2 三人目の弟子
-魔女-
魔女は敵である。
神の敵である。
人の敵である。
獣の敵である。
秩序の敵である。大義の敵である。祝福の敵である。英知の敵である。高徳の敵である。正義の敵である。御霊の敵である。神聖の敵である。
魔女はあなたを惑わし、懐柔し、誘惑し、魅了し、操り、破滅へと導く。
魔女は見目麗しく、天使の様に力を示し、本性は卑しく、残忍に引き裂き、満たされない渇きをあなたの魂で潤す。
魔女の言葉を聞いてはいけない。信用してはいけない。見つめてはいけない。話してはいけない。触れてはいけない。
魔女は敵である。
神の敵である。
あなたの敵である。
これは教会の教典に記された『魔女』に関する記述の序章である——
この港街カッシミウは、およそ150年前、かのモーブレイ・ペンズベリー一世が建国のおりに交易を見越して設けた港町であった。
初めは50人程から始まった部落は30年後には5000人の町となり、徐々に定住者は増え続け、現在では50000人以上が暮らす一大貿易港にまで成長している。その人口も王都には及ばないが商業の中心地でもあることから街の活気は首都モーブレイを遥かに凌ぐ。その発展はペンズベリー王国を下支えする財源でもあり、切り捨てることの出来ない重要拠点となっていた。
そのカッシミウでは最近、妙な事件が毎晩のように頻発していた。カギの掛かった家で親がすぐそばに居たにもかかわらず、小さな子供が忽然と姿を消していく。不審な目撃情報も皆無で、犯人が存在しているのかも分からずじまいのミステリー、やがてこんな噂が囁かれるようになった。『魔女』が夜な夜な子供をさらっている……と。
街は商業の拠点である為に外からの訪問者には自由な出入りが許されていた。それでも治安が保たれていることには理由がある。ここは湾内でも船が接岸出来る希少な立地に築かれていて、一歩湾外に出れば近寄ることさえ危険な断崖絶壁がどこまでも続いていた。それはつまり海から侵攻しようとする敵を阻むための軍事的な重要拠点であることを意味している。
したがって港湾のすぐそばには防衛拠点と兵士の宿舎が建ち並び、常駐している兵士の訓練と有効活用を理由に街のいたる所に警備詰所が設けられた。その数は大小合わせて46カ所、平均人員は12名であるから実に552名の警備兵が24時間の警ら任務で目を光らせている。加えて港の拠点には常に3000名以上の兵士が常駐しており、彼等が自由に街を動き回り、事件が起きれば管轄も関係無く押し寄せてくることを考えれば、まともな悪党は仕事もしないで逃げ出した。
にもかかわらず、である!悪漢共が度胸試しのピンポンダッシュで仕事をするようなこの街で、既に4人の子供が姿を消した。そして、『寝ている間に子供が居なくなった』そのように訴える親たちに警備を統括する発令所はアタマを悩ませていた。痕跡もゼロ、目撃者もゼロ、はたしてこれ程の無理ゲーに犯人はいるのか?
その論争は1分でカタがついた。たとえば犯人も無く子供が自ら出て行ったのなら、カギやかんぬきが掛かったままなのはあまりに不自然だからだ。これはもう尋常では無い、犯人がいるとすれば、壁をすり抜けるのか、外から一度はずしたかんぬきを戻してから去っているのか、その一切を目撃されること無く…である。
とても人間業とは思えない、思えないから人では無い、だからそんな犯人役を押し付けられるのが、人では無い『魔女』となるのである。得体のしれない恐怖は取り敢えず『魔女』が関わっているとされた。神と人の敵であった。
幼な子を持つ親は姿を見せない敵を恐れ、しかし兵士はアタマを悩ます。街と住民の盾となるのが彼らの仕事ではあるが、どうにも相手のイメージが掴めない。もしも神の敵たる恐ろしい『魔女』が犯人だとしても、4000名近い兵士の誰ひとり、それどころか50000人の住人で魔女の体裁を知る者などいないのだ。このままでは沽券に関わるとばかりに見廻りの兵士を増員しているが、詰所の兵士達の戸惑いは隠しようもなかった。
わりと平坦な土地に町を創る時はまず、旅人が往来する街道に向かって大通りを引きましょう。そうしたら将来の町の大きさを想像しながら中心地に広場を設けておきます。この広場と大通りは商業の中心となり、そこから外へ向かって移住者が住居を建てて行くことでしょう。
そんな町のテンプレート通りに中央広場から伸びるウッドランズ通りを外へ15分程歩くと38番警備詰め所がある。通り沿いの町はずれまでを管轄とされているが、見通しが良いせいか広さのわりには兵士が10人と少し心許ないようであった。
「こんにちはっ、トリーさん!」
詰所の前で立番をしていた若い兵士が、通りすがりの少女に声を掛けた。
「まあホープさん、ごきげんはいかがですか?」
あまりにも麗しい少女の笑顔に顔を赤らめた彼はカイル・ホープという。3か月の教練と適正試験、更に3か月の基礎訓練を経て、ここへ赴任してからまだ5ヶ月のルーキーである。階級は1年未満の初等兵、入隊から1年間の任期と訓練を積まなければ兵士としては認めてもらえない。まあ兵士としての業務を一通りは経験した、というところである。
「立番ですかあ…大変ですねえ……」
トリーと呼ばれた少女は見た目は14、5歳くらいだろうか?可愛らしく大きな瞳は尚淡い澄んだライトグレイ、髪は日に照らされて透ける長いプラチナヘアのツインテール、誰かが最も可愛い人形を想像してもこの少女の血の通った麗姿には遠く及ばないだろう。さることながら何より可愛らしいのは『はつらつ』とした笑顔と期待を裏切らない『少女』を地でいく隙の無い仕草である。
そんなトリーの笑顔を見れば、カイルは職務の辛さがふうっと軽くなった。
「かっ、買い物ですか?」
「ええ、夜に食べるものをちょっと」
トリーはかぶせた布をめくって籐で編んだオーバルの籠の中身を見せた。
「ポートハウスのミートパイじゃないですかっ?羨ましいなー、僕の安月給じゃご馳走ですよ」
「うちも同じ。でも女2人しかいないでしょう、量も要らないし食費も含めてヨソよりはあまりお金もかからないから……」
「なるほど……お姉さんもお元気ですか?ええと、ベオリアさん。あまりお見かけしませんけど」
「もちろん元気ですよっ。仕事柄どうしても家に閉じこもったり、何日も家を空けたりで困りますけど」
トリーは少し寂しそうに笑った。
「たしか……美術品とかの、鑑定…でしたっけ?珍しいお仕事ですよね?」
「そうなの、よく呼びつけられてけっこう遠くの街まで行ったりもするんですよ。長くかかりそうなときは私も付いて行っちゃいますっ、助手の顔をしてね」
彼女なりに大人びた顔をして見せる。
「へえ……いやでも、それはそれで楽しそうだけど、女性だけの旅は危険ですから気を付けて下さいね?」
この時代、街を一歩出れば街道は野盗がはびこる無法地帯だった。
「はい、私達も乗り合いの馬車を使ったり、同じ目的地の人達とまとまって行動するようにしています。たまたま兵隊さんとご一緒できる時なんかは本当に安心ですよね?」
「ああ、モーブレイとの間はけっこう行ったり来たりしていますからね、特に最近はここで妙な事件が続いていて、王都との連絡も密になっているはずだし」
例の行方不明事件の話題が出るとトリーは胸の前でこぶしを握って緊張した表情を見せた。
「そうそうっ色んな噂が飛び交っていますけど、一体全体…あれは誘拐事件なんでしょうか?犯人はやっぱりその……魔女、なんですか?」
そう聞き返されると、カイルも困った顔をする。
「いやー、なんとも謎の多い事件で要領を得なくて、犯人がいるとは思いますが…魔女が関わっているかどうかは何とも……でもねえ、まるで神隠しですしね。ああでも、今のところ幼い子供が狙われているようですけど、トリーさんも気を付けて、人さらいであれば若い女性も気をつけた方が良いですから」
「ふうむ……」
トリーはアゴに握りこぶしをあてると、考えるふりをした。
「そう…ですよね。分かりましたっ、これからはひと気の無い所や暗がりには近づかないようにします、それに暗くなってからは出歩かないようにします。でもっなにかあったら大声で叫びますから、助けてくださいねっ?」
「分かっています。その時は全力で我々がお守りします!」
「よろしくお願いします」
トリーは深々と頭を下げた。
「では、私はこれで失礼します。暗くなる前に帰らなくっちゃ」
「そうですね、気をつけて帰って下さい。お姉さんにもよろしくお伝えください。」
「わかりました。ではっ」
くるりと向きを変えると、来たときと同じ方向に向かって歩きだす、やたらときょろきょろしながら遠ざかるトリーをカイルは微笑ましく見送った。
「可愛いなぁ…トリーさん」
しかしカイルは近寄り難くさえ感じていた。
カイルの勤務する警備詰所からしばらく、10分ほど歩くと小振りな家が建ち並ぶ静かな住宅街がある。その中の袋小路の更に奥、何の変哲も無い家の前でトリーは足を止めた。
ドアのハンドルに手を掛けると動きを止めて中を伺うように目を伏せる。ほんの僅かな時間を何かに使って、彼女はドアを開けてその家に入っていった。
中に入って小さなホールからリビングを抜けてダイニングへ
「おかえりなさい、トリー」
籠をテーブルに置いたタイミングで声だけがトリーを出迎えた。その声にぱっと表情を明るくするとトリーは小走りに奥へと向かって行く、奥には書斎兼プライベートリビングがあった。
声のヌシはこの家の女主人、見た目にはまだ20代と若く、ちらちらと輝いて燃えるような緋色の長い髪と、美麗とも言えるキリリとした美しい顔立ちは、他者を寄せつけない気品と威厳を併せ持っている。
彼女はウレイアと言う。そしてこの女こそが、見た目は違うが先ほどまであの貴族をからかっていた張本人である。
ウレイアは暖炉の前に置かれた長椅子に身体を預けながら本を読んでいた。そこへぱたぱたとトリーの足音が駆け寄ってくる。
「お姉様っ!」
トリーは彼女の前で膝をつき、飛び込むようにお腹の辺りに顔を埋めると、上目使いにウレイアを見た。
「美味しーいパイを買って来ましたよ?一緒にいただきましょう!」
ウレイアはトリーの頭をやさしく撫でる、その目には慈愛が満ちていた。
トリーはウレイアの弟子だった、3人目の……彼女は20年ほど前、とある町でうす汚れて彷徨っていた。互いに引かれ合い自分に気づいた時の彼女の泣きそうな顔を…ウレイアは20年たった今でも鮮明に覚えている。自分の境遇を理解できずにうろたえるばかりの彼女をウレイアはそのまま連れ帰ったのだ。
「私はいいわ、あなたいただきなさい……」
「ええーーっ、せっかく一緒にいただけると思っていましたのにいっ?ひとりでは美味しくいただけませんっ」
そうして甘えた眼でウレイアを見つめる。
ウレイアは『3』という意味で『トリー』という仮の名を与えた。彼女には落ち着いてから自分で名前を選ぶように言ってあるのだが、何故かトリーは今だに名前を変えようとはしない。名前だけでは無い、今の自分の運命を理解し受け入れてから先は、全てを自らの意思で選んで生きていくよう言い聞かせてある。しかし彼女はやはり、始めと変わらずにウレイアから離れようとはしなかった。
「しょうがないわね、ワインでも飲みながら頂きましょうか?」
「そうですねっ、のみましょ飲みましょーっ!」
トリーは嬉しそうに立ち上がり、また小走りにダイニングへ向かおうとすると
「あれ?この綺麗な小瓶は何ですか?」
部屋を出る途中で見つけたのは壁際のワインテーブルに置かれた小瓶、例の貴族がウレイアに贈ったローズオイルである。
「例の貴族に貰ったローズオイルよ」
「ローズオイル?なーんか下心がぷんぷん臭うんですけど……」
トリーは小瓶を摘み上げるとガラスが擦れあう音を立てて蓋を開けた。と、途端に濃厚なバラの香りが部屋に拡がった。
「ふわぁーーーっ!何ですかこれっ?まるで満開のバラ園にいるみたいです、お姉様っ」
「それは最も上質なローズオイルだけど、わずか1ccを作り出すのに数千本のバラが必要だと言われているわね」
「ええっ?!すうせん……って、なんて贅沢、いえ不経済なシロモノですかっ!たしかにすごく魅力的…いえ魅惑的な香りですけれど……一体いくらするんだコレ?」
驚いた拍子に蓋を閉めた小瓶をトリーはしげしげと眺めていた。しかし、
「トリー、あなた今、中身を確認せずにフタを取ったわね?」
「あっ!」
トリーは油断していた。しかし『彼女達』にとっては一瞬の油断が自らを危険に晒す。
「あの……すっすいませんお姉様、わたしっ……」
声を荒げて叱るわけでは無い。ウレイアはたしなめる程度に自分の願いをトリーに訴えかける。
「初めて目にしたモノ、得体の知れないモノに不用意に触れてはいけないと言ってあったわよね?まあ、ここに置かれている物だから既に私が安全を確認しているはず…そう思うのは当然だけど、それでも念を押すくらいの警戒心を見せて欲しいの、私の安心と、何よりあなた自身の身の安全のために……」
「お姉様……ごめんなさいっ、わたしお姉様に甘えてました」
「そう、分かってくれればいいの」
ウレイアの『願い』を受け止めたトリーは急にもじもじとはにかみ始めた。
「はい、よく分かりました。お姉様の……私にかけてくださる愛情も…………」
「ん……?」
「ん??」
「え、ええ…そうよ、あなたの身をいつも心配しているわ……」
「うふふ……」
「…………」
何かが歪んで受け止められたような……しかしちゃんと自分の真心が届いているならそれで良い、良いとした。
「でも、お姉様に相応しいとは思いますが、なにかお姉様のイメージとは合わないような……」
「そんなもの使いませんよ」
「え?そうなのですか?」
「そんなものをつけて歩っていたらあの時会っていたのは私ですよ、と宣伝するようなものでしょう?」
「あ…たしかに……」
それこそが油断というものである。
「じゃあ、処分ですね?」
と、ウレイアは更にここで思考を巡らす。
「ふうむ……まあ他に利用できるかもしれないから封印し直して閉まって置くけれど、あなたも使ったりしてはいけませんよ?」
「はいっ、お姉様」
100点満点の返事だ。
「それじゃあこの話しはもうお終いにして、せっかくあなたが買ってきてくれたのだもの、パイを頂きましょうか?」
「はい、すぐにご用意します、お姉様!」
とは言え、彼女達はあまり食事を必要としない。喉も渇けばお腹も減る、しかし普通の人々に比べればその欲求ははるかに少ないものだった。
「いかがですか?ミートパイ」
「ん?美味しいわよ」
「ふふふ…良かった」
トリーは以前の習慣がまだ残っていると思えるところが多々あった。それはそれで悪いことでは無い、むしろつい忘れがちになっているウレイアはトリーを見習うべきとさえ思っている。
「ところで、警備詰所では誰かに会えたの?」
「んぐ、はい、ホープさんにお会いしました」
「あら、あの新人くん?なにか聞けた?」
「はい…でも結局は事件の詳細は分かっていないようで、彼等も戸惑っているようでした。何かを隠している様子も無かったし、もしくは彼までは伝わらない何かがあるのか……」
「そう」
「どうしますか?お姉様」
「ううむ…万が一もあるしねぇ。これ以上の騒ぎになった時に厄介な事になっても面倒だしねえ……」
「そうですよねぇ」
一緒に考えるフリをしながらトリーはウレイアの顔をじっと伺っている。
「仕方がないから調べるだけ調べてみましょうか?ただ……ひとりではカバーしきれないから、あなたにも手伝ってもらおうかしら?」
「もちろんです!あれ?まさかとは思いますが、おひとりでなさるおつもりだったんですかぁ?」
ぷくっと頬を膨らませるトリーを見つめてからウレイアはわざとらしく目を逸らした。
「ううむ……」
「ええっ?お姉様っひどい!」
「冗談よ、頼りにしているわ」
「っもう……」
ウレイアはワイングラスをもてあそんだ。
「冗談はともかく、明日の夜からにしましょう。ただ今回は、あなたには初めてのことを体験してもらうから、覚悟しておいてね?」
「え?ええー……修行モードですか?んん……っでも頑張ります!」
「くす……」
わりと自分のことにはだらしのないトリーもウレイアの為と思うと弱音を吐くことは無かった。かわいいトリーのそんな性格をウレイアは存分に利用している、利用して生きる術を覚えさせてきた。
「ところでお姉様、あとで……おやすみになる前にでも私が書き込んだ『マテリアル』を確かめて頂きたいのですが?」
「いいわよ」
「では…っ、あとでお姉様の部屋にお持ちします。ふふ……」
トリーは事あるごとにウレイアの部屋に入り込もうとする。
「分かったわ、けれどその後は、ちゃんと自分の部屋でお休みなさい?私は今夜もベッドに入るつもりは無いし」
そして隙あらばウレイアのベッドに潜り込もうとした。
「ええー?んん…分かりましたー、でも睡眠不足はお肌に悪いですよー?」
「ちゃんと休息を取っているから大丈夫よ。心配しなくても……」
食事同様に睡眠もあまり必要としなかった。はたしてそれがどのような理由によるものなのかは彼女達自身解らない。トリーは単に以前の習慣に従って眠っているに過ぎないのだ。
翌朝、陽が登ると同時にウレイアが書斎で紅茶を楽しんでいると、寝起き顔をこすりながらトリーが2階から下りて来た。
「おはようトリー」
「んん……おはようございますー、お姉様……」
ウレイアは用意してあったティーカップに温かい紅茶を注いだ。トリーはウレイアの隣に腰を掛けるとまだ眠そうにウレイアにもたれかかる。
「お姉様のベッドは寝心地最高です」
「何言ってるの、あなたのベッドと同じものよ」
「いいえ、ちがうんですーっ」
トリーは力強く主張した。
「満ち満ちていているお姉様のお力が私の身体にも沁みわたって、その上やさしいお姉様の香りに穏やかに眠ることが出来る。私だけの究極のパワースポットなのです」
「?……そ、そう…」
「更にお姉様といちゃいちゃ…ではなくて、ご一緒に眠ることが出来れば私もますます成長すると思いますのに……昨晩は何をされていたのですか?」
「今夜の準備、あとの仕上げはこれよ…」
トリーの前に手に握りこめるほどのガラスの玉が置かれた。
「これ?」
「私の眼が届くのは街の6割ほど…」
「ろっ、6割もっ?凄いです」
粗く『視る』ならば全てをカバーするのは簡単であった。しかしここは……
「残りの4割をあなたが受け持つのよ」
「そ、そんな、私にはそんな…」
「ええ、だから…これを上手に使います」
ウレイアが指差したガラスの玉を睨みながらトリーは摘み上げる。
「う……触れただけで分かります、私が書き込んだものとは密度が違う……もうパンパンです」
「今回はあらかじめ私が隠して置いてある石に干渉しなければいけないから、あなたは私が言う通り正確に、このガラスにイメージを書き込むのよ?」
「え?これに更に?壊れてしまいそうですよ?」
「大丈夫、余裕は残してあるから。まあ、あまり雑念を入れられると割れてしまうかもしれないけれど?」
「ええー?」
急な緊張がトリーに降りかかる、もう眠気も吹っ飛んでいた。
「そんなに心配しなくてもいいわよ?予備もあるから……」
そう言うと同じようなガラスの玉をゴロゴロと出して見せた。
「うえぇー?こ、これはまた…………ううむ分かりましたっ、一回で決めます!」
「そう、あなたなら大丈夫よ。まあ少し落ち着いてから始めましょうか?取り敢えずはお茶を楽しみましょう、一緒にね」
ウレイアの期待通り一発クリアを決めて、トリーは気分上々のまま夜を迎えた。暗闇と共に静まりかえっていく街とは対称的に警備詰所は騒がしくなる、今夜も詰所の指揮を預かる下士官の檄が飛ぶのであった。
「いいかっ、今夜も特別警戒だ!3人ずつ3組みに分かれてそれぞれ、見回り、詰所、仮眠をローテーションで行うっ。事件が片付くまで特別警戒は終わることは無い、全員集中を切らさず我々の義務を心掛けて任務に当たるように。先ずは
ホープ、トリストンにキャボットが見回りだ、何かあったら警笛を吹けっ、もし…もしも魔女と思われる女を見かけたら……手を出さずに逃げて来い、これは全警備兵に許されている。いいな……っ?」
「はいっ」
「はっ」
「はい」
命じられた3人はランタンを手に詰所を出た。
時計の12時を港にすると大通りは12時から6時、ウレイア達の自宅は4時方向の端に位置している。トリーは既に2時方向、中心近くの住宅街に身を潜めていた。彼女は10時から2時の海側を受け持ち、残りは全てウレイアが見張ることにしたようだ。
たったひとりの深夜、トリーは目を閉じて小さく深呼吸をすると丹精込めて書き込んだガラス玉を握りしめた。
その瞬間、玉は手の中でヒビが入り砂の様になって手の隙間からサラサラと流れて落ちていく。それと同時にトリーの頭の中では周囲に存在するすべての物を手で撫ぜているような感覚が徐々に拡がって、やがてウレイアが隠した石と繋がるのを感じた。
次々と他の石とも連鎖的に繋がっていくと、色の無い灰色の世界が光が当たるように一気に拡がっていく。
思わずトリーは手を当てて自分の口を塞いだ。立体的に全ての物を認識していくと、あまりの情報量に頭は痛く熱くなり、気分も悪く不安とパニックに襲われた。
それでもトリーは気を張り、つらい負荷に耐え、懸命に平静を保つ。
「う…つっ、おねえさま、お姉様……っ」
そして一人の不安を振り払うようにただウレイアを呼び続け、苦しんでいる間もずっとウレイアに言われたことを思い返して耐えていた。
「ごめんなさいねトリー、初めてのあなたには辛い経験になるでしょう。でも大丈夫よ、今のあなたならば十分耐えられるし、使いこなす事が出来るから…………………………………………使い方は、あまりにも感覚的で説明することはできないけれど、その時になれば自然に理解できるし、使えるはずよ…………………………………………………………それと、もしそちらに犯人が現れても相手を確認するだけよ?そしてこの木の板を折って私を待ちなさい、いいですね?大丈夫、ちゃんとあなたを見ているから安心なさい」
そして、優しく手を握られた。
初めての経験に徐々に慣れて、喘いでいた辛さも落ち着いてきたトリーは、握られた手の感触を思い出して微笑んだ。
「お姉様はマテリアルも使わずにこれ以上の力を使えるのですね?やっぱり凄いです」
その頃トリーと同じようにウレイアは路地の端に目を閉じて立っていた。
すぐ側を見まわりの警備兵が通り過ぎて行くが、今の2人を人として認識することは出来ない。視界には入るが建物の壁や石ころと同じことで、つまりは姿を消していることと何も変わらないのだ。
これを彼女は古い言葉を使って『wendan』と言っている。しかしその意味は『消える』『見えなくなる』『変わる』『歩く』『出発する』などあまりにも広く、それ故に使われなくなったのかもしれないが、ここは相応しい言葉を探して『隠伏』としたい。
そしてもうひとつ、トリーが今夜初めて経験した俯瞰視とは違う表面走査の様な技、ウレイアが日常的に使用している『触れる』という意味の『ahrepian』これはその目的を表して『監視』とする。大概彼女達が使っている『監視』の技は俯瞰で見下ろす正に千里眼である。しかし俯瞰には不便なことも多く、その欠点を補うためにウレイアは視触とでも言うべき技を自ら編み出した。両方を使い分けることで彼女は幾つもの眼を持っていた。
今、ウレイアはほとんどの力を『監視』に割いている為、『隠伏』にはマテリアルを充てている。街の半分以上をカバーしつつ、トリーの姿も捉えられるよう加減しなければならない。
この辺りは人口も兵士の数も多い為に見まわりも頻繁な様子だ。ほど近い交差点で2人の兵士が立ち止まった。
「まったく、いつまでこんな厳重警戒が続くんだろうなーまったく…まあ、確かにこれだけの警戒の中でなにも手掛かりが掴めないってんだから、妙と言えば妙なんだが、なぁ?」
そしてもう1人はランタンを揺らして辺りを見回しながら、
「もう随分と戦争も無いからなぁ。訓練の意味もあるんだろうさ。それにしても、いやなウワサだよなあ?今回は……」
「ああ?『魔女』が関わってるって話か?どうだろうな……それに万が一魔女に出くわした時はとっとと逃げ帰ってこいって話だが、見たことも無いのになんで魔女だと分かるんだ?」
2人は互いに首を傾げた。
「さあな、とにかく魔女は魔女専門に任せろと言うことだろう?魔女だと確認できれば教会が出張ってくるって話しだ、むしろ今すぐにでもお任せしたいよ、魔女の話は聞いただけでもおっかないしな。天使様でも付いてくれていれば別だが……」
『天使』その言葉にウレイアはピクリと反応した。
「それこそ噂だろ?『願い』や『希望』お伽話の類じゃないのか?」
「いやいや、天使様は存在するらしいぞ?もちろんお目にかかった事は無いけどな」
天使様…無知を愚かと断じることは出来ないが、知りもしないものに希望を抱く人間をウレイアは不快に感じた。が、今はそんなことに気を散らしている時ではない。
(あの子のほうで何も無ければ良いのだけど…)
ベッドで寝返りをうつ子供、見まわりをしている兵士、音も無く地を這うヘビまで、集中の仕方で直に触れているような感触まで伝わってくる。
新たな『監視』の技に身体も使い方にも慣れてきたトリーは、その新たな感覚を楽しめるようにまでなっていた。
「これがお姉様が観ている世界………ぼんやり全体を眺めたり、顔を近づけるようにひとつの物を集中して視ることも出来るのですね?お姉様がその時に分かると言った意味が分かりました」
『監視』と『隠伏』という2つの基本を高いレベルで体験したトリーは、嬉々として自分達が視ることができる世界を堪能している様だった。
ウレイアはこういった機会を待っていた。今回もひとりで十分に対処することは出来たが、この経験を経てトリーも数段階を一気に登ることが出来るはず、そう思っていた。
(これって……普段触ることが出来ないものの感触を楽しめるのでは…?………………………………………ふふ)
彼女達は過去の体験から、基本的に苦痛を拒絶する。自分の欲求や快楽だけを追い求める者がほとんどで、それが当然だと言ってもしようのない理由があった。
それを今日までの教育と訓練で心と脳の許容量を増やし、与えた役割に対する責任感をもって限界を超えさせた。一度経験してしまえば、それは彼女のものになるはずだ。
そして彼女達に最も必要なのは、想像と創造、そして疑わないことである。
しばらくは静かに時間が過ぎた。やがて先程まで地上を照らしていた月灯りを雲がちらちらと遮る様になると、地表にはベッタリと張り付く影がまるで生き物の様に蠢くようになった。街の雰囲気も何か不安を煽られるような空気に覆われていく。
張り巡らした蜘蛛の巣が揺さぶられるのをじっと待つ。ウレイアは息を潜め気配を断ち、獲物を待つ捕食者そのものであった。その狡猾で美しい蜘蛛が薄く目を開けると、彼女を取り巻く空気がざわつきはじめる。
音も無く流れる暗がりを意識するように、街の外れから数人がウレイアの方へ、つまりは街の中心に向かって忍び近づいてきている。
先頭は女、その後ろに周囲を警戒しつつ2人の男が壁づたいに通りを進んでいる。
女は警戒している様子も無く、まるで散歩でもしているように見えた。言ってみれば、無防備な女性を怪しい2人組みが後をつけているかのようだ。
そんな女が足を止めたかと思うと、ふいに路地を折れて息を潜めた。それにならって2人の男も各々近くの暗がりに身をかがめる。すると間を空けずに、行く先の横路から警備兵がその通りに姿を見せたではないか。
そう、彼女は見えないはずの警備兵からその身をかわしたのだ。
単に感が鋭いのかもしれない、あるいは耳が良いのかもしれない。でもこれはウレイアが懸念していたこと、十中八九彼女は同族だ。そう彼女は結論付けた。
(1日目で当たりなんて楽で良いわ。それにしても私の監視にまったく気が付かないところを見ると、それほどでは無さそうね…)
しかし、それだけで侮るほど彼女は愚かでは無い。ただ、今はトリーの方では無かったことにほっと胸を撫で下ろしている、彼女にはもうしばらく新しい世界で遊んでもらうとしよう。
ストーカーを引き連れた女の足取りは迷うことなく住宅街に入りペースを変えることなくカッシミウの散策を楽しんでいるかのようだ。一軒隔てたすぐ隣の通りでは警備兵が目を光らせている、これは運が良いということでは無い、一団との距離を詰めながらウレイアは確信していた。
『監視』のリソースを減らし『隠伏』を強めたウレイアに警備兵の目など意味は無い。たとえ目の前を横切ろうと少し風が頰をなぜた程度にしか感じないだろう。
女はやや歩調を緩めると辺りを見回しながら一軒のドアの前で足を止めた。と同時に、10メートルほど離れていた男2人はやや近づいて、物陰に潜んで周囲を警戒している。
実はウレイアはもう女の直ぐ後ろに立っている、あと一歩前に出れば息がかかるだろう。
(ふむ…これでも気が付かないなんて……)
そしてドアに手を当ててブツブツと呟く様を見て、少しワザとらしくクスクスと笑った。
「!?」
突然尻尾を掴まれた猫のように女が振り返る。その表情に思わず吹き出しそうになったが、そこはもちろんぐっとこらえる。
(若いのね……)
フードからのぞいた女の顔はまだ少女と言っても良いくらいの容姿、見た目はトリーより少し上だろうか?まあ実年齢は分からないが……
目を凝らして辺りを見回しても仁王立ちしているウレイアに気づく様子は無い。少女、いや女は気をとりなおしてドアと対決している。やがてドアをゆっくり開けると、確認しながら家の中へと消えていった。
動かない男達を観察しているとやはり何か合図を待っているようだ。すると少し空いたドアから白い手がにゅっと出て、指で招くような合図を送ってまた消えた。
そのタイミングを見てウレイアはごく小さな水晶のかけらを彼らの足下に放った。すると男達はびくっと震えてその場に硬直し、ヒューヒューと喉を鳴らし動かなくなった。ウレイアは彼等の脳に至る幾つかの神経を軽くつまんだ、見えざる手の様なものと言えばいいだろうか?水晶の効果の範囲内に居る限りもはや彼等になす術は無い。
男達は今、四肢を締め付けられ、口も目も、耳までもふさがれて呼吸以外の何も許されない。いや、不感の世界で不安と恐怖に震えることは許されている。はたして彼等の精神がいつまで悪夢の世界で耐えられるのか、ただウレイアはそんなことを気にもしない。
ストーカーを処理して女の後を追って行くと、家の中は静まり返って住人の寝息しか聴こえない。どうやら住人を目覚めないようにしているようだ。
(ふうん、こんな事は出来るのに……?)
そのまま奥へ進むと、子供の寝ている一室で女は男達が入って来るのを待っているようで、腰に手を当てて子供を見下ろしていた。
「お連れさんは来れないわよ……?」
「ッ!?」
女の息が止まるっ!血相を変えて振り返ると何も無い空間を睨んで固まった。
何も無かった空間をグッと凝視してから瞬きをした瞬間、見失っていたものが姿を現す。黒いヴェールを全身にまとった女っ、その姿に忘れていた息を飲み込むと問うよりも先に左手を見せて凄んだ。
「眠れっ」
すぐに女は言い放つが、ウレイアは軽く手を口にあてたまま黙って立っている。
何故?という思いと危険だと感じた女は次いで脅すように言って睨んだ。
「心臓を潰してやるっ!」
そう言って目に力を込める、おそらくはこの娘の精一杯の力なのだろう。
「まあ、残酷ね……」
それでも空を割って現れたウレイアは胸に手を当ててクスクスと笑って見せる。
「おっお前は、誰だっ?」
自分では成すすべのない脅威、直感でそれを理解した彼女はどうすればこの場から逃げ帰ることが出来るのか、全力で考え始める。
「んー、今度は時間稼ぎかしら?私が誰かなんてどうでも良いのでしょう?」
「!」
しかし、つたないかけ引きで事態を変えられる筈もない。ウレイアから主導権を奪うにはあまりにも若すぎた。
「あなた、戻ってから何年?10年…15年位かしら……?」
「え…?」
女は意外な問い掛けに少し戸惑っている。
「な、なに?」
「ああ、ごめんなさい、これは個人的な興味ね?それより、なぜと聞くならば、なぜ私がここに来たのか…ではないのかしら?」
無防備に近づくウレイアの威圧感に女が後ずさる。
「な、なぜ…ここに来たの?」
そう言った目に殺意が見えた瞬間、わずかな光に反射して女の髪の中から何かがウレイアに向かって放たれた!それをウレイアは掌を向けて虫を払うように人差し指と親指で摘んで止めてみせる。
「毒を塗った針…?今のは良かったわよ、そう、スマートでさっきのよりずっと良かった。なるほど……カンヌキを外したり針を飛ばす程度は出来るわけね………?」
規格外で想定外な現実を見せられた女の目から僅かな希望が消え失せ、抵抗は無意味だと悟らされた。ウレイアは針を放ってじっとりと女を見下ろす。
「さっきの質問の答えだけど…あなたを捕まえるつもりは無いわ」
途端に息を飲んで女が怯えた目をした。
「殺すつもりもありません。すぐにこの街から離れなさい…なるべく遠く」
「な、なんで……」
力では及ばないとは思いつつも、反抗と疑問の意思を目で語っている。
「人間が怯えて、うろたえる姿に少しは満足出来たでしょう?子供は売って趣味と実益を兼ねることが出来る、というところでしょうけれど……」
「え?」
「やめろと言っているわけでは無いし、怒っているわけでも無いのよ?ただもっと学びなさいな、どうせところ構わずこんなことを繰り返しているのだろうけれど、もっと利口になりなさい。そうでないと、長生きは出来ないわよ?」
「??…あ、アンタは一体?」
ウレイアの言葉に困惑し怯えているのか会話はまた振り出しに戻った。
「んん?どうも噛み合わないわね……?まあいいわ、とにかくこの街には私がいる、ここで悪さをするのはおやめなさい、分かった?」
「……」
女は黙ってうなずいた。圧倒されたまま気づかなかったが少し落ち着いてくるとヴェール越しなのに覗いた目は穏やかで、見つめていると澄みきった深い瞳の底に引き込まれてしまいそうだ。
「何?変な顔をして、ちゃんと分かった?」
「へ、へんっ?……分かったよ、アンタのナワバリではもう仕事をしない。でも……」
「でも?」
危険な『副助詞』である。ウレイアの語気が強くなったことを女も敏感に感じ取った。
「わ、悪いことをしなければ来ても構わない、のか……?」
「なぜ?遊興で通っているとでも言うの?」
「え?ゆう……なに?」
「……とにかくダメよ、この街には立ち入らないか、ここで死ぬかを選びなさい」
「だ…………なら…死、いや、もう…来ない」
すがって命を乞うどころか、ためらいながら不可侵を飲んだ少女にウレイアは僅かな違和感を覚えた。
「そう、では〝動かないで〟」
「ッ!!」
ウレイアの言葉を耳にした途端に自分の意思とは無関係に動きを止める。
(なっ?!なに……っこれ……??)
動かない……いや動けない、動いてはいけない、自分のものでは無い強迫観念に強く支配される。
唖然とした表情を見せる彼女にウレイアは小さな水晶のかけらを見せると、右手の中指と人差し指で挟んだ。
なすがままに空を仰いでいる女の頬に左手を添え、反対側の首すじに水晶をそっと押し付ける。
「い?痛…っい……」
「もしも、あなたが私のことを誰かに伝えようとすれば、あなたの首から上は獄炎に焼かれて死ぬことになるわ、よく覚えておきなさい」
「……」
生かされる対価、それと知っていて疑いもせず彼女は受け入れる。むしろなにか大切なものを貰えた…そんな感情さえも感じていた。
「外の2人も連れて行きなさい、まあ少し正気では無いかもしれないけれど。そのあとは、あなたの好きになさい」
「なら私にっ…」
すがるように言いかけた言葉をウレイアの目を見て飲み込んだ。いつの間にか身体も自由を取り戻している。
「私と私の言った言葉を刻みなさい。そしてできれば、長く生きなさい」
静かに離れていくウレイアの姿は瞬きの度に明滅して残像を引きずりながら消えていく。
「待って…わたしはエルシー、まってっ……」
ウレイアの元で起こっていた事件を知る由もないトリーは、疲労を感じながらも新しい『眼』が見せる世界に遊び、楽しみ、高度な『監視』を自分のものにしようとしていた。
「これって……伝う物が無い空中には拡げられないのかしら?私の力不足……?いえいえっ、疑わないこと!方法を見つけるか、自分で創り上げれば良いのです!!」
自分を奮い立たせるためにしゃがみ込んでつぶやいていたトリーが突然立ち上がる。
(あれっ?!)
不審な男が港の方からやって来る。家々を物色するように覗き込みながらコソコソと辺りに目を配り、自分の方へ向かって来る。
(え、えと……コレはやっぱり、当たり…ですよね……?)
トリーはすぐに渡された板を折るが同じタイミングで男の姿が崩れるように消えてしまう。
(はれ?!えっ?これは一体………えーーっ?お姉様を呼んじゃったのにーーー??)
きっと経験不足のせいで見失った。そう考えたトリーは必死で男の姿を探した。
(なんで?どこかに潜り込んだ?それとも………飛んだっ??)
人は飛べない……
それよりきっとウレイアはそれこそ飛ぶ様にこちらに向かっているに違いない。と、必死で男を探すトリーの肩を突然誰かが叩くっ。
(ッ!?きっきゃあああぁぁぁぁーーーっ!!)
あまりの不意打ちに全身の毛という毛が逆立つっ、人生一驚いた!でも何とか絶叫は我慢したっ。
「トリー…私よ!」
「わたっ??わたしさんっ???」
『私さん』なんていない…『隠伏』していたトリーを見つけたのだからウレイアに決まっている。
「おねっ、『私さん』はお姉様っ?」
「え…?ええ、私よ?」
「びっっっくりしたっ、死ぬかと思った、いえ死んだっっ!」
「ちょっと、だいじょうぶなの?いえ、大丈夫よトリー」
人は心底驚くとこんな顔になるんだなあ、無責任にもそんな感想を抱いてトリーを見ていた。しかしへたりこんで胸を押さえている姿にいくら何でも罪悪感が湧いていた。
「ごめんなさいトリー、そんなに驚くなんて……」
謝るウレイアにトリーはすぐにすがりついてきて、
「そ、それより『私さん』っじゃ無くて『お姉様』…いまっ犯人を見つけたんですけどっ消えてしまって、でも女じゃなくって……」
いささかパニックである。
「それは『私』よ、トリー」
「?、え……?『私さん』??」
「あなたが視た『男』は『私』よ、あなたの『眼』を騙したのよ、『私』が!」
「は?騙した??お姉様が…私を???」
人生一番の驚きの後は呆気に取られ、今はちょっと……泣きそうだ。
「私を騙したのですか?からかったのですか……?」
「高度な『監視』でも逃れる方法はあるし、騙すことも出来る。あなたにそれを経験して欲しかったの、でもこんなに驚くなんて…ごめんなさいね?」
「は、はあぁぁーーー」
ウレイアにぶら下がったまま、トリーはまたへたりこんだ。
「お姉様……」
「ん?」
「あたまを撫でて下さい……」
「え?ええ……」
言われるままトリーの頭を撫でる、なでる、ナデル……するとトリーが這い上がってくる。
「ひ、ひどいですーーっ、それって男でも犬でも、自由に変えて見せられることを予め教えておいてくれれば良かったのではない、です…………?あれ??」
ようやく落ち着いたのか、ウレイアが目の前にいることに疑問が湧いてきた。
「あれれ?まだ夜明けには時間があるのにお姉様が戻ってきたということは、まさか…………」
「ええ、この事件は終わったわ」
「ええっ?!またおひとりでっ?……て、まあ…これはしょうがないのか……?」
「でしょうね、でもお疲れさまトリー」
「そうですかー、んーまあいっかー」
結局、ウレイアの思惑通り無事に事件は解決し、トリーは頑張ったし、レベルアップを果たしたし、ひとつを除けば文句は無かった。
「それで犯人は?やはり同属が関わっていたのですか?」
「……ええ、あなたよりも若そうだったけど……」」
それを聞くとトリーの顔は哀憐の情に沈んだ。
「そう、ですか……かわいそうに」
「ちょっと、あなた私がその娘を殺したと決めつけているわね?」
「え?違うのですか?」
「まったく……ちゃんと言い聞かせて追い出してきましたよ、やさしくね」
「そうですか……少し安心しました。でも優しくしてあげる必要はあったのですか?」
「もう帰りますよ」
「え?あ、はいっ」
ウレイアがひるがえるとトリーはその腕にしがみついて歩き出す。そしてちらりと上目でウレイアを見上げた。
「でもお姉様が私を騙すなんて……もう今日は添い寝をしていただかないと眠れそうにありません!」
「?!……もう、じきに夜が明けますよ、それに良い経験になったでしょう?」
「うぬ…………しゅ、修行モードは仕方ないです、だから私も頑張りましたっ。ここはご褒美が欲しいです!」
「ご褒美?一体誰のための修行だと……」
「私は甘やかして伸びるタイプですよ!お姉様っ?」
つまり褒めるだけでは足らないタイプらしい。
「そんなタイプがあるわけ……ん…」
しかし過去を振り返ると一刀に否定できない記憶も……
「ほらほら…今なら膝枕で手を打ちますよ?」
「まったく、夜が明けるまでよ」
「ぃやった!じゃあもう早く帰りましょー」
「まったく…」
「それでそれでっ?ちゃんとこまかく教えてくださいね……」
夜明けにはまだ時間がある……すぐにトリィアを迎えに来たことをウレイアは少し後悔しながら歩いた。