神様の初恋3
「ご母堂さまがお亡くなりになる前日に、男が一人で届けを出したみたいですねえ。ルリさまもお顔合わせはしていたみたいですから、後見をすると言われて頷くしかなかったのでしょう。他のご親族の方とは疎遠ですし」
落ち着かずにうろうろ歩く私に、すずめが紙を見ながら冷静に説明をした。現し世との繋ぎを上手くやってくれているということには感謝してはいるが、そうしてもたらされた信憑性の高い情報は少しも私を安心させてはくれない。
「たかが紙一枚の話でよく知らぬ相手を父と呼ぶだなどと……、なぜそのようなことが許されるのだ。ルリは年頃の娘ぞ、親を亡くしあれほど心細いというのに」
「今は情報管理の時代ですから。男もご母堂さまがお倒れになるまではまともな関係を続けていたようですが、思う相手を亡くして心を病んだのか、それとも最初からルリさまを狙っていたのかはわかりません」
「狙っ……あの家にはルリと二人きりなのだぞ!」
「主様がお隠しになっては?」
今まで黙ってみかんを剥いていためじろがぽつんと言う。
その言葉に足が止まって、それから駄目だと強く否定した。
「ルリは人の子だ。人として生を終えるのが道であろう」
「しかし、ルリさまは今の暮らしがお嫌なのでは?」
「……とにかく、男を見張らせよ。ルリに何かしようとするならば、多少姿を見せても構わぬ。すずめは更に調べてあの家から引き離す方法を探すがよい」
ルリの気配を感じたので、返事を聞かずに屋敷を飛び出す。早歩きで社へと出ると、格子の向こうにルリが手を合わせているのが見えた。
憂いの色が濃く、顔色も悪い。もう夏が来ようというのに合わせた指先も白かった。
お母さんに会いたい。
家に帰ったらもうあの人が寝てますように。
ここに誰も来ませんように。
願う声がどれも薄い。心を占める感情が押し込められて、強く願う気持ちも感じられないことが悲しかった。そっと格子に触れると、ルリは気付かないまま社の裏へと回り込む。
古い箒でルリが掃き清めるたびに、私の気は清められていく。
今日も日が暮れるまで何もなく過ごせたとお礼を言われるたびに力は溜まっていく。
それなのに、私はルリに何もしてやれることが出来ないというのか。
「ルリよ……」
手を伸ばせばこちらへ引き込むことが出来る。屋敷に入れて百年も過ぎれば、世の中は移ろいルリも人の暮らしを捨てるだろう。しかしそうすることを考えるたびに、手に入れたいという欲を上回るほど胸が苦しい。
私はルリを手に入れたいのではない。
ルリに微笑んでほしい。私が願いを叶えることで幸せになってほしい。そうでなければ意味がないのだ。
「わかりました主様っ!!」
「うッ……?!」
いつの間にやらすずめが後ろに立っていて、その声に驚く。慌ててルリを見ると、暗い道を家に帰るところだった。その後ろを獅子が見つからぬようについて行っている。
「それは恋です!!」
「は?」
「手に入れたい、幸せにしたい、好きになってほしい! そうでしょう?!」
「え、あ、いや、まあ」
「ルリさまと夫婦になりたいとお思いなのでしょう!」
「め、めお……夫婦……」
ルリと夫婦になったところを思い浮かべる。屋敷の一番美しい場所で共に立ち、私を見上げながら花を指差すルリ。微笑んで私の腕に手を乗せ、嬉しそうに話をするルリ。ふと空に雲がかかって、木の陰で……
「主様、お顔が真っ赤に」
「あッ! いや!! そんなことを!!」
「恋とはよいものです! すずめにはわかります! ではルリさまを娶りましょう!」
「待て待て! 聞いておらなんだのか、だからルリは人の子であり……」
「わかっております! つまりルリさまが望んでお嫁様になればよいのでしょう?」
「望んで……私の……い、いや、そんなことあるはずが」
すずめの気迫に圧されてつい甘い想像を巡らせてしまったが、ルリは人で私は神、それにルリは私のことなど全く知らないのだ。都合の良いことばかりを期待しても後で虚しさが残るだけである。
否定していると、すずめがずいっと身を乗り出してくる。つい顔を庇って引け腰になると、さらに畳み掛けてきた。
「主様、ルリさまが悲しむのがお嫌なんですよね?」
「そ、そうだが」
「助けたいとお思いになっていらっしゃるんでしょう?」
「ああ」
「ではルリさまが逃げたいとお思いになったら、もちろん主様はお手を貸すおつもりですよね?」
「それは、無論……だが」
ルリが望むのは、ここで一時身を潜めることばかりである。せめてあの男に天罰をと願ってくれれば私もやりようはあるが、それすらなしに自らの欲で動いた結果ルリを悲しませるようなことはしたくない。
「わかりました!!」
「な、何がだ」
「すずめにお任せください!」
「ま、待て」
「主様もルリさまもきっと満足していただけるようにしますから大丈夫です!」
「いや、すずめ、聞け、すずめよ」
それから数日後、ルリの強い願いが聞こえてきたと思うと、すずめは本当にルリを屋敷へと連れ帰ってきた。
人の子を現し世でないところへ連れ込むなどと。最初は頭を抱えたが、ルリは存外にここの暮らしを気に入ったようで、私を見ると微笑んで挨拶もくれる。あれこれと話し掛けてくれる。
ルリが私に興味を持っている。私を見つめてくれることが、こんなにも喜ばしいとは。
ルリが私を呼ぶたびに私は幸せに満ちるのに、もっと幸せが欲しいと欲深くなってしまう。
それでいて、ルリが喜ぶと何をしてでももっと喜ばせたいと思ってしまう。
私は穢れているのに。
それでも手を伸ばしたいと思ってしまう。
「ミコト様ー、鯉に餌をあげにいきませんか?」
「う、うむ」
暖かな春の庭で微笑むルリは可愛らしく、愛おしい。
目が眩み、私の心を惑わせる。
この穢れを見て、ルリが怯える姿を見たくない。
この穢れごと、ルリに私を受け入れてほしい。
浅ましい考えは、日に日に膨らんでいっている。
欲の深い自分と、満たされている自分が日々混ざり合っているように感じる。
ルリが望めば何をしてでも叶えたいと思うようになるには、そう時間はかからなかった。
「……よし、出来た」
今思えば、どれほど葛藤しようとルリを前にして私に抗うことはできなかったのかもしれない。
「ルリ……ルリよ、そなたの好きなぱんけえきが焼けたぞ」
私の妻は朝に弱い。
御帳台を開けて陽の光を入れると、ルリはくるりと体を丸めて呻いた。掛け布団を足で挟み込んでいるところも、薄い洋服が捲れて背中が見えているところもまた愛らしい。
「焼き立てがよいのであろう、さ、起きようではないか。今日は午前中はゆっくりするのであろう?」
囁きながら抱きしめると、眠気を引きずった腕が私を捕まえる。ぱんけえきよりも甘美な瞬間は何度繰り返しても幸せを私にもたらした。腕を回して抱き起こしてもまだ目を瞑っているルリがほんの少し笑っている。
少しの憂いもなく、何の迷いもなく私にすべてを預けている。
長く苦しみ抜いた年月には戻りたいとは思わないが、今この瞬間のために必要なものだったのであれば、私は甘んじて受け入れられるような気がした。過去の過ちも、人のあの目も、自らの不甲斐なさも。
「私の愛おしき妻……」
ルリの笑みが少し深くなった。桃色の唇の美しい曲線は、いつも私を誘っている。
早く目を開けて、今日も私の世界を幸せで浸してほしい。
願いを込めて、顔を寄せた。




