ブレイクオフ9
私を抱えて歩いていたミコト様が止まって程なく、蒸すような暑さが消えて甘い香りが漂った。顔を上げると、紅白の梅が満開になってお屋敷を彩っている。あの小さい社に入るような動作は感じられなかったけれど、ミコト様はどうにかしてお屋敷まで帰ってきたようだった。
「……靴もなく辛かっただろう。汚れを落として……手当をせねばな」
すぐ近くから聞こえてきたミコト様の声が何かを堪えるようなものだったので不思議に思って見上げようとしたのと、すずめくんが声を上げたのが同時だった。
「あるじさま!! 穢れが!」
「えっ……ミコト様、血が出てる!」
ギランギランのお面に隠された左半分を覆う白いガーゼが鈍い赤色に染まり始め、顎のラインに線を描こうとしていた。見えている方の右側も痛みを堪えているように顰められている。私が慌ててお面を取ると、僅かな刺激さえ痛むかのように息を呑んでいた。それなのに、ミコト様は無理して微笑むように口角を上げた。
「なんでこんなに血が、」
「ルリよ、暴れると落としてしまう……その姿で降りると足が痛むぞ」
「そんなのより、ミコト様の怪我のほうが酷いってば!」
何を出血しているクセに気遣い発揮しているのか。降ろしてと藻掻いてもミコト様はあと少しと譲らずに、お屋敷へ入る階まで私を抱えて歩いた。段差で転ばないようゆっくりと降ろしてから、自分は力が抜けたようにへたり込む。ガーゼは血に浸したようになっていた。
「ミコト様!! すずめくん、ガーゼと薬持ってきて、急いで!」
「今すぐに!」
すずめくんは飛ぶように主屋に走り出した。ガーゼに手を伸ばした私から隠すように、ミコト様は横を向こうとする。
「見ていて気持ちのよいものでもなかろう、自分で何とかするからルリは先に風呂へ」
「……私が助けてって言ったから?」
「それは違う。ルリのせいではない」
「でも、」
先程までなんともなかった筈なのに、少し治ってきたようだったのに、今では大怪我したばかりのようになってしまっている。原因なんて、他に思いつかなかった。
あの人が向かってきたとき、最後に何か大きな物音がした。あれをしたせいでミコト様の怪我が開いてしまったのかもしれない。もしくは、ずっと来ていなかった現し世に短期間で2度も出てきたせいかもしれない。私が酷いお願いをしてばっかりだったから傷が悪化したのかもしれない。
「ルリよ、なんという顔をしている……そなたのせいではないと言うに」
痛みで顔を顰めているのに、ミコト様は私の様子を気遣っている。言葉がうまく見つからなくて頭を振って否定すると、ああ、と声を上げたミコト様が私の頬に手を当てた。大きくて温かな手が頬を何度か撫でて、涙を掬っていたのだと気付く。
「ごめんなさい……」
「ルリが謝ることなど何もない。ただ私がしたいことをしただけだ。ほら、あまり泣くと目が赤くなってしまう」
頭を左右に動かすしか出来ない私を、ミコト様は少し迷ってから再び袖の内に招き入れた。そっと促すだけの手に従ってミコト様に抱きつく。ミコト様のお香と血の混ざった匂いが悲しかった。
どうして、私は人に迷惑をかけることしか出来ないんだろう。
色んな人に助けてもらって、親切にしてもらっても、誰かを傷付けることしか出来ていないんじゃないか。どうして、私よりも優しくて素敵な人達が傷付くのだろう。そこまでして、私は助けてもらう価値があるんだろうか。そんな欲張りなことをせずに、私がもう少し頑張っていれば、全てうまくいったんじゃないだろうか。
「何を馬鹿なことを……、ルリよ、ほら、顔を上げよ」
肩を優しく叩いた手が、そのまま私の手を取って引っ張ろうとする。顔を上げると、若草色の服に着替えたミコト様が物珍しそうに周囲を見回していた。
「ここがルリの育った家か。うむ、随分と変わった造りだ。人は次々とよく思いつくものだな」
しみじみと不思議そうに言うミコト様につられて視線を彷徨わせると、さっき逃げ出してきたはずの家にいた。けれどもどこもきちんと片付いていて、埃も溜まっていない綺麗な家だ。ソファで膝を抱えていた私を誘うようにミコト様が少し腰をかがめる。
「しかし、ここは少し寂しかろう。もう少し暖かな場所がよいな」
穏やかに微笑むと、それに呼応するように暖かい風が吹いて景色が一変した。色とりどりの花が咲いて、せせらぎの音が聞こえる。繋いだ手を引っ張ると、ミコト様が私の隣に腰掛けた。
「……私、いつの間に寝たんですか」
「疲れておったのだろう。梅らが傷の手当をしていたから、何も心配することない」
優しく言うミコト様の左頬が綺麗なのを見て、これが現実ではないのだと気が付いた。そっと手を伸ばして触れると、滑らかで傷一つない。ミコト様が少し照れたように頬を赤くした。
「ミコト様、本当にごめんなさい。私のせいで傷がひどくなって」
「ルリよ、先程も言うたがそなたのせいではないのだ。信じられぬかも知れぬが……」
ミコト様は言い淀むようにそっと唇を舐めてから私の方を向いた。
「私は昔の名残で、恨みの念に弱くなってしまった。この傷は昔の恨みで受けたものなのだ。だから今でもそういった類に触れると反応するのだろう」
「だったら私のせいで間違いないじゃないですか。ミコト様は私を庇ったせいであの人から」
「ルリ、ルリよ」
私を宥めるように名前を呼んで、ミコト様は緩やかに頭を振って否定した。
「私はこれでも神の末席。あのような弱い人間の一念でどうにかなるようなものではない。……この傷は我が身の恨みが滲み出たものだ」
「……我が身の恨み?」
「あれは、ルリを害そうとした。ルリを捕らえて我が物にしようと、それが叶わねばルリを」
思い返すように厳しい顔をしていたミコト様はその先を飲み込んで、大きく息を吐く。それから緩く頭を左右に振って、すまぬと私に微笑んだ。
「私はそれが許せなんだ。ルリに頼まれたからではなく、私が許せぬために力を使ったのだ。恨みに駆られた未熟な身が招いたこと」
ルリが責任を感じることはないのだとミコト様は諭すように言った。
私がきっかけを作らなければその気持ちにはならなかったのではないか。そう思う気持ちはまだ心の中に残っていた。けれど多分、私が責任を感じれば感じるほど、ミコト様が気に病むことになってしまうのだろうとも思う。
ミコト様は優しすぎるから、気の毒だ。
「ルリも気の毒に」
「えっ」
同じようなことを思っていただけに、ミコト様の小さな呟きに声を上げてしまった。どういうことなのかと首を傾げると、ミコト様は申し訳なさそうに口を開く。
「私のようなものに執着されるなど、ルリにとっては災難でしかないだろう。唯人とはかけ離れた力を持つ。人の思いつくようなことを超え、私はルリの望まぬことを容易く出来るのだ」
「ミコト様……」
見た目は同じでも、ミコト様には人間ではありえない力を持っている。広大な屋敷を整え、庭ごとに四季を変え、何かを創り出すことも出来る。私一人が立ち向かったとしても、きっとミコト様はびくともしないだろう。その力で脅かすことも出来ると言っておきながら、ミコト様は私の手を握って離さなかった。
私は手を伸ばして傷を隠された左頬に触れてそっと呟いた。
「それ……今更ですよね」
「う……うむ……すまぬ……」
「ミコト様、やろうと思えば私をお屋敷に閉じ込めるとか簡単に出来そうですもんね」
「そ、そんなことはやらぬ……かと」
「傷のことも、実はちょっと名誉の勲章とか思ってたりして」
「うっ、いや、それは、そ、そんなことは……」
ミコト様がしどろもどろになって視線を泳がせ始めた。
確かにミコト様には凄い力がある。あの人の言動で怒ったということは、独占欲もあるのかもしれない。けれど、人一倍シャイで乙女心満載な人な気遣い屋なので、そういうことをしたくないという気持ちも強いのだろう。
座っている場所からミコト様の方へずいっと移動してぎゅっと抱きつくと、ミコト様はさらに狼狽え始めた、ル、な、わ、とか言葉になっていないことしか口から出てきていない。
「私はミコト様と出会って後悔したこと全然ないですよ」
「そ、ル、ルリ」
「助けてくださって、ありがとうございます」
抱き付いたまま目を閉じてじっとしていると、ミコト様はしばらく慌てた後、小さくうむ……と呟いて、恐る恐る私の背に腕を伸ばした。




