17 追ってくるモノ
エキドナが去った後、ウレイアは監視に注意しながらセレーネを送り届け、トリィアと共にカッシミウを出た。
ハルムスタッドへは2日間のペースで向かい、街道からはわざと1キロほど外れるように馬としてはゆっくりと走らせている。今回、ウレイアは出発する前に事細かな説明をトリィアにしておいた。
「いい?トリィア、エキドナが余計なことをしたせいで対処しなければいけない事が増えてしまったけれど、あくまで目的はエルセーと無事に合流することよ?そしてエキドナが本当のことを言っていたとして、彼女を失った神兵の選択は幾つか考えられるけれど、問題なのはテーミスの元に戻る場合……」
「可能性も高いですよね?」
「そうね、そして昨日明るくなって身代わりが発見されていたとすると、もっとも早く行動したとして、最大で24時間の差があるのかしらね?多分彼らは馬を使うだろうからハルムスタッドに向かったならもう通り過ぎているはず」
「そう、です…けれど」
「そうそう、あとは私達が前を行っていた場合も考えないとね?となると、私達はあまり急がずに馬の休養もかねて定期的に休憩を取りましょう。もし彼等が追いついてくれたら情報を聞き出すか、後をつけてテーミスの所まで案内してもらう……」
「ふむふむ」
「そして、私達が後発だった場合を考えて、ハウィックを過ぎた辺りからは前にも警戒していれば応援に来る神兵、あわよくばテーミスの姿を確認出来るかもしれないでしょう?」
「ん?…ちょっと、ちょっと待って下さいお姉様?つまりは丸2日間、宿はおろか眠らずに常に遠距離監視を続けるということです…か?」
「はい、正解。だから道程がちょっと厳しくなると言ったでしょう?」
「ちょっと?」
トリィアの膝から力が抜けていった。
「ふふ、安心なさい。宿に泊まるのも構わないし、私が全てやるから」
「くっ、いいえっ!もちろん私もお手伝いします。いえ、半分は私が受け持ちます」
そう言うとトリィアは硬く握った拳を天に突き出した。
「そう?それじゃあ交代しながら行きましょうか?」
と、そんな打ち合わせが数時間前、まだまだトリィアは元気に手綱を握っていた。
本当はエキドナの動向も同時に探るため、トリィアをエキドナの尾行に付けるのが抜け目の無い上策に思えたが、上手く立ち回られるとエキドナと神兵8人でトリィアの戦闘力を凌がれてしまうと見積もったため諦めることにした。
「お姉様、大丈夫ですか?そろそろ交代しましょうか?」
「大丈夫よ。3、4日は問題ないわ」
「いー?ば…いえいえ、ええと」
「んー?あなた今、『ばけもの』って言おうとした?」
「ややややっ、とんでもないですよー」
誰でも視界に入るモノ全てを注視していたらすぐに神経がまいってしまう。注意しなければいけないものは限定されているのだから、目で景色をぼんやり眺めるつもりで視ていればそれ程負担にはならないものだ。
それでも脳に負荷をかけ続けることには違いないので徐々に疲労は溜まっていく。それに馬を操り足元を確認しながらの『遠隔監視』は格段に負担も大きくなる。
「この先に小川があるはずだからそこで馬を休ませましょう?」
(はいはい……私じゃなくて馬ですよねー?お姉様はご自分で走った方が馬より早そうです)
「聞こえているわよ、心の声がっ」
「ええ?」
聞こえると言えば……昔からトリィアの得意なことのひとつに動物とすぐに打ち解けるというものがある。
知能が高いと言われる動物ほど得意なようで、聞けば目が合うと彼等の感情が何となく分かると言うのだ。それは飼いならすことや好かれるというものとは違い、どのような動物であっても全く警戒されたことが無く、文字通り打ち解けていると言うのが正しい言いようだと思う。
ウレイアはそんなトリィアに動物を利用する力として鍛えてみてはどうかと聞いたことがあるが、そのときの答えはやんわりとした拒否だった。
「いいことあなた達っ、草をはむのは良いけれど、絶対遠くへ行ってはだめよ。分かった?」
しかし、時が経てばその個性はちゃんと鍛えられているようで、トリィアが同行している時に馬に困らされることは全く無くなっていた。
「こればかりは…貴女には敵わないわね?」
「えへへん!それほどのことわぁ…まあ素直な子は繋ぎませんけど、中には反抗期な子もいますよー?とりあえずお茶いれまーす」
トリィアが機嫌良く入れてくれたお茶をいただきながらも、ウレイアはこの後の成り行きを予測し直していた。
とは言え、分からないことの方が多いのだから、こうして曇り空を見上げて天気を予想するよりも曖昧なものしか思い浮かばないが、多くてもあくまで有限な結果を考えることは出来る。その中の悪いものを回避出来るように今は行動するしかない。
「また、お姉様ったら…監視を続けながら考え込んでいたら、お脳が爆発していまいますよ?」
「爆発?ああ、しそうになることはあるけど?」
「じょっ冗談に聞こえませんよっ、まったくもう。ここはひとつ…」
トリィアはウレイアを招くようにひざ枕を作ってぽんぽんと自分の足を叩いた。
危なく一瞬体を傾けかけたところを踏み止まると
「今は遠慮しておくわ。気が抜け過ぎてしまうもの」
「だーかーらーじゃないですかっ!私が交代しますから、少し休んでください」
「それじゃあ…出発したら代わってもらうわ。私は乗馬を楽しみましょう」
「えー、本当ですか?絶対ですよ?」
そして宣言通り街道の監視を代わってもらうのだが、見通しの良いこんな場所でも息をするように自然に行ってしまう周辺の監視が、トリィアの網に引っかかってしまうのである。
「お姉様!」
そして怒られる。
「周りを視ているだけよ、トリィアお姉様?」
「むーん…」
そんなトリィアお姉様も3時間程すると、
「おねえさまぁー、お脳がぁー……」
「はいはい、休憩しましょう」
すぐ目の前にはハウィックが近づいていたこともあり、2人は休憩のために村の宿屋に立ち寄ることにした。
部屋に入って外套をベッドに広げると、トリィアはすぐにウレイアのひざ枕にへたり込んだ。知恵熱も度を越えてしまうと、本当に辛くて気分も悪くなる。
「お脳がー、熱いですー」
「しばらく休みましょう、すぐに元に戻るわよ」
「うーん、すいませんお姉様。少し休めば元気になりますからー」
トリィアの顔に触れると大分熱がたまっていたようだ。
「どうやら視過ぎていたようね?ぼんやりと眺めていれば良いのに……こんなに無理をして…」
「分かってはいるんですけど、あちこち気になってしまうんですよねー」
「もっと経験を積まないとね、お姉様?」
トリィアは眉を下げるとウレイアに甘えてきた。
「えーん、もっと優しくしてください、もっとおでこに触ってくださいー」
「しょうがないわね」
ウレイアはまだ熱のこもったトリィアの額に手を乗せた。
「んー冷たくて気持ちいいです……」
ここまで来て約半分、日のあるうちにもう少し進めそうだが、トリィアを休ませてあげたいのがウレイアの本心だった。
「進みましょう!お姉様、少しでも早く大お姉様にクギを刺しに行かないと……」
「トリィア…」
諦めたようなウレイアの顔から読み取ったのか、熱も取れたところでトリィアは先に立って進もうとしていた。
「大丈夫なの?無理はして欲しくはないのだけど……」
「ばっちりです。それにここは無理をしなきゃいけないと思うんです。あ、別に今無理をしているわけでは無いですよ?気持ちの話です」
「そう…そうね、でももう少し休みましょう」
日が暮れるまでの僅かな時間もウレイア達は進むことを選んだ。
この空では月が出ることも無いだろう、となれば眠ることはないとは言え、外でじっと夜を明かすことになる。闇の濃い中では自分たちは進めても馬は動けない、無理矢理に引けばゆっくりとは進めても脚を取られて進むどころでは無いだろう。
日暮れが近くなり、辺りを探してみたがやはり猟師小屋すら見つからなかった。
「そろそろ暗くなるわね……」
「このお天気では真っ暗になりますね。目の良いこの子達でも進めないと思います」
「川のそばは冷えるから水を汲んで先の岩場に行きましょう」
「はい」
川に立ち寄った頃には空から闇が覆い被さり始め、川の上流からは水の流れと共に冷たい空気が辺りを呑み込みながら下り始めている。
馬に水を飲ませ、すぐに岩場に移動すると、北風を避けて岩の陰に腰をおろした。
「トリィア、眠っておきなさい」
ウレイアはトリィアを引き寄せて自分の外套に一緒にくるまった。感心したのは馬が2人を守るように囲んですぐ側に座り込んだことだ。
「この子達あったかいですね、お姉様?馬くさいけど!」
「ふふふ、そうね。馬くさいわね」
2人はそっと馬に身を寄せた。
「あとは私が視ているから休みなさい」
「こんな夜に移動はしないんじゃないでしょうか?
「そうね、無理に移動していてもたいまつを使えば何キロ離れていても目で見えるし、方角も分からないでしょうしね。私もそんなに気を張っているつもりはないから」
「では、何かお話ししましょう、お姉様」
「話?どんな?」
夜の闇はなにも恐ろしいばかりでは無い。余計なものを見る必要も無く、自分と自分のすぐそばにいる者だけの世界がそこには存在するのだから。
辺りはふうわりとやさしい香りで満たされている。
『私』は5人の女を後ろにひかえさせ、あのブルーベルの石の玉座に座っていた。目の前には体躯の良い男が一人、膝をつき私の話しを啓示の如く傾聴している。
自分が何者かもぼんやりとしている思考の中で、思い浮かんだのは
(私の名は…ケール……………いえっ違う!これはケールが見ているもの?……夢?)
「アドニス、あなたにこの国を譲ります。ここまで良く立派に育ってくれたわね?」
「はっ、では私は陛下の影武者となり、この国の表の顔として…」
「違います。あなたに王位を継承したら私はこの国を出るつもりです。それと同時にケールの名前も捨てるつもりです」
「は?あ、いえ、それでは陛下の理想が…」
「私はあらゆる手を尽くしてこの国という『器』を創り上げてきた。しかしその成果はあまりにも些々たるものでした。国そのものはまだ大きくできるでしょう……しかし大きくなればあらゆる面で危険は増してゆくばかりで、それに見合うほどの成果は望めそうにない。ましてや世界の隅々まで国を拡げるなど、可能だとしても悠久の歳月が必要になるでしょうしね?」
私……いや、ケールには確固たる決意がある…いいえ、これも違う…決意が伝わってくる……感じる。
「もっとやわらかく、柔軟に形を変えながら世界に広がって行けるような、そんなものを創り上げなければいけませんでした」
「それは一体?」
「おぼろげながら試してみたいことはあります。あなたには申し訳ないけど、その為にこの国の財貨の3分の1と、ここにいる4人は連れて行きます」
「そ、それは…かまいませんがこの国最大の宝は陛下ご自身です。陛下に見捨てられてはこの国の平和も民の安寧も長くは続かないでしょう。!?、……今4人とおっしゃいましたか?」
「ええ、私達が全員居なくなってしまっては、あなたが今言ったように不安が残るでしょう。この国での活動とあなたへの手助けはこのエリスに任せます」
控えていた女の1人がうなずいた。
「ただ政治には基本的に関わりません。あくまで国を護って行くのはあなたですよ?確かなその『眼』は、この国の民の助けになるでしょう」
男はうつむいたままケールの言葉を飲み込むためにしばらく押し黙っていた。
「それでは……これで永遠の別れとなりましょうか?母上…」
「そうね、そうなるかもしれないわね?」
「…っ、分かりました、陛下の忠臣として慎んで拝命いたします。そして私はこの血を絶やすことなく、この国と陛下の民を護ることをお約束致します……貴女は、自分の命すら守れそうになかった私に教育と未来を与えて下さった。どうか、死ぬ時はこの国の王として死に、魂となったあかつきには息子として貴女の元に参じることをお許しください、母上…」
「ええ、待っていますよ」
「ではこの先は、なんの憂いもありません…」
アドニスは私を見つめ、己の悲哀を訴えていた……………………
「…姉様…お姉様っ?」
「ん?んん…おまえは?」
「?!、お…?」
ケールとウレイア、混濁した記憶に、ほんの少し自分の収まるべき外殻が分からなくなっていた。今現実を知らしめるものは、頬にあたる冷たい滴とトリィアの声……
「ああ…トリィア?」
「おねえさまっ!」
「雨が…降ってきたのね…トリィア」
感覚が希薄だった。まだ夢の中にいるのだろうか?ウレイアは意識をこの世界につなぎ止めようとトリィアを抱きしめた。
「眠ってしまったお姉様の気配が急に、まるで他人のようになってしまって…お姉様がどこかへ消えてしまったような…こわかった、こわかったですっ……!」
「ああっ、眠ってしまったの?…大丈夫よトリィア、少し夢を見ていただけだから……」
(今のは私の想像?いえ、たとえ夢だとしても自分の夢とはとても思えない……ケールの考えていることや感情に飲み込まれて自分では無くなっていた。気持ちが…悪い)
ウレイアの脳裏に不意にあの石の玉座が頭に浮かんだ。
(…あの時?あの石に座っていた時、3人で何を話していたのか…思い出せない。記憶にモヤがかかっているようで………あの時に何かを植え付けられた?まさか記憶を他人と共有することなんて出来るはずが無いと思うけど……)
(そもそも何故あそこに座ろうと思ったの?…分からない、これは危険なことなのだろうか?エルセーに会って確かめなければいけないことが…できたわね………)
自己診断をすることで、ウレイアは自分の存在を確認する。
「どのくらい経ったの……?」
「そう、ですね……夜が明けるまでまだ3時間以上あると思いますが…」
「これ以上体を冷やしてはいけないわ。何処かで…雨をしのぎましょう……」
………ウレイアは暗闇を視まわして気怠そうに立ち上がる。
「本当に大丈夫なのですか?夢を見ていたとおっしゃっていましたが、こんなことは初めてで……?」
「大丈夫…大丈夫よ……少し行った所に小さな林があるわ。行きましょう」
馬がつまづく程の完全な闇の中を手綱を引きながら歩く、誰も進めない道も彼女達なら進んで行けた。
「うふふ、まるで地の果てをお姉様と旅してるみたいです」
「ふ、そうね」
林に入ると手頃な枝振りの木をすぐに選び出し、トリィアの外套で低い屋根をかけた。幸い、地面はまだ乾いている。そしてウレイアの外套を地面に敷くと、替わりに荷物の中から大きなブランケットを取り出した。
「ここへいらっしゃい、トリィア」
「はーい」
横に座ったトリィアに体を寄せて一緒にブランケットを巻き付けた。
「そんなに厚みが無いのに暖かいですね?」
「山羊の毛をたっぷり使って密に編んだものだもの、少しの風や雨では通らないわよ。それと…」
ウレイアはブランケットの中で膝を抱えて立てているトリィアの脚の下に手のひらほどの箱を置いた。
「ん?おお……?何ですかこれっ?暖かくなってきましたけど?じんわりと……」
「水晶を石綿で包んで、鉄の箱に入れた物を布でくるんでみたんだけど、家に有った物でパパッと作ったからどうかしら?」
「えっ?じゃあ、今この中で水晶がかっかと燃えているのですか?あのこれ……実験はされているのですよね?」
トリィアは少し脚を浮かせた。
「うん、してないわ!だから熱くなりすぎるようだったら蹴り出してね、燃えるかもしれないから」
「もえっ?」
「火力を弱く調整するのは難しいの」
「えー?んっ?ちょっと熱い?いえでも、まだ…」
トリィアは火だるまの恐怖に耐えるか、蹴り出すのか、ぎりぎりの葛藤をしている。だが、ブランケットの中はまるで暖かいお湯で満たされているようだ。
「うーん、ぬくい、ぬくい…これは歴史を変える大発明です……」
「残念ながら、世には広まらないけどね」
「でも何か嬉しいです…私達の力は人を傷つけるばかりでは無いんですよね?お湯を沸かしたり、暖をとったり…」
「そうね、どんな力も多様性があるけれど、これが正しい使い方かもしれないわね?」
吐く息はまだ白く散っていく季節だが、体も心も寒さなど感じることはない。
「うふふ、こんな状況だけど私は今とても幸せです」
「そう?本当にさっぱりな状況だけど?」
「こんな暗闇で雨が降っていて、冷たい風が吹いていても…お姉様が隣に居て肩を抱いてくれてますから、あの時とは…違って、えへへ」
(あの時……?)
そう言うとトリィアが静かにうつむいてしまった。かと思うと、ひとつ大きく息を吐いて、突然、静かに語りはじめた。
「お姉様、私は…お姉様に会えた13歳だったあの時、大好きだったお父さんと…お母さんを、刺して、殺してしまったんです」
「!……」
「もちろん、自分の意思では無いですよ?…強要されてました……ある男に」
トリィアは硬くなった身体から少しずつ絞り出すように静かに話し続ける。
「あの男は…お父さんとお母さんに言ったんです。『お前達を娘が刺し殺せば…娘は逃してやる』って。信じられるわけなんか…無いのにっ……それでも、ふたりは…」
「トリィア……無理はおやめなさ……」
「私はっ……お母さんにナイフを握らされるのを嫌がって…でも、あの時、本当にほんの少し…自分は殺されるんだと思ったあの時っ、海の水のほんの一滴ほどでしたけど……私は迷ったんです…………っ」
「大好きだったのにっ…お父さんもお母さんも愛してくれたのにっ!…あれが……あれが本当の自分だったなんて……っっ!」
いつまでも彼女達を蝕み続ける記憶…前世と言って良いか分からないが、生まれ変わってまで色あせてくれない恐怖や痛みは、心を深くえぐり続ける抜けない針となって、彼女達に苦痛を与え続けている。
「断言できるわ。それはあなたの心から湧いてきた揺らぎでは無いわ。それは生き物全てが持つ生存本能なのよ?」
強くつよくっ、ウレイアはトリィアを説き伏せるように強く擁護する。
「本当に……っ?…でも、それでも私は許せませんっ。忘れられませんっ。ふたりを殺してしまったことも…」
ウレイアはトリィアの肩を強く抱き寄せて、流れ続ける涙が止まるように、手で両目をそっとふさぐように頭を引き寄せる。
「っ…く、お姉様に出会えて、新しい人生に優しく抱かれても、やっぱり忘れることは出来ません。この痛みはずっとずっと、続くのでしょうか…?」
「その痛みは癒されて…薄れてはいくけど、忘れることも消えることも無いと思うわ……160年生きていてもね」
「癒える…のですか?こんな罪がっ……許されるのですか?」
「ええ。でもこれは……多分自分では癒せなかった。エルセーやあなたの前の弟子達やあなたが、この傷を癒してくれたの、今でもね……………エルセーは怒りと復讐の泥沼から拾い上げて心に刺さった針を抜き、傷から流れる血をぬぐってくれた。2人の弟子も私を誇りと言って、その手で傷を覆ってくれた」
ウレイアは目をふさいだ手をトリィアの胸に押し当てた。
「そしてあなたは…私を癒してもくれるけれど、なにより前に進む力を与えてくれる」
「前に?私が?……前に進むと、どうなるのですか?」
「過去の歩みは遅いのよ。立ち止まっていると追いつかれてしまうけど、ゆっくりでも進んでいれば、捕われることはないの。そしていつか、追うのに疲れて追ってこなくなる」
「いつか……?」
「そう、いつの間にか遠くとおくに離れている。それでも忘れることは出来ないけれど、前に進んでいるうちに…それよりも大切なことが増えるうちに、たまに古傷が疼いて悲しく思い出すくらいには…なったのかしら………?だからあなたも前に進みなさい、私が傷をおさえておいてあげるから。それにきっとエルセーやセレーネもあなたを癒してくれるはず、いえ、あなたも癒しているはず。誰かを癒せば同じだけ、自分も癒してもらえるはずよ?」
「私は、いまだにお姉様に寄りすがって、癒されてばかり…それでもお姉様を癒せているのですか?」
「私にひざ枕をしてくれた時、どうだった?」
「!、癒されました…それに…嬉しかったっ」
「そういうことよ」
トリィアが語る以上のことをウレイアから詳しく聞くつもりは無い。どんなに精一杯に語っても、今のトリィアは全てを語ることはできないだろう。
おそらくトリィアの両親は自分に向けたナイフをトリィアの手と一緒に握りしめて…………
この子は自分と両親、3人分の痛みと苦しみをその心に刻み込まれ、自分を否定し、恥じて生きてきた。
(その男が今も生きているのかは分からない、でもトリィアが望んでくれるのなら、探して、捕らえて、毎日骨を一本づつ砕いてやるのにっ!)
ウレイアの胸に復讐の怒りが込み上げた時、うつむいていたトリィアがふっと顔を上げた。
「……ああ、ありがとうお姉様…私の復讐は今果たされました…」
「!、……え?」
トリィアは全身を預けて黙りこむと、そのまま眠ってしまった。
やがて空が白み始めると、雨を降らしていた雲も散って消えていた。
「お…お姉様、お、おはようございます」
ウレイアが湯を沸かしている間にトリィアは目を覚ました。
「どうしたの?」
「あ、いえ、何か今朝はちょっと……気恥ずかしいような感じで…」
「ん?あなたちょっとこっちにいらっしゃい」
「え?あ、はい…」
ウレイアはキレイなタオルを取り出して水を含ませると、トリィアの頬に残った涙の跡を顔と一緒に拭いた。
「ん…」
顔を拭かれながらも、トリィアはじっと上目づかいにウレイアの顔を見ている。
「お姉様?」
「なに?」
「今、癒されてますか?」
「…ええ、とっても」
「へへ、良かった…」
「はあ、でもあれね…ちょっとエルセーの所のお風呂にでもつかりたいわね?」
「はいっ、私も今、同じことを思ってました。ちょっとでは無くかなりっ」
トリィアを拭いたタオルを自分の顔にあてて考えた。
「今回は屋敷に行くつもりはなかったのだけれど…」
「けれどぉ?」
「ううむ…」
そんなこともあって、再び動き出した後のペースは昨日よりも速くなった。そしてクリエスを過ぎた辺りで、ウレイア達は教会の神兵とすれ違う。
「いい?お前達はこの岩陰から絶対出ちゃダメよ!」
通じているのかウレイアには分からないがトリィアは当然のように馬に指示を出している。
「どうですか?お姉様……」
「もう少し先になるかと思ったけれど、意外に早かったわね。全部で8人…テーミスと思われる者はこの中にはいない、か…」
(エキドナか…エキドナを倒した相手への増援だとしたら…あなた、大分侮られているわね、エキドナ?そして彼女が敵なら…私達に対してはこの程度で倒せるとは思わないはず……だとしたら、やはりエキドナは敵では無いのかしら?)
「まあ、これが全てでは無いかもしれないけれど?」
「はい?」
「まだ後から来るかもしれないということ。気を付けて進みましょう」
「やり過ごしても良いのですか?」
「ええ、先に進みましょう」
その後は他の増援部隊を見かけることは無く、結局テーミスらしき姿も確認することはできなかった。
そしてウレイア達がその後、真っ先に向かった場所は当然……
「何?……2人ともどうしたのっ急に…?」
マリエスタ邸である。
「お風呂を借りに来ました」
「お風呂を貸してくださいっ!」
「まあ……っ?!」