16 師
エルセーが寝室の板張りの壁を手で撫でると、羽目模様に貼られた木板が数枚、剥がれ落ちながらエルセーの手の上に重なった。
その隠された奥行き30センチほどの棚には2つの木箱と封書などの束が1つ収められ、エルセーはその内の1つの木箱を丁寧に取り出すと、ベッドのサイドテーブルの上に静かに置いた。
深い枯れ色と美しい木目のマホガニーの箱の中には100枚余りの古い金貨といくつかの宝石、石ころ、小さなアクセサリーなどが入っている。
それらをゆかしげな眼差しで見るエルセーの目には同時に、オネイロとのかけがえの無い幾つもの記憶が映っていた。
「エルセー、こちらに来て座りなさい。おまえに大切な話があります」
「はい、何でしょうか…オネイロ様?」
まだ幼さの残るエルセーの面差しは、この場面が遠く遥かな過去の思い出の投影であることが解る。
「おまえには準備が出来次第、私から離れて暮らすことを命じます」
「はっ?オネイロ様っ、私に何かお怒りを買うような落ち度がありましたでしょうか?」
問いすがるエルセーにオネイロは微笑んで答えた。
「私を怒らせることなんて、もう何年も記憶にありませんよ。だからこそ…ね。おまえが私の元に来てから15年あまり…この数年はむしろ、私の方がおまえとの生活を楽しませてもらいました。でもね、いつまでもおまえを引き留めておくわけにはいかないでしょう」
「そんな…私にはまだオネイロ様から沢山のことを教えていただきたいのです。ですからどうか…どうかまだ私を側に置いて下さい」
「今思えば、おまえは出来が良すぎて手がかからなかったのが、むしろ残念に感じるわねえ…?良いですか?これからは1日でも早く、ひとりで生き抜く術を身につけるのです。戦って生きる権利と、おまえの幸福を勝ち取って行くのです」
「オネイロ様…」
ぽろぽろと涙を流しながらエルセーは何とか踏み留まる理由を探した。
そんな愛弟子をつらい想いで見据えながら、オネイロは木箱を差し出した。
「ここに、いくらかのお金が入っています、これを使って準備を整えなさい。2ヶ月の猶予を与えます、良いですね?」
エルセーは声をふり絞り、変わるはずも無い返事を確認する。
「お考えを…変えては下さらないのですね?」
「そうよ、でもね…私からひとつだけ、頼みがあります。しばらくの間は、月に一度は顔を見せてちょうだい。そして沢山の話を聞かせてちょうだい。良いことも、悪いことも、ねえ…」
「オネイロ様っ!」
椅子が倒れたことも気にせずに立ち上がるとエルセーはオネイロにすがるように抱きついた。
「まあまあ、なんてはしたない…でも許しましょう。愛しいエルセー、忘れないで、あなたは私の最高の弟子で、最愛の娘よ…」
その時渡された木箱の中の金貨はエルセーにとってただの金貨ではなかった。
それはたまたま金貨の形を為してはいたが、その一枚一枚はオネイロの心と愛情そのもの。いくらかは、自分が貯めていたお金では足らずに仕方なく使ってしまったが、この時ほどモノの本当の価値というものを思い知らされたことは無かった。
だからもし、自分にも愛情をそそげる愛弟子を持つことが出来た時に、その弟子の為に使うべきだと決めていた。
それがなぜ、今もって彼女の元にあるのかと言えば、いつしか国も王もすげ変わり、流通している貨幣も時代と共に変わっていってしまった。とは言え新しい貨幣に変えることを許せずに、結果エルセーの宝となったのだ。
そしてウレイアとトリィアが以前もらった金貨のアクセサリーが、まさにこの中の2枚なのだった。
「良いですか?エルセー、相手を見極めた上で、おまえが勝てないと思った相手には係わってはいけませんよ?特に『天使』と呼ばれるモノには十分気をつけなさい。もしも避けられないのならば、1日でも早く倒してしまうのです」
オネイロは天使と対峙して生き残った数少ない同族である。
「なぜなら彼女等は自ら技をあみ出す向学の興味は薄いようでも、他者の技を感取して成長する速さは尋常では無いのです。私とオイジュが葬った天使は戦っている最中にも私達の技に対応して手強くなっていったのです。今日勝てる相手が明日には強敵に、明後日には手に負えないバケモノになっているかもしれない、それが天使だと覚えておきなさい。無論一番良いのは何も気付かせないことです。力そのものは強くても弱点は同じ、闇に乗じて討つ、騙して討つ、これが最善ですよ?」
オネイロがその身をもって経験して残してくれた天使の様態と戦いの話は、これも今の自分には何よりもありがたい贈り物となった。
自立した後も師からは遠く離れず、言いつけられた通りに長く年月を過ごしたが、やがてオネイロは年を経るごとに老いるようになると、まるでただの人のように…自分達の証明でもある力も体力も弱くなっていった。
「オネイロ様、今日のお具合いはいかがですか?」
エルセーは時間の許す限り、オネイロの元を訪れた。以前ならそんなエルセーを叱りつけているはずだが、一緒にいたいという気持ちが勝って、オネイロもエルセーを叱ることができないでいた。
「変わりありませんよ…不思議なものねえ、今は自分の老いを楽しんでいるわ」
「!っ……今、お茶をお入れします」
エルセーは唇を噛んだ。
「結局、私には何も出来なかった…いえ、諦めてしまったのかしら……?」
「?、何のお話しですか?」
「ケールが飛び出して行ったあの日、私達が孤独な存在になってしまった原因を…私は止めることが出来たのに。許してねぇ、おまえにこんな世界を渡すことになってしまって」
「いえ、ケール様はきっかけを与えてしまったかもしれませんが、いつかはこうなっていたと思います。もちろんオネイロ様には責任などありません。どうか、お気を煩わせぬよう」
「もう私達は自由を手にすることは出来ないのかしら?」
あと何回、自分は師にこうしてお茶を入れてあげられるのだろうか?そしてお茶を入れる度に別れへの時計が進んでいるようで、エルセーは恐怖と悲しみに押しつぶされてしまいそうだった。
「オネイロ様、どうか私の家に来ていただけないでしょうか?私の、その、母として…地元の人間が出入りしていて少しかしましいかと思いますが、そこそこな町ですから住みやすいと思いますし…」
「おまえには人々を惹きつける魅力がありますねぇ。町の中に住むことを選んだのもおまえらしい。でも私はここが…いえ、ここも違かったのかしら……?とにかく、家を変えるつもりはありません」
「?、ではせめて、私がここに住むことを許していただけないでしょうか?」
するとオネイロは最近は見せなかった師としての顔と気迫を見せた。
「なりません。私が死んだ後ならおまえの好きにしなさい。でもそれまでは、ここに戻ってくることは許しませんよ?」
「……わかりました」
それから数年の後、夏が近づき強い陽光に汗ばむようになる頃、エルセーがいつものように師の家を訪れると、
(あら?オネイロ様の気配が無いわ。出かけてらっしゃるのかしら?)
中に入るなり、いつもと違う雰囲気を感じ取ったエルセーに不安が覆いかぶさってくる。
原因を探すように家の中を確認して歩くと、リビングに自分宛の封書を見つけた。直感的に恐怖におののいたエルセーの時間が停止した。感情に支配され胸を叩きつける耳障りな鼓動以外は何も感じることが出来ない。
小刻みに震えながらもやっとの思いで封筒の手紙を取り出した。
(おはよう、エルセー。今日も私に会いに来てくれて嬉しく思います)
(まず初めに、おまえに見たくも無い手紙を読ませることを謝っておきます。察しの良いおまえのことだから、この手紙を見つけた瞬間に、その意味を汲み取っているでしょう。それにおまえに前もって言うと、おまえはぽろぽろと涙を流して私を止めたでしょう?ともすれば自分も一緒に行くと言い出していたかもしれませんね。だからこうして手紙を残すことにしました)
(今になってなぜこんな事をするのかと、おまえは言うでしょう。これには私なりの、私だけの理由がちゃんとあるのです)
(このところ私はずっと考えていることがありました。おまえを育てることに夢中になる前、ケールの行いを何とか清算しようとしていたよりも前、私は長い人生を送っていた中で自分が何を求め、求められているのかを探していたのです)
(それは誰もが抱えるありきたりな探究心でしょう。でも私達は一度死んでも尚、この世界に留まり続けた)
(ただの執念や怨念かもしれません。あるいは人間の生存本能が起こした奇跡なのかもしれません。いずれにしても私は常にその答えを欲していたのです)
(おまえは私の期待に応え思っていた以上の成長を見せてくれました。これ以上おまえに教えることも無くなり、あらためて自分だけの世界に没入するようになると、かつての欲求が蘇ってきたのです)
(おまえと過ごす時間は本当に大切なものです。しかし、このまま死神を待つだけの時間に何の意味があるのでしょう。だから私は残された時間を使って想いのままに生きることを決めました)
(5年か、あるいは50年か、いつまで生きられるかはわからない。でもこの体が動く内は、私はどこまでも進んで行くことでしょう。そしてやがては死に追いつかれ、その場に倒れこみそのまま大地に還ることでしょう)
(これはあなたが思う通り、私の最後の旅です。探究の旅であり、死出の旅でもあるのです。でも今の私は年甲斐も無く心を踊らせています。決して期待しているような旅にはならないでしょう、しかしそれこそが自由の本質だと思いませんか?だからこそ価値があると思いませんか?)
(そして運良くその答えに辿り着くことが出来た時には、私はおまえの元に戻り、辿り着いた答えを教えるつもりです。これは待っていることを願っているわけではありません、私にはおまえが世界のどこにいても、すぐに見つけられる確信があるのです。だからおまえも自分の思うままに、好きな場所で生きていきなさい)
(これが、私の理由と望みです。そしてどのような結末を迎えても、おそらくこの家に戻ることは無いでしょう。ですからここにある全てをおまえに残します。おまえの好きに使いなさい)
(さあ、もう泣くのはおやめなさい、寂しいことなど無いのです。おまえも解っている筈ですよ、こうして文字をつづっている今でも、私の横にはおまえが居ます。そして、この手紙を読んでいるおまえの横にも私が居るのです。いつまでも私達の魂が離れることはありません)
(おまえが私を母親として家に誘ってくれた時は本当に嬉しかった。全てを学び終えた時におまえは私の娘となったのです、最愛の娘にね。愛しているわ、エルセー。そして無事と幸福をいつまでも祈っています)
(愛を込めて 母より)
涙が止まらなかった。止めようとも思わなかった。師が自分の言葉を違えた事など一度も無い。もう会えない、その孤独と痛みは例えようも無く胸を締め付け、涙を搾り続けた。
「うふふっ、なんて…なんて勝手な人でしょう…」
「いつまでも…お達者で…お…母様っ」
初めてそう呼びかけても、応えてくれるオネイロはもういなかった。
(オネイロ様…私も愛しい弟子を育てることが出来ました。もう、あの子以上に愛情を注げる娘がいるとは思えません)
(だからあの子が生きて行くこの世界に憂いを残すことはできないのです)
今でも胸にこみ上げるものを指で拭うと、想いのつまった箱を閉じた。
(あの子を死なせはしない、オネイロ様、私はあの子が創る未来を見たいのです)
(愛してやまない子であるのは間違いありませんが、あの子が私達の未来を変えてくれると思えてしょうがないのです)
(あの子があの森の玉座に座った時にそれは確信の様なものに変わった。おそらくあの石にはケールの何十年にも渡る想いが込められているはず。その玉座の威光とその意味に臆さず腰を掛けるなんて……まるで吸い寄せられているようだった)
(私はその世界を見てみたい。ならばテーミスがどれ程のものかはしらないけれど、軽くあしらって生き延びてみせる。問題は……)
「情報不足よねぇ?」
あれから再度教会を訪ねて慎重にテーミスの情報を集めようとしたが、なかなか情報管理には気を付けているらしく、接触できる教職者には具体的なことを伝えていないようだった。
教会は魔女討伐を誇らしげに公表するのが常だった筈だが、この方針転換がテーミスの支持だとすると、教会内での影響力と狡猾さが想像できる。
せめて、テーミスが本当に『天使』と呼ばれる存在なのか?そして今どこに居るのか?それを知ることが出来れば次を考えることが出来るのだが。
しかしこういった場合には仮想であっても存在するとして行動することだ。そうでないと…やはりと相手を確認した時には、すでに後手に回っているだろう。
エルセーの焦りは増すばかりだった。
ウレイアがエキドナと出会って数日が過ぎると、もう街に精霊が現れることはなかった。彼女が語ったことが真実ならば、テーミスがエルセーのすぐそばにいることになる。
エルセーに限って窮地を招くような失敗をするとは思えないが、テーミスの能力も未知数な状況では、嫌な不安を拭うことが出来なかった。
「お姉様?」
そのせいでウレイアは考え込むことが多くなり、本を開いても全くページをめくらないウレイアは、トリィアに余計な心配をさせていたようだ。
「ん?どうしたの、トリィア?」
「いえ、なんでもないのですが……ええいっ!」
横に座ったトリィアにぐいっと引き倒されると、ウレイアの頭はトリィアの腿の上におさまった。
「いい、いかがですか?」
「いかがですか?あなたねえ…」
「ひっ……」
「良い寝心地に決まっているわ、トリィア」
怒られても喜ばれても、自分の気を紛らわせる事ができればそれで良い。そんなトリィアの気持ちがウレイアは嬉しかった。
「ふうむ、思えば、本当に昔……エルセーに膝枕をしてもらっていたこともあったわね…」
「お姉様がですかっ?」
「あら、私だって幼い頃もあったのよ?」
「あはは……すいません、なんか、逆に大お姉様がお姉様の膝で寝ている方がまだ想像しやすいと言うか」
「それもあった」
「ほっ本当にあったのですかっ?」
「ええ、突然膝を貸せと言われてね。一時期あの人のなかで流行っていたようよ?」
その時の悦に入ったエルセーの顔は今でもよく覚えている。
「お、大お姉様らしい…」
「トリィア…髪は撫でてくれないの?」
「よ、よろしいのですか?」
「手の置きどころにも困っているでしょう?」
「そ、そうですね、では」
初めは恐るおそる、しかしすぐに感触を楽しむように優しく撫で始める。
(なるほど…あの時のエルセーの気持ちも理解できなくはないわね……)
「うへへ…」
「!、何を変な笑い方をしているの?」
「は!すいません、つい……これはもしや新妻の境地なのではと…」
にやにやしながら、まるで毛並みの良い毛皮でも撫でているように、満足げな表情を浮かべている。
「ありがとうトリィア…」
「え?いえいえっいつもお姉様の膝枕には幸せをいただいていますから。こんな枕でよろしければいつでも使って下さい、もう是非ともっ」
「…」
「おや、お姉様?まさか眠ってしまいましたか?」
エルセーの膝枕も優しくて暖かかった。
「あの人が無茶なことをしないか心配だわ」
「あー、お姉様によく似てとんでもないことをしでかしそうですものねー?あ!、お姉様、枝毛がっ…」
撫でたり揃えたり枝毛を千切ったりと、すっかりウレイアの頭はトリィアのおもちゃになってしまったようだ。
「私がエルセーに似ていると言うの?」
「それはもう、無茶しそうなところは特に。おふたりは慎重そうなのにどんなことにも決して引こうとはしませんよね?狡猾で大胆で、凄くカッコいいです」
「…あなたの褒め方はいつも微妙ねえ?」
「そ、そうですか?」
「ふふ、いいのよ。気持ちは伝わっているから……」
このまま、ずっと変わらずにトリィアとこんな会話をするためにも、ウレイアはエルセーを見捨てるわけにはいかない。今何かをしなければ、ウレイアにとっては同義となるし、そのことを後悔した瞬間に彼女は彼女では無くなってしまうだろう。
「仕方がないわね、馬を借りましょうか?」
「え?ああ、ええと…馬車では無くうまですかー」
「ん?あなた乗馬が好きだったじゃないの?」
トリィアは自分のお尻の辺りをさすると
「はい…馬は好きなんですが2日間ともなると、お尻がですね…」
「ああ…なるほどね。でも今回は馬の方が勝手が良いのよね?」
「ですよねー、いいんです。私のお尻は気にしない下さい」
もちろんその程度がダメージになる筈も無いし、せいぜい痺れて違和感を感じるくらいのものだ。
「でも……セレはどうしますか?」
「連れて行くことは出来ないわね。でも……」
その日の夜、セレーネには本当のことを話し、その上で大人しくここで待つようにウレイアは命じた。
「いやだっ!そんなところへ2人が行くなら私も行く!」
「一緒に来てどうすると言うの?足を引っ張って私達を殺すの?それにこれは相談では無く命令よ。嫌だと言うなら私達の関係はこれまでになると思いなさい!?」
「っ!」
セレーネはウレイアの言葉に恐怖した。
「で、でもっ……っ分かり、ました…」
「私を信じなさい……あなたをなおざりにしているわけじゃない、それは解っているでしょう?」
「う、ん…はい…」
「あなたは自分の身が守れるように頑張ること、今はそれが一番大切なことよ」
ウレイアは頰を撫でながら言って聞かせる。理屈で納得させることは出来ても、今はセレーネの気持ちまで汲みとってあげることは出来ない。もしもテーミスと対峙してしまったら、実力も分からない相手から守ってあげる自信がなかった。
既にテーミスと手合わせしたエキドナは、ウレイアやトリィアより実力では劣っているだろうが、同族である彼女にあそこまで言わせる力は決して楽観できないだろう。それでも…負ける気はさらさら無いが。
セレーネはウレイアに挑むような、納得のいかない目をして言った。
「分かった。私はこの街で待ってる…それでお師さま達は、いつ出掛けるの?」
「明日の、朝早くね」
「そ、そんな急に…?それじゃあ、朝また来ます…」
セレーネはそれ以上は何も言わずに、すごすごと帰って行った。
翌朝、ウレイアはまだ夜が開けきらない内に手配しておいた馬を借りると、一旦家まで引いて戻った。
セレーネは大分前から家に来て、黙ってトリィアの支度を手伝っている。
「手慣れたものねセレ、ちゃんと馬に載せやすいように荷物を振り分けて」
「うん…」
「あの屋敷で色々やらされているの?」
「…うん」
セレーネは少し不機嫌そうに、気の無い返事を姉弟子であるトリィアに返すばかりである。
「もう、何をしょぼくれているの?これから出掛けるという時に、そんな顔をお姉様に見せる気なの?」
「…っ、分かってる、わかってるよっ。一緒に行けないのは自分のせいだってこともわかってるよ……よく分からないけど、それでもいらいらするんだからしようがないじゃないかっ?」
「もう……」
それはトリィアにとっても慣れ親しんだ感情だった。自分の弱さからくる劣等感と、追いつけない、置いていかれる不安。
今ではそれを励みにもしているトリィアだが、以前はセレーネのように感情を上手に処理出来ずによくウレイアに甘えていた。いや、今もだが……
「もう、しようのない子ね」
トリィアは優しくセレーネを抱きしめた。
「苦しくて痛いよね?でもその気持ちはとても大切なものなのよ。だってお姉様を慕っているからこそでしょう?」
「…」
「その気持ちを大切にしてね、そうすればセレは自分のなりたいものになれるから」
「フンフン…姉さん?」
「なに?」
「姉さん良い匂い…食べたらおいしそう…」
「はあ?あなたねー犬じゃあるまいし、いや、初めから犬っぽかったしーもう犬でいいんじゃないの?」
「ふんふん……」
「ぬぬぬぅもう、はなれなさいぃー」
「いいじゃないかー姉さん、ちょっとかじらせてよー」
体の力比べでは2人に大差は無い、取っ組み合いになると勝負はつかないし、旅の支度も進まない。ウレイアは外で2人が荷物を持って来るのを待っていたのだが
「何か言い争っているのかと思えば、何をしてるの?あなた達…」
「ああ、お姉様、このワンコを何とかして下さい」
「まったく…トリィア、セレーネ、〝おすわりっ〟」
「はわわ」
「わたしまでー?」
2人を強制的にその場に座らせた。
「もうっ、早く荷物を持ってらっしゃい」
「はーい」
「はい…」
今回の旅はマリエスタの屋敷に行くつもりは無いので洒落た服などは必要ないが、寒いこの時期に野宿の可能性もあるので、必要な物で結構かさばってしまった。
さらに万が一の備えとして、多めのマテリアルとなる石と、そこそこのお金は用意していく。まあ、困ることがあればエルセーを頼らせてもらうつもりでいる。
「トリィア、馬を選びなさいな?」
「はい、そうですねー…」
トリィアが片方の馬と見つめ合っていた時だった。
?!
!
「トリィアっ!」
「はいっ、見られました。しかしこの感じは…」
全員が外に出ている時に見られた。しかも顔も隠していない、ウレイアはすぐに相手に視線を飛ばした。トリィアが気付いた通り、この感じには覚えがある。
「なにっ?なんなの姉さん?」
セレーネは気付いていない。
「エキドナ…」
「お姉様、なんかあの人こっちに向かって手を振ってますけど?」
一本向こうの警備詰め所のある通りから路地に入った辺り、もう一角曲がれば姿が見えるだろう。
「油断しないで、トリィア…セレーネをお願い」
「はい」
ウレイアは一気に周囲200メートルほどをくまなく調べる。それと同時に飛来物に対しての警戒も怠れない。集中して、最短の時間で索敵の処理をする。
自分の感覚とウレイアの所作から何を行なっているのかをセレーネは感じ取ろうとしていた。
ウレイアはすぐに2人を家の中に入れようかと思ったが、周囲に伏兵などはいないようだ。
ウレイアが周囲に目を拡げればトリィアは目の前に、逆の行動をとればトリィアは周辺を監視する。流れるような連携にセレーネは呆気にとられて見ているしか無かった。
「すごい…」
そんな中でトリィアはため息を吐く。
(はあ、やっぱり戻って来た。それもこんなに早く…)
姿が見えると、エキドナはにやにやしながらやって来る。その顔にウレイアとは別の心配をトリィアはしていた。
「お姉様」
「やれやれね、少し面倒なことになりそうね?」
こちらに警戒されていることを知っていながらも、エキドナは足を止めない。
「よお、これが本当の初対面だな。ん?」
「ちよっと!セ…」
突然、トリィアの背中から飛び出したセレーネが、エキドナの前に立ちはだかった。
「ええと?このあいだのお嬢はそっちだろうし…他にも仲間がいたのか?どうなってるんだお宅はっ?」
ウレイアの警戒ぶりをみて思わず飛び出してしまったセレーネだが、エキドナと相対した瞬間、今までとは違って相手の力量がおぼろげながらだが感じ取れるようになっていた。
「くっ…ぐす」
「え?」
今のセレーネには解る、相対したエキドナには敵いそうにない。敵いそうにないのは解るのに、はたしてどれほど強いのか、師や姉よりも強いのか?それがまるで解らなかった。
つまりはそれほど自分と皆んなに差があるとしか理解できない。昨日の夜の一件とも重なってそれが悔しくて、悲しくて、セレーネは溢れそうになった涙を腕で拭った。
「え?俺は…何もしてないよな?」
「もう…ほら、こっちにいらっしゃい」
そんな様子を見かねたトリィアはすぐにセレーネを引き寄せると、頭から覆い隠すように抱きしめた。
「ぐす…姉さ…」
「なんで考えも無しに飛び出すの?」
「だって…でも私もすぐに強くなるから…とりあえず、姉さんくらいに…ひっく」
「とりあえずぅ?…もう、はいはい、だったらお姉様とわたしの言うことをちゃんと聞きなさい。そしてお姉様とわたしを崇めなさい?…奉りなさい!」
エキドナに害意が無いのは予想していたが、セレーネのあまりに軽率なこの行動はちゃんと叱るべきだ。
しかし、これは先ほど明確な指示をセレーネに言わなかったウレイアの失態でもあるし、それになにより、自分の命を盾にしたセレーネの気持ちには応えてあげたいと思った。
「なん、だろうな…俺はまた迷惑をかけたのかな?」
「ふう…それよりあなた、まさか…」
「おお、ちょうど良く身代わりができたんでばっくれてきたぜえ!」
「身代わり?」
「どうしようもない奴が網にかかったんで殺して俺に見せかけたってことだ」
(そんなことをしたら彼等は…しかもこんなタイミングで?)
「あれ?何かまた間が悪かったか?」
そう、エキドナには波風を起こす才能があるようだ。しかし彼女がすることには文句は言えないし、利用するにしてもまだ早い。
「お姉様、これでは…」
「うむ……エキドナ、あなたいつ、どこから逃げてきたの?」
「え?ええと、一昨日の夜、サンデルノから、だけど?」
サンデルノは湾を挟んで対岸の港町だ。
「ここへの脚は?」
「おお…ここへ来る適当な船に紛れ込んだけど、安心しろよ、姿を見られるようなヘマはしないから」
まあ、それはどうでも良いが、つまり夜が明け、丸一日経って見張り役の神兵達はどういう行動を取るのかが問題だ。どちらにしても教会と縁を切ってきたなら尚更気になるのはトリィアだった。
「あの、それで?エキドナさんはなぜここに?」
「んん?まあそうだな…とりあえずモーブレイに戻るつもりだったから通り道のここには顔を出しておこうと思ってさ……」
(!、ああ、なるほど…)
トリィアはあの警備兵を思い出した、そしてほっと胸を撫で下ろす。今度はエキドナが自分も仲間になどと言い出さないか心配していたからだ。
「それより馬なんか用意して何処かにいくところだったのか?えーと…面倒くさいから嘘でも名乗ってくれないか?」
「………家を知っているのに、私達のことは調べなかったの?……まあいいわ、私はベオリア、この子はトリー、以上よ」
「ん?そっちの若いのは?…まあいいか、俺はエキドナだ」
「?……ええ、知ってるわよ」
「ん?まあ名乗られたら名乗り返さないとな。んで?どこに行くんだ?」
「悪いけれど、答えられると思う?」
「んー相変わらず用心深いなあ……まあ、それが正解だけどな。とにかく、どこかで会っても殺さないでくれよ?そっちの名無しの嬢ちゃんは特になっ?」
セレーネは涙目でキッとエキドナを睨んだ。
「大丈夫だよ!俺よりは強くなれるさ、その…おっかない先生を信じてついて行けばな、まあ愚問か……とにかく守ってもらって、その上学べるなんて凄く幸運なことなんだぜ、覚えておけよ?」
「おっかないとは失礼ね。それじゃあ、あなたは…何を信じているの?」
「!…な、なんだそりゃ?そんなもの、俺自身に決まっているだろ!じゃあな、また会いたいな、ベオリア…」
人の名前を捨て台詞のように投げつけてエキドナは去って行った。さて、こうなるとより注意を払って行動しないと……
「あいつは嫌いだ…」
「え?どうしたのセレ?」
「……」
「変な子ね。それでどうしますか?お姉様、中止にして仕切り直すとか…」
「いいえ、予定通り動きましょう。ただし、道程はちょっと厳しいものになったけれど」
「はあぁー、分かりましたー」
「それからセレーネ、ちょっと中にいらっしゃい」
ウレイアに怒られると覚悟をしてびくびくと後ろをついて来る。トリィアがドアを閉めたのを確認すると、ウレイアはセレーネを抱きしめた。
「!?」
「私を守ってくれてありがとうセレーネ。でもね、またあんなことをするのなら私はあなたを側には置いておけない」
「!、あっ、あやまるから、だからっ」
「しぃー…いいのよ、今回謝るのは私の方よ、ごめんなさいね。だけど覚えておいて、今後あのような状況で私に何か指示をされたら、必ず守るのよ?それから指示が無くても自分の身が危険だと感じたら、私を囮にしてでも逃げなさいっ、これは私が死ぬまで有効な命令よ?」
「でも、でも分かってるんだ…もし2人がいなくなってしまったら、もう絶対お師さまや姉さんみたいな人には出逢えない。そしたらもう独りで生きていくのは嫌なんだ、だったら…」
「…」
セレーネは少し身を引いてウレイアの胸に頭を突き当てると
「お師さまはどうしてそんなに自分には厳しいの?」
「厳しい?まさか、甘々よ。これが私の望みだからよ。あなたが一人前になって、誰にはばかること無く月の下を悠然と進んで行ける、それが私の望みのひとつ。だから『セレーネ』と名付けたの…それがあなたの未来よ、あなたはそのためだけに生きなさい、いいわね?」
「はい…」
まずは生き抜くこと、そうしていればやがてそんな時代がやって来ると信じたい。
創っていけると信じて生きたい。