神のイケニエ1
力の強い神様は、周囲に与える影響も大きい。
しばらく近付くと、これ以上は一緒には行けないとお父さんは立ち止まった。
「あの大きな澱みに触れると穢れが移ってしまう。そうなると形を保てなくなっちゃうから」
「めじろも近付けません。屋敷の者も逃げ出すしかありませんでした」
「そうなんだ。じゃあお父さん達はここで待ってて」
「……ルリちゃん、本当に行くの?」
いかついはずの天狗のお面が、心なしかしょんぼりして見える。私は空中で天狗にだっこされながら、お父さんに手を伸ばした。
「死ににいくみたいな雰囲気やめてほしい。せっかく会えたんだから、もっと話したいし、ミコト様が普通になったら今度はお屋敷で会おうよ」
「もしルリちゃんに何かあったら、お父さんが飛んで行くからね。そうしたらお父さん、怨霊的な存在になっちゃうから。ちゃんと無事で帰ってくるんだよ」
「わかった頑張る」
脅しめいた約束に頷くと、お父さんが首から黒いポンポンの付いた細長い布みたいなのを取って私の首に掛けた。ちゃんと無事に帰ってくるように、らしい。よしよしと頭を撫でられると、少し気恥ずかしい。その気持ちを分けるように、今度は私がめじろくんの頭を撫でる。
「ルリさま、きっと主様を正気にお戻し下さいませ。ルリさまならきっと出来ます」
「うん」
「なし得なければ、めじろもすずめも、梅も鯉もみんなみんな路頭に迷って死んでしまいますからね。めじろらの命運は、ルリさまに預けましたからね」
「重っ!!」
さらっと大変なことを言っためじろくんは、私にぎゅうっと抱きついてから離れた。天狗の腕から飛んで、お父さんの肩に手を置いている。ふわんとジャンプしたので、めじろくんも飛べるらしい。今まで知らなかったけどすごい。
「じゃあちょっと行ってくる」
「ルリちゃん! 無理だと思ったらすぐ引き返すんだよー!」
「みかんの木が枯れる前に主様を宥めてくださいねー」
「はーい」
手を振ると、天狗が空を踏みしめてぐんと飛ぶ。時折高いビルの天辺や電車の高架の電信柱に足を付けながら、ぐんぐんと見知った街へと近付いていった。
ごみ処理施設の高い煙突を一本歯の下駄でぐっと踏んで一際高く跳躍すると、高校や神社のすぐ上辺りまで到達する。私にはいつもの風景に見えるけれど、肌に当たる風がどことなく生ぬるく張り付くような気がする。時折聞こえる救急車の音が、普段より多いと感じるのは気のせいだろうか。
「ぬぅ」
私を赤ちゃんのように抱っこしている大きな天狗が、空いている片手を素早く腰にやって、これまた大きな天狗のうちわみたいなのでぶおっと目の前を煽った。それと同時に空気を蹴って後ろへ後退る。振り落とされないように捕まりながら正面を見ると、黒い煙のようなものが立ち上っている。それが音を発した途端、それは煙ではなく人の形をしているのだと気が付いた。
「ルリを返せ」
呻くような声で低くそう唸ったミコト様は、私が最後に見た姿とは大きく変わっていた。いつもきちんと纏められている髪は解けて広がり、浅い紫色だった着物は墨をぶちまけたように汚れている。特に汚れが酷いのが体の左半身で、仮面で覆われていない口や首筋までもが赤黒くなっている。それが血が固まったものなのか爛れているのかはわからないけれど、仮面も燃やされたように黒く煤けてボロボロになっていた。怪我のない右半分の顔色も悪く、いつもは柔らかい眼差しが昏く淀んでいる。こちらを見ているのに目が合っていないように感じた。
「返せ」
スラリと手に持っている物をこちらに向ける。僅かに反っているそれは刀だった。ミコト様、刀とか使えるのかと感心しているうちに、突風のようにその姿が近付いてくる。
「ぬぅっ!!」
うちわでその刃を受け止めて、流すように天狗が身を翻す。それを応用にミコト様は刀を振りかぶる。近付いた刀がキラリと光る度にひやっとしたものが背中を走った。
「怖っ! ちょっと待って! ミコト様! 危ないんですけど!!」
「ルリを返せ」
「天狗様は助けてくれただけだから! ちょっと、止まって! 落ち着いて!」
返せとか言う割に刀を振り回していると、こっちだって帰るに帰れない。天狗は巧みに攻撃を避けているけれど、ミコト様の動きが早いのか力が強いのか、大きくて頑丈そうなうちわに細かいヒビが入り始めている。大きな刃物が迫ってくるのは単純に怖かった。
「ミコト様、やめてってば!」
「ルリ……なぜ、何故私を拒む」
「いや拒んでないから」
恨みの篭った視線というのはこういうものなのだろうか。こちらを見ているのに何も見えていないような目を見るたびに、恐ろしくも悲しい気持ちになる。
辺りには分厚い雲がみるみる集まって、空を切り裂くような音とともに大粒の雨が降り始めた。
「ミコト様……」




