変わりゆくもの1
妙に手のひらが熱い。
カサカサと何かが擦れる音がして目を覚ました。沢山泣いたせいかまぶたに違和感がある。横を向いて寝転がっている視線の先に伸ばした自分の腕があって、その先、力を抜いた手の中に小鳥がみっしり詰まっていた。
指の丸まった中にピッタリ収まっている茶色、それにピッタリくっついているうぐいす色。まんまるな羽毛の毛玉は呼吸に合わせて小刻みにフカフカと動いていた。じっと見つめているとうぐいす色の毛玉からくりっと頭が回り出て、白い縁取りの目がぱちぱちと瞬いた後、ふるっと震えてまた嘴を背中に回して寝てしまう。
視線を手前に移動すると伸ばした方とは反対の腕は掛けられた絹の衣から半分だけ出ていて、中に鞠が収まっている。のんびりした空気に重くなりそうなまぶたを何度か押し上げて視線を遠くへ投げかけると、黒い鯉が空中に浮いてじっ……とこっちを見ていた。ヒレを動かして口を上げ、「ルリィ」と喋る。
目が覚めた。
「これ、静かに……あぁ、ルリよ、起きてしまったか」
しっと鯉を叱ったミコト様は既に起きていて、ガサガサと紙束を慌てて片付けていた。四方を几帳で覆った中での出来事である。
「鯉が」
「うむ、こやつもルリを心配して騒ぐのでな、床を汚さぬよう、ありくるという水槽を持ち込んだのだ」
小鳥を落とさないように起き上がってぼんやりしていると、ミコト様が梅を呼んでくると慌てて出ていった。そのまま座って目が冴えるのを待っていると、手の中ですずめくんとめじろくんが同時に小さな嘴を開けて欠伸をした。それにつられて口を開けて気が付く。
「……アクリルのことか」
空中に浮いているように見えた鯉は、透明な水槽の中でゆらゆらと体を動かしていた。
既に朝も遅いので軽めにと今日の朝食はフルーツとシリアルのボウルだった。お屋敷で働く他の人は先に食べていたようで、私とミコト様、小鳥コンビと梅コンビだけのこぢんまりとしたテーブルでの食事である。ちなみに鯉は抵抗していたものの無事に池へリリースされた。
「これがアサイーか。私初めて食べた」
「ブルーベリーも入れたから濃い色合いになってしまいましたね。ルリさま、シリアルもう少しいかがですか?」
「胡桃もあるわ」
「アーモンドも炒ってあるのよ」
「ルリさま、苺もありますよ。みかんも入れますか?」
コケて怪我付きで逃げ帰ってきた上に泣き疲れて眠るという子供のような行動をした私を心配したのか、皆がいつも以上にちやほやと世話を焼いてくれる。いつもは大広間に正座でお膳が出てくるのにテーブルとイスで食事になっているのも、足の裏と膝に絆創膏を貼った私を気遣ってのことなのだろう。やれミルクを温めるだの蜂蜜をかけるだのと気遣ってくれるのは嬉しいけれど、ミコト様が心なしか寂しそうになっているのでそっちも気にかけてあげて欲しい。
「ミコト様も蜂蜜掛けますか?」
「うむ、そうだな!」
話しかけるとパッと笑顔になったミコト様は機嫌が良さそうだけれど、ガーゼの面積が大きくなったのは痛々しい。私が気にしないようにと平気に振る舞っているけれど、口を開けるときなどに僅かに痛そうにしているときもある。
ミコト様は私のせいではないと言っていたけれど、それでも責任は感じる。傷が早く良くなるように何かできることがあればいいけどと考えながら、私はシリアルを口に入れた。
ローファーは最初に履いていたのである。スカートも夏用ベストもきちんと準備してある。半袖シャツを柄杓みたいな謎のアイロンで伸ばしてもらいながら、私は紅梅さんとおしゃべりしていた。
「主様のお怪我を早く治す方法?」
「うん」
「わからないわ、ごめんなさい」
「いやそうだよね。知ってたらやってるよね」
柄杓は中に炭が入っている。ミコト様やすずめくん達が着ている着物などでピシッと折り目が必要なやつなどをこれで伸しているらしい。重そうな見た目だけれど、紅梅さんは慣れた様子ですいすいと折り目をつけていっていた。
「ミコト様の傷跡、ケガレってすずめくんが言ってた。ミコト様は恨みがどうのって」
「穢れは恐ろしいわ。主様はお力が強いからああして耐えて耐えてらっしゃるけれど、私達ならたちまち枯れてしまうわね」
「そうなんだ」
「でもルリさまがいらしてから、淀みも少し薄れていたわ。怪我が治りかけていたものね」
「ほんとに? やっぱり治りかけてたの?」
紅梅さんが美しく微笑んだ。
ミコト様は怪我を誰かに見られるのを嫌がっていたので、直接見たのは私しかいない。けれども紅梅さん達にはミコト様の周囲に漂うケガレというのが見えていたらしい。それが徐々に薄くなりかけていたそうだ。今はまた濃くなってしまったけれど、やっぱり私の気のせいではなくミコト様の怪我は良くなりつつあったようだった。
「なんでなのかな? 気持ちの問題?」
「ルリさまが人間だからかもしれないわ。主様は長く神として人をお助けしていたの。人々は信仰を寄せて、それが神としての力となるのよ」
「私あんまり信仰とかないけど……」
「信仰というのは、有難く思うことなのではないかしら。ルリさまは主様にお助け頂いて、たくさん感謝を捧げたでしょう?」
神様に感謝を捧げることは、回り回って神様のご神力を増すことに繋がっているらしい。そうして力が増した神様はますます人を助けられる様になり、さらに多くの人間が感謝を捧げる。他にもご神力を増やす方法はあるらしいけれど、ミコト様はそうやって偉くなった人の生活に寄り添うタイプの神様だったそうだ。
「でも、今は全然参拝者がいないよね。神社も小さくてボロボロだし、なんか人を寄せ付けない雰囲気の暗さだし」
「ミコト様があえてそうなさったみたいね。どうしてなのかは私も知らないけれど、大昔に人と何かあったらしいわ」
紅梅さんと白梅さんはお屋敷の中でも古参の方だけれど、ミコト様の傷の原因を詳しく知らないようだった。
「えっと、とにかくミコト様に信仰を捧げるのがいいのではないかと」
「そういうことね」
「わかった。ありがとう紅梅さん」
紅梅さんはニコニコと頷いて華奢な手で私の手を握った。ふんわりと甘い香りが胸いっぱいに広がる。
「ルリさまが主様を気にかけて下さって、私も白梅もとってもとっても嬉しいわ」
「う、うん」
「ずっとずぅっと、一緒に暮らしましょうね」
「う、うーん……」
美人の圧力に屈しかけつつ、私は登校日の準備を終えることが出来た。




