ブレイクオフ1
木の床は寝転がるのに最適だ。夏の庭に面している縁側でも、屋根のない簀子縁という部分はぽかぽかして気持ちいいし、屋根がついて影になっている広庇だと、ひんやりしていて気持ちいい。低く付いた手すりの向こう側で、黒い鯉がビチビチと跳ねている。お屋敷の繋がっている川を移動することを覚えた鯉はあちこちで岸に乗り上げてはビチビチしているけれど、自力で水の中に戻れると知ってからは生臭さと重さに耐えて手助けすることもなくなっていた。
手前側では、ハジトミという変わった開け方をする格子戸の影で色合いを変えた鞠がコロコロと広い簀子縁を行ったり来たりしている。時々ぽんぽんと跳ねて近付いてきて私の手のひらに潜り込んだりするけれど、ボール遊びに付き合う気がないとわかるとまたコロコロと退屈そうに往復している。
私は寝っ転がって、上げた脚を柱にピッタリ寄せるというとても行儀の悪い格好をしながら、スマホが鳴っては指を動かし、スマホを置いてはうちわで扇ぎというのを繰り返していた。
メッセージ画面を何度眺めても、光の強い庭を眺めても、事態は変わらない。
紅梅さんが運んでくれた冷たい麦茶は、既に氷が溶けかけている。ずらした脚が床に落ちる勢いで起き上がると、麦茶を一気に飲みする。跳ねてきた鞠もお盆に載せて、私は立ち上がった。
「……家に帰る?」
何か巻物に筆で書いていたミコト様が、ぽかんとした顔で私を見る。その隣で座っていためじろくんは顔を白くして持っていた巻物を抱きしめている。
「はい。あの、登校日っていう高校に行かないといけない日があって」
「ルリさま、高校はいらした日のお服と支度でいくのではないのですか? お屋敷から行けばよいのでは? 足りないものはすずめに言って用意させますし」
こてんと首を傾げたままのミコト様に変わって、めじろくんが一歩にじり寄って来た。
「あ、うん、そうなんだけど、どっちみち二学期始まれば教科書とかいるし」
「本など買えばよいでしょう? なぜ戻らねばならないのですか? めじろはわかりません」
つんとした美少年顔のめじろくんが珍しく眉尻を下げてぐいぐいと迫ってくる。サラサラの黒髪をわしゃわしゃなでまわすと、抱えた巻物ごと抱き付いてきた。肋骨に当たってちょっと痛い。
先日のすずめくんと同じ反応である。
「あのね、一旦帰るだけだから。ちゃんとお屋敷に戻ってくるから」
「……本当ですか? うそをついたらめじろは許しません」
「大丈夫大丈夫。ちょっとミコト様と2人で話しても良い?」
ぎゅーっと私に巻物を押し付けためじろくんが、こくんと頷いて立ち上がる。去り際に「ミコト様、しっかり」と小声で檄を飛ばしてから行く辺りやっぱりしっかりしているのだった。
「……その、戻ってくるのであろう? ほんの少し行くだけなのであろう?」
「そのつもりなんですけど、」
私が言い淀んでいると、ミコト様が心配そうな顔になって筆と巻物を置き、すっと座ったまま距離を詰めた。綺麗な碧色の袖から伸びる手が私の膝の上で固まっていた手をそっと握る。安心させるようにそっと微笑んだミコト様に勇気付けられて、私は息を吸い込んだ。
「あの、図々しいお願いなんですけど……学校が始まっても、ここにいさせてほしくて」
「そんなことか。もちろん、好きなだけいるとよい。めじろらも喜ぶし、そ、その私もその方が嬉しい」
照れたように斜め下を向くミコト様はなんでもないように頷いたけれど、だからこそ、私は後ろめたかった。
「……でも、私、ぶっちゃけ、ミコト様の好意に甘え過ぎじゃないかと」
「こ、こ、こ」
「何かこう、恋愛感情をダシにしてあれこれねだってるみたいで」
「れ、れんあい……そ、そな、知って、知っておったのか」
頷くと、ミコト様は真っ赤な顔を袖で隠した。
「知ってました」
「な、なん、なんと……よもや」
私の手と繋いでいる方も、汗をかきすぎて冷たくなっている。
逆になんでバレていないと思ったんだろう。
これだけ暮らしていて、これだけ感情をストレートに顔に出しているミコト様と一緒にいれば、流石にミコト様が私に親切以上の感情を向けてくれていることくらいわかる。ミコト様が純粋な好意で私に親切にしてくれていることもわかる。だからこそ、その気持ちにつけこんで無理を聞いてもらっているような気がして、自分の浅ましさが嫌になるのだ。
「自分を好きな男性に宝石とかバッグとか買って貰ってる人とおんなじじゃないですか。同じ気持ちを返せないのに、そうやって利用して」
そう思っていても、私はあそこに帰りたくない。ミコト様の気持ちを踏み台にしてでも、私は自分のことが大事なのだ。誰かを傷付けても自分を優先するという意地汚い自分が嫌になる。ミコト様の優しいところに甘えて酷いことをする自分はどれほど醜いかもわかっている。けれど、それでもあそこで生活するはいやだ。
ミコト様の手を見ながらそう言うと、ふっとミコト様がやわらかく息を吐く気配がした。顔を上げると、ミコト様がとても穏やかな目をして私を見つめている。まだ赤色が引いていない頬だけれど、口元は微笑んでいた。
「本当に心根の善くない者は、そうやって葛藤することもないものだ」
「でも結局、行動としては同じですよ」
「全く違う。ルリよ、もう私の心の中が知れているから言うが、私はそのルリの罪悪感が嬉しい」
「……なんで?」
「わからぬか?」
頷くとミコト様は少しおかしそうに歯を見せた。答える気はないらしく形の良い唇を少し微笑ませると、小さな細工物を扱うように私の手をすくい上げた。
「ルリがここにおればそれだけ、私は嬉しい。そなたの傍にあるのが嬉しいし、長くあればそなたの心持ちも変わるやも知れぬ」
「……でも、ミコト様を恋愛の意味で好きになるかどうかはまだわかりません」
「なに、私は気が長い方なのだから。ルリにあれこれとしてやりたいと思うのには思惑もあってこそ」
「そうなんですか?」
「もちろんだ。幾年掛けてでもルリが私を慕うてくれれば嬉しいし、そうでなくても私はルリの傍で守りたい」
目を細めて笑う姿は、神様というだけあって神々しささえ感じるほどだった。冷静に考えると凄い告白をしているのだけれど、ミコト様には自覚がないのかもしれない。
「そういうわけだ、ルリは気兼ねなく私をこき使うとよい。我儘も沢山聞いてみたい」
「……ミコト様、割と貢ぎ体質ですね。そのうち後悔しますよ」
「うむうむ、楽しみだな」
にこにこと笑うミコト様に、なぜか主導権を握られている。なんかこう、お釈迦様の手の上の孫悟空の気持ちと言うか、器が大きすぎて水平線が見えそうというか、私のくよくよした悩みが小さく見えてしまう。
少し頬が熱いような気がするけれど、意地汚い自分を受け入れてもらった嬉しさなのか、ミコト様に対して純粋にときめているのかよくわからない。
とりあえずミコト様は気が長いらしいので、そのへんはのんびり考えることにした。




