一歩、踏み出す7
途中でバッテリーが切れたまま放置していたスマホの電源を入れてネットに繋いでみると、日付は8月9日だった。ここへ来てから2週間くらいしか経っていないことになる。毎日数えていたわけではないけれど、もっと長い時間を過ごしていたような気がしていた。このお屋敷は物理法則があんまり働いていないようなので、そのせいかもしれない。
アプリには友達からメッセージがいくつか入っていた。普段より多いと思ったのは、途中から私の既読がつかないことを不審に思ったからのようだった。夏休みだからと遊びに誘ってくれていたけれど、そのほとんどの日付が既に過ぎている。心配をかけたことに対する謝罪と、遠くにいるので遊べないということだけを簡単に書いてそれぞれに返信した。すぐに返事が来た子もいて、しばらくやりとりをする。途中、わいわい騒がしい広間から庭の方へ出て、お屋敷の一部と庭を映るように写真を取って添付した。街中とは程遠い場所にいるというのは伝わったようだ。
そのまま庭に面して低い手すりの付いた縁側に座ってスマホを弄る。簀子縁という名前のそこは、屋根がついていないので日差しが暖かかった。
メールのアイコンは結構な数字を表示させていた。受信フォルダを開けると、ずらりとメールが並んでいる。時系列に読んでいくと、段々と苛立ちや焦りが読み取れるような文面になっていっていた。見るのは辛かったけれど、ひとつひとつ、読み漏らしのないようにスクロールしていく。
「わっ」
手の中で鞠がもぞ、と動いて、無意識に握りしめていたのに気が付いた。膝を立てて三角座りをし、スマホを膝あたりに凭せ掛けていじっていて、空いた手で鞠を足と腕でぎゅっとしていたので苦しかったのかもしれない。鞠が動けるようにと腕を緩めると、体全体に力が入っていたのに気が付く。
鞠は手の中から落ち、抗議するようにしばらくてんてんとその場で跳ねて、やがて足の先の方から膝を立てている間を通って何周かくるくると回った。それから、ぽんぽんと私の座っている目線くらいに跳ねながら遠ざかっていき、途中に置いてある几帳の衣へボンボンと体当たりをするようにぶつかっていった。
「うっ……これ、しっ」
「ミコト様、いたんですか」
「あぁ……うむ」
鞠のアタックに負けたミコト様が几帳の裏から気まずそうな顔をして出て来る。その後ろを転がって付いて来た鞠は、またぽんと弾んで私の手の中に戻ってきた。私がスマホをしまうと、そろそろとミコト様が隣に腰掛ける。
「すまぬ、邪魔をするつもりはなかった」
「大丈夫です」
「うむ……その、ルリ、その」
ミコト様は首の後をさすったり上衣の裾を払ったりしてから、そろっと私を見て呟いた。
「ルリはその、大丈夫ではないように見える……のだが」
すっと涼し気な目元をしょんぼりさせているミコト様は、踏み込んで良いのか悪いのか悩んでいるようふうに私を窺っていた。少し口元辺りが強張っているのは、私が拒絶することを考えているのかもしれない。
太陽の光の中でみるミコト様は、白い肌に黒い目や睫毛が際立ってそんな表情でもイケメン度が強調されていた。黒色の濃い瞳が、青白く見えるほどの白目の中を細かく泳いではまっすぐの睫毛に遮られている。じっとそれを見ていると、ミコト様の白い頬がじわじわと赤くなっていった。
「そ、その、だ大丈夫では、なさそうかと……その……もしその、ルリが良いというのであれば、その、私に手助け出来ることがあれば、その……ルリ、なぜじっと見る……」
ミコト様の声は段々と小さくなっていって、もしょもしょと喋って久しぶりに袖で顔を隠してしまった。そ、とそこから目だけ覗かせて、目が合うと赤くなりながらも、ミコト様は付け足した。
「私はルリの力になりたいのだ。だから、困っていたら話して欲しい、その、ルリの嫌でない限り」
そういってサッと顔を隠してしまったミコト様の袖を揺らすように、鞠が跳ねていってポンポンと高そうな絹の衣に当っている。やめ、やめぬか、とミコト様が反対の手を出しているけれど、巧みにそれを避けては袖を揺らし、ころころとこちらに転んできては戻ってまた跳ねていた。
ミコト様が左手で顔を隠しながら闇雲に突き出して鞠を捕まえようとしている右手を、私は両手で捕まえる。握るとびびっと驚いたように動いてミコト様は固まった。
「ミコト様、ありがとう」
ミコト様は、何も言わずに私をこのお屋敷においてくれた。新しい部屋も作って、お風呂も変えて、私が過ごしやすいようにしてくれた。あの時、何も考えずただ逃げたいと思っていた私の願いを叶えてくれた。のしかかる憂鬱さを口に出すことすら嫌だった私の気持ちを気遣って、ただ楽しく過ごせるようにしてくれた。
ミコト様の温かい手のひらが、じんわりと汗をかいてしっとりしてくる。ほんのり赤くなっているその手を両手でしっかりと握って、私は願う。
神様、ちょっとだけ助けてください。
狼狽えるように固まっていた大きな手が、ぎゅっと私の手を握り返した。