ある悪魔の出生
妊娠、不妊に関わる内容があります
今日も朝が来た。
完璧で、幸せで、何の不自由もない朝。
「おはよう。少し顔色悪いぞ、大丈夫か?」
8年恋をして結婚した夫は、朝私より早く起きてジョギングをする。
シャワーから出てきて私に微笑む。
「また母さんに何か言われたんだったら、俺が言っておくから。メールもしなくていいんだぞ」
「ううん、そんなんじゃないから」
かっこよく、優しくて、私を養ってくれるほど収入もある。
義母の小言からも守ってくれる、理想の夫。
「マーマ、あかのくつしたないぃー」
「昨日お洗濯したのよ。乾いてるかな? ピンクのやつはどう?」
「あーかー!」
「ちょっと待ってね。先にごはん食べて」
小さいのに洋服にこだわる娘は、幼稚園に行くようになって人見知りも減ってきた。
たくさん友達が出来て、毎日楽しそうに通っている。
困らせることもあるけれど、可愛くて理想の娘。
「パーパー、あのね、しごとはやくおわる?」
「うーん、出来るだけ急いで帰ってくるからな。明日はどこか出掛けようか?」
「ほんと? あのね、こうえんとね、すいぞくかんとね、」
仕事が忙しい夫も、時間があれば積極的に娘の面倒を見てくれる。娘もそんな父親が大好きでよく懐いていた。疲れているだろうに、休日には家事も手伝ってくれる。
「ほら、はやく食べて。幼稚園に遅れちゃう」
「あのね、パパね、まえのね」
駅に近い住宅街の一軒家。家具にもこだわって毎日キレイに掃除をしている清潔な家。
治安もよく、ご近所付き合いもほどほどの距離で仲良く出来ている。
「ママ、ばいばい! あとでねー」
「先生、よろしくおねがいします」
完璧な家族、完璧な家、完璧な世界。
それなのに私は、ないものねだりをしている。
園庭を駆けていく男の子を、母親が追いかけている。まだ朝なのに制服を汚して、怒りながら。
抱き着いて泣いている男の子を、母親が先生に渡そうとしている。
妹と手を繋ぎながら歩いて、やさしく話しかけている男の子もいる。
羨ましい。
どうしてうちには男の子がいないのだろう。
どうして私は妊娠しないのだろう。
娘は産めたのに、息子は産めないのだろう。
考えても仕方のないことだと諦めようとすればするほど、心の中が埋まっていく。
娘は愛おしい。ないがしろにするつもりはなくて、こう思ってしまう自分に嫌気がさす。
独身時代は男の子を熱望していた夫も、娘が生まれてみると何も言わずに可愛がってくれている。
跡取りをとことあるごとに言ってくる義母も、義父が諌めてくれる。
何も思いつめることはないのに。
「野蒜さん!」
はっと気が付くと、車の窓から手を振っている人がいた。
太陽のような笑顔を見て、私はほっと息を吐く。
「今日歩きなの? 買い物行くなら一緒に行かない?」
「いいの?」
「ついでついで。うち家族多いからさ、カート押すの手伝ってくれたら嬉しいんだけど」
百田さんは夫の同級生だった人の奥さんで、嫁いできた私が馴染めるように色々と気遣ってくれた。
お寺の行事に誘ってくれたり、街の美味しいお店に連れて行ってくれたり。
親や友人と離れて心細かった私にそれとなく寄り添ってくれた百田さんは、私の大好きな友達だった。
「お米もさぁ、こんだけ買っても一ヶ月だよ? お肉なんか大量に冷凍しとかないと。野蒜さんの旦那さんはどう?」
「うちは魚が好きだから」
「夫婦でスタイルいいもんねえ。うちも気を付けないと塩分多め肉多めだから、メタボな坊主って説得力ないでしょ」
ハキハキ喋って明るい百田さんは、私の憧れの人だ。
誰を相手にしても臆することなく自分の意見が言えて、建設的な意見を角を立てずに出して揉め事もおさめてしまう。同じ幼稚園のママからも慕われていて人気がある。
ぱっと思いついたことを行動する力があって、いつも会うと元気付けられる。
百田さんを見つめていると、少し違和感があった。
レジを終えると普段なら抱えて歩く荷物をカートのまま車まで持っていく。
トランクに積むときも、ゆっくり負担をかけないように持っている。
「……百田さん、もしかしておめでた?」
「あ、わかった? まだ早い時期だから黙ってたんだけど、実は」
幸せそうに微笑む百田さんに、私はきちんとお祝いを言えただろうか。
百田さんのところは男の子が多い。旦那さんも、男兄弟ばっかりだと言っていた。
「次は野蒜さんとこのちぃちゃんみたいに可愛い女の子がいいな」
明るい顔で微笑む。
優しくて、綺麗で、明るい人。
やめて。
そんな人を嫌いになりたくない。
「あーあ、次も男かよー。3連続男ってツイてねー!」
家の前で立ち尽くす私のすぐ近くで声がした。ふと見上げると、背の高い男性が頭を掻いて百田さんの車を見送っている。ふいに顔がこちらに向いた。
整った顔は外国人にも日本人にも見える。真っ黒な目が、私を捉えてニヤリと微笑んだ。
その口元に、なぜかぞっと背筋が冷える。
「あんた、今あの人のこと憎んだでしょ」
「……憎んでない」
「ほんとー? 自分にないもん全部持ってて、羨ましくって殺したいって思わなかった?」
「な、なんてこと言うの!!」
軽妙な声にぎくりと体がこわばった。
そんなことは絶対に考えてない。
否定するのに、じっと見つめられると否定するほどそうなのではないかという気持ちになってくる。
私は、そんなこと、思っていない。
心を奮い立たせて睨み返すと、男はふぅんとどうでも良さそうに視線を外した。もう車も見えない道の先をまた眺めている。
「あんた、子供欲しいんでしょ?」
「え」
「俺そういうのわかるんだよね。子供。欲しくて欲しくてしょうがないでしょ?」
まるで見透かしているような目に、思わず頷いてしまう。すると男はまた嗤った。
「自分の命と引き換えにしても欲しい?」
まるでそうすれば叶えられるような、そう思ってしまう何かがこの男にはある。
いや、本当に男なのか。人なのか。
じっと黒い目を見つめていると、そんな疑念が沸き起こってきた。
「あんたが俺に魂くれんなら、願い叶えてあげてもいいよ?」
「本当に?」
「本当に。契約する?」
頷きそうになって、それから後ずさることで踏み止まった。
「子供は男の子で、娘も息子も無事に育つまで見守れて、夫を見送ってからじゃないと死にたくない」
「あれ? 意外にシッカリしてんねー。弱そうなのにな」
軽く片眉を上げて見下ろす目は、深くて冷たい。
もし頷いてしまったら、その暗い冷たいところに取り込まれてしまう気がした。
でもそうだとしても、私にとってこれはチャンスだ。
「うーん、他に良さそうなのもいないしなぁ……ま、いっか。いいよ。じゃあ夫が死んだ直後ってことにするか。大体70くらいだから、子育て終わってるだろうし。孫も見れるかもよ?」
「……本当に? それだけでいいの? 私の命だけで、他に何もないの?」
「なーいない。まあ夫婦関係とかそういうのは自分でどうにかしてねー。離婚しても、浮気しても、あんたの魂は今の夫の寿命と同時にもらうから。あっ、あとあんまり不健康な生活させると夫が早死するかもしれないから気を付けて」
なんて変な会話なのだろう。
それでもこの頭が狂ったような男は本当のことを言っている気がした。
嘘でも何でもいい。
私の中に押し込めていた願いが引きずり出されて口から飛び出していた。
「私は私の命と引き換えに、息子が欲しい。子供たちを愛して育てて、夫を見守って死にたい」
「契約は完了した。じゃあ残りの人生頑張ってねー」
ニタリと微笑んだ男が、私のお腹に手を突き刺す。
衝撃はなかった。
ただそこには、明るい街と重たい買い物袋が残っているだけだった。
お腹を見下ろす。
平たいままで、何も変わったことがない。
夢を見たのかと思ったけれど、しばらくして私の妊娠がわかった。
膨らんできたお腹にエコーを当てて、医者が「男の子ですね」と言う。
夫は喜んで、娘も喜んだ。義母も、義父も、百田さんも喜んでくれた。
「また同級生だね、よろしくね」
私は心から微笑んで頷く。
あの男は、私の神様だった。




