ブレイクオフ8
「聞き入れたぞ」
走っていた勢いのままミコト様に飛び込むと、滑らな布が頬を撫でる。閉じられた袖の中で温かい膜に覆われたようにふんわりと空気が滞留した。柔らかくて心地良い香りに包まれて、体に入っていた力が抜けていく。その代わりをするように、背中からぐっと引き寄せられた。
「叶えよう。そなたの望む全てを、ルリよ」
すぐ近くから囁かれた声は、私の体を通って緊張を融かした。融けたものが目から流れ出て、ミコト様に手を伸ばす。私を抱きとめたミコト様は、力を入れてもびくともしなかった。
やっぱりミコト様は神様なのだ。お願いを聞いて、叶えてくれる神様。私のことを助けてくれる唯一の神様だ。せき止めていたものが溢れるようにそう思った。
「もう大丈夫だ。怖かったろう。何も心配することはない」
「ミコトさ……ま……ブッ」
優しく優しく囁いてくれるミコト様に、顔を上げて私は思わず吹き出した。慈愛そのものといった穏やかな表情で私を見るミコト様、の顔半分がギランギランのラメで飾り立てられたお面に隠されていたからだ。私が悪ノリして作ったお面シリーズでも中々に悪趣味なデザインのものである。黒っぽいラメの中で、紫のラメで描かれた蝶が舞っている意味不明なデザインである。
なぜそのお面。
緊張が緩んだせいか湧いてきた笑いに耐えられず声を上げると、ミコト様がオロオロしだしてまた笑いを誘う。
「あなや……ルリよ、落ち着くがよい。笑い出すほど動転するとは」
「いや、ちが、ちょ待っ……」
「よしよし、この私がいる。何も怖くないぞ、大丈夫だからな」
私がパニックのあまり爆笑していると思い込んだミコト様に背中を擦られてようやく笑いがおさまる。
神様は本当にすごい。もう色んな意味で。私の恐怖や不安や憂鬱を、いるだけで吹き飛ばしてしまうのだから。
ミコト様がいれば、もう怖くない。
黒い袖に包まれた中で、私は後ろを振り向いた。私に追いついたその人が、血走った目でこちらを見ている。
「瑠璃、そいつは誰だ? 早くこちらへ来なさい。危ないよ」
その人は、私の記憶の中より随分と窶れていた。常に撫で付けられていた髪はボサボサで、無精髭が生えている。スーツは着ているもののヨレヨレでネクタイもしていない。顔色も悪く痩けた頬なのに、濃いクマのある目だけが異様に光っていて私を捉えてブレなかった。
色の悪い唇が震えた後に声を出した。
「早く来なさい。パパと帰るんだよ。家で家族で過ごそうね」
「……帰らない。もう一緒に暮らさない」
「何言ってるんだ? 家族なんだから一緒にいないとダメなんだよ。ママを悲しませたいのか?」
妙に静かな猫撫で声に背筋を震わせると、背中に回ったミコト様の腕に力が込められる。見上げると、私には優しく微笑んだミコト様が、表情を消して前を見据えた。微笑むと柔和になるミコト様だけれど、何も表情を浮かべていないと人間離れした美しさが冷たい印象を強めていた。
「ルリはそなたと暮らすことを望んでいない。諦めよ」
「煩いッ!! 何なんだお前はッ! 瑠璃を返せよ、瑠璃は俺のだぞ!!」
「ルリはものではない。ルリの望むようにさせよ」
「返せェッ!!」
ミコト様が来たせいか、その人の方を向いて身を屈め威嚇するように唸っていた狛ちゃん達の姿が大きくなっていた。けれどそれも目に入らないのか、激高した様子でこちらへ向かってこようとする。けれどミコト様は動じることなく。軽く手を上げるとその人は何もない場所で弾かれたように尻餅をついた。
何が起きたかわからないような顔をしていたその人は、弾かれた衝撃で気が付いたのか間近に迫る狛ちゃんと獅子ちゃんを座り込んだまま見回す。それからミコト様を見上げて叫んだ。
「何だよ……お前、……化物!! 瑠璃を返せ!!」
「去れ。二度とルリを脅かさねば何もせぬ」
「お前が瑠璃を誑かしたんだろう! 瑠璃が家に帰れないように……布由子、布由子を殺したのもお前だろ!! 返せ! 人殺し!!」
血走った目でミコト様を力の限り罵るその人は、どう見ても正気じゃなかった。もしかしたら、お母さんがいなくなってから少しずつこの人の中で歪んでいったものがあったのかもしれない。もう何も見えていないのではないかと思えるようなその様子は、人間ではないと言われたほうがしっくりくるほどだった。
よろめきながら立ち上がったその人は、獅子ちゃんに腕を銜えられても振り払うようにこっちを睨みつけている。
「瑠璃も殺すのか! 返せ返せ返せ!! 人殺し!! 殺してやる! お前も瑠璃も、殺してやる!!」
「愚かな」
掴みかかってこようとしたその人に、ミコト様は一言呟いた。それと同時にミコト様の黒い袖が私を覆い隠し、ドオンと大きな爆発音のようなものが響き渡る。まばゆい光に目を閉じてミコト様にしがみ付くと、浮遊感と共に腿の裏に腕の力を感じた。
「そのまま目を閉じているがよい。怪我をして痛かろうが、すぐに社から屋敷まで飛ぶゆえな」
目を閉じたままだと何がどうなったのかわからないけれど、厳かな雰囲気を纏ったままのミコト様の声にそのまま頷いてしまう。私を抱っこしたミコト様がそのまま歩き出したような揺れが感じられたので、首に腕を回してミコト様の肩に顔を伏せた。




