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バウンド bound  作者: はねとり 諒
1/28

1 なのらない女

 

 今に残る人の歴史の中でありのままの事実を伝える記録が、果たして存在するのだろうか?


 戦いの歴史の中で勝者は敗者を踏みにじり、その存在すらも人々の記憶から消し去ろうとする。


 権利を掴んだ者に不都合な事実は書き換えられ、侵略者は英雄に、清廉な者は愚者に、力の無い者は歴史のそのドキュメントに引っ掻きキズすら残すことが出来ない。


 そんな歴史の奔流の澱みの中で、人が人と生まれついた時から彼女達は存在した。人の時間の流れから取り残された者達……


 たとえ歴史に否定されて自分達の存在を歪められようとも、かけ離れた力を邪悪と拒絶されようとも、己の心を裏切ること無く自由を求めて思うがままに生きていた。


 そしてそれは、もう随分と昔……


 これはまだ、よちよち歩きだった人の文明と文化がようやくしっかりと歩み始めた頃、どこかで人知れず、たしかに織り紡むがれた話しである。






 カチャッ…カチャリと、闇に沈んだ街で鳴いているのは巡回の責務に就く警備兵の足音だけである。闇の恐ろしさを忘れて人が夜にうごめくようになるのはまだずっと先の時代で、『魔』が這い出してくる宵を迎える時、人は扉を閉し、明日も変わらずに陽が昇る事を神に祈り、家族と共に眠りに就く。


 ペンズベリー王国の首都モーブレイ、これ程大きな街ならばしばらくは『ランタン持ち』が道を照らす灯りを手に街かどで立っているが、それも陽が落ちてから数刻の間だけ、彼等が引き上げた後には月あかりだけが色の無い世界を浮かび上がらせる。それこそ全てが青白く包まれて、この世が裏返ってしまったことを実感させた。


 街並みは城壁に囲まれた城を中心に拡がり、城に近い建物ほど堂々たる屋敷が建ち並ぶ。そんな特権階級の邸宅の中にバマー家別宅はあった。


「う…むう……」


 その屋敷の一室で、初老の男が深夜に目を覚ます。どうやら夢見が悪かったのか窓から差し込む月の明かりに額の汗が浮かび上がった。


 男はうつむいたまま静かに息を整えると少し考えて、天井から下がる金と白で紡がれた組み紐を手で探ると2回引いてため息を吐いた。するとしばらく置いて……


 コンコン……


 続きの間のドアをノックして現れたのはナイトガウンを羽織った目付きの鋭い中年の男である。


「どうかなさいましたか?ヴィンセント様……」


「うむ、今は何時頃だ?」


「はい、2時を回ったところでございます」


「そうか……」


 深夜2時、ヴィンセントと呼ばれた男はバマー家当主ヴィンセント・バマー公爵、モーブレイ王国の執政官を務める誉れ高い名家の重鎮である。


 ランタンの僅かな灯りに照らされたヴィンセントは顔をしかめて重い口を開いた。


「ふうむ…すまないがこれから屋敷に戻る、支度を頼む」


「?!、これからでございますか?もとより…明日には戻る予定でしたので支度は整えてございますが……早朝のご出立では遅うございますか?」


「うむ、悪いがすぐに出たい」


「……かしこまりました」


 従者と思われる男は主人の様子を見て不満気な様子を見せることも無くこうべを垂れるとドアを閉じた。建国以来の公爵家ともなれば自分の所領と屋敷は別に在る、ここはあくまで職務に勤しむ為の別宅であった。






 屋敷は急に騒がしくなり深夜に点々と明かりが灯る、その擁壁の月灯りも届かぬ深い影の中に黒い陽炎の様に人の影が揺らめいていた。凝視するほど意識からするりと抜けて落ちてしまいそうに淡く頼りなく、フードを被っていた様な影は気づくとやはり、闇に溶けてスッと失われた。






 身支度を済ませてヴィンセントが出る頃には、4人の騎兵を伴って4頭立ての馬車が用意されていた。用意されていたがさすがに馬の機嫌は良くないようだ。


「兵士4人に4頭立てとはまた、大仰ではないか?」


「しかし今は微妙な時期で御座います。万が一を考えればこれでも最低限かと……」


 ヴィンセントの問いかけに従者の男は強く答えた。その忠心を拒むほど彼は狭量では無い。


「そうか……」


 重厚な馬車に塗られた深い紺碧色はバマー家の象徴である。更に黒の縁取りと磨かれた真鍮の装飾が控えめながらも持ち主の品格と権力を物語り、そして矢も槍も通さぬ堅牢さを開かれた扉の厚みからうかがい知ることができる、ただの金持ち用の馬車では無い。


 バマーと共に乗り込んだ従者は窓から顔を出して騎兵のひとりに声を掛けた。


「モーブレイを出たら十分に警戒してくれ」


「はっ、分かっています」


 従者がひとつ息を吐いてから御者に合図を送ると馬車はゆっくりと動きだす。騎兵は前に2人、後ろに2人、それぞれが自分の警戒するべき方向に注意を払いながら付き従う。馬車は小路から大通りへ、城に背を向ける形で東の出口を目指して進んだ。バマーは従者の落ち着かない様子を見て


「心配性が過ぎるぞ…?まあ、確かに良い顔をせぬ者もいるが……」


「しかし不穏な動きがあるとの話しも耳に入っております」


「私はなにも『彼等』に主権を握らせるつもりなど無いのだがな……だがないがしろにするワケにもいかぬ、ならば議会に末席を用意するのが得策であろう…都合が悪いならばその時は退席を願えば良い」


「それは分かっております。大半の諸家の方々にもご賛同を頂けているようですし……しかしながら噂というものは人の口を渡る度に尾ひれが付くものでございまして、それを曲解したり、これを機にと良からぬ画策を巡らす者がいないとも限りません」


「まったくっ、嘆かわしいことだ」


 バマーは従者の話しに肩をすくめて不満をもらした。


「しかしヴィンセント様、一体どうされたのですか?何か急を要するご心配ごとでも……?」


「ふうむ」


 大概の急用でも夜明けを待てないということは無い、ましてや翌日には屋敷に戻ることも分かっている、従者の疑問も当然だと言えた。


「ところがな、私にもよく分からぬのだ。急に屋敷が心配になり居ても立ってもいられなくなってな……そうか、これではお前のことを心配性だと責めるワケにもいかぬな、ふふ……」


「はあ……」


「なに、大事は無いのだ。皆にはお前から謝っておいてくれ」


「かしこまりました」


 この街の東側には大きな川が海まで横たわっており、緩く蛇行し方向を変えながら30キロ余り先のカッシミウで海に注いでいる。


 水量も多く水深も深く、雨が続けば更に水かさも増し、東からの敵に対しては自然の要害としての役割もあるため、むやみにこの川を渡る橋を増やしたりはしない。


 それでも石組みに木の欄干の頑丈な橋が街の正面に1本、それから少し上流にも同じ様に橋が架けられていて、こちらは街に用事の無い者が渡るために使われている。つまり街から東に向かうためには、2本ある石橋のどちらかを渡らねばならなかった。


 馬車は当然街の正面の橋に向かって行く。アーチ状の橋はうねった石の床が滑りやすく、馬車は速度を落として慎重に手綱を操ることになる。前を行く騎兵も気遣うように首を回しては馬車に目を配っていた。


 と、不意に跨っていた馬の背が不規則に揺れる。何事かと視線を戻すと、橋の中ほどの欄干から月灯りを受けて反射する小さな光が目に飛び込んできた。


(うむ?お……ととっ?)


 しかしその僅かな疑念も落ち着きを欠いた馬にかき消されることになる。それはこれから演じられる『惨劇』の幕が開けられたことを意味していた。


 どこまでも澄みきった悪意は全てを塗りつぶす濁った『黒』では無く、全てを覆う深い『闇』とよく似ている……


 そんな『闇』を纏った悪意の影が、川沿いに建つ宿の窓にうつろにたたずんで彼等を呑み込もうとしていた。


(橋の上では気をつけなさい……橋を架けると川の手前で足踏みしていた魔物が渡ってくると言うでしょう?)


 馬車がちょうど中程まで…もっとも川の深い所までやって来ると、抑えることに苦労するほど馬が落ち着きを失っていく。ましてや馬車には4頭の馬が繋がれている、それぞれの不安は伝播し増幅し、これ以上馬がパニックに落ち入れば到底手綱では御しきれなくなりそうだ……


(もしかしたら馬が何かに驚いたり…)


 突然目を剥き何かに怯えた馬車馬は暴れだし、手綱を引き千切らぬばかりに暴走を始めた!馬車を激しく揺さぶりながら馬は何かから逃げるように欄干に向かって行く。


(もしかしたら……たまたまぶつかった高欄が腐って弱くなっていたり……)


 勢いをつけた前の2頭は繋がれたまま無理に欄干を飛び越えようと激突し、後ろの2頭は勢いのままぶつかった欄干を吹き飛ばす……


(そのまま馬もろ共に川に転落するかもしれないわね……?)


 馬車はいきおい馬もろ共に川に転落する。中にいる2人が頭の中で状況を整理するよりも早く、馬車は水面に激突した。そしてクルミの木の厚い無垢板で組み上げられた重い馬車は見る間に早く沈んでゆく。


(歪んだ馬車のドアが開かなかったり…?ふふ……)


 堅牢に造られた馬車は壊れる事もなく、顔を出すのが精一杯の小さな窓からは勢いよく川の水が流れ込む。その中でバマーと従者は足掻き、ドアを開けようと懸命に力を込めるが、開く様子は無かった………


(だから気をつけなさいと言ったでしょう……?)


 奔流にもて遊ばれながら流され消えていく馬車を騎兵はなす術も無く見ているしか無かった。1人はすぐさま城に報告に走り、3人は流されていく馬車を追って河岸を走っていった。


「おやすみなさい……」


 後に残ったのは静寂とも思える川の音だけだった。






 半月後、カッシミウのパブリックバー



 首都モーブレイから東へおよそ30キロ、海を望み大きな湾にぶつかると海運と商業の街、カッシミウを見つけることが出来る。


 街はしばらく国葬に伴って喪に服していたが、もとより物流が止まる事は無く、数日前からは徐々ににぎわいも戻ってきていた。


 人や荷馬車が行き交う一番活気のある大通りの目立つ場所には、一軒の古いパブ『レーベル』がある。石壁が建ち並ぶこの大通りの中にあって、漆喰の壁を太い柱が抱きかかえて踏ん張っている姿は、今さら変えることの出来ないこの店の看板となっていた。


 その古いパブの一番奥まった席で、いま読み終わった本を膝の上に置いたひとりの女がうつろな視線をまき散らす。


(ふう、もう少し…厚い本を持って来れば良かったかしら?)


 白い薄絹を頭からかぶり、その薄絹を幾重にもふわりと巻きつけ重ねたようなドレスを纏っている。


(もっとも、待ち合わせる場所を私が直前に知らせたからなのだけど…)


 この街も、そしてこの店も随分と賑わうようになった。静寂を好む彼女は常連というわけでもないが、ずっと以前、オープンしたての落ち着いた雰囲気を思い出しては懐かしく浸れる自分を少し意外に感じていた。


「!」


 突然女は何かを察してピクリと首を動かした。動かした頭をゆっくり戻してため息を追加する。いやため息では無く、呼吸を整えたのかもしれない。とにかく女が息を吐いてから数分すると、男がひとり店外を確認してからレーベルに入って来た。彼が彼女を待たせていた人物である。


 男はいかにも颯爽とした様子でフロアを進み、けして多くもない客を目で物色するように見ている。その有り様に女は呆れてクビを小さく振った。仕方がないのであのよく回る首がこちらを見たタイミングに合わせてテーブルを軽く叩いてやった、それは彼女からの『許可』でもある。


「おお……っ!」


(まったく……)


 早々に彼女が機嫌を損ねた理由は彼の『場所』と『目的』をわきまえない身なりと身振りが原因である。


「お待たせしてしまいましたね?」


 彼なりに着崩したつもりだろうが安物など身に着けられない安いプライド、まあそれはいい、しかしクビのリボンタイや胸にあしらわれた光り物、精巧な細工や質の良い宝石は目ざとい者が見れば家柄を想像したくなるだろう。しかもこれ見よがしにぶら下げてきた木の化粧箱は誰もがその中身に興味を示しそうだ。


 とかく貴族というものは自分を誇示しなければ存在が薄れて死んでしまうとでも思っているのだろうか?女はそれが鼻について不愉快に感じる、確かに体裁を整えればそれなりの器量もついてくるのかもしれないが、自覚の無い見栄は見ていて滑稽なものであった。


 取り敢えず彼は持っていた化粧箱をテーブルに置くと、背筋を伸ばして椅子に腰かけた。


「カッシミウまでのご足労、恐縮です…カレンベルク子爵……」


「いやあ、そんなにかしこまらないで下さい。まあ、大騒ぎになってから暫くは身動きが取れなかったが落ち着いた頃合いを見計らってコッチに逃げ出して来てね、実を言えば2日前からノンビリと海を眺めていたんだ、が…私の所在がよく分かりましたね?」


「………」


 彼は重職を担うカレンベルク伯爵家の長男、ジューダ・カレンベルク。歳は28歳、彼自身は子爵の爵位を与えられている。功名心が強く小ずるさを世渡りだと勘違いしている程度の人間、言わば非常に扱いやすい人物だ。


「本当にミステリアスな人だ、それ程の気品と美貌をお持ちで異質な存在感。まぶしいほどのゴールデンブロンドとスカイブルーの瞳、儚げな面持ち、例えるならすぐに溶けて存在の『境』を消してしまうかの様な、そう……透明でありながら何故か目を引く水面に浮かぶ薄い氷の様…では如何でしょう?」


 得意気に妄想を語っている間、女は眉尻をピクピクさせて殺意のこもった目で見つめていた。


(お前はその薄氷よりも薄っぺらいのねっ、もう死んどくっ?)


 などと聞こえてきそうだ。まあしかし取り敢えず


「結構なお手前で……」


 と、彼女としては死ぬ気でお世辞を口にした。


「とは言え……本当に不自然ですね?私が店に入った時はこのテーブルが目に入らなかったし、このテーブルに着いた時から誰も私を見ない。仕事である店員ですら目配せもしない。まるでこのテーブルと我々は存在していないようだ……」


「…………」


 ジューダは改めて店内を見回して女を見つめた。


「まあでも、我々には好都合ですね。コレは…お約束したモノです」


 そう言って男はテーブルに置かれた化粧箱を押して差し出した。彼女はその木箱を眺めて男の目を気にすることもなく軽くその表面を撫でる。


 一瞬箱は僅かに震えて男の目にはボヤけて見えたかもしれない。


「たしかに……」


 その中身は金貨がきっちり500枚、不審なモノも無いようだ。しかし男はすぐに確かめる。


「中を確認しないのですか?」


「信用していますよ……」


 女のささやかな微笑みにジューダは息を飲んだ。次いでポケットから小袋を出すと化粧箱の上に置く。


「そ、それからこちらは、3カラットのルビーの原石が5つ……そんなにルビーがお好きなのですか?」


 その問いかけにも女は微笑で答えながら袋をつまみ上げた。


「あら?3カラットよりは石が大きいようですが?」


「!」


 またしても中を見ずに今度は石の大きさを見透かされた。さすがに驚きを隠せないがその驚きを疑問に変えさせない何かが彼女にはある。


「さ、3カラットの原石を磨いたら半分以下になってしまうかもしれない、それに原石の大きさを揃えるのは少し面倒ですから……」


「そう」


 気のきく紳士を演じたいようなので少しだけ気持ちを込めた微笑みでねぎらって差し上げる。そしてその度に男は言い知れぬ高揚感を感じていた。


「あと…っ、これは私からの贈り物と思っていただければ……」


 そう言って上着の内ポケットから綺麗な小瓶を取り出して彼女の前に置いた。肩の膨よかな吹きガラスの小瓶で細やかな細工と炎が揺らめくようなデザインの蓋には蝋で封印が施されている。中には透明だが黄金色がかった液体が入っていた。


「ローズオイルですね?」


 しかも何度も蒸留を重ねた上質なモノ、触れもせず女は中身を言い当てた。しかしこれにはさすがに疑問が口をついて出る。


「本当に不思議な方ですねっ?まるで『魔法』のようだ!」


 思わず『魔法』という言葉を出した男に彼女はにこりと笑って自分の鼻の頭を指先で軽く叩いて見せた。


 それほど鼻が効くのだろうか?香りが漏れているようには感じなかったが………そんなことを考えているのが手に取るように分かる。それに初めて会った時から抱いている疑念がその濃さを増していることも。


 惑わせ誘導し、適当にチラつかせても答えは与えない。彼女はそれを楽しみ男の内面を弄んだ。ジューダは確かめたい欲求に責められながらがんじがらめになっていく、自ら口を滑らせた『魔法』と言う言葉に囚われそこから連なる禁忌の種族でアタマがいっぱいになる。


「くす……」


 愉悦の嘲笑。


 初めて見せたその表情に男は肩がすくみ、その魅力に全身が総毛立った。これ程胸が高鳴ったことなど記憶に無い。


「しっ、しかし……何故貴女の『言葉』を疑わなかったのか、あんな荒唐無稽な『提案』を飲んだのか…私は今だに霧の中を彷徨っていますよっ」


 ジューダは小さく頭を振って何かを振り払うように喋り出した。


「そして驚いた、いや、驚愕した。誰の目にも疑いようも無く事故と納得せざるを得ないのに……貴女の言った日付けと時刻に偽りは無かった……」


「くす……」


「あ、あの夜はずっと眠ることが出来ずに橋の方を睨んでいましたよっ、一体、どうやって……?」


「何を言っているのか……あれは可哀想な、不幸な事故でしょう?違うの?」


 笑みを含んだ呆れた顔で彼女は男をたしなめた。ならばもうそれ以上、彼に真偽を確かめる事は許されない。


「あ……い、いえ、失礼しました。確かに、そうですね、明らかに事故…でした……」


 何故か罪悪感にさいなまれる、否定をされると居た堪れなくなる。自分が愚かなのだと認めたくなる。あり得ない感情の起伏に困惑するばかりで自分が解らなくなる。


 男は懸命に振り払い、リセットを試みる。


「き、聞くところによると、この店は140年ほど前の建国の折に交易の要所として造られたこの港町、カッシミウに初めて作られたパブだとか……王国の中でも歴史のある店のようで…もしかしたらあなたもその…常連なのですか?」


「……」


 彼女は顔も変えず何も語らない。


「いや…貴女を探ろうとしているのでは無く、いやそうでは無いか……差し障りのない事であれば貴女のことを教えて欲しい、それが本音です。何しろ偽りでも名乗って頂いていない、顔は見えても今も貴女はヴェール越し、その姿勢を崩して頂けない……」


「お好きにお呼びなさい、あなたの言う通り私がここで名乗った名前に意味は無い。もしもあなたに、如何なる代償も厭わない覚悟があるのなら何かが変わるかもしれないけれど……?」


「!、それは……」


「あなたにとって私は何の意味も持たない存在、今回起きたことは事故に他ならないし、もし背負いきれない秘密を抱えてしまったと思っているなら……安心なさい、たとえ神でもその秘密は暴かせないから」


「!!、か、神を相手取って『暴かせない』とは……」


 男は不快感では無く尊大とも傲慢とも取れるあまりの言葉に驚いた。『神』とは『人』も『法』も『万物』も超えた存在であった。


「あら?ごめんなさい、信心深い方だったかしら?」


「いや……」


 彼女にとって『神』は畏れる対象では無い、それだけは解った。


「それじゃあ、私はこれで……」


 前置きも無く席を立とうとする彼女を慌ててジューダは引き留めようとする。


「もしもっ……もしもまた、貴女にご相談したい時にはまた、お会いできますかっ?」


「どうかしら……」


 彼の制止に効果は無く、立ち上がった女は小袋の口ひもを使って化粧箱の取手に結び付けた。


「それじゃあこれも遠慮無く…」


 置かれた小瓶をつまみ持ち上げると、やはり薄絹を巻き重ねた上着の隙間に滑り込ませる。小瓶は、その厚みや重さが溶けてしまったかのようにその存在を消してしまったが、もはやそんなことが驚きにもならないほど彼は麻痺していた。


「そ、その木箱は女性には重いでしょう、お好きな場所までお持ちしますよ?」


 彼女はひとつ息を吐いて目を伏せた。


「もうお帰りなさい。あなたは迷い込んだ道の途中で見たことのない景色に出逢っただけ……その先へ進めば帰る道さえ見失ってしまうだけよ?」


「……!?」


「失礼、お元気でね」


 軽々と木箱を持ち上げゆったりと会釈をすると、声を掛けあぐねている様子の男を放って店を出た。






 ジューダが語っていたとおりこの街と歴史を共にするこの店は、港にほど近い大通りに店を構えている。石造りの建物が隙間も無く並び、多くの馬車や人、時折騎兵の姿も右左と行き交っていた。


 右に行けばすぐに港、左に行けば中央広場に向かって延々と建物が連なっていて、そこからは蜘蛛の巣のように住宅などが、これまた延々と広がっている。


 周りを気にすることもなく広場に向かって歩き出すと、すぐに女の『蜘蛛の巣』にひっかかる者がいた。


(2人……)


 やはり彼女を追ってくる者がいた。当然子爵の手の者だろう、彼にとって彼女はあらゆる意味で放っては置けない存在に違いない。彼女はわざとらしく目立つ化粧箱を見た時に確信していた。


(まあ、そうでしょうね)


 尾行者は一度に視界に入らぬように道の両端に分かれて移動している。ただ……


(私は目には頼らないのだけど……)


 女はするりと最初の路地に身体を滑り込ませると、尾行者が気づく間も無く姿を消した。


(どんな顔に見えていたのかは知らないけれど『儚げな面持ち』?…ちょっと変えないといけないわね……)


 尾行者だけでは無い、誰の目からも、まるで自分の足跡を消していくように、少し遠まわりをしながら彼女は街の中へ溶けて消えていった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章は比較的読みやすく、雰囲気もあり、先が気になる感じでした。 [気になる点] web小説は空行を適度に入れろというのがセオリーですが、セリフとセリフの間に毎度空行があると少し読みづらく感…
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