリーが聞き出したハルムスタッドの教会騒動が引っかかってくるが………どこの教会でも魔女やそれと疑わしい事件などには目を光らせているもので、権威が強まっているというハルムスタッドではより監視が強まっているはずだ。つまりは同族にとっては居心地の悪い場所と思われるのでその近辺を縄張りにしようとは思わない筈なのだが………
まあ例外としてはエルセーやウレイアのような経験を積んだ熟達者か、何も知らない、考えの至らない未熟者のどちらか……
しかしウレイアが受けた印象からは、とても熟達者とは思えないものだった。とにかく相手を想像するにはもっと情報が必要だ。
「何にせよ今は気にしなくていいわ」
「分かりました、お姉様がおっしゃるなら間違いないです」
その夜は流石のトリーも眠ることもなく、ぽつりぽつりと話をしながら時間を過ごした。このような折をみては、トリーの興味を推し測りながら、ウレイアはよく自身の経験を語って聞かせた。
自分達の生活や仕事の選び方、生き残る術や時としては戦い方と心構えをゆっくりと説明する。いつかトリーが1人になった時に足りない経験から自らを追い込む事が無いように。
「大分明るくなってきましたけど、結局…あの後は何事も無かったですね?」
「そうね」
そうね、としか言いようがない。言ってみれば通り過ぎたカミナリの様なものだろうか。いつも通りに周りをよく観察し、耳をそばだて情報を集めるしかやれる事はない。まあ謎の敵を想定して行動することはトリーにとっても良い経験になるだろう。
ところで、今朝は馬車の乗客に変化があった。カッシミウから乗車していた、バマー公爵の夫人と娘が下車したらしい。
どう考えたところで昨晩の一件とは結び付かないだろうが例によってトリーがモーリーに聞いたところ、どうやら馬車を乗り換えて早朝に出発したという話だ。
これは予定されていた行動だったようで初めから国境を越える気は無かったのだろう。
あの2人にはウレイアも興味を持って観察していたが、夜の一件から優先度が書き換わってしまったので今は心に留めておくことにした。
カッシミウを出てから丸2日、馬車はようやく国境を越えて、隣国ハルムスタッドに入った。下車する予定の最初の町、クルグスもそれほど遠くはない。人の目を避ける普段の旅とは違ったが、余計な手間を掛けた分は、まあ回収できたとウレイアは思っていた。
ウレイア達は他の乗客に簡単に挨拶を済ませてモーリーに見送られながら馬車から離れ、取り敢えず落ち着けそうな店を探して広場を見まわしてみると
『ブルーベルの花をかたどった紋章の入った馬車…』
落ち着く店を見つける前に、迎えの馬車がすぐに見つかった。落ち着きなく周りを気にしている御者が馬車の前に立っている、まずは彼を安心させてあげた方が良さそうだ。
ウレイアは馬車に近づくと、待ち人を期待して自分を見る御者に声をかけた。
「失礼ですが、マリエスタ侯爵の馬車でしょうか?」
大分長く待たせていたようだが、中年の男は身なりも良く、立ち居振る舞いを見てもただの御者とは思えないものがある。
「ベオリア様とトリー様でいらっしゃいますか?」
「ええ……大分お待たせしたようだけど、少し着るものを買い足したいので、もう少しお待ちいただいてもよろしいかしら?」
荷物が増えるのを嫌ったウレイアは、寝間着の類いは適当なものを現地で調達しようと考えていた。
「もちろんかまいませんが…御差し支えがないようでしたら私共の主人が全てご用意してございます。出来ればそれをお召しいただければ、私共も幸いでございます」
「そうですか…ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ありがとうございます。では、よろしければすぐに出発したいと思いますが?」
「かまわないかしら?トリー」
「はい、お姉様」
「では、お願いします」
そう言うと御者は扉を開き頭を下げる。荷物を手渡すと、促されるまま2人は馬車に乗り込んだ。
馬車は町を抜けると東に連なる山に向かう。
「失礼ですが、侯爵邸まではどのくらいかしら?」
「20分少々といったところでございます」
そう言われて、トリーは聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「にじゅっ、ぷん?」
トリーが戸惑うのも無理はない。ペンズベリーとハルムスタッドでは時間の単位が違っているのだ。
「1時間の3分の1少々ということよトリー。ハルムスタッドでは1時間を60分割しているの」
「左様でございます」
「単位は分、モーブレイでも大きな時計には分針と目盛りがちゃんとあるのよ?」
「はあ?60分割?なぜそんなことを……」
ペンズベリーでは割っても半分、『3時半』などという言い方をしている。
「1日は24時間、1時間は60分。実は遥か昔から存在する時間の概念なのよ。ただ正確に測ることが困難なことと、生活する上で60分割する必要もないでしょう?」
「まったくです」
「まあ、古くは宗教と天文学で使われ、最近では科学や物理学で1分をさらに60分割して秒という単位を作り、その1秒をさらに100分割しようと試みているようね」
「はぁ、ええと……興味が湧きそうも無いので、そういうのは頭の良い人達にお任せします」
「まったくでございますねぇ。私などはもう時代の流れにはついて行けません」
御者もトリーに同意するよう…に見せて、客であるウレイア達を気遣ってこの場を盛り上げようとしているようだ。
「あなたは御者では無いですね?」
「はい、お察しの通りでございます。私は執事の補佐などをさせていただいております。まあ雑務全般が仕事でございますが」
「マリエスタ侯爵家には長いのですか?」
すると男は、少し考え込むように黙ってしまった。
「立ち入ってしまったかしら?ごめんなさいね」
「いえ、ベオリア様は大変慎重な方と伺っておりますし、見知らぬ男を警戒されるのも当然かと思います。私が考えてしまったのは私の父の代から数えた方がよいのか…ということですが、私個人で申し上げれば24年になります」
「そう、ではこの国の事情にもお詳しいのでしょうね?」
「いえいえ、それほどの事はございません」
そう一言付け加えると、少し声のトーンを落として続けた。
「もし、ご興味がおありでしたら、そのようなお話はご主人様か奥様にお伺いするのがよろしいかと思います」
「ふむ、確かにそうですね」
執事補佐は前に向き直ると緩やかな裾野の先にある屋敷を確認して言った。
「屋敷が見えてまいりました。この土地もすでにマリエスタ家の敷地でございます」
男の言葉にウレイアは屋敷を遠目に望む。
「お姉様?」
しかしこの心の変様はなんだろう……?20年あまりの時間、少しくらいの罪悪感は積もらせても平気で過ごしてきたというのに、彼女に近づくほど増す切ない郷愁と僅かなこの時間がもどかしくなる。あまり見たことの無いウレイアの顔はまだ知らないものを怖がりながら手を伸ばす子供の様であった。
「ん?んんっ……なんでもないわ」
どんなに失念していても怠らない『監視』すら忘れて……
キンと…静寂と霊気が空間を支配する大聖堂、灯りは祭壇に灯された無数のロウソクと、見上げる程の天井に張り巡らされた鮮やかなステンドグラスのみで、過剰に金色に彩られた祭壇は室内の無彩色に演出された装飾と相まって、目にした者に神の尊厳を強制させる。
質素ながら重厚な石の祭壇の前には、膝をつき胸に手を当てて祈りを捧げる若い女がいた。
祭壇の両側には出入り口が設けてあり、右手の入り口から現れた聖職者らしき男が祈る女に歩み寄ってくる。
男は少女の姿に息を飲んだ。
白い大理石のような肌に透けて見えそうな白銀の髪、ぴくりとも動かない女はまるで生命を感じさせない。彫像そのものにしか見えなかったからだ。
「し、失礼いたします」
男が畏れながら声を掛けると、閉じていたはずの目がいつのまにか開かれていて男を驚かせたが、女は顔も視線すら動かさずに声を返してきた。
「どうかしましたか?」
「昨夜、また事件がありました。おそらく犯人も同一の者かと思われます」
「そうですか…」
「我々に見つからなかったとは……運だけは良いようですね?」
「運が良い?」
ゆっくりと、静寂の中できしむ音が聞こえてきそうにゆっくりと女は男に視線を合わせた。その目はガラスの玉のように冷たい感情しか発しておらず、男は恐怖で締め付けられたように動くことさえままならない。
「すべては神がお決めになること、私達から逃れるのも理由があったからです。それともあなたは、神がなされる事に異論があるのですか?」
男は凍りついた。15〜16歳か、それくらいにしか見えない少女の限りなく冷たい怒りと眼差しは、この世のものでは無かった。
「おっ、愚かな私をお許しくださいっ」
「かまいませんとも。心配には及びません、神がお造りになった世界を汚す害獣は、その時が来れば間違いなく…苦痛の後に神の御許に送り届けましょう」
冷笑か、氷笑か、しかし少女は人を魅了するには十分な微笑みを浮かべた。
マリエスタの馬車は観音開きの大きな門を通り過ぎると、大きな屋敷の正面玄関で止まった。
玄関の前にはスーツ姿の使用人が立っており、馬車から降りると2人を丁寧に出迎えてくれた。
「ようこそおいで下さいました。ベオリア様、トリー様。私はオリビエ様付きの執事でリードと申します。おふたりを出迎えるよう仰せつかっております。お荷物はその者に……」
「ベオリアと申します、この娘はトリー」
リードは近くにひと気が無くなったのを確認すると、にこりと表情を緩めて声を落とす。
「エルセー様が心待ちにしておられました。お会いできて光栄でございます、ウレイア様」
「!、あなたは……?」
にっこりと笑うこの男はどうやらウレイア達やエルセーの秘密を知っているらしい。
「私はエルセー様がこちらに嫁がれた時、共にマリエスタ家に入りました。元々エルセー様のお世話をさせていただいておりました者です。ウレイア様のお話も、よく伺っておりました」
「そう、それでエルセーは?」
「裏庭のテラスでお待ちでございます。荷物はお部屋へ運ばせますので、そのままこちらへどうぞ」
2人はリードの後に付いてホールから裏庭へ屋敷の中を突っ切って行く。このような大きさの個人所有の屋敷は見たことがない。
「オリビエ様っ、お2人をお連れしました」
テラスのテーブルでこちらに微笑んで座っている女性にリードが声を掛けると、合図を待っていたかのように立ち上がって歩み寄って来た。
「?!」
確かにエルセーだが、ウレイアの知る若い姿では無く、そこには初老の女性が居た。にじむ気品や美しさは当時のままだが。
「まぁ、まぁまぁ、本当に貴女なのね?」
エルセーはウレイアを抱きしめると、その名を囁いた。
「レイ、会えて本当に嬉しいわ!」
エルセーは昔からウレイアのことを『レイ』と呼んだ。師の老いた姿に戸惑いはあってもその腕に抱かれた瞬間に今まで強張っていたものは全て解きほぐされ、知らず知らずに自分の腕にも力が入っていた。
「エルセー……………お久しぶりです」
「ああ……これ程愛のこもった抱擁はいつ以来かしら……元気でいるとは思ってはいたけど、ますます美しくなって」
「オリビエ様も変わらずにお美しいですわ」
もちろん心から思ってのことだが、エルセーは苦笑いを浮かべた。
「年寄りになったでしょう?まぁ、当然よねぇ……あぁ、ごめんなさいね、興奮してしまって。ちゃんとあなたを見せて……」
ウレイアの肩に手を置くと、上から下まで愛でるように確認している。
「本当に…立派になってくれて嬉しいわ」
そしてターゲットはトリーに移った。
「それでっ?貴女がトリーちゃんね?」
「はい、トリーと申します」
トリーが裾を引き上げ可愛らしく挨拶をすると、
「まぁまぁ、抱きしめさせて」
「はい、よろしくお願いします。大お姉様」
「大お姉様…?」
エルセーが目を丸くした。
「はい、お姉様のお姉様は大お姉様ですから」
なるほど!それなら名前を間違えることも無いだろうが、ウレイアがトリーをたしなめようとすると、エルセーがそれを遮ぎった。
「トリー、あなた……」
「いいじゃないの、いいじゃないのっ。お姉様なんて気恥ずかしいけど気に入ったわよ」
エルセーはトリーをくしゃくしゃにするほど抱きしめた。
「まぁ、まあ…ちょっと落ち着いて、お茶をいただきましょう」
あらかじめテーブルには3人分のティーセットが用意されていた。揃ってテーブルにつくとリードが完璧なタイミングで淹れたての紅茶を持ってくる。
「これはっ…!」
ウレイアがティーカップを鼻に近づけると驚いた。そしてトリーはひと口お茶をふくむと感嘆の声を上げた。
「すごいっ、美味しいです!」
エルセーはそんな2人を見て嬉しそうに微笑む。
「気に入った?ウチでは手に入る中でも一番良い茶葉を使わせているの。レイは紅茶が好きだったものねえ?」
「いえ、エルセーには負けますが…私には何よりのご馳走です」
「そう…良かったっ」
最近では少しは手頃になったものの、紅茶は高価な趣向品で、ただ『お茶』と言えば、何らかのハーブティーであることが多い。
ウレイアも紅茶を好んで口にするが、これほどの茶葉は国が管理するレベルのもので、王族やそれに近しい立場にいる者しか口にできない最高級の紅茶だった。
それは交易を生業にするマリエスタだから手に入るものに違いない。
「2人ともお食事は?それとも旅の汚れを落としたいかしら?」
「そうですね、できればお風呂をいただきたいですね」
「そう、では用意させましょう。うちには少し大きな浴場があるから一緒に入ってらっしゃいな」
その言葉にすぐにトリーが興味を示した。
「一緒に?大きな浴場ですかっ??お城みたいですっ!」
「お茶をいただいたらお部屋に案内させるから、まずは汚れを落としてゆっくりとお休みなさい。時間は十分にあるわ」
エルセーとは本当に久しぶりとなる茶会をゆっくりと楽しんだ後、ウレイア達はリードに部屋に案内され、すぐに支度を整えるとそのまま浴場へと案内を頼んだ。
「これはすごいです、お姉様!大きな浴槽にお湯がたっぷりと……っ」
案の定トリーは大はしゃぎにはしゃいでいたが、これ程の屋敷を持てる侯爵とは一体どれほどの資産家なのだろうか?ウレイアの興味を引いたのはネストール・マリエスタの素性だった。
立派な脱衣場が別に仕切られ、至れり尽くせりのサニタリー、何にせよこんな豪勢なお風呂で旅の汚れを落とせるのは有り難いばかりである。
「お…お姉様……ここに高そうな香油が6種類も……何かラベルに同じ人のサインが…………」
素っ裸のままトリーが棚の瓶に釘づけになっている。
「調香師のサインでしょ?何を今更……ウチが使っている香油もオーダーメイドなのよ?まさか商品名だとでも思っていたの?」
「お?ええ、はい…思ってました。だって一本では見比べることが出来ないので……」
「お気に入りが一本有れば十分です」
そう言われるとトリーは持参してきた香油を鷲づかみにしてウレイアに掲げて見せた。
「も、もちろんですっ、これはお姉様が選び抜いた香りっ、その…オリジナルを作らせていたとは知りませんでしたが、ならば尚更これ以上はあり得ません!ですよね?お姉さ…ま……ったら…」
香油の瓶を突き出して仁王立ちしていたトリーはウレイアの一糸まとわぬ姿に気がつくと目が釘づけになる。ガン見である。
「おねえさまったら…相変わらずお美し……」
「はい回れ右……!」
「はっはい!」
「早くお風呂に入りなさい……」
のぼせる程風呂に時間をかけた後は部屋に戻り、ウレイアは数日ぶりの静かな時間を過ごすつもりでいたが、慣れない家のせいかトリーは当てがわれた自分の部屋で1人になる事を嫌がった。
旅の間は不測の事態を考えていつも部屋を分けることはしなかったが、わざんざ説明した事も無いのに彼女なりにちゃんと理解していたのだろう。
トリーはウレイアのベッドでくつろぎ、ウレイアはバルコニーでゆっくり過ごしていたのも束の間、しばらくするとメイドが夕食のお誘いに来た。
ため息の後にウレイアが身なりを整えるためにクローゼットを開けると、そこにはフォーマル、パーティー、カジュアル、ガウン、コートにナイトウェアと、それぞれが何種類と掛けられている。
それを見たトリーは何も言わずにウレイアの部屋を飛び出すと、隣りの自室に駆け込んだ。おそらくはクローゼットを覗いて黄色い声を上げているに違いない。
(まったく…)
ウレイアは呆れてふっと笑うと、濃紺の落ち着いた雰囲気のドレスを選んで手早く身にまとい、白の薄絹を肩に巻いてあしらった。トリーが目移りして目を回していなければよいのだが……
「お姉様っ、いかがですかっ?」
そんなウレイアの心配は杞憂だったようで、思いのほか早くトリーが部屋に戻ってきた。シンプルなごく淡い赤紫色のドレスは堅苦しくも無くトリーのイメージと良く合っていた。
「良く似合っているわよ」
クローゼットにはいくつかのアクセサリーも用意されていたが、2人は技を封じた特別な石…ウレイアは『マテリアル』と呼んで区別しているが、それらをアクセサリーとして常に服の下に身に付けている。そのためこれ以上飾り立てるのは過分な事だろう。
「用意が出来たのなら行きましょうか?」
「はい、お姉様」
2人が部屋を出ると執事のリードが少し離れた廊下で待ち構えていた。
「食堂は初めてでいらっしゃいますので、お迎えにあがりました」
「わざわざありがとう」
「私などが僭越でございますが、お2人とも良くお似合いでございます」
「そう…トリーはともかく、私はサイズから好みまで全てを知られているでしょうしね?」
にっこりと笑みを浮かべると2人を促すようにリードは歩き出した。エルセーが信頼を置いている時点でウレイアは詮索するつもりはないのだが、なぜこの男…人間がエルセーに仕えているのだろうか?まあ、語るべき事ならばエルセーが話してくれるだろう。
案内されたダイニングのテーブルは8人か10人ほどが座れる大きさで、屋敷の大きさを考えるとまた随分と小さめの部屋に通された。
「このダイニングはね、家族だけが使う部屋なのよ」
窓側の席のひとつ、上座の隣には先に席に付いていたエルセーの姿があった。部屋の中にはメイドが2人、1人が支度をし、1人が全体を見守っている。
「2人とも、とても綺麗ですよ」
「ありがとうございます、大お姉様」
トリーの礼に合わせて、ウレイアも会釈をした。
「さあ、お座りなさい。食事を楽しみましょう?」
しかし、気になっていたのは上座に座るべき主人の姿がないことだ。と言うよりこの屋敷に着いてからその姿をまだ見ていない。
「オリビエ様、ご主人はお待ちしなくてもよろしいのですか?」
「ああ…あの人が戻るのは明後日あたりかしらねえ?」
エルセーは呆れたように溜め息をついた。
「仕事の多くは他の国との交易でしょう…一仕事に何日もかかるのよねぇ、家にはいないことが多くて……あなた達のことは話してあったから、2人に会うのをとても喜んでいたのですよ?だから主人に会ったら優しくしてあげてねえ?」
「もちろんです。それに育ての親であるオリビエ様をめとっていただいたのですから、私からもお礼を申し上げなければ」
くすっとエルセーが口に手を当てた。
「まぁ…そうね、そうしてちょうだい」
「はい」
メイドがいる以上、本当の名前で呼び合うことは出来ないが、久しぶりのエルセーとの食事をウレイアは懐かしくも楽しんだ。
「そうそう、食事が終わったら私の部屋に来て頂戴。もう少し、お話しを楽しみましょう、トリーちゃんもね」
気を遣ってトリーがウレイアを見た。
「わかりました、2人で伺います」
「ではリード、この後は私の部屋にお茶とお酒の用意をお願いね。ああ、甘い物も少しね」
「かしこまりました」
確かに、一番近い使用人が自分の正体を知っているというのは都合が良さそうだ。うっかり聞かれたり、見られたりする心配も大分減るだろう。
ウレイアを気遣ってか、メニューは味も繊細な贅沢な物だったが量は抑えられていた。美味しい物を少しだけ、ウレイア達にはこれが一番ありがたい。いや、トリーは物足りない顔をしていたかもしれない……きっとこの後のお茶と『甘いもの』で満たそうと思っている。
「このまま私の部屋に行くということで良いのかしら。それとも一度あなた達の部屋に戻りますか?」
「このままで構わないわよね、トリー?」
「はい、お姉様」
「では、行きましょう」
エルセーの部屋は2人と同じく2階、階段を挟んだ東側に位置していた。
「この2階もそう、あまり他人は泊めないのよ。さあ、入ってちょうだい」
エルセーに招かれて中に入ると、この屋敷とは明らかに違う部屋の雰囲気にすぐに気が付いた。ましてやウレイアが何の感情も抱かずにここに入ることは不可能だ。
「この部屋の内装は……!?」
すぐにウレイアが気がつくとエルセーは嬉しそうに顔をほころばせて言った。
「懐かしいでしょう?」
全てが同じでは無い、しかしこれは、確かにかつてのエルセーの屋敷のリビングがここにある。ウレイアが長く世話になり、時には懐かしく思い出されていたあの家………塗装もされていないが丁寧に磨かれている家具達、一見すると質素だが、実は銘木を贅沢に使った物だと知ったのはエルセーに拾われてから随分たった頃だ。
「この屋敷には似合わない、とは思ったけれどわがままを言って運んでもらったのよ。家具の配置も大体同じでしょう?」
懐かしいテーブルに触れると、ウレイアはいつも座っていた椅子に腰をかけた。
(もう…100年以上経っているいるというのに…)
少し枯れてしまったその感触は、忘れたと思っていたのにすっとひと撫でしただけで、ウレイアの手が木目の感触まで思い出す。
「ではお姉様方が住んでいたお家がそのままここにあるのですか?」
トリーが興奮ぎみに言った。
「そうねえ…リビングともうひと部屋は、概ねね…」
「そういえば……ベッドがありませんね?」
リビングに見立てた部屋の隅、トリーが見回した奥には扉がもうひとつ見える。
「そうよ、あそこが寝室。こんな言い方をして良いものか分からないけれど……レイ、お帰りなさい」
エルセーの言葉にウレイアらしくもなくガタっと椅子の音を立てて立ち上がってしまうが、ウレイアはそんなことも気にせずに扉に向かって歩き出した。
「ちょっと…お、お姉様、寝室はちょっと……」
「いいのよ、トリーちゃん」
ウレイアはためらうことも無く扉を開けて中を見回した。
「私の……部屋」
そこにはウレイアが目覚めて初めて目にした寝室があった。あの時と同じ家具、壁の板張り、さすがに窓の位置は違っているが出来る限り再現されていた。ウレイアの寝室だったあの部屋に……
「もちろんあなたとの思い出も大切にしたかったこともあったけどね。レイ、あなたが使っていた部屋は、あなたが来る前は私の寝室だったのよ」
「お姉様が使われていた寝室ですか?あの、入ってもよろしいですか?」
返事も待たずにトリーが飛び込んで来た。
「ネストールに『貴女の大切なものは私にとっても大切なものです』と言われて、甘えさせてもらったの」
「もしかしたらご主人は…」
ウレイアが言いかけると、誰かがドアをノックした。エルセーが返事を返す間にウレイアは言いかけた言葉を飲み込む。
「お入りなさい」
「失礼いたします」
リードが1人のメイドを伴ってお茶を運んで来ると、テーブルの上にお茶とお菓子が並べられた。
「さあ、2人ともお茶をどうぞ」
取り敢えずウレイアも気持ちを落ち着かせる為にお茶を楽しむことにした。するとエルセーはテーブルについた2人の前にある物を置いてこう言った。
「これをね、2人には渡したかったの……」
エルセーがテーブルに置いたのは小さな金貨のペンダント。ウレイアでも記憶に無い硬貨だ。
「これは、何処の金貨ですか?」
「もう200年以上前の物よ。使われていたのはもっと前だけどねえ。夫にも内緒のコレクションね」
「今ほど力が衰える前にね、作っておいたのよ。危険な予兆があればコインは熱を帯びてあなた達に教えてくれるはず…でもまあ、役に立つかはあなた達次第なのだけど……」
ウレイアにはその言葉を理解できなかった。
(こんなコインに?それに、そんな事が可能なはずが無い。私が集中すれば、未来が見える、そんな簡単なものでは無い…はず。その答えは『あなた達しだい』という言葉にあるのかしら…?)
自分の理解を超えている。ウレイアほど理論派では無いにしても未来を先に『見る』ことなどどんなに無理強いしても叶わないことはエルセーも知っている筈だが……
「それは、予知ですか?そんな事が出来るはずは…」
「だから『あなた達しだい』なのよ。つまり……目に入っていたのに見逃してしまった危険、認識出来なかった異常や有り得ない異変も意識の深いところでは気づいているものなのよ。いわゆる嫌な予感…そう言う時もある、もしくは『信じたくない危機』もある。その、『無自覚の危機感』があるピークに達した時にそのコインが反応する、なのだけど……こればかりは本人の直感や洞察力、経験なんかがおおいに影響するし、その時々の身体や心の調子にも影響を受けるでしょう?だからまあ……効果にはかなり差があるでしょうねえ?」
つまり本人にもうかがい知ることの出来ない無意識下の認識を熱に変えて現実化する。その『心理』と『曖昧』と『不確定』がウレイアの苦手な言葉でエルセーの専門分野である。
「私達が偽装する時の……応用みたいなものですか?」
「そうねぇ、応用というよりは、進化…ね」
ウレイアの何倍もの『もどかしさ』と疎外感にたまらずトリーが割って入ってくる。
「お姉様、大お姉様…すいません、付いて行けてません」
「大丈夫…いいのよトリー、つまりエルセーは他人の心理や行動を読んだり操ることが得意ということ。毎朝祝福の中で目覚めているような幸福な者を……昼前には自殺に追い込むことなど簡単なぐらい…」
「まあまあ…人聞きの悪い。トリーちゃん、レイはマテリアルを使った多段階な大仕掛けが得意でね、その気になればカッシミウのひとつぐらいは消してみせるんじゃないかしらねえ?」
「いえいえ……」
「おっほほほ……」
(あれ…?おやおや……?これは…なんだか知らないけれど怖すぎるー……っ!)
付いていけないと言うよりは付き合っていられない。
「あの、ちょっと…お姉様方?ケンカ?これはケンカなんですか……?だとしたらあの、ケンカは良くない……」
仔ネコがライオンとトラの間に立とうと精一杯の勇気を出して片足を前に出すとライオンがにっこりと笑う。
「いやねえ、トリーちゃん…レイとケンカしたことなんてありませんよ?こんなものねえ、じゃれ合っているようなものよ?」
(じゃ、じゃれ合い?猛獣同士の……?)
猛獣の甘噛みは弱い者には必殺のひと噛みとなる、そんな想像をするとトリーは冷たい汗を感じるのだった。
そしてウレイアは、エルセーと暮らしていた頃のノリをつい出してしまったことを反省していた。20年あまりの時間低度では何も変わらないことに驚きながら……
「んん…っ、ごめんなさいねトリー、変なトコロを見せてしまって……」
「あ…いいええ……とても迫力のあるコミュニケーションでした……はぃ」
少し気恥ずかしそうにすましているウレイアを見てトリーはちょっと得をした気がした。
「いやー、でもお二人が羨ましいです、私なんて得意なモノも無くて……」
「当然よ?生きてきた年月を侮ってもらっては困るわね、トリー。でもね、焦る必要なんて無いのよ?あなたはこれから強くなっていく、もちろんそれは…あなた次第だけどね?」
ウレイアは慰めも気休めも言うつもりは無い、ただ必要なことを教えていくだけだ。
「トリーちゃんだけじゃないわよ?あなたもまだまだ強くなるでしょう。初めから本当に優秀だったものねぇ、私はもう、こうなってしまっては競い合うことも出来ないけれど……」
微笑むエルセーの顔にはさみしさやウレイアに対して少しの罪悪感が滲んでいるように見えた。
「ねえレイ、年老いてしまった私を見て、哀れに思った?」
不意の問いかけにわずかにエルセーと目を見合わせると、長い年月ウレイアの頭の中に巣食っていた感情の正体がつまびらかに現れた。
遠い記憶だった懐かしい家具と再現された寝室、そして老いてしまったエルセー。
今のウレイアの初源であり、故郷であるエルセーが、その力と寿命を削られて瞬く間に消えてしまうかもしれない。その寂しさと不安に惑い続けていたのだ。
彼女の問いにウレイアは静かに首を振る。そして彼女が待ち続けていた言葉を確信した。
「いいえエルセー……」
ウレイアは静かに立ち上がるとエルセーの前で片膝をついて頭を下げた。
「わたしの故郷、我が母エルセー。長年の不敬を今、お詫びいたします。そして、心からの祝福を申し上げます」
エルセーの顔はすぐにくずれて、潤んだ目を隠すように目を閉じた。うつむいたまま浅い深呼吸を何度か繰り返している。
「ありがとう、ウレイア。あなたの祝福は何よりも嬉しいわ…本当に」
「…………」
「まったくお姉様ったら、なさる事全てがお美しいのだもの……」
そしてエルセーとウレイアの時間は、再び動き出した。