第五話 好き? 嫌い?
四時間目の授業の三分の一が終わったころ。
一年七組の教室では、現代国語の授業が進められていた。
生徒の一人が立ち上がって教科書を読む声が、教室に響く。
「はい、そこまで。じゃあ次を……」
教科書を手にした教師が、次の生徒の名を呼ぼうとした。
その瞬間。
かなり大きな音を響かせて、教室の前のドアが開いた。
何事かと、一斉にクラス中の瞳が入口に向く。
開いたドアの前に立っていたのは、背の低い女子生徒。
「ど、どないしたんや」
呆気にとられていた教師は、少女の存在に気づき、声を絞り出した。
少女はこの一年七組の生徒ではない。一年二組に在籍しているはずである。その少女がなぜ、授業中の一年七組に乱入してきたのか。
しかも、乱入してきた少女は泣いていた。頬は濡れ、鼻の下もてかっている。
少女は、教師の顔から、ざわつく教室へと視線を移す。
ドアに近い席についている生徒の数名が、身を引いた。あまりに汚い泣き顔に驚いたのである。
「カナエちゃーん。ウ、ウチ、もう死ぬー」
うわーんと声をあげて、大泣きする少女。
クラス中の視線が、名指しされた香苗に集中する。
香苗は頬をひきつらせた。
「藤田。と、とにかくや。おまえ、野山連れて保健室行ってこい」
教師の指名を受けて、香苗は立ち上がった。
保健室は無人だった。香苗はつぼみの手を引いて、消毒液の臭いが漂う保健室に足を踏み入れる。とりあえず、近くにあったキャスター付きの椅子を引き寄せ、そこに泣きじゃくるつぼみを座らせた。香苗もパイプ椅子を引きずってきてそこに腰掛ける。
「はい、鼻ふきぃや。もう、汚いな」
香苗はスカートのポケットからポケットティッシュを取り出して、つぼみの鼻にあてた。つぼみが大きな音を立てて鼻をかむ。香苗はそのティッシュを丸めて、ごみ箱に放った。
「んで、何があったんよ。ホンマにあんたは人騒がせやわ」
香苗の呆れた声に顔をあげたつぼみは、濡れた頬をごしごし手でこすってから、口を開いた。
「カ、カナエちゃんも、ウチのことキライ?」
うるんだ瞳で、上目づかいをするつぼみ。香苗は大きく息を吐きだした。額に手をやって首を振る。
「ツボミ」
「な、何?」
つぼみは身構える。香苗はしばらくじっとつぼみを見たあと、いきなりつぼみに抱きついた。
「好きやで。好き好き。もう、ツボミ、その顔反則や。めっちゃ可愛いー」
「カ、カナエちゃ……く、苦しい」
ギブギブと、つぼみは香苗の腕を叩く。
「おお、ごめんごめん。ついな」
えへっと笑って、香苗はつぼみを解放する。
「ウチ死ぬかと思ったわ」
「死ぬー言うたんちゃうん」
香苗が上げ足をとると、つぼみは俯いた。そのあと、小さく口を開く。
「ウチ、ウチな……秀ちゃんに嫌われとったみたいやねん」
一世一代の告白をするかのように、つぼみは言った。香苗はそんなつぼみの様子を見て、長い指で頬を掻き、一度天井を見上げたあと声を出した。
「んーっと。嫌ってはないんとちゃう?」
邪険にはされてるけど。と、心の中で香苗は付け加える。
つぼみは香苗の言葉に、ショートヘアーの髪がばしばしと顔に当たるほど強く、首を左右に振ってみせた。
「そんなことないわ。だってな、秀ちゃんな、ウチが休憩時間に遊びに行っても、嬉しそうな顔一つせんと、また来たんかっていうねんで」
「いつものことやん」
言ってしまってから、香苗はしまったと口に手を当てる。つぼみが悲しそうな眼で香苗を見たからだ。
「何で今更……やなくて、えっと、そう。いつもあんた、そんなこと気にせんと秀ちゃん秀ちゃん言うて、くっついていくくせに。急にどうしたんよ」
つぼみはまた、俯いてしまう。香苗はどうしたものか分からず見つめていると、つぼみの呟くような声が耳に届いた。
「なんか、よう分からへんけどな。秀ちゃんのクラスの女子に、秀ちゃんが迷惑してるからもう来んなって言われてん」
「はっはーん。あんた焼きもち焼かれたんや」
「やきもち?」
つぼみが不思議そうな声を出す。香苗は綺麗に整った顔に、自信満々の表情を浮かべた。
「あんたに嫉妬したんやわ。その子」
「嫉妬? 何で? ウチらただの友達やのに」
「まあ、それでも、好きな男の近くに、馴れ馴れしい女がおったらムカつくんちゃう? シュウも隅に置けんな」
ふふふと、香苗はにやにや笑いを浮かべる。つぼみは目を瞬かせた。
「好きな男って、あれ? あの子、秀ちゃんのこと好きなん? 何でそんなこと分かるんカナエちゃん。めっちゃすごい」
尊敬の眼差しを向けるつぼみに、香苗はまんざらでもない顔をする。
「ふっふーん。そうやろ。まあ、そういうことやから、別にシュウがあんたのこと嫌いってことではないと思うで」
香苗が言うと、つぼみの表情が一気に暗くなってしまった。つぼみ周りに暗いオーラが見えるようだ。香苗は慌てて何か言おうとするが、何を言っていいのか分からない。
「でも、秀ちゃん。ウチが来ると迷惑そうやし」
「いや、それは、あの」
「いいねん。何も言わんといて」
そう言ってつぼみは立ち上がった。ふらふらとドアまで行くと、少し振り返った。
「じゃあ、ウチ。教室帰るわ」
「ああ、うん。ほな、気をつけて」
「ありがとう」
そう言って、つぼみはなぜかドアにガンっと大きな音を立ててぶつかった。今のは絶対に痛いはずだ。案の定、額を押さえている。
「ツ、ツボミっ?」
「もうっ、何でドア閉まってんの」
つぼみは額から手を離すと、文句を言ってドアを叩く。そのあと、ドアを開いて保健室を出て行った。
香苗は、そりゃ、あんたがドア開けへんかったからやろ、というツッコミを、結局口にはできなかった。