12 セレーネ
首都モーブレイの中央広場は夜明けと共に朝市のような賑わいを見せて、往来する馬や馬車が広場のモニュメントを中心にメリーゴーランドの様に絶え間無く流れ続けている。
とっくに食べ終えた骨付き肉の骨をガリガリと遊ばせながら、そんな人混みを遠巻きに、そして不機嫌そうに睨んでいるのは首都モーブレイの警備の柱石、エズモンド・パーソンズ上級尉官だった。
「その骨はそんなに苦いのかい?」
そんなパーソンズに声をかけてきたのは、護民官の1人である父を持つアンドレアス・バーン子爵である。
「…暇な奴だなアンドレ」
パーソンズは嫌味を言うが、しかし、本来であれば平民の出であるパーソンズが爵位を持つバーンに対しての軽口など許されることではない。のだが、子供時代を悪さで共有してきた経歴を経て、この街では有名なアンバランスコンビが出来上がった。
「まあ、暇さ。所詮は補佐だからね。護民官である父本人が暇なのだから、補佐である私は言わずもがなと言うものさ…。しかし今日はまた、いつにも増して不機嫌そうだな?あまりモーブレイの評判を落とさないでくれよ?」
「ほっとけよ…ああ、不機嫌さ。今日で4日連続だからな」
「ああ…連続窃盗事件か、犯人も手口も謎だな。いや、手口ははっきりしているのか?鍵もかんぬきも役に立たない、目撃者や当然怪我人も出さずに持って行く物は安物ばかり」
パーソンズは噛んでいた骨を放った。すかさず物陰から1匹の犬が飛び出してくると、骨を咥えて走り去っていく。
「なあ、ウチはそもそもお前んとこの管轄でもあるんだ、何か聞いてないのか?」
「『静観せよ』との命令か?さあねえ、こういう命令の理由は大概は秘匿事項だろうな。官長だって理由は聞かされていないだろうさ」
「元はと言えば、あのなんたら枢機卿が出てった夜からだ」
「ヘンリーな…というかなぜ枢機卿がでてくるのかな?」
「こっちも伊達に警備はやってない。教会御一行は入って来たときは47人だった。街の教会に神父を2人置いていったが、出てっていったのは40人、5人を何処かに置いていきやがった」
「そうなのか?」
パーソンズは教会の方を睨みつける、もっとも目つきが悪いせいで睨んだ様に見えたのかもしれないが。
「まあ、おそらく教会の中にいるんだろうが、それ以外には不審な事は思い当たらないからな」
「深い意味など無いのでは?」
「意味が無ければ行動にも表れるわけがないだろう?関係あろうがなかろうが事前に説明が無い以上、疑われてもあっちの責任だ」
「まあ、それはそうだ。でも、あまり教会には首を突っ込むなよ?それから、野良犬は駆除対象だろう?ちゃんと仕事してくれよ」
バーンは上司としての捨て台詞を置いて、人混みに紛れて消えた。
「教会と縁が深いと言えばバマー家だが…身分が違い過ぎるな。それ以前にあれか…執政官である当主が死んじまったからな、公務は誰かが引き継いだ後、か……」
所詮は一兵士である自分にはいかなる政治、いや謀議に参加することは出来ない。平民としては今の立場で天辺と言っても良い。地位にも権力にも興味は無いと自負しているが、しかしこういう時ばかりは、自分の境遇に歯ぎしりをしていた。
「じゃあ2人共、年内は時間切れだから。寂しいだろうけど…我慢出来なかったらウチにいらっしゃい、レイ?」
予定外の追加工事は年の暮れに間に合うこともなく、ウレイアとトリィアは新エルセー邸に見送りに来ていた。
住むのに支障はないが残りの工事は年明け、また折を見て再開されることとなった。もしくはハナから終わらせる気は無かった、とも考えられるが。
「ご心配無く、これで静かに営めます」
「あらあら、憎まれ口で誤魔化しちゃってえ……」
「大お姉様、来年もまた色々と教えて下さいね」
「もっちろん、次回はレイを陥落させる方法を伝授しないとねぇ?」
「おほ、本当ですかっ?むしろこれからお邪魔しても良いですか?」
泊まり仕度に戻ろうとするトリィアを抑えながらため息をついた。まあ、これでしばらくは静かになると思えば文句を言うほどでも無い。
「早く行って下さい…お気をつけて、エルセー」
「あなた達もね。本気よ…何かあればウチに来なさい?」
微笑みに隠された真剣な忠告にウレイアは頷いて答える。少し煩わしいがまた会える。ウレイアは馬車が走り去って行くのを眺めながら、そんなことを思っていた。
「何か家の中の灯りが減ってしまったような気がしますね…」
戻って家に入るなりトリィアがそんなことを言った。
「そう?」
「はい。でもおー、これでまた、お姉様と2人きりですねぇ?」
「…トリィア、あなたに相談があるのだけど」
トリィアは小首を傾げるとすぐににこりと微笑んで言った。
「私はかまいませんよ!」
「?……私はまだ何も言っていないけれど?」
「私がお姉様のなさる事に首を横に振ることはありません。それに多分、エルシーのことですよね?」
その通りだ。最近、何故か妙にトリィアに見透かされるようになった。
「お姉様はいつもおっしゃっているじゃないですか、『私は自分のしたいようにする』って。でもお姉様のしたいことの中に私への相談も入っていたのなら、それだけで私は凄く嬉しいです。お姉様は思うようになさって下さい」
「私に任せると言うのね?」
「はいっ」
「そう……」
ウレイアはトリィアの信頼と期待を裏切ることのないよう深く考えた末に深夜のデアズ邸まで来ると、以前のようにエルシーを誘い出した。
「お師さま?」
「悪いわね」
「何かあったの、ですか?」
エルシーは心配そうにウレイア顔をのぞき込んできた。
「ん……?もしかしてずっと心配させていたのかしら?」
「え?だってこの間は旦那様と真剣な話をしてたし、その後に私に会いに来てくれるなんて…言って下さい、私がやれる事ならどんなことでもするし……」
ふたりが出会ってから1年足らず……。少しはウレイアにもエルシーに対して情を感じるようになっていた。そしてトリィアと同じように自分によせる全幅の信頼と自分を敬ってくれる心からの気持ちはウレイアを無条件に喜ばせる。
「…………」
普段はあまり表情筋を使わないウレイアでもこんな時ばかりはつい心のうちが表に出てしまう。その顔にエルシーは目を見張って…つぶやいた。
「ぉ…お師さま…?やさしくて、女神さまみたいな顔………」
「え?いえ、何を言っているの?そんなことより、あなたに確かめなければいけない事があるの」
「わたしに?なにを、ですか?」
「そうね、あなたがこの街で暮らし始めてまだそれほど経ってはいないけれど…どうなの?普通に生きることは意外に簡単でしょう?」
「え?ああ、はい…まあ」
「これが一番簡単で、安全に生きていく方法よ。まあ、一つところに20年くらいしか居られないのは一緒だけれど」
「歳を取らないから?」
「いえ、歳は取るけれど…ゆっくりとね。でも姿が変わらないなんて不自然極まりないでしょ?」
もしくは常に偽装をして、見た目にふさわしい芝居を続けて生きていくか?エルセーのように……
「もしかして……私の気が変わっていないのかを確かめに来たの?ですか?」
ウレイアは頷いた。
「ならお師さまっ私の気は変わらないよっ、変わるわけがない!」
「そう」
「!、まさか、お師さまの気が変わったのっ?」
あの山小屋でこの子を置き去りにしようとした、あの時と同じ顔をエルシーは見せた。
「違うわ、あなたの意思を確認しただけ。そうね…明日、2時間ほど私につき合えるかしら?」
「?、今日も…もう、急な用事が無ければ年内は休んで良いと言われ、てます。」
「あらそう、ならば丁度良いわ。明日の10時に以前教えた住所の家を訪ねなさい」
「訪ねる?は、はい、分かりました…」
入れば死を招く館、そんな説明をされていた上に、ウレイアの言い方ではその家で誰が出迎えてくれるのかが分からない。エルシーの感情の中では不安が頭ひとつ抜け出ていた。
「お師さま、つき合えと言うなら今からでも構わないよ?」
「いえ、黙って抜け出したことに気付かれても良くないわ、あなたの今の立場を大切に考えなさい。まあ、これもあなたが決めることだけどね?」
「わかりました」
ウレイアは歩み寄って不安を抱くエルシーの頭にそっと手を置いて微笑んだ。
「また明日ね」
「は、はい……」
エルシーは置かれた手に頭を押しつけるように体を寄せてきた。
昨晩は『はい』とは言ったエルシーだったが、死の館に近づくのはやはり不安だった。
この街に来てからはウレイアに頼らず自分ひとりで任期をまっとうするつもりではあったが、会いたいと思ってもあの館には近づかなかった。近づけなかったのは、ウレイアの忠告を恐ろしく、重く受け止めていたからだ。
そんな彼女にとって初めて対峙した小さな死の家は、尚更のこと冷たく禍々しいモノに見えたことだろう。見上げると確かに切り妻の小窓の暗闇に薄らと白いロウソクが見えた。
(ノック、するんだよね?)
エルシーがおずおずと握った手をドアに近づけた時。
「だーれーだーっ?」
「ひっ!?」
驚いて身を引くとバンッとドアが勢い良く開いた。
「どーーーーんっ!!」
「ねっ、姉さんっ!?」
「びっくりしたっ??……て、エルシー…あなたその振り上げた拳をどこに振り下ろすつもりなの?」
エルシーは慌てて拳を左手で隠した。
「でも入ったら死ぬんじゃ?」
「?、ああ…あなたじゃねー、それじゃあ行きましょう。おっと、お手紙をチェックしなきゃ」
「…?」
言われるままにおとなしく、トリィアの後をエルシーがついて行く。
「良かったわね…まぁ初めてあった時から、こうなるような気はしていたけど」
「?、あの、どこに…?」
「ここよ!」
歩いて僅かに100歩程度、ありきたりで何の変哲も無い一軒家の前でトリィアは止まった。
「ここが…お姉様と私の家よ!」
「!!、ここっ、が………?!」
「なによぅ、まさか大きな邸宅でも想像していたの?」
いいや、エルシーにとってそんなことはどうでもよかった。
初めてウレイアに会ってから幾らも経ってはいないが、エルシーにとっては初めてだった強い願いと希望が……この家の中にある。だから宝箱の姿なんて、どうであろうと気にもならなかった。
トリィアが開けたドアの先……外から見ればドア枠に切り取られた室内の薄暗いその景色は、自分が過ごしてきた今までの世界とは違って見えた。
エルシーがその境界線を前に一歩を踏み出しあぐねていると
「ほら、いらっしゃいっ!」
それに気づいたトリィアが、境界線の向こう側からエルシーに自分の手を差し出した。
迷わずに掴んだ手に引かれて、確かに存在した見えない壁を目をしばつかせながら通り抜けると、さっきまで遠く恐ろしげにも見えた暗い世界が、一瞬で鮮やかな色を帯びた。
「ああ……いい香りがする…」
「ん?お姉様、連れてきましたー」
エルシーは呆けて手を引かれるままに奥のリビングに招かれた。
「よく来たわね」
「お師さま……?」
「どうしたの?とりあえず、お座りなさい」
ソファーテーブルの上には既にお茶とお菓子が用意されている。
「でも、さっきの香りとは違う…」
「なに?」
「いっいえ…」
エルシーは迷わずウレイアの正面に座ると、ウレイアの隣りに座って、そそとお茶を注ぐトリィアを見つめている。
「どうぞ……」
「まずはお茶をいただきましょう、エルシー」
お茶の席ではどんな話よりもまずは出されたお茶を一口いただくことが茶の湯の作法というものだ。
「!、美味しい…」
「そう、よかった」
カチャ……
そしてまず口火を切りたい者がカップを置くと良い。
「私が、私の家を教えた意味が…あなたには分かるのではなくて?エルシー」
「うん…でもまだ1年経っていないから勘違いだったら嫌だし」
「私が決めたことよ。もしまだ、嫌だと思うなら…断りなさい?」
「え?」
「あなたが望むなら、弟子入りを許します。今日、この場で」
「っ!、ほんとに?ほんとうにっ?」
やっと聞くことのできた許しの言葉、エルシーは握りこぶしに力を入れ、ぐぐっと身を乗り出した。
「ただし、ここに通うことを許された外弟子です。私はあなたがあなたの『あてど』を見つけられるよう、同族の先達として指導しましょう」
「あ…あてど?」
エルシーがつまづくとトリィアが手を差し伸べてくれる。
「あなたが人生の目標を見つけられるように、先輩として導いてくれるということよ。ちなみにお姉様はあなたを尊重して、凄くへりくだっておっしゃっているのよ」
「!、私なんかを……?」
エルシーは膝の上で両手を固く握って、ようやく辿り着いたひとつ目の『あてど』にいることの喜びを実感した。
「エルシー、お姉様に返事を……」
「あっ!ありがとうっございます」
すっかりメイドらしいおじぎになってしまったが、ちゃんと立ち上がって一礼をした。
「ではお茶の続きをしましょう」
「あの…それで、私は何をすれば…?」
ウレイアはカップを口に近づけながら静かにエルシーの問いに答える。
「私の期待に応えなさい」
「え?」
「あなたに求める見返りは、そのひとつだけ。だから私に師事する以上、みすぼらしい体たらくは許しませんよ?」
(あははー、お姉様が既に鬼モードに)
氷水をかけられたようなトリィアの笑顔にエルシーも怖気づく。
「でも心配はしていないわ。だからあなたを弟子と認めたのだもの、頑張りなさい」
「ほ…良かったわねエルシー?」
「あなたは幸か不幸か、他の同族には出会わずに生きてきたようね。でもねエルシー、私達も…変わらず人間だけど、他の人達とは掛け離れた生き物だと分かっているかしら?私が教えてあげられるのは私たちとその力のありさまだけ。そこから何を見出せるかは、あなた次第なのよ?」
ウレイアの言葉にエルシーはまたしても首をかしげた。
「はい、お師さま……何を言われているのか解りませんっ」
「あ…………そう」
「おお、お姉様、落ち着いてっまだほんの小娘ですからっ、ねっ?」
「?、あなたは何をさっきから一人でうろたえているの?」
まあ、もどかしいと言えばその通りだが、幸いはらはらとエルシーの心配している本人のおかげでこのような初心者講習はウレイアも幾度となく経験してきたことだ。今更そんなことに目くじらを立てることは無い。
「今日はまあ、いいでしょう。さて…互いを認めた以上は名乗らないわけにはいかないでしょう」
はっと、エルシーは緊張して姿勢を正した。しかし真正面で自分を見つめて気高く微笑むウレイアに見つめられた途端、些細な緊張どころかこの世界に生まれてからずっと自分の上にもたれかかっていた黒い雲が一瞬のうちに払い除けられるのを感じた。
「どうしたのエルシー?」
「あ……いま…………」
「?」
「いえ、なんでも…ないです」
そしてみっともなくも、追ってすがってようやくこの人の正面に座ることが許された。
「私の名前はウレイアよ」
当然だがさらりと、あれほど教えてはくれなかった名前をかの人は名乗った。
「っ!!、ウレイアさまっ!」
エルシーは座ったまま跳ねた。
「私はトリィア」
「トリィア姉さんっ…」
(ああ、私は『さま』は付かないんだ、まあ良いですけどー)
エルシーはすっと立ち上がり、おへそに両手を揃えた。
「お待ちなさい……」
「え?」
「それはあなたには相応しくないわ。トリィア…」
「はい、お姉様…」
トリィアは立ち上がってソファーから1歩ずれると、左手を胸に添え、右手でスカートを摘むと、右足を少しだけ下げてうつむき加減に軽く膝を折る。
「トリィアと申します」
ふわっとトリィアのまわりが華やいだ。慌てて見たものが消えてしまう前に、エルシーも後にならった。
「エ、エルシーと申します」
「良く出来ました」
ぎこちなく、頼りない淑女だったが今はそれで十分だ。
「メイドの仕事中はしょうがないけど、それ以外、特にかしこまった場では今の挨拶を通しなさい」
「は、はいっ」
「ふむ……」
ウレイアが満足気にうなずいている。メイドの挨拶は相応しくないと言われ、新しい挨拶を教わっただけなのに、エルシーは自分が生まれ変わったような気がした。
「あなたに名乗った名前は私達の間だけの本当の名前、決して口外してはダメよ?」
「は、はいっ。でも……2人とも綺麗な名前」
「とおぜんですっ。お姉様に付けていただいた女神様の名前なのだから。まあ…トリーも頂いた名前だけど、あれはそう…幼名よ、幼名」
「お師さまにっ?」
羨ましそうにトリィアを見つめて、物欲しそうな目でウレイアを見る。そんなエルシーの目を見ながらウレイアは確かめるように聞いた。
「エルシーと言うのは死ぬ前の本名なのでしょう?」
「死ぬ前?」
またしてもエルシーの答えに疑問符が付いている。
「?」
「?……」
すれ違う受け答えに、思ってもいなかったことをウレイアとトリィアは気がついた。
「エルシー?あなたまさかっ、自分が1度死んだことが分かっていないの??」
「え……私は死んだの?」
突然の死の宣告にまったくついて来れずに、まるで無関心な返事をトリィアに返しているが……いや、存外有り得ない話ではないかもしれない。
意識が無かったり、もしくは何かの突然に死んでしまうと、死を認識できなくても当然ではないかっ。しかも死んだのかと素直に問われると、そもそも自分達が本当に死んだのかさえ疑問に思えてくる、生き物的には死んだと思えるのだが……
「死んだ故に私達の力が目覚めたのよ?でもこれは…あなたにはもっと根本から教えなくてはいけないわね。まあ追々にね」
なるほど、出会ってから今まで、あまりに無知であったり、話が微妙に噛み合わなかったのは、この認識のズレもあったのだろう。だとすれば尚のこと自分や力に対して、探究するほどの興味は湧かないはずだ。
「エルシー、名字は何と言うの?」
「名字なんて無いよ。修道所の孤児院で付けられた名前だから」
「修道所?エクサパティシ教の?」
「そう、です」
「そう……」
ウレイアは数秒考えた。
「では今の名前よりも新しい名前が欲しい?」
「!、はいっ」
「私に付けさせてくれる?」
「うんっ、はいっ!」
大切な名前で無いなら教会に貰った名前などなんの価値も無い。ウレイアはエルシーを見つめながら頭の中のイメージから名前を選び出した。
「『セレーネ』…というのはどうかしら?」
「セレーネ…」
「あなたは月が似合う大人になるわ。だからセレーネ」
「セレーネ……はいっお師さまっずっと大切にしますっ!」
成長したこの娘が満月の下を颯爽と歩く姿が様になっている。そんな景色が浮かんだのだ。
「うんうんっさすがお姉様、美しい名前です。エルシー、セレーネは月の女神様のお名前よ。その名に恥じない女性になりなさい」
「ありがとう姉さん、でもエルシーじゃなくてセレーネって呼んでよっ?」
「あら?」
「ふふ、それはそうね、それにトリィア、妹ができたのだから面倒を見てあげなければいけないのよ?丁度いいから基本的なことはトリィアに教わるといいわ」
「はい?」
薮から棒、晴天の霹靂と言えば大袈裟かもしれないが、誰かに甘えることは特権だと思って生きてきた自分が、人生を左右する程のことを人に教える不安にトリィアは青ざめた。
「お、お姉様?年端もいかない私に何を教えろとおっしゃるのですか?」
「あら?ふうん……あなたの年端もあと何年かすれば4…」
「ひーっ、やめて下さいっ!」
トリィアは両手で耳を塞いだ。
「姉さんは40歳くらいなの?あたしは…にじゅう、ろくかな……?お師さまは?」
「私っ?私は160くらいね。多分……」
想像もしていなかった答えにセレーネは目を丸くした。
「ひゃくろくじゅうっ?そんなに生きられるの?!私もっ?」
「だからそういうことからトリィアは教えてあげればいいのよ。それにしても……いざ聞かれると、もう歳なんて数えるのも面倒なだけね……」
「えーっ?わかりました……その程度のことでしたら」
結局、1人で生きていくとはこうゆうことである。
ずっとひとりだった旧エルシーは、この後も自分と自分の力の理解を深めることが出来ず、世界に置いていかれる孤独を埋めてくれるものを探し続けることになっていただろう。
「では、ゲームをしましょう」
しかし新セレーネにはウレイアがいる。自分を見守って、目の前の暗闇を照らしてくれる師がいる。
そして…かけがいのない大切な人になってくれる。
「ゲーム…ですか?」
「いーえセレーネ、お姉様のゲームを甘く見てはダメよっ?!時には命に……」
すかさずビシっとトリィアの頭にチョップが刺さった。
「かかわるわけないでしょう。さあ、2人とも立って」
「あーっ!分かりました」
鼻歌まじりにトリィアが立ち上がると、セレーネもつられて立ち上がった。ウレイアは一言念を押しておく。
「セレーネ、しっかり立っていなさい」
「は?はい……」
「トリィア、先にやって見せてあげて。まさかとは思うけれど…」
「お姉様、怒りますよ?…セレーネっ!」
「え?」
「〝すわりなさい〟」
セレーネは突然落ちるような感覚に襲われ見えていた景色が勢いよく上へ飛び去っていった。驚いたセレーネの両手は反射的に身体を支えようと勢いよくテーブルと激突するっ!
座りこんで放心したセレーネは得意げに立っているトリィアを見上げた瞬間に、あの町…エダーダウンで再会した時の経験を思い出した。
「これって…」
「ほら、立ってセレーネ、次はあなたの番よ。私を座らせてみなさい」
セレーネはウレイアを一目見ると勢いよく立ち上がった。
「トリィア姉さんっ!」
「はいーっ」
「〝座ってっ〟」
「………ん?」
「〝座ってっ!!〟」
「んん?」
こんな時は得意満面な笑顔がトリィアらしいのだが、その顔には笑顔では無く疑問の色が浮かんでいた、首をかしげて……
「あのお姉様…?私もお姉様意外との経験が無いので、その……」
「あまり感じなかった?」
「あまりというか…」
「まったく…?そう…」
2人の会話に不安を募らせているセレーネにこのゲームの説明をする。
「気にしないで良いのよセレーネ。これは言葉で相手に行動を強制させる練習で、力の強さを測るのにも使うのだけど、あなたは誰かを操る為に『命令』したことなどないでしょう?だから当然の結果なのよ」
トリィアの力は強い。最近では瞬発力では時に普段のウレイアを上回る程だ。とは言え全く影響を感じないというのは、思っていた以上にセレーネが力に慣れていない証拠なのだろう。
「私達の力はね、例えるならば水の流れのようなものなの。水の流れがぶつかり合うと、勢いが弱いか、水量が少ない方が呑み込まれてしまうでしょう?それでも、弱い方も全てを押し流されるわけでは無くて、大抵幾らかの力は相手に届くのだけど……やはりあなたは基本から勉強が必要ね?」
「わ、私には見込みがないの?」
「ん?まさかっ…見たことも無い道具を初めから器用に使いこなせる者などいないでしょう?これは気安めでは無いわよ?」
ウレイアの見立てでは頑固でありながらも素直なこの子の性格、別の言い方をすればとても幼いと言えるが、むしろウレイアはそこに可能性を感じていた。
「セレーネ、あのろうそくに火を灯せる?」
ウレイアは燭台に立つ3本のろうそくを指差した。
「あ、はい」
セレーネが狙いを定めると、すぐに芯の根元から火が立ち上がった。
「おお?3本同時に?」
トリィアが感心したのも無理は無い。火を操るのは基本だが複数の火を生み出すには応用とそれに足る力が必要になる。つまりはセレーネの力の使い方がアンバランスに思えるのだ。
「火を作り出すのに何回練習したの?」
「ええと、すぐです。2、3回?初歩の初歩だと言ってたし」
ウレイアは再認識した、やはり力に関しては未発達。そして思った以上に根が素直なのだろう、出来ると言われればそれを疑わない、しかしそれだけ。
さっきのゲームに関してはセレーネが心理的に目上のトリィアに対して気を遣っていた可能性もあるが、やってみろと言われただけでは、彼女の中では確定事項にはならないということだろう。でもこれだけの素直さはむしろ特質な才能と言えるものだ。
「ふむ、分かったわ。今日のところはこんなものね」
まずは力のイメージを植え付ける。嘘をついてでも良い、とびきりの大木を植えなければならない。それと同時に、今は溢れても方々に流れて散ってしまう水溜りに水路を引く、できるだけ深く広く。そうすれば、まとまらない力の流れをコントロール出来るようになるはずだ。
「そうそう、あともうひとつ。セレーネ、あの石は返してもらうわよ?」
はっとセレーネは首を抑えた。
「その石をそのままにして置くことはね、私のこけんに関わるのだけど?」
『こけん』て何?セレーネの中ではその疑問が先にたつが、それが何か大切なもの、譲れない何かであることは、ウレイアの表情からうかがい察することが出来る。
セレーネは少し考えてから首を抑えて引いていた身を仕方なくウレイアの方へ寄せてきた。
「でも誰かに無理やり喋らされるかもしれないよ?お師さま」
「それで良いのよ…」
「?」
「その時、あなたはもう殺されているかもしれないけれど、その復讐を私は速やかに果たせるでしょう?私はここで待っているだけで良いのだから……私の弟子を奪ったその愚かな者をね?」
「お師さま……!」
ウレイアの後見の下で徒妹となることの意味と必要な覚悟をようやく理解して、セレーネの身体はふるふると震えていた。
ウレイアも師としてその程度の覚悟を持てなければ、誰かを弟子にはしない。
「まあ、その石を取り上げるかわりにこれをあげる」
そのプレゼントを見てトリィアが声を上げた。
「はあ、懐かしいー!」
もう随分前だが、ウレイアはもちろんトリィアにも同じように石を与えた。それは粗削りな水晶のペンダント、弟子に与える最初の石だ。
「もう少しこっちへ……」
ウレイアはペンダントを着ける為に、セレーネの首に腕を回した。
「いずれこの石の使い方を教えてあげるわ……」
ペンダントを着けると、腕を引いてくるついでに首の石を抜き取る。小さな水晶はセレーネの血を引きながらウレイアの手の中に収まった。
「痛っ」
「大切な所は痛めていないはずよ。すぐに痛みも引くでしょ」
セレーネは細く流れる血も痛みも気にせずに水晶を眺めていた。ウレイアは仕方なく首に流れる血をハンカチで拭った。
「ひあっ?」
「!、くす、随分とかわいい声ね?」
「ぬーん、セレーネェ…かわいいじゃないの…」
その後は外弟子としての今後の生活や、世間に対しての身の置き方などを雑談を交えながら説明すると、初日の訪問は終了した。
今日という日はエルシー、いや、セレーネにとってはどう表せばよいのか分からないほど最も喜ばしい日となったが、自分が何者なのかを自分より知っているウレイアの言葉をひとつも聞き逃すまいと真剣に耳を傾けた。
そしてこれからは、何時でもここを訪ねてよいという許しをもらって帰されたが、ひとつひとつをよく考えてから行動するようにとウレイアに釘を刺された。
しかしウレイア邸を出て一歩一歩を踏むたびに喜びが湧き上がってくると、思わず振り返って、まわりも気にせず跳び上がるのだった。
苦笑いしているウレイアに見られているとも知らずに。
「トリィア、もしかするとあの子の力はすぐに私達を超えるかもしれないけれど、驚く必要も無いし、不安に感じる必要も無いわよ?」
「セレーネはそれ程なのですか?」
ウレイアは小さく首を振ると
「いいえ、タイプの違いね。それにすぐとは言っても、20年先の話しかしら?」
「タイプ、ですか?」
「性格と言い換えても良いけれど、私は…たとえばエルセーに言われても自分自身で実感を確かめながらゆっくり成長していく安定タイプ。あなたは…トリッキーな変則タイプ」
「トリッキー?何ですか?そのじゃじゃ馬みたいなー」
「あなたは、崖ばかりの山を登っている感じかしら。何かきっかけを得た時に、溜めていた勢いを使って一気に崖を登るのね。しかもジャンプで……」
「鹿?」
「ぷっ、くすくす…そうねえ、似ているかも?」
トリィアは既に十分な力を持っているが、ウレイアへの依存心が邪魔をしているのか、あまり技を習得することに執着が無い。
特に攻撃技に対しては無意識に抑制しているようで、中々身につかないのがトリィアの現状だ。
「どちらにしても私達は晩成型ね。逆にセレーネはかなりの早熟型だと思う。あの性格からすると、とにかく最初が肝心ね。変にクセが付いてしまうと、それ以上はもう先に進めなくなる可能性があると思うわ」
「あーん、じゃあ私に指導なんて無理です。あの子に何を教えろと言うのですか?」
「そうねえ、答えに困ったら…そう、私達の理想を教えてあげなさい」
「ああ、ええと、何事にも…」
「『何事にも折れず、何者にも屈さず、望む全てを現実のものとすること』あなたにもその力がある。そう言ってあげなさい」
「うーん、なるほど、つまり悲観するような事は言わなければ良いのですね?分かりました」
セレーネの指導方針はまずは洗脳から、悪く言えばだが。そこで間違わなければ最大限に力を引き出せる筈だ。でも考えてみれば、どのようなタイプでもそれは共通しているのかもしれない。
そして指導する者の存在価値は、殆どがそこに集約されているとウレイアは改めて思った。