ブレイクオフ7
お母さんは明るくてパワフルな人だった。母子家庭でも何も気にすることなく私が育ってこられたのはお母さんのおかげだった。看護師で昼も夜もなく働いて小さい家を買い、家に帰れば家事をこなし、私が悩んでいる時はすぐに気が付いた。忙しいお母さんを手伝おうと思って作った料理が失敗作だった時も、わしゃわしゃとほっぺや頭をかき混ぜて褒めてくれた。
会わせたい人がいると言った時も、何ヶ月も私の様子を見ながら、何度も話をして気遣ってくれた。その人に会った時に私があまり気が進まないのに気がつくと、それからは何も言わなくなった。
仕事中に倒れて病気が見つかった時も、お母さんは笑って過ごしていた。自分で手続きをすべてこなし、家中を片付けて、私が生きていく上で必要なことをノートに纏め、お葬式の算段まで自分でしてしまった。お母さんが何とか出来なかったのは、四十九日も過ぎたのに高校生にもなって毎日泣きじゃくる私を笑わせることだけだった。
親類に縁の薄かった私に、親身になって慰めてくれたのはその人だけだった。お母さんのことを惜しんでくれて、悲しんでくれて、私が学校へ行けるように手助けしてくれた。私のことを考えて別居していたけど籍を入れていて、折を見てそれを打ち明けるつもりだったと涙ながらに教えてくれた。
心無いことを言う親戚の人を叱ってくれて、荒れていた家を少しずつ整え、気力のない私を励まして学校へ送り出してくれた。その人の気遣いがなければ、私は死んでなおお母さんを心配させていたかもしれない。
違和感に気付いたのは、半年くらい前のことだった。
お父さんの位牌の位置がいつもの場所から少しずれている。お母さんと再会できるようにとぴったりくっつけて置いていたのに、少し離れて斜めに置かれていた。手に取って戻そうとすると、見えない後ろの下の部分が変に削れているのに気が付いた。意識して見てなかったから、前からそうなのかもしれないという気持ちは、夜中に聞こえてくる、固いものをぶつける音でなくなってしまった。
瑠璃ちゃんは本当にママに似てるね。
お母さんのことをママと呼ばせて、自分のことをパパと呼ばせたがるのは、家族だと思って欲しいからだと思っていた。リビングにいるとじっと見つめてくるのも、私がまた精神不安定にならないか心配しているからだと思っていた。長湯をすると声を掛けてくるのも、洗濯をしてくれるのも、食器を片付けてくれるのも、夜中に様子を見に来てくれるのも、私を心配しているから。
とても親切にしてくれる優しい人だった。血の繋がりのない娘にこれだけするなんて立派な人だ。世話する義理もないのによく出来た人物だ。仕事をしているのに家事を引き受けていて尊敬する。亡くなったお母さんも安心しているでしょうね。あんまり困らせちゃダメよ。これだけやってくれている人に文句なんか言ったら罰が当たる。
段々と、うちにいるのが苦しくなった。物音に過敏になって、一度も使ったことのなかった部屋の鍵を常に掛けるようになった。手の届く距離にいると、普通のふりをするのが難しくなった。
昔お母さんにその人を紹介された時、本当にお母さんのことが大事なんだなと思った。お父さんのことを蔑ろにするみたいで悲しくて嫌がったけど、申し訳ないことをしたと何度も思った。お母さんの幸せな時間を奪ったんじゃないか。もう少し我慢して過ごしてみたら仲良くなれたんじゃないか。お母さんもそれを望んでいたんじゃないか。
お母さんが急に死んで、その人もとても悲しかったのだろう。お互いに悲しさを共有していったからこそ私達は立ち直れたのだろう。だからこそ、そんなこと思っちゃいけない。そんな人を怖がっちゃいけない。
でも、もう、嫌だった。その人に肩や腕を触られる度に鳥肌が立った。出かけている時に手を繋がれそうになるたびに、大げさにお店の商品が気になるふりをした。台所で隣に立たれそうになる度に、スマホを気にして部屋に戻った。毎日放課後は意味もなく寄り道した。
親切にしてくれているだけなのに。お母さんのことを大事にしてくれていた人なのに。私が勝手に意識してるだけなのに。自意識過剰だ。恩知らずだ。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
毎日友達の家にお邪魔するのも気が引けるし、カフェに通い詰めるほどお金もない。近所にボロボロの神社があると知ったのは偶然で、どこにも行き場がなかったからそこで時間を潰した。薄暗くて、ぼろぼろで、誰も近寄らない場所だから。五円玉がなくて一円玉を数枚入れて、手を合わせた。
見つかりませんように。
今日一日も無事に終わりますように。
この気持ちが終わりますように。
もし、この生活が続くなら、早めに死ねますように。ごめんなさい。
息苦しくて、これからも続くと思うと何もかも嫌だった。短い間だったけど沢山の愛情をくれたというお父さんと、大変だったのにずっと愛してくれたお母さんの気持ちを裏切ってでも、逃げ出したかった。酷いことだと思うけれど、とにかく助かりたかった。方法は何でも良かった。だからあの日、どうなってもいいやという気持ちでお社の中に入った。
「瑠璃! 待ちなさい、パパと一緒に帰るんだ!!」
嫌だ。もういやだ。罪悪感も、嫌悪感も、もう感じたくない。死にたくない。
「……ミコト様! 助けて!!」
肺が切れそうな苦しさの中で叫んだ瞬間、嗅ぎ慣れたお香のかおりに包まれた。




